奏恵編 4日目

 ゴールデンウィーク4日目。

 あたしは昨日、美笑に別れを告げられた。あれから美笑の姿を見ていない。

 しばらくして職員室に戻ってきたゆかり先輩にそのことを話したら、先輩も言葉を失っていた。15時を待たずにあたしたちは帰路に就いた。

 今日は朝から雨。天気はあたしの気分を晴れやかにはしてくれなかった。ゆかり先輩がいる日常で、初めてあたしはぐずついている。

 それでも昨夜は、短時間だけ奇跡的に雲は晴れ星空が広がったという。

 あたしは気分ではなかったので空は見上げなかったけど、みずがめ座流星群が極大になったそうだ。

 そういえば、美笑は誰かと見にいったのかな……。傘を差して一人で歩く道。今日は隣に先輩は居ない。

 いつもの待ち合わせ場所に、いつもあたしより早く来る先輩が珍しく居なくて、結局遅刻ギリギリまで待っていたけど、来る気配が無かったので先に行ったのかと思い一人で歩いている。

 天気も雨模様。先輩も居ない。お世辞にも清々しい朝とは言えなかった。

 心に引っかかるのは、昨日の美笑の言葉――。

 どうして、別れを告げなければならなかったのか。これからあたしが詩織さんの代わりに姉になる決意をした。

 美笑もこれから先の未来が明るいものだと感じてくれたと思った。実際、美笑もあたしを姉と慕ってくれたはず……。

 それなのに、突然の別れ……。分からないよ、どうして今なの……?

 これからもっと、たくさんピアノを弾いてあげたかったし、甘えさせてあげたかったし、美笑に笑顔が戻るように毎日傍にいるって自分に誓ったの。

 ……姉になるって決めていたの。それがこんなのって……。もう、美笑には会えないの……?

 いくら自問しても答えは出ない。その答えは、美笑にしか答えられないのだから。

 よし、今は考えるのはよそう。

 早く学校にいって、先輩に相談しよう。うん、もう会えないなんてことは、無いんだから。少なくとも、連休が終われば登校してくるはず。

 しかし、職員室に入った時……先輩が居てくれたことの安堵と、それ以上に、ひどく背中が小さく見えて、あたしは声を掛けるのを躊躇ってしまった。

「……どうして……」

 先輩はポツリと言葉を漏らしながら、両手で顔を覆っていた。

 ただならぬ雰囲気と嫌な予感がして、あたしの声は小さく震えてしまう。

「……先輩? おはよう、ございます……」

「あ……。奏恵……」

 生気が失われていた。先輩のこんな表情を見るのは初めてだった。

 次の瞬間、朝から拭えなかった不安が一気に現実のものとなる。

「奏恵、落ち着いて。よく聞いて欲しいの」

 あたしは聞いてはいけないのではいだろうか。聞いちゃいけない。それを聞いたら、あたしは……。

「……あの、先輩」

「ごめん、聞いて。私もまだ混乱してて、あなたの質問には答えられそうにないから。あのね――」

 先輩は私の両手を包んで、それでも言葉を躊躇って。

 視線を彷徨わせながら、何度も言葉を飲み込んだ。必死に何かを、堪えているように……。

 その仕草だけでも、言いたくない言葉なのだろうと思った。

 深呼吸をして、まっすぐにあたしを見た先輩の目は赤く、綺麗な涙袋の上に大粒の雫を溜めながら……。

 そして、告げた……。

「美笑ちゃんが、自殺しちゃったの……」

「……え…………」


 あたしの頭は、真っ白になった――。


 この日のことはよく覚えていない。

 気がつけば、あたしは教室の窓から雨空を見上げて思考していた。

 どうして美笑は、自殺をしてしまったんだろう……。愚問……確かに過酷な環境にあった。しかし肯定されるべき自殺なんてあってはならないと思う。

 でも、それでも当人が選んでしまったのならそれは尊厳死なのだろうか。いいえ、それはきっと生きている私の傲慢視……。

 どうして? と、嘆くのは残った者の権利だけれど、

 どうして? と、訴えるのは逃げたいからだ。あたしに非は無かったという保身。

 昔のあたしはまさにそれ。幸枝を救おうともせず、保身に走り、幸恵の死から逃げていた。

 でもすぐ気づいたの。それは誰でもない、あたしの過ちなんだって。

 だからあたしは決別した。今度は同じことを繰り返さないように、美笑の笑顔が取り戻せるように、尽力したつもりだった……。

 それでも、あたしはダメだったの……?

 美笑の姉であろうとすること。笑顔を取り戻せるように傍にいること。伝えたいことを、伝えていくためにしたことだったはず。

 ひょっとしてあたしは、与えたいばかりで美笑の本当の気持ちを蔑ろにしていた……?

 確かにあたしは、幸枝を救えなかった後悔を美笑に重ねていた。

 だから見ているだけではダメなんだ、自分に出来ることを精一杯伝えたい、与えたいと思った。それが笑顔に繋がると信じて……。

 でもそれは同時に、あたしの押し付けでもある。本当に美笑が望んでいることは、何なのか知ろうとしなかったかもしれない。

 詩織さんと同じようにピアノが弾けるから、それで表情が明るくなった美笑を見て、それが望んでいることなんだと錯覚していた……?

 そんなのって……。美笑は本当は何を望んでいたの……? ごめん、ごめんね……分からないよ。私は、間違っていたの? あたしはまた、救えなかったの……? 結局は、同じことを繰り返してしまったの?

 ……違う、と思いたい。だって美笑は確かに別れの言葉を告げたけど、笑って、ありがとうと言ってくれたじゃない……。

 あの瞬間、美笑は自殺を覚悟していたとは思えない、思いたくない。

 あたしたちは同じ空の下にいたはず。同じ空を見て、同じ音を奏で、同じ時間を過ごしていた。

 それは決して長い時間ではなかったけれど、それでも優しくて、温かくて、愛しい時間だった。

 でも美笑には、空は青く見えなかった……?

 ううん、それだけは違うと言える。表情は笑顔だけじゃない。そして美笑の目は輝きを取り戻していた。だから、あの瞬間……美笑の中で別れの決意とは別に自殺の決意は無かったはず……。そう思いたい。

 それじゃあ、自殺でないなら何かの事故……? さっき、ゆかり先輩はとあるビルからの飛び降り自殺だったって警察から聞いたと言っていた。でも……自殺でないなら、どうして美笑はビルの屋上なんかに?

 ……そういえば、昨日はみずがめ座流星群が極大の日。それに美笑、言ってなかったっけ……。約束の日、って……。

 何か大切な約束があったのかもしれない。詩織さんとの? 他の誰かとの?

 分からない、分からないよ……。本当に自殺だったの? それとも、なにか予期せぬ事故に巻き込まれてしまったの……?

 ビルから落ちてしまった美笑――。それが美笑の意思だったのか、それとも違うものなのか。

 近くにいた男性が救急車をすぐ呼んだらしいけど、ダメだった……。

 美笑……。

 あたしは困惑で号泣することも出来ず、あたしの代わりに梅雨の雨音が静々と、音を立てていた。だって、分からないことだらけなんだもの……。今流れている雨は、

虚しさ。どうして、幸枝が、美笑が死を選んでしまったのか分からない哀れな結末。

 あの時とあたしはちっとも変わってないじゃない……。

 ただ、違う道を通っただけで末路は同じ。誰かが採譜したのだとしたら、そのシナリオは同じ曲だったんだ。決意して、また新しい曲を書いているつもりになっていたのはあたしだけ。

 決別は、ダカーポでしかなかった。また同じ場所に帰るフィーネ……。

 もう、弾きたくないよ……! ピアノなんて……!

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