奏恵編 3日目

「昨日はお楽しみだったみたいね」

「お楽しみでしたよ! それはもう、熱い夜でした……」


 ゴールデンウィーク3日目。

 先輩はすべてを見透かしたように、昨日のあたしのセリフを反芻した。あたしはそれを分かりつつ、両手で自分の肩を抱きながら科を作った。

「やっぱり。奏恵のことだからプレゼントをどう渡そうかずーっとニヤニヤしてたんでしょう?」

「ご推察痛み入ります! それはもう、色んなプランを考えたんですよ。先輩の言うとおり美笑はピアノが好きだったので、今日も来てくれたら演奏会開きたいなーって」

「はい、誤用かな。この場合は意味合いとしては推察なんだけど、使い方としては〝ご賢察〟の方が一般的ね。まぁ、昨日頑張ってくれたお陰で休み中の仕事はひと段落したし、私も個人的に調べたいことをするくらいだから、いいよ。15時くらいには切り上げましょう」

「やったー! さすが神様女神様ゆかりさまー!」

「ちょ、ちょっと! ま、いっか。今日くらいは」

 あたしが先輩の腕に抱きつくと、珍しく許してくれた。

 祝日とあって、職員室は数名の先生方しかいないからかもしれない。

 先輩とは隣の席なので、離れたところで座っている先生に目立たなければお咎めなしだった。

「そういえば、昨夜の天気予報で言ってたんですけど、今夜みずがめ座流星群が極大になるそうですよ、数十年振りに」

「そうみたいね。でも、予報は曇り空。午後からは雨が本降りになるみたい。この辺りで見れるかどうかは微妙かな」

「だからこそ、見れたらレアですよね。見えるかどうか分からないけど、美笑を誘ってみようかなって思ってて……。演奏した後にプレゼント渡そうか……星を見た後に渡そうか……、まだ迷ってるんですけど、うーん。星が見れるか確証はないから演奏終わった後かなぁ」

 メトロノームの振り子みたいに人差し指を立てて左右に振る。

 テンポは60で。ちなみにこのリズムは時計の秒針が動く1秒間隔と同じだったりする。チックタック、チックタック。

「それは構わないけど、学校外で夜なわけだからちゃんと親御さんには一報を入れること、良いね?」

「はい、了解です!」

「あ……やっぱりそうなったら私に連絡を頂戴。私が電話しておくから」

「え? 良いですよ、あたしがしっかり報告しておきますから」

「ううん、ごめん奏恵。今は何も聞かないで、私に任せて。奏恵には本当に感謝してるの。本当に、ありがとう」

「ちょ、ちょっとどうしたんですか? 改まってお礼なんて……」

「私にはこのくらいのことしか、出来ないから……。奏恵が美笑ちゃんの支えになってくれたみたいで、本当に良かったと思ってる」

「いえ……あたしは、あたしに出来ることをしただけで……。もとより、先輩のお願いです。ミッション失敗は許されませんから!」

「ありがとう、奏恵……。いいえ、〝奏恵お姉ちゃん〟」

 先輩はそう言いながら、あたしの手を取って握ってきた。

 こう……恋人繋ぎみたいに!?

「え……えぇ!?」

「あら、認めてもらえたんでしょう?」

「は、はい……。それは、まぁ……って、何で知ってるんですか!?」

「あなたがさっき、お花を摘みに行ってるときに美笑ちゃんが来たの。〝奏恵お姉ちゃんは、今日来てますか?〟って」

「あわ、わわ……。み、美笑にはちゃんと、学校ではセンセーって、呼びなさいって、言っておかなきゃ、なぁ……はは、あはは」

「すっかりお姉さんね。おかしいなぁ……私は抱きしめてもらった覚えはないんだけどなぁ……?」

 先輩の頭部からニョキニョキと、角が生え始めた。

「え? えぇー!? せ、先輩がよければあたしはいつだって愛の抱擁を! ……じゃなくて、どこまで聞いちゃったんですか!?」

「う~ん、ピアノを弾いたこととか、詩織さんの真似をしてくれたこととか、奏恵お姉ちゃんが抱きしめてくれたこととかー♪」

「わー! 言葉にされると、なんか恥ずかしい……」

「美笑ちゃんを抱きしめても、私は抱きしめてくれないのね……。昨夜はお楽しみだったみたいだし……」

「ダカーポ!」

 それは曰く、以下略。

 ゆかり先輩が離してくれない手に嬉しさを覚えながら、私は天を仰いだ。

「デジャヴって言わないところが、奏恵らしいよね」

「じゃなくて! 違います、誤解です! 美笑に対しては可愛い妹としてであって、先輩にはちゃんと愛を込めて飛び込みます! えーと、あたしを受け止めてくれますか?」

「はいはい、それは次の小テストで100点取ったらね」

「うぅ……。なんだか、今日の先輩いじわるです……」

「私たちの愛は、本物でしょう? なーんて」

 そう言いながらお揃いの八分音符のヘアピンを指さして微笑む先輩。ドキドキ……。

「もう、先輩のいけずぅー」

「ふふ、奏恵があたふたするのが面白いから、ついね。……そうそう、あなたの可愛い妹さんが教室で待ってるみたいよ」

 先輩は手を放して、いつも通りの表情に戻りながら足を組みなおした。

「教室……? どこのですか?」

「高等部3-C。私の……思い出の教室」

「あ、先輩が初めて担任したクラスですね。覚えてます! それじゃあ、すみません。ちょっと行ってきます!」

「はい、いってらっしゃい。……あ、奏恵」

「っと、なんですか? 先輩」

 ゆかり先輩は、お揃いのヘアピンをトントンと触る仕草をして、私の机の上にあった綺麗に包装されたケースを指さした。

「忘れ物。はい、しっかりね」

「…あ、あはは。ありがとうございます!」

 あたしの顔は嬉しさと恥ずかしさで、高揚していたと思う。

 そしてあたしは気づく。この初めての気持ちが胸の高鳴りとなっていることに……。なんだか、うまくいくような気がする……。

 たとえ血は繋がっていなくても、姉であるということ。妹が出来たという喜び。それは何かの、小さな気持ちの芽吹きといえるかもしれない。

 その関係は血ではなく、絆。

 あたしの中に芽吹いた小さな決意。姉であろうとすること。美笑の支えであろうとすること。そして……姉と呼んでもらえる喜び。

 それがいつか花咲く頃に。

 あたしたちは姉妹であると、胸を張って笑い合えると信じてる。

 美笑の笑顔、きっと思い出せますように……。


「おまたせっ!」

「……あ、奏恵お姉ちゃん」

 振り向いてくれた美笑の表情は心なし明るい。今の美笑にはこれが精一杯の笑顔なんだと、あたしは分かっている。

 それはもう、無表情ではない。

 それはもう、無感情ではない。

 少しずつだけと着実に、美笑の中で何かが変わり始めているということ。

 自惚れかもしれないけれど、そのきっかけをあたしが作ってあげられたんじゃないかって、そう思った。

 人は誰しも孤独だと思う。

 塞ぎ込んで、抱え込んで、悩んで苦しんで……。そうして自分の殻を厚く、厚くしていく。そうして暗くなって、寂しくなって……。

 ふと顔を上げてみると、世界はこんなにも明るいんだって気づくこともある。でも、全ての人がそうであるとは限らない。

 その殻を自分で開けることが出来なくなってしまったら。

 殻の厚さがもう自分では壊せなくなってしまったら。もうその人は、閉じ込められてしまう?

 ううん、違う。きっとそれは、人の力でしか解き放てない。

 豪快にその殻を破って助け出してくれる人もいるかもしれない。優しくその殻を撫でて孵化するまで温めてくれる人もいるかもしれない。

 私は後者でありたいと思ってる。そうして手を伸ばして、手を伸ばしあって。関わりが生まれ、感情が生まれる。

 そして気づくの。殻なんて、無かったんだって――。

 それはあたしたち自身が生み出した幻想。そう思い込んでしまった具現。閉じこもった側が見えるものもあれば、接点をもった側から見えるものもある。

 いつの日か、それを払拭出来た時、人は笑い合える。

 それが、人の力。〝想い〟というもの。想いとは、相思相愛であり相手……互いの心を写すもの。だから生まれるんだ。絆も、愛情も、友情も。

 私は駆け寄る、最愛の妹の元へ……。

「美笑、ごめんね。学校では、お姉ちゃんじゃなくて先生って呼んで

くれるかな?」

「え……」

「あ、お姉ちゃんが嫌ってことじゃないの。あたしもついつい縁先生のことを先輩って言っちゃって怒られるんだけどね。学校ではやっぱりほら、先生と生徒だからさ」

「うん……」

「でも、二人きりの時はいいよ? だから今は大丈夫!」

「良かった……ごほ、こほんこほん!」

「美笑!? 大丈夫?」

「……こほん! ごほこほッ! ……はぁ、はぁ。うん、大丈夫。すぐ治まるから……」

 突然、美笑が強く咳き込む。何か喉につかえてとかっていう感じじゃなかった。

 あたしはあたふたしながら、美笑の背中をさするしかない。美笑は喘息か何かを持っているのだろうか? それとも何かの持病を?

 ……風邪の咳症状とは違うような気がする。詳しくは分からないけど……。

 しかし、今は聞ける状態ではなくしばらく背中をさすり続けるしかなかった。

「……奏恵、お姉ちゃんは、私の二人目のお姉ちゃんだから……」

「…うん。美笑はあたしの可愛い妹だよ」

「ありがとう……」

 少し落ち着いた頃、美笑はあたしに寄りかかってくる。肩の上下で美笑の息遣いが分かり、呼吸を整えているように見えた。

「美笑、ちょっと待っててもらえるかな。カモミール作ってくるから」

「…カモミール?」

「うん。カモミールにはリラックス効果があって、温かいのを飲むとすごく落ち着くんだよ。香りはリンゴみたいな甘い感じで……って、紅茶なんだけどね。すぐ作ってくるからちょっと待ってて」

 あたしは教室に美笑を残し、急ぎ職員室へと戻った。

 本当なら、美笑を職員室に連れて来てここで飲ませてあげるのが一番いいのかもしれないけど……美笑に無理させられないのもあるし、教室でティータイムっていうのも乙かもしれない。

 紅茶を持っていくことに目を瞑ってくれた先輩に感謝感謝だ。


 教室に戻ると、美笑は窓際で空を眺めていた。大分、回復したみたい。

 窓際の席にトレイを置き、同じように空を眺める。

「大丈夫? もう少し座っててもいいよ?」

「…うん、大丈夫。今日は約束の日だから」

「約束……?」

「今年は、32年ぶりにみずがめ座流星群が極大になるんです」

「そっかー。でも、今日は雲厚いみたいだね。午後から雨かもって天気予報で言ってたよ」

 約束って何だろう……? 誰かとしていたってことだよね、一体誰と……? 先約かぁ……。

「そんな時は、雲を見るのも楽しいです。あれが、ソフトクリームで……こっちはわた飴で」

 美笑は指を指してあれこれと説明してくれた。そんな甘いものをお茶請けに、二人でティータイムにすることにした。

 しばらくして新任初日に言っていた、学校案内をやろうという話になった。

 カモミールのお陰か、美笑の回復力の為か、すっかり身体の方は問題無いというので、二人で歩いてみようということになったのだ。

 しかし、美笑も案内しようにも限られた場所しか分からないらしい。中等部の中でも普段使う移動教室くらいで、使わない場所にはまず行かない。

 あたしとて高等部の校舎は行き来しているけど、未だに音楽室と図書室くらいしか把握できていない。 ……なんていうと、ゆかり先輩に怒られそう。

 結局、お互い説明出来るほど学校に慣れてないねってことで、小さな学校案内というよりは、お互いの知らない教室や廊下を散歩するみたいに見て回った。

 それから美笑の提案で、もっとあたしのピアノを聴きたいということで音楽室に移動することになった。

 音楽室なら高等部の校舎の方が良い。中等部の校舎にも音楽室はあるけれど、グランドピアノが置いてあるのは高等部の音楽室だけなのだ。

 たまにはオルガンや電子もいいけれど、やっぱりグランドピアノは格別だよね。

 音の響きも違うし、何より鍵盤の感触。重さや弾かれる強さはグランドならでわのものがある。

 それに知ってる? ピアノの弦の張力は1本あたり70~80kg重あって、全部で200本は超えるから、全弦を合計すると20トン重を超えるの!

 それに耐えうるワイヤーがすごいのなんのって。ひとえにピアノというけれどその構造は奥深く、それだけの力が使われていて初めてあの音色を出している。

 …そんな、あたしのピアノの知識を美笑に話すと、こくりこくりと相槌を打ってくれた。

 きっと、詩織さんに教えてもらってたことも含まれてると思う。それを懐かしむような、そんな様子だった。

「そういえば、あの〝beautiful smile〟って美笑にプレゼントってことで、詩織さんが作曲してくれたんだよね? 詩織さんはよく即興とかはしてくれたの?」

「それは――」

 数曲弾いたあたしは、ふと思いついて聞いてみる。

 詩織さんがいつ頃からピアノを始めていたのかは分からないけど、作曲したり即興をしたり、若くしてその才能は羨ましいと思った。

 本当に、天性のものだったのだと思う。

「私が小学生の頃、なかなか友達が出来なくて……。たまに話す子は何人かいたけど、放課後一緒に遊んだりとか、そういうのは無くて。時々、男の子にからかわれて泣いて帰ってくると、いつもピアノを聞かせてくれて……。『目を閉じて。嫌なこと考えないで、私のピアノを聞いて。何も言わなくていいから』って言って。そうすると、不思議と落ち着いたんです。泣きたい気持ちも、辛い気持ちも、すっと無くなって」

「……すごいなぁ。なんだか、魔法みたいだね」

「うん。弾いてくれる曲は、いつも違う曲でした。なんていう曲なの?って聞いたら、名前は無いよって。なので、多分即興だったんだと思います。お姉ちゃんのオリジナル曲。でも、私にはどんな曲も素敵で大好きでした」

「そっかー。その中に、beautiful smileもあったの?」

「…いいえ。それはもう少し後でした。私が9歳の誕生日の日……。誕生日プレゼントだよって言って、聞かせてくれたのがこの曲でした。詩織お姉ちゃん、すごく嬉しそうで。次のコンクールはこの曲を弾くんだって言って……。そして私に言いました。『どんな時も笑顔を忘れちゃダメだよ。辛いときはこの音を思い出してね』って。それで、録音して焼いたCDをくれました」

 なるほど……。おそらく、そのコンクールであたしは詩織さんのピアノを聴いたんだ。他の子たちが課題曲を弾く中で、一人だけ創作曲だったのを覚えてる。見事、中学の部で詩織さんは最優秀賞を受賞していたっけ。

 これを弾きたいと言った詩織さんもすごいけど、その曲をコンクールで発表させたいと思ってくれた先生方にも感謝だね。

「詩織さん……。素敵なお姉さんだね」

「うん……。でも……お姉ちゃんが居なくなって、寂しくなって。この曲を聞くたびに泣いてしまうんです。不思議です。昔は胸の奥が温かくなって落ち着いたのに……。今は、辛いことがあると聞くようにしてるんですけど、どうしても哀しくて……。これじゃあ、約束守れてないですよね……」

「美笑……。よーし、それじゃあお姉ちゃんがこのグランドピアノで弾いちゃうからね!」

「あ、うん……。奏恵お姉ちゃんのピアノも、私大好き」

 あたしは奏でる。もうこの曲は、心で覚えている。

 ピアノは弾くもの。音は奏でるもの。あたしの音色は今、きっと想いが宿っているはず。

 詩織さんが伝えたい曲。あたしが伝えたい曲。美笑が待っている曲。

 あたしが架け橋となって、紡ぐ音色。それがあたしのピアノなの……。

 美笑にとって詩織さんの存在は大きい、何よりも。だから、詩織さんの代わりにはなれないけれど、あたしが美笑を支えてあげるからね。

 お姉ちゃんが、傍にいるからね――。

「……本当に、素敵な曲。弾いてるあたしまで惹き込まれちゃう。詩織さん……すごいね」

「…………」

 ふと、背中に軽い感触。何かが触れる感じがした。

 すっと……、腰から腕が伸びあたしのお腹の前で交差する。ぎゅ――。

「美笑……?」

「――――」

 ぽたり。

 美笑に後ろから抱きしめられる。背中の感触は、美笑の頭……おでこ?

「ん? どうしたのー? 美笑は甘えん坊さんだなぁ」

「お姉ちゃん……」

 ぽたり。

 背中に染みる。……いや、そんなこと知覚出来るわけがない。でも、背中越しに何かが沁みるのを感じる。涙……?

「……泣いてるの?」

「やっぱり、どうしても、涙が止まりません……。でも、不思議なんです。胸がすごく温かいんです。こんなの、初めて……」

 美笑はあたしの背中におでこを当てながら、後ろからあたしを抱きしめて、泣いていた。

 この曲は美笑にとって、すごく大きいものだった。何かとてつもない力を秘めている。いや、それよりも……。声の感じが、おかしい……?

「嬉しくて、哀しくて。温かくて、辛くて……。目が熱い……涙が熱い……。涙が止まらない時はどうしたらいいの……? お姉ちゃん……」

「美笑……それは……」

「ごめんなさい。もう、これ以上は時間がないみたいです……。短い間だったけど、最後にお姉ちゃんと過ごせて嬉しかった……。ありがとう……」

 え……。時間……? 最後……?

 え? 美笑? どういう、こと……。

「最後まで笑えなくて、ごめんね……。でもすごく、嬉しかったんだよ。学校案内出来なくて、ごめんね。ピアノの演奏会、素敵だったよ。花火、一緒に見たかったな……。一緒にお風呂に入ったり、一緒の布団で寝たかったな……。もっと、たくさんしたいことあったんだよ。私の、二人目の……、お姉ちゃん……」

「美笑、聞い――」

「お姉ちゃん!」

 ぎゅっと、力が込められる。

「お願い。私が手を放しても、振り返らないで。私の足音が無くなるまで、そのままで……。奏恵お姉ちゃんのピアノを弾いてる後姿、目に焼き付けたいから……」

 すっと……。

 まるで、羽がふわりと舞い上がるように。あたしから放れる美笑。

 ……それは遠いあの日、幸枝がひと時だけ帰ってきたあの教室で。あたしを抱きしめてくれていた時、ふわりと消えた胡蝶の夢を彷彿とさせた。

 待って……。最後って、何? どういうことなの?

 もう会えないってことなの? どうして……。

 あたしは何か間違いを犯してしまったの? これから何かが始まろうとしていたんじゃなかったの?

 美笑の笑顔を取り戻す。あたしが美笑のお姉ちゃんになって、これから二人で笑い合えると思ってた。

 でも、時間が無いって……何の時間なの? それは、あたしでは解決出来ないことなの? 分かんない、分かんないよ!

 待って……美笑……。何も分からないままで、お別れなんて、そんなのできない!

 最後のその約束だけは、守れない……!


「っ…………」

 それは数秒か、それとも数分か。

 あたしが思考していたのが、どのくらいの時間だったか分からない。

 でも、美笑はまだ、そこにいた――。

「……お姉ちゃん、約束破っちゃダメだよ。私のこんな涙顔見せたくなかったのに……。でも、ありがとう……。そんなお姉ちゃんが、私は大好きだよ」

 その表情は、笑顔だった……。とても安らかで、頬に光る涙が綺麗で……。

 とても愛らしく、可愛らしく。恥ずかしさと嬉しさで頬を染めて、目を細めていた。

 それはきっと、美しい笑顔。それが、美笑の本当の……。


 せめて、笑ってくれたなら……。


 あたしの最初の願いが、今結ばれた。手を伸ばそうとして、声を出そうとして、あたしは停止した。

「さようなら、奏恵お姉ちゃん――」

 あたしの視界は滲み、やがて瞬きひとつ。

 涙が頬を伝い、雫を作る頃。美笑の姿はなくなっていた――。


 しばらくあたしは、音楽室を動けなかった。

 どうして……さよならって、何……。そればかりが頭をグルグルと回っていて、やがて思考停止した。

 耳に残るのは、美笑の「さようなら」という残響。

 ふと窓の外へ目を向けると、いつもどおりの梅雨空が広がっていた。まだ雨こそ落ちていないものの、雨が降りそうだな、そう思った。

 やっぱり星は見れそうにないかな……。美笑も先約があるみたいだし、もういっか……。

 突然すぎて、何がなんだか……。

 すると、コツンと手がポケットのふくらみにあたった。

「そっか……」

 あたしは美笑に、プレゼントを渡すことが出来なかったんだ……。放心状態が続いて、お昼のチャイムの音であたしは我に返った。

 職員室に戻ると、ゆかり先輩はいなかった。この気持ちは、どうすればいいのだろう……。

 悲しいのか、悔しいのか、混乱を通り越して自分の気持ちが分からなくなってしまった。

 ゆかり先輩もいないし、ちょっと疲れちゃった……。

 先輩が戻ってくるまで、少し目を閉じていようかな――。


 あたしは崩れるように、机に突っ伏した。

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