【Section3】
翔編 1日目
「美笑ッ!!」
俺は駆け出した。手遅れかもしれない。届かないかもしれない。それでも、俺はやっと気づけた大切なものを手放したくなかった。
それが例え、俺自身の過ちだったとしても。
それが例え、彼女の過ちだったとしても。
それがたとえ、終焉を知らせる鐘の音だったとしても……。
せめて、笑ってくれたなら――。
俺は空に飛び出して、落ちる少女の身体を目指しただろう。ただ強く抱きしめて、彼女との約束を果たしただろう。
しかし、少女の目はもうすでに、閉じられていた……。
「っ……」
美笑が俺に笑いかけてくれることは、ついに無かったのだ。
俺は、間に合わなかった……。
彼女との約束も守れず、少女の笑顔さえ導くことも出来ず、約束の日を迎えてしまった。俺は当然の報いを受ける。
少女の時間は有限。限りがあるから命は咲き煌くんだ。
死は、いついかなる時も背後に付いてまわる。たとえ症状が軽くとも、たとえ性急なものでなかったとしても。その認識の甘さが今日を招いた一つの原因。俺と、そして美笑の過ちだった。
それからもう一つ、俺は大事なことを忘れていた。
約束――。詩織との、最後の約束を……。
今日この日、俺たちは肩を並べて空を見上げているはずだった。そんな未来があったはずだった。
それが詩織の死により閉ざされ、俺の世界も閉ざされた。行き場を失った美笑の心は、虚空に放り出され、壊れてしまった……。
きっかけは何だったのか、今ではもうきっかけでしかない。
壊れてしまったものは、やがて朽ちるのを待つしかないんだ。癒せやしない……。
それでも……。だからといって……。支えになることは出来たはずなんだ。かつて詩織が、俺を救ってくれたように……。
落ちていく、美笑の身体……。
俺は身を乗り出して、手を伸ばして……。涙が一滴、指の隙間をすり抜けるように零れ落ちた。
その雫の中に、俺は走馬灯を見ていた……。
~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~
中等部2年の春――。ある日の放課後。
「……私は、君みたいな人。嫌いだから」
初めて彼女と話したのは、この時だったと思う。
軽蔑されるのは慣れてる。今更気にすることじゃあない。ただ、一つ補足をするならば俺は不良生徒でも、問題児でもない。単に、全てにおいてやる気が無い男だった。
それはともかく、この時俺は彼女の声にすごく惹かれたのを覚えている。
例えるなら、それは音。まるで音楽を聴いているかのように、彼女の発する言葉は旋律のようだった。
楽器で言うなら……そう、ピアノのようで。
とはいっても、俺は音楽にそれほど関心のあるほうではないし、ましてや絶対音感なんて持っているはずもない。
聞いた話によれば、絶対音感を思ってる人はこの世界のあらゆる音を、音階で聴き取ることが出来るらしい。彼女の声が音階で何にあたるかなんて言えないが、すごく綺麗だと思った。自分の語彙力に呆れる……。
本当に綺麗なものを見たときに言葉を失うとはよく言ったもので、それが耳だった時も、形容できないものなのだろう。
そんなある日の放課後、俺は職員室へ行く用事があって普段より遅くまで校舎の中にいた。空が夕暮れに染まる頃、廊下を歩いていると、ふとしてメロディが聞こえてきた。
それは、音楽室からだった。
ガラス窓から中を覗くと、弾いていたのはあの時の彼女だった。
名前は確か、石川詩織。
先日の一件以来、俺はどうも彼女に嫌われているらしい。だから、俺は中へ入らずにしばらく廊下越しにその演奏を聴いていた。
「そんなところに座ってないで、入っておいでよ。別に気にしないから」
演奏が終わるとドアから顔を出した彼女。どういうわけか、俺がいるのはバレていたらしい。俺は一度断って帰ろうとしたのだが、聞いてくれる人がいたほうがいいからと言って、ちょっとだけ付き合うことにした。
その様子から、俺は心底嫌われてはいなかったのだと少しホッとした。
それからしばらく、本当に気にしていないかのように彼女はひたすらに音を奏でていた。
俺は演奏が終わると乾いた拍手を送りながら、うまいなーとか、絶対音感とかで弾くのかとか、素人丸出しのことを聞いていた。
「絶対音感なんて、そんな大層なものじゃないよ。初見奏だって、慣れれば誰だって出来るもの」
そうあっけらかんとして答える彼女は、さも当然であるかのように答える。
「ソルフェージュ」
ふいに意味不明な単語を呟かれたので、思わず顔を上げた。
「ソルフェージュ。私のはただ楽譜を詠んでるだけ。譜面を見るだけでこの音はこう出して欲しいとか、この部分は楽しく弾いて欲しいとか、それだけだよ」
俺は後に、それが彼女が持つ独特の感性であったことを知る。
それは音楽を学ぶ人が通る道であり、基本的な知識ではあっても彼女のそれは彼女だけの特別なものだったのだ。
「だから、絶対音感じゃないの。そういう苦手意識っていうか、オレには
出来ないーっていう考え、私嫌いって言ったよ。人間やれば何だって出来る
んだから」
そのときの俺は、どんな顔をしていただろう。
きっと腑に落ちない顔をしていたに違いない。マイナス思考のネガティブ男だったからな……。
「どんなプロの人だって、国宝級の偉業を成し遂げた人だって、私たちと同じ人間なんだよ? どんなことだって、人間諦めないことが肝心なんだから!」
そういって詩織は、得意気に笑ってみせた。
……そうだった、詩織はいつも前向きで、俺を導いてくれていたんだ……。
高等部3年の春、現在―――。
今はもう過ぎ去ったあの日から、俺の時間は止まっていた。
詩織が交通事故で亡くなってから2年が過ぎたある日、つまり去年の高等部2年に上がってすぐの出来事。俺の物語が再び動き出す……。
俺の家は、お世辞にも順風満帆とは言えなかった。俺が物心ついた頃には両親は離婚していて、父親のことは殆ど覚えていない。
俺は母親と暮らしていたが、この性格が災いしてか面倒は全て押し付けて、母親との距離は開くばかり。
いつしか会話というものも聞こえなくなり、同じ屋根の下にいるのに住む世界が異なってしまった。
それでも、朝と夜のメシだけは用意してくれていた。温めて食べてください、という置き手紙がいつも置かれていて、それがひどく俺の胸を突き刺した。
おかしいよな、気にしていないつもりなのに……俺が突き放しているのに寂しさを覚えるなんて。
初めは決して、距離を置いていたわけじゃない。邪険にしていたわけじゃない。でも俺はなぜだか、全てのことに関心を持つことが出来なかったのだ。
家族でさえも、親でさえも、会話でさえも……。ただ、詩織と出会うまでは……そして、詩織が死ぬまでは……。
そうして素っ気無い態度しかしない息子に、母親も無理に付き合うことをやめたのだ。そんな息子には相談するわけも無く、いつの間にか母親は知らない男と縁があったようだった。
母親が再婚し、父方には連れ子がいた。俺にとって家族なんてものは写真の中だけの飾りものでしかない。だから、再婚しようと俺には関係ないと思っていたんだ。
しかし――俺は言葉を失った。
生き写しなんてものが、存在するのかと目を疑った。
彼女は石川、詩織……ではなく、美笑と名乗った。紛れも無く、詩織の妹だった。詩織から話はよく聞いていたが、実際に会うのは初めて。
それがまさか、姉妹とはいえ瓜二つだったのだ。
俺は驚愕と混乱で、頭がどうにかなってしまいそうだった。初めは、どうして詩織がここにいるんだと我を失いそうになったが、目の前にいるのは美笑という妹で。
しかも今日から、俺の義妹になるなんて……。
俺はこの現実をどう受け止めればいい?
詩織に似た少女とどう向き合えばいいというのか。詩織の面影を重ね、それが嬉しいことなのか、哀しいことなのか分からず、俺は美笑を直視することが、それ以来出来なくなってしまった。
そう、俺は受け止めることが出来なかったのだ。詩織は死んだ、この子は美笑という詩織の親愛なる妹。
だから、違うんだと、割り切ることが出来なかった。
思い出してしまう、どうしても……。
面影を重ねてしまう、どうしても……。
そうして接していくことは、美笑という子にとって嬉しいことでは決して無い。いつか俺は詩織だと思い込み、詩織として認識してしまう。いつかきっと、詩織でないことに気づき狂ってしまう……。
そんな時、美笑はどう思う? 自分は美笑として見られていない。姉として見られていたんだと、自身の否定を余儀なくされる。そして、自分の存在意義を自問するだろう。
でもその答えはすぐに、たどり着く。私は私、美笑は美笑。姉は姉、詩織は詩織。それはごく自然な解答に他ならない。そうして美笑は、自己を確立し自立するだろう。
けど、俺は……。そうすることが嫌だったのだ。
俺の幻想も、美笑にそう思わせてしまうことも。俺は過去に甘えたままで、生涯苛まれ続けるだろう。詩織はもう居ないんだと……。
受け入れられず、会話もろくにしないまま1年が過ぎ……こうして3年経った今でも、受け止められずにいるんだ。
割り切るなんて、出来やしない……。思考の迷路――。俺に出口は、見つけられなかった。
しかし、確かに俺の物語はこの時動き出していたんだ。
現実から、美笑から目を背けるという小さな綻びが、大きな禍を生むなんて思いもせずに……。
ゴールデンウィーク1日目。
美笑が中等部に入学してから早1年。美笑は進級して中等部2年生へ。俺も留年することなく、高校生活最後の年を迎えた。
あれから朝一緒に登校することもなく、会話もなく。
予期せぬ出会いから俺たちが変わったことは、特に無い。親が結婚して何かが変わることを期待していた訳ではないが、逆に悪くなることは想像していなかった。
初めは母親と再婚相手の男は仲がよかった。しかし、次第に喧嘩をすることが多くなり、そのとばっちりが美笑にいくこともしばしばだった。
それもしばらく続くと、今度は俺も居場所がなくなり、家庭はまた崩壊寸前に追い込まれていた。
そうして親たちも疲れてしまい、気がつけばまた、同じ屋根の下なのに親子が違う世界で生活する空間が出来ていた。
俺の母親は美笑に関心を失い、美笑の父親は俺に目も合わせなくなった。同じ屋根の下にいるのに、接点が無い。それを家族だなんて、言えるだろうか……。
そんな生活が拍車をかけて、俺の性格も昔に逆戻りしている。
全てにおいてやる気が無い。部活にも入らなかったし、勉強も気が進まない。
クラスのイベント事は全て断り、積極的に誰かと交流をすることも億劫だった。
かといって、先生から目を付けられるような不良生徒ではない。皆勤賞だし、成績も中の中、可もなく不可もなく。授業に出てれば分かる問題だけである程度成績は維持することが出来た。
それ以上を望むのは本人の頑張り次第でしかない。先生たちも、もう
ちょっと頑張れば上位になれるぞっと言うだけで、本人のモチベーションを
上げるのは本人次第だと思っているようだった。必要以上にうるさく言ってきたりはしない。
ただ、やる気がないだけなのだ。何をする気も、起きなかったのだから。
それでも、学校の行事には強制的に参加しなければならない。億劫だったが、そとはかとなくこなすことは出来た。
別にやる気がないだけで、クラスメイトからいじめを受けることもなかったし、積極的ではないが話しかけられもする。
あるがままに、そとはかとなく――。それが昔からの俺のスタイルだった。
そんな俺は気がつけば図書委員なんかになっていた。この学校は生徒数もさることながら校舎が無駄に広い。
その中でも図書室はやけに広くて蔵書に富んでいた。
このゴールデンウィークも、図書室の管理として交代で当番をしなければならない。
俺は特に用事というものが無いので、家に居るよりはマシだと思い承諾した。
とはいえ、交代とは名ばかりで他の連中は出掛ける用事やらその他諸々の事情を語り交代をせがんできた。
遊びに行きたい盛りだろう、断る理由もないので引き受けていたらこの5連休、俺は皆勤賞の予定になっていた。
他の図書委員がたまにいる程度で、大体1~2人体制だった。あとは図書委員会の担当の先生が見に来ると言っていたっけ。
図書室の開放はこのゴールデンウィーク中、9時~14時までとはいえ、朝から出掛ける人が殆どなのだろう。
5日間の日程は組んであるが、静かに一人で居たほうが居心地がよいので二つ返事で承諾していった。
そんなわけで。今日も朝から俺は図書室に来ていた。
「おはよう、
「おはようございます、縁センセ」
顔を出したのは現国の縁先生だった。
俺が高等部に進級してから、現国の担当は縁先生になった。中等部までとは違い、高等部になれば教える幅もレベルも違う。先生の入れ替えもありきだ。
そういった担当教師の入れ替えの中に、現国の担当も入れ替わりとなったのだ。先生は俺たちと歳が近い分、他の先生よりは融通の利く人だ。
さすがにテストの点数を誤魔化してはくれないが、勉強以外にも色々な話をしてくれるみんなのお姉さん的存在である。
「翔くんはいつも、退屈そうな顔してるね」
「……物事に、いちいち理由を求めてたら疲れるだけです」
「まぁ、それはそうなんだけどさ。好きなこととか、やりたいこととか。趣味はないの?」
「無いです。俺はただ、何事もなく平和に過ごせればそれでいいんです」
そう、俺はただ、何事もなく暮らしていければそれで良かった。
「ん~、味気ないなぁ。平和っていうのは大事だけど、ありふれた日常の無意識の享受は精神を疲弊させる。身体の成長が完成する前に、中身がお爺ちゃんになっちゃったらどうするの?」
「退屈で、ありふれていて、何事もなく歳をとって。それが俺の生き方なんじゃないかって、最近そう思うんです」
「自覚があるのならいいのだけど。今の高校生活、生涯に1度だけの日々。それを君なりに享受した結果が、ありふれた日常なのね」
「はい。日常ってのは、日々、常にありふれた生活のことです。それが時に何かを見えなくしたり、逆に何かを気づかせてくれたり。それが大事なことなんだって思うのは自分次第だと思ってます」
「あら、今日は哲学的なこというのね。朝から黄昏てたのかな? うーん? お姉さんそういうの好きだけど」
「お姉さんって……。センセ、ここは学校ですよ」
「……なんかどこかで聞いた台詞だわ。茶化しっこなしよ」
そういって先生は、スッとスカートを調えて座り直した。
「日常っていうのはね、こういう見方も出来るの。常に、日々変化する毎日。一日たりとも同じ日はやってこない。常に変化し続ける。言い換えれば、変化する日常。逆にするだけで、意味も逆になる」
「……表と裏ですか?」
「そういうこと。陰と陽、表と裏、上と下。物事は常に2面性である。その時、表であったとしても、常に裏は存在しているの。それを表だと〝思い込んでいる〟と、いつか裏返ったときに大変なことになるよ」
「俺が、思い込んでいると?」
「君はさっき、何事もなくって言ったね。でもそれは、ある事が起こった後に見出しただろうってことは分かるの。だって、私はずっと前から君と、彼女のことは知っているから」
「……」
「何事もなく日常が続いていたら、今こうして話していたのは私ではなく彼女だった。私もそれを遠くから見て祈っていた。でも……」
「縁先生。もう、いいんです。起こったことは変わらないですから。俺はもう、今の日常だけでいいんです」
「それなら、どうしてなの?」
「え?」
「彼女の死を受け止められたなら、あの子のことはどうして受け止めてあげなかったの?」
「……」
先生のいうあの子とは、一人しか居ない。だからこそ、俺は言葉を返せない。
「私はこの偶然には、詩織さんの想いを感じるの。美笑ちゃんは悲しくも数奇な人生を歩むことになってしまった。だけど、君のところなら安心だと思って、他でもない翔くんの傍に置いてくれたの。でも、君は……」
「……美笑は、俺の妹じゃ……ありません。詩織の、妹です……」
「っ……」
先生は言葉を失う。俺の口からこんな直接的な言葉が出るなんて思ってもみなかったのだろう。
俺自身、引きずっていると言われれば否定しない。今はまだ、整理し切れていないのだ……。
「……これから言うことは、教師としてじゃなく詩織さんの友人として言うわ。……正直あなたには、幻滅した。あなたは忘れちゃったのね……。今、美笑ちゃんの表情に覇気が無い。そう、忘れちゃったみたいにね。昔から大人しい子だっていうのは詩織さんから聞いているよ。でも、決して笑顔の見せない子ではなかった。今の美笑ちゃんは、度合いは分からないけれど、うつ病なのかもしれない。それが病気によるものなのか、本当に塞ぎ込んでいるだけなのか、それは傍目からでは分からないけれど。でも、だからこそ支えが必要なの。他でもない、あなたのね。きっと、詩織さんもそれを望んでいたはずだよ。……お願いだから、これ以上美笑ちゃんに悲しい思いをさせないで……」
「……」
そして先生は、図書室を出て行った。また図書室を静寂が打つ。
誰も来ない、一人の空間。まるで、縁先生の言葉が木霊しているかのように静寂戯れる。いや、それは俺の頭の中でだけかもしれない。
縁先生の言葉は俺を椅子に磔にした。太い杭を打ち込むかのように、俺は足を、胸を射抜かれる。出来るのは思考だけ。
俺は、美笑と向き合うことを恐れている。そして、俺は何かを忘れてしまっている……。それを思い出せない限り、美笑と向き合うことは出来ない気がする……。
しばらくして俺は杭を抜き、ある本を探した。それを読み耽っているうちに時間がやってきた。
14時ジャスト。閉館の時間だった――。
図書室のカギを締め、縁先生に鍵を返しに職員室へ向かったが縁先生の姿はなかった。とりあえず当直の先生に報告をして、本日の図書委員の仕事は終了した。
校庭に出ると、校旗を上げる支柱の下に人影を見つけた。
…美笑だった。休みの日はお互い家に居ないが、美笑はこうして学校に来ているのだろうか?
見たところ誰かを待っているとか、そういう風には見えない。
だがその横顔を、俺はしばらく見つめていた。詩織と似ている、瓜二つなくらいに。
当たり前なことだが、あと2年もすれば詩織と同じ歳。
姉妹であるがゆえに、あの頃の詩織のように綺麗に成長するのだろうか。あまり声は聞いたことはないが、詩織ほど通る声ではないにしてもそれに近いものを感じたことはある。
……やめよう。今さっき縁先生に言われたばかりだ。俺は美笑に詩織を重ね過ぎる。うつ病、か……。世間一般には鬱の気質は誰もが持ちえている。
人間誰しも落ち込んだり塞ぎ込むことがあるように。それをうつ状態と呼ぶかどうかは、今の俺には判断出来ない。その横顔からは、汲み取ることは出来そうに無かった。
まず見つかったのは、躁鬱病というものだ。正式名称は、双極性障害と本に書いてあった。
これは躁状態――気分が高揚している――と、鬱状態――気分が落ち込んでいる――を交互に繰り返す病気である。
詳しく読み進めてみると、諸症状が似ていることもあってこの双極性障害は、うつ病と混同されがちだが、どうやらこの二つは異なる病気で治療法も異なるようだ。
躁状態の特徴として、気分が高揚して話し続けたり、根拠のない自信に満ち溢れていたり、初対面の人にもやたらと話しかけたり、買い物などに莫大なお金を使ってしまうなどがあげられる。
そんな症状は素人目に見ても、美笑に当てはまるとは思えないよな……。そもそも双極性とは、両極端な状態を指し、行ったり来たりすることだ。
誰しもが嬉しければテンションが高くなるし、落ち込めば塞ぎ込むことだってある。
その気分の波は至って正常な心の反応である。それ以上に極端に見えなければ、双極性障害とまではいかないだろう。となると、やっぱりうつ病の方が可能性が高いような気がする。
では、うつ病とは一体どんなものなのか。一般的に判断基準が広まっていることによって様々な解釈が独り歩きしているようにも思う。
日本では、100人に3~7人という割合でうつ病を経験した人がいる、という調査結果が厚生労働省から出ているようだ。これは【患者調査】といって3年ごとに発表されているもので、平成8年には気分障害を含めたうつ病の患者数は約43.3万人。
それから平成14年までに、1.6倍の71.1万人に急増している。
うつ病だけ抜き取ってみれば、2.1倍にもなっている。しかも、うつ病に関しては受診率が低いことが分かっているらしく、実際にもこれより多くの患者が存在していたことは想像に容易だ。
年々増え続けているうつ病の症状としては、憂うつな気分、もの悲しさや絶望感、気分が深く落ち込んで、その状態が長く続いて苦しむことをいう。
そのネガティブな状態が続くと、自分を責めるようになり些細なことでも自棄になってしまうのだ。
ただ、自覚症状は薄く受診率が低いことからもそれが心の病であることに気づかずに、適切な治療を受けられない状態なのかもしれない。
逆に言えば、うつ病の正しい判断は様々な検査をしたうえで医師が診断を下すことしか――。
「ごほッ! ごほごほッ!」
その時、突然美笑が咳き込む。
その激しさに、思わず駆け寄ろうとして足が止まってしまう。なぜ躊躇う必要がある? それは俺の脚に聞きたい。なぜ考える必要がある? それは俺の心に聞きたい。
俺の心と身体は、切り離されてしまったのだろうか……。
駆け寄って「大丈夫か?」と声を掛けたい心と、それを拒絶して動こうとしない身体。そんなもどかしさを抱えながら、俺はただ何をするでもなく、美笑を遠くから見ているだけだった。
しかし美笑の発作も、俺の短い思考の内に治まっていた。今は胸に手を当てて、深呼吸を繰り返しながら、呼吸を整えている。
そんな美笑の様子に、胸を撫で下ろす自分がいる。
……あくまで、美笑の力で立ち直っただけだ。俺は何もしていない。何もしなかった俺が、傍目から何事も無くて良かったなどと思うこと自体おこがましい。
矛盾。……矛盾螺旋。人の思考はいつだって矛盾している。
助けたい、関わりたくない、動きたい、近づきたくない、ほっとした、何もしていない、手を伸ばしたい、俺はその資格が無い。
単語の羅列は矛盾螺旋そのものだった……。
中等部2年の夏――。蝉時雨の賑わう頃。
「どうしたら、あの子笑ってくれるかなぁ……」
詩織のネガティブな一面を見たのは、考えてみればこの時が最初で最後だったように思う。
いつだって前向きな彼女がそんな一面を見せること自体珍しく、あの日のように周りにはポジティブシンキングを振りまいていた。
どうやら彼女の悩みの種は、妹のことらしい。
俺は特に受け答えをするわけでもなく、詩織があーでもないこーでもないと、呟いているのを聞いているだけだ。
その間ふとメロディが浮かぶと、ぽろん、ぽろん、と旋律を響かせる。
俺にとってはその音は響いているのだが、当の詩織にとっては心に響くものではないらしい。
本人が納得しないのでは意味が無い。素人の俺が口を挟んでも、参考にもなりはしないだろう。
「ところで、今日も来たんだ結城くん。暇なの?」
今日〝も〟といえば、分かるだろう。俺はあの日から、音楽室に通いつめている。
入室の許可は貰っているので、演奏の邪魔をしないように静かに席に座っていた。
だからといって何かが変わることもなく、事も無げに詩織はピアノに向き合って俺のことはしばらく気にしない。俺もただ、詩織のピアノを聞いているだけ。そんな日々が続いていた。
「まぁいいけど。私以外、音楽室にはあんまり人来ないからね。この学校には吹奏楽部も、軽音楽部も、合唱部も無いし。音楽の先生もみーんな男の先生。これだけ生徒がいるんだから、一人くらい音楽に興味もってくれてもいいのになぁ。あー、ピアノが弾ける美人な先生が来ないかなー」
詩織の憂鬱は妹だけでは無いらしい。確かに中高一貫で人が多いにも関わらず、音楽系の部活が存在しない。
以前はあったのかもしれないが、今現在、俺たちが入学してからは愛好会すら無かったのだ。
最初は詩織も同志を募ったこともあったのかもしれない。しかし、今の言葉聞く限り空振りだったのだろう。
実は少し未来の話だが、かつて音楽系の部活ではないが新規の部活動を立ち上げたいという有志諸君がいた。
しかし、学校も生徒会という組織がある。部活として立ち上げするには、まず部員を最低5名確保しなければならない。そして引き受けてくれる顧問の先生へのお願い。部室とか活動場所の確保。人数、先生、場所、それらが最低条件である。
だが、それだけではない。
前述したとおり、この学校にも生徒会があり組織の承認を得られなければ成立しない。しかもその承認というのは、全校集会を経て投票制度を採用している。
さらに、一気に部活動とはならない。最低人数が5人というのは愛好会レベルであって、部活として成り立たせるには10人以上必要なのだ。
重ねて言おう。愛好会から部活には昇進はしない。その間に同好会という最低人員8人という中間点が存在する。人数に関しては学校によって差はあるだろうが、ウチの学校ではそういった最低ラインを設けていて、みんな部員募集に余念がない。
とはいえ一度、部活まで昇格してしまえば9人でも活動は存続になるが、新入生が年々減っていったら廃部の可能性はある。この辺りは他の学校とそう大差ない。
つまり、最低条件の仲間を5人集め、引き受けてくれる先生を見つけ、空き教室もしくはグラウンドなどの場所を探し、すべてをクリアした状態で愛好会を発足して申請する。これが最初に踏まなければならないステップ。
ここからは、ささやかながら活動を開始出来るが部費などは出ない。
生徒会の承認を得て愛好会として認められたので、先生の好意次第では融通を利かせてくれることはあるかもしれないが、まだまだ満足の域を出ない。
文化部であれば良いが、運動部に関しては大会に出場という夢は遥か遠い。大会出場を夢見て先生を抱き込み、一年を掛けて部員を増やすのだ。
そして翌年、生徒会の承認を経て同好会に昇進。ここで雀の涙程度だが、活動費の申請が可能になる。なので、ここで満足してしまう生徒も多かった。このような少人数のささやかなる活動は、ウチのようなマンモス校では少なくなかった。
何しろ掛け持ちすら出来るのだから、一つの活動に固執せず興味がある活動に気が向いたときに参加して、さらに活動費まで出るのだからやりやすいことこの上ない。
中高一貫とはいえ、短い学校生活をふいにすることもないのだ。
そしてさらに翌年、並々ならぬ熱意を持った生徒だけが生徒会の承認を経て
部活動へと昇進させる……。
その間になんと、学校生活3年目になってしまうのだ。
なぜなら、新規部活動の導入という議題は新年度の春に1度しかないからだ。
入学して入りたい部活が無くて、どうしても作りたくて頑張って愛好会を発足できたとしても、そこまで情熱を絶やさず活動できる人はそうそういない。
ここまで聞けば、学校で新たに部活動を作るというのがいかに大変で、根気のいることか分かるだろう……。
しかし、俺たちの代でそれをやってのけた人たちがいる。先ほど言ったのは女子サッカー部のことで、ついに中等部3年になる来年に女子サッカー〝部〟として承認されたのだった。
それが最近のなでしこ影響であることはいうまでも無い。
詩織もそれに影響されたのだろうが、残念ながらこの学校での音楽系パイオニアにはなれなかったようだった……。
……と、長くなってしまったが、詩織はそのことを身を持って知っている。俺がそれを語るのは蛇足だった。
本来詩織は、自由にピアノを弾きたいだけで部活動として発足したいのでは無いらしい。彼女は早々に切り替えて、こうして毎日音楽室でささやかな演奏会を開いているのだ。
「結城くんに聞いてもしょうがないんだけど、何か良いメロディ無い?」
俺に聞かれても困る。音楽の心得なんて皆無だ。せいぜい、ドレミファソラシドを口で言うのが限界だ。
「ははっ、そうだよねー。ごめんごめん」
そういって詩織は苦笑した。
その時ふと、俺はたまに話題に出る詩織の妹のことが気になった。物事に無関心な俺がそんな興味を抱いたことに驚いたが、それが自然と口をつく。
「ん? 私の妹の名前? みえ、だよ。美しい笑顔って書いて、美笑」
美笑……美笑……。美しい、か……。
……美しいものはいつまでもそうあって欲しいと思う。でもそれは飾られたものじゃなく、きっと心に残るものなんだ。
思い出とか感情とか、自然もそうだ。あらゆることは観測者によって美しくも、汚らわしくも映る。それが笑顔なら、なおさらだ。大切な人の笑顔は、いつまでも美しいままだ。
「……へぇ。意外、かな。普段から『オレは興味ない』って言ってる人が、心ではそんなこと考えてるんだね」
あ、いや……。何を言ってるんだ俺は。俺が何かに感銘を受けたことなんて、これまで一度も……。
「ううん、私もそう思う。うん……そうだよね、うん……」
詩織は何度か頷いてから、目を閉じる。
……? しばらくそうしてから、詩織はスッっと目を開けた。俺は何か思いついたか? と声をかけようとして、それを遮る様に詩織は……。
「ありがとう」
と、初めて俺を真っ直ぐ見て笑った。
そして流れ出した旋律。その曲は今まで聞いたことが無いくらいに美しい演奏だった。人を惹きつけて、魅了してやまない、美しいまでに情感の込められた音だった。
「……出来たよ、美笑。曲名は〝エトワールフィラント〟にしようかな」
詩織の満足そうに微笑むのを見て、俺はいつもの詩織に戻ったのを感じた。一息ついて、詩織はふとこんなことを話し出した。
「ねぇ。結城くん? 魔法って、信じる……?」
え? 魔法? それは今まで出会ったことがないから、なんとも言えないな。
「ははっ。こんなこと言うと夢見がちな人って思われるかもしれないけど……。私ね、ピアノって魔法だと思うんだ。元気になれる。前向きになれる。人を笑顔に出来るって、そう思うの。そういうの、幸せなことじゃない? それはきっと、ピアノの魔法なんじゃないかなって。……うん、ひょっとしたら私がピアノの魔法に掛かっちゃったのかなぁ」
詩織は愛しそうに鍵盤を撫でる。
優しく、優しく……まるで、魔法に触れているかのように。
うっとりしているかのように頬を赤く染めて。艶やかなその表情を見た瞬間、俺の心臓は一つ、大きく脈打った。
俺はこの日、今はもう過ぎ去ってしまったあの日。
俺は彼女に、恋をした――。
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