奏恵編 5日目
ゴールデンウィーク5日目。
あたしとゆかり先輩は、告別式に参列した。結城家と石川家と、それから親類だけの厳かなものだった。
あたしのお焼香が終わるとゆかり先輩は、あなたはここで待っていてと言って、一人で奥の間へ入っていく。きっと親族の方へ挨拶しにいったのだろう。あたしは少し離れた所から掲げられた美笑の写真を見ていた。
昨日最後に会っていたのはあたしのほうだから、先輩は眠っている安らかな顔ではなく、昨日の顔を憶えていて欲しいという気遣いだったのかもしれない。私はそれを享受する。
憶えてるよ、ずっと。忘れないから。あれが本当の、美笑の笑顔だった……。
帰宅後、あたしはそれとなくピアノの前に座った。
数日前、音楽室ですぐ隣に美笑は座っていて、懐かしみながら思うこともあっただろう。あたしを見上げ、あたしのピアノを聴いてくれていた。
あの時「beautiful smile」と再会出来たんだっけ……。衝撃的だった、あの旋律。詩織さんの調べ。
それがまだ、たった数日前の出来事だったのだ。
数年前に聞いた旋律そのままに、あたしを虜にした。身体を駆け巡る旋律が、あたしの手を通して詩織さんが弾いてくれているような気がして、不思議な感覚だった……。
思えば、美笑と出会ったあの日に全ては始まっていたのかもしれない。
あたしが道に迷ったこと、美笑がたまたま廊下を歩いていたこと、それは運命的なものだった。詩織さんが巡り合わせてくれた、邂逅の始まり。
あたしは忘れないよ、ずっと、ずっと……。
憶えている、美笑のことも、詩織さんのことも、幸枝のことも……。もちろん、居なくなってしまったのは寂しい。心にぽっかり穴が開いてしまったみたいに。
そんな時は、いつもピアノがあたしの心を埋めてくれた。でも今は……。
「……弾けない」
鍵盤を触るのが怖い……。また弾き始めたら、誰かがあたしから離れてしまう。結局あたしは同じ末路を辿るだけで、誰かをきっと不幸にしてしまうから。
両手を下ろして、目を閉じた。
あたしはもう、ピアノを――。
「奏恵」
後ろから抱き締めるようにあたしの肩を抱く先輩。
告別式の後、先輩は一緒に私のアパートまで来ていた。考えてみたら、先輩を部屋に招くのはこれが初めてかもしれない。
「弾いてほしいな、ピアノ」
「……ダメなんです」
「どうして?」
「あたしはもう、ピアノを弾けないんです!」
つい大きな声を出してしまった。驚いた先輩はあたしから離れると、落ち着かせるようにあたしの両肩に手を置いた。
「あたし……勘違いしてました。美笑にピアノを聴かせてあげて、それが美笑の望んでることなんだって一人舞い上がって……。あたしが与えたいばかりに、美笑の気持ちを全然考えてなかった……。結局、幸枝の時から何にも成長してなかったんです。何もしないことが良くないと思って、積極的になろうと思って、美笑の為になるならって……。でもそれは押し付けでしかなくて、……何も変えられなかった……!」
「奏恵……」
「ごめんなさい! あたし、先輩から頼まれたのに出来ませんでした……。美笑を、助けてあげられなかった! だから、もうピアノはやめます……」
一気に捲し立てて、あたしは吐露した。贖罪は大好きなピアノをやめること。そうしないと、ゆかり先輩に申し訳が立たない……!
「奏恵がピアノを辞めたら、私悲しいな。もう私の為には弾いてくれないの?」
「あたしが弾いたら、また誰かが不幸になるかもしれません。もしゆかり先輩が不幸になったら、それこそあたし……頭がどうにかなってしまいます!」
すると先輩は、力強く私の手を引っ張って立ち上がらせた。
倒れそうになるところを、抱き締められる。さっきよりも、ずっと強い力で。
「私は死なないよ。絶対にね。それに、奏恵のピアノを聴いて不幸になる人なんて絶対いないわ。私が保証する」
「でも……あたし……」
「奏恵、ピアノって魔法みたいじゃない?」
突然、先輩は不思議なことを言った。それはどこか、台詞みたいだった。
「私にピアノの素晴らしさを教えてくれた人が言ってたわ。ピアノは人を幸せにするって。辛いときも、悲しい時も、寂しい時もその音はきっと優しく包んでくれる。そしてあなたは私を、ピアノの虜にしてくれた」
「先輩……」
「私にも聴かせてほしい。詩織さんが、美笑ちゃんの為に贈った曲。実は聞いたことがないの、今はもう世界であなたしか弾くことが出来ない曲だから。それに、観客は私だけじゃないよ?」
「え――」
ハッとしてあたしは目を開けた。ゆかり先輩の肩越しから、見慣れた自分の部屋を見やる。
「私こう見えて、霊感が強い方なの。美笑ちゃんと、詩織さん。そして……長い髪が綺麗な子」
嘘……幸枝、なの……?
「奏恵は自分を責めるかもしれない。辛いかもしれない。けど、みんな奏恵のこと大好きなのよ。これっぽっちも恨んでない。みんなの為に……ううん、私の為にもピアノを辞めるなんて言わないで?」
ごめん……ごめん……ありがとう。
本当は今すぐにでも駆け寄って、抱きしめて、もう絶対離さないんだからって言いたい。美笑のことも、幸枝のことも……。
こうなってしまった今、これを言うのは不謹慎に思われるかもしれないけれど……。
本当に自殺だったのか事故だったのかも、未だに分からない。
だけど、死は受け入れるもの、なのかもしれない……。いつまでも未練を残していては、美笑の笑顔が陰ってしまう。
だから…………。
ネガティブグッバイ、あたしの最愛の美笑。
美笑の笑顔を忘れない。幸枝の涙を忘れない。詩織さんの想いを忘れない……。3人は私の中で、生きている……。
これからも、ずっと……。生涯を通して記憶に留めていこうと思う。忘れないこと、それがあたしの……。
ゆっくりと身体を離し、ゆかり先輩と見つめ合う。頷いて見せると、先輩はいつもの優しい笑顔を向けてくれた。
鍵盤に手を置くと自然と震えは止まった。そして奏でる。紡がれる旋律は「beautiful smile」
これは
あたしは奏でる、いつまでも、この先ずっと……。
それがあたしの伝える物語。……ううん、違う。それが、あたしたちの奏でる物語……。
いつか誰かに話す時が来たら――。
ねぇ美笑? 今度の校内コンクールで私がピアノを弾くから、詩を歌ってよ。
…恥ずかしい? 大丈夫、美笑の声ってすっごく綺麗だから。あたしが保証する!
目指すは姉妹ユニットCDデビュー! あたしは伴奏とコーラス美笑がボーカルね!
ねぇ美笑はさー、好きな子とかいないの?
年頃なんだもん、気になる子とかいるんでしょ? お姉ちゃんにも教えてよ。
え? あ、あたし!? 本気の本気で? そ、そりゃあたしも美笑は好きだけど。
あたしにはゆかり先輩っていう愛を誓った人が……じゃ、じゃなくて!
ねぇねぇ、これはどうかな美笑! 向日葵の花飾りー!
…ちょっと大きいかもって? う~ん、逆にアンバランスなのが良いというか…。
それじゃあ、ほら。これでお揃い! これならいいでしょう? うん、決まり!
美笑はヘアピンも似合うし、何か付けてる方が絶対いいよ!
ごめん美笑! 本当にごめんって……。怒らないで許してよ……。
…アイス食べたい? いいよ。…あのぬいぐるみも欲しい? うん、いいよ。
あと一緒に寝てくれないと嫌? んもぅ、可愛いなぁ! この甘えん坊めぇ!
もう今夜は寝かさないぞ~? なんちゃって!
美笑ー? あれ、美笑いないのー?
って、おぉ! それはあたしの高校の制服! そっかぁ美笑ももう高校生かぁ。
それ着て登校してみる? あはは、さすがにダメか。え? あたしの香りがする?
ちょ、ちょっと何言ってるの! もう脱いで、って逃げるなー! こらー!
…ん? どうしたの、美笑。ピアノを弾いてみたい? うん、いいよ。
それじゃあここに座ってみて。最初は右手からドレミファソラシド弾いてみよっか。
あぁ、ファはね、親指を内側に入れて……そうそう、そうすると高いドまで行けるの。次は左手なんだけど、今度は親指の次に中指を被せて……。
続いていく……。あたしと美笑の物語が続いていく……。
美笑の笑顔が戻り、日々がより一層晴れやかな毎日。望んだ日常がそこにはあった。あたしたちは記憶していく。日々たくさんのことを。
そこには忘れたいこと、忘れたくないこと。思い出したいこと、思い出したくないこと。大切なもの、大事なもの。蓄積されて、淘汰されていく。
記憶は遠い順から思い出に変わっていく。思い出はやがて、想いへと昇華される。
あたしの想いは、ずっと心の中に。もしも誰かに話すことがあったなら、あたしは伝えたい。
あたしたちの物語は、続いていると……。
願わくば、この物語を読んだあなたの心の隅に、記憶して欲しい。そしてどうか、美笑を救って欲しい。
もしも許されるなら、あたしの物語から何かの教訓を。同じ過ちをもう誰も、繰り返さないように……。
「ありがとう、奏恵。もう泣いても良いんだよ」
左には幸枝が居て、右には美笑が居て。あたしの両手には詩織さんが手を重ねてくれている。
温かい涙だった。それは留まることがなく、顎に雫を作る頃。後ろからゆかり先輩が抱きしめてくれた。そしてあたしは、声を上げて泣いた……。
あたしはようやく知ることが出来た。
幸枝の死から、美笑の死を通して、あたしはとても大切なことを学んだ。あたしはとても恵まれている。私はとても幸せで、嬉しさが溢れてくる。
本当の意味で、あたしは一人じゃない。独りじゃないんだ……。あたしが拾い集めた枝は、確かに幸せだったよ、幸枝……。
ありがとう、みんな……。
それから、ごめんね。救い出せなくて……。
あたしの物語は、これからも続いていくんだよね……。
さぁ、奏でていこう。
終わりから始りへの、カンパネルラに導かれて。
これから先も、ずっと……。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます