<TIPS2「あの舞台の上で」>
高校3年の春。3年に上がって少しした頃、あたしの人生は大きく動き出すことになる。
あれからあたしは演劇部に入部して、ミズキさんが作りたいという舞台を演劇部の人たちと共に作り上げた。
なんと私は準主演。お芝居未経験の私が、本当は役すらもらえないかもしれないと思っていたのに、ミズキさんの強力なプッシュによってアサインされてしまった。
この物語は、ある二人の女性の悲劇と友情を描いた物語だった。
二人は幼馴染で歌をうたうことが大好きだった。いずれは二人でデュエットとして歌うたいになることを夢見ている。
しかし、あたしの役であった女の子は家庭環境で悲劇が起こり、心因性による声を失う病気を患ってしまった。ちなみにだが、これによってあたしのセリフはこれ以降無いことになる。幸か不幸か、お芝居の経験者であれば難しい役どころと捉えるかもしれないが、逆に未経験のあたしにとっては話さなくてもいいことはありがたかった。
二人の夢は、二人で歌うことだったのでここで夢は潰えてしまうことになる。どんなに歌いたくても声が出ない。どうしてもトラウマはぬぐいきれるものではなかったからだ。
そうして、失声した彼女は親友に負い目を感じて距離を開けようとする。
しかし親友の女の子は、あたしの手を掴んで離そうとしなかった。いつかきっともう一度歌えるようになる。その時まで私は待っているからと……。
けれど、残念ながらこのお話は傷を癒し声が戻るという物語ではない。待てども待てども、あたしの声は戻ることなく時間が過ぎていく。卒業まで、あと1年。学校を卒業すれば進学か、就職かを選ばなければならない。3年生になれば当然、進路を決めて動き出さなければならないのだ。あたしがこんな状態ではオーディションを受けることも出来ない。
このままでは親友の才能さえ潰してしまう……。その焦燥がさらにあたしの心にストレスを与えていく。
この時のあたしは気づいていなかった。あたしの失声は、トラウマと一緒に彼女との約束を果たせないことへの負い目、その二つの悲しき心が膨らんでしまったからこそ治らなかったのだ。
だからあたしは、声なき言葉で告げる決意をした……。
あなたを裏切ることになってしまってごめんなさい。あたしの夢はもう、諦める。あなたの声はきっと誰かに届くから、あなただけは……歌い続けて欲しい……。
彼女は泣いた。泣いてくれた。それは悔しかったからだけじゃない、あたしたちは小さいころから夢見ていた。満員のホールで二人、舞台の上でライトを浴びて歌を歌うことを。
それはあたしも彼女も同じくらい強く信じて願っていた。だからその夢を諦めざるを得なくなってしまったあたしの為に泣いてくれた。
「辛かったよね……。ずっと夢だったんだもんね……。こんなの……哀しすぎるよね……」
この時の主演の彼女の涙は、本物だった。
あたしを抱きしめながら、肩越しに震える声を聴いているとあたしまで胸が苦しくなって、強く彼女を抱きしめていた。
それから舞台は暗転し、音もなく彼女はあたしの腕から消えていく。
舞台に取り残されたのは、あたし一人だけ。彼女が落とした雫さえ、あたしの心に沁み込んでいく。終わったんだ……。あたしの夢は、ここで……。
スポットライトが照らす中、あたしは静かに泣いた。本当は悔しくて悔しくて、声を上げて泣きたかった。
でも当然声は出ない。まるで、あの日の教室で幸枝を抱きしめて泣いていた私の様に、消えた夢を胸に抱いてただただ涙を流していた。
静まり返った会場は、あたしの掠れた嗚咽と舞台に落ちた涙の音が聞こえたような気がした。
しかし、物語はここで終わらなかった。
親友の彼女は、それでもあたしを夢の舞台に立たせることを諦めていなかったのだ。
「私はまだ、あなたと一緒にいたい。絶対に、連れて行くから。だから……ピアノを弾いて欲しいの」
そうしてあたしは彼女の歌に伴奏を付けるという立ち位置に代わった。声は出せなくとも、耳は聞こえる、手は動かせる。これで彼女の一番近くで、夢を見られるかもしれない。
その日からあたしはピアノ教室に通い技術を身に着け、彼女はボイストレーニングを続けた。
目標は、11月にある学園祭のライブ。実質半年しか時間はない。でももう迷いは無かった。成すべきことがはっきりして、霧で覆われていた視界が開けていくようだった。
あとはまっすぐこの道を走っていけばいい、彼女と一緒に――。
意外にも、あたしという役はどうやらピアノ演奏に対する天賦の才があったようだ。メキメキと実力をつけて、半年という短い間で作曲出来るまでになっていた。
ライブで歌う曲は、二人のオリジナル曲が良い。私はメロディを、彼女が歌詞を考えて制作することにした。
制作は楽しかった。これまでカバー曲を弾いている時には感じなかった、ワクワクという気持ち。もちろん有名な曲、好きな曲を弾けるようになったときは嬉しかった。
でもこの曲はあたしと彼女が作った世界に一つだけの唄。それはもう、恋のようだった。メロディのことばかり考えていて、彼女の歌声をのせて聞く毎日が幸せだった。
あたしの頭の中はオリジナル曲のことで一杯だったのだ。
セロトニンも、オキシトシンも、ドーパミンも全ての幸せホルモンがあたしの脳と身体に染み渡っていく感覚だった。
迎えた学園祭当日。不思議と緊張は無かった。あたしたちにとっては、新しい夢の最初の1歩なのだ。
この日を笑顔で迎えられたことが奇跡的。あの絶望の日々を今でも忘れていない。だからこそ、彼女があたしの手を引いてピアノを弾いて欲しいと言ってくれたのが嬉しかった。
その恩は一生忘れない。さぁ行こう、美希!
……そしてライブは大成功に終わった。
涙してくれる子たちもいた。あたしたちは笑顔で人生最初の演奏を終えることが出来た。数分間という短い時間だったけれど、あたしたちにとっては半年の軌跡。
あの日流した涙も、あの日手を引いてくれた温かさも、信じ続けてくれた親愛なる親友と捧げる奏鳴曲。とても幸せだった。
それからあたしたちは同じ音楽大学へと進学を決めたんだ。クライマックスはとても華やかなものだったのを覚えてる。
問題はエンディングのシーン。本来であれば、卒業式の後二人きりで話し合い、最後は、背中越しに声の出ないあたしが口パクでお礼を言って、それに気づいた彼女が振り返り。
「ううん、私こそ。これからもよろしくね!」
と言って手を握って、あの日のように手を引いて二人で手を繋いで舞台袖へ消えていく……終幕。
となるはずだった。しかし、あたしは最後の最後でミスをしてしまう。ここまでのお芝居はよく出来ていたのに、声を出してしまったのだ。
「……ありがとう、美希!」
咄嗟にあたしは両手で口を押さえた。しかし彼女は、驚いて振り返ると、目を細めて涙を滲ませた。
凍り付いたのはあたしの時間だけで、美希も、会場の息を飲む声も全ては穏やかな反応だった。その時少し離れた場所にいた彼女は駆け寄ってきて、あたしが倒れそうになるくらいの勢いで抱きついてきた。
どうやらそれは、観客の安堵を誘ったようだった。照明が暗転し、エンディングテーマが流れ出した。
彼女のお芝居の機転と、照明さんや音響さんの良い判断でミスをカバーしてくれたお陰だ。暗闇の中で、あたしは彼女に謝った。
「……最後の最後に……ごめんなさい」
「謝らないで。すごく素敵だったよ」
「……ありがとう」
そう囁き合って、あたしは彼女の背中に手をまわした。
拍手喝采で幕が下りた。あとでミズキさんも「大丈夫! 自然な演技だった。君を選んで正解だったよ!」と褒めてくれたのでホッと胸を撫でおろすことが出来た。
そんなこんなで、あたしの人生初の舞台は終了した。
ミズキさんも教育実習期間が終了し、大学へと戻る。その際、こんなことを聞かれた。
「そういえば君は、ピアノを弾いたことはあったのかい?」
当然ながら、弾いたことはなかった。両親にくっ付いて、お芝居を見に行ったり音楽会を聞きに行ったりすることはあったけれど、実際に自分で弾くなんてことは保育園で鍵盤ハーモニカを吹いた覚えがあるくらいだ。
だから残念ながら、あたしの役のゆりちゃんみたいには弾けないと思う。
「そうか。実は僕の友人にもピアノを弾ける子がいるんだが、なかなかどうして弾きたがらないんだ。素質は十分なんだけどね。ひょっとしたら君も、いざピアノを始めてみたら天才的な素質を持っているかもしれないよ?」
なんてことを言われたけれど、どうだろうか……。
音楽はよく聞く方だとは思うし、ピアノの音色も好きではある。でも確かに弾いてみたいと思ったことは無かったかもしれない。
もし機会があれば、触ってみるのもいいかな……。この時はまだそんな風に思っていた。
それから一学期の期末テストも終わり、両親がピアノのコンクールを聞きに行くというので一緒についていくことにした。
今にして思えば、すべては繋がっていたのかもしれない。あたしがあの役をやるということも、ピアノに興味を持つということも、そして……詩織さんのピアノを聴くということも……。
そのピアノコンクールは、地域のピアノ教室で練習している人たちが参加できるものだった。小学生の部、中学生の部、高校生の部、大人の部。
この4つのジャンルで分けられ、それぞれに演奏をするというものだった。小学生の部が終わり、中学生の部に移る。
中学生もエントリーしている子たちも10人前後。課題曲を弾いていく中で、一人だけ自由曲を弾く女の子がいた。
名前は、石川詩織さん。曲名「beautiful smile」
アナウンスで登壇する女の子は、グレーを基調とした白い水玉模様をあしらうワンピースを着ていた。首もとの白い襟と、スカートの裾から覗く白いヒラヒラのレースがアクセントになっていて、胸元に大きな黒いリボンがついた可愛い洋服だった。
彼女は慣れた様子で椅子を引き、足の長さとペダルの位置を調整するようにして椅子に座った。楽譜は無かった。
唐突に、トン、トン、トン……。と同じ音を3回鳴らす彼女。それは何かを確かめているようでもあり、ピアノに挨拶しているようにも見えた。
3回目の音が残響して消えていく頃には、会場全体が息をひそめたように静まり返っていた。
一度姿勢を直してから、微笑み一つ。もうあたしは、彼女の持つ不思議な雰囲気の虜になっていた。
そして、迷いなく弾き始めた彼女。その一音一音が、楽しそうに跳ねてみたり、カーテンが滑らかになびくように繋がったり……音がどこか嬉しそうに奏でられていると思った。
彼女の表情は微笑みをたたえ、目を閉じている。そう、詩織さんは楽譜どころか鍵盤すら見ていなかったのだ。
いや、ひょっとしたら所々位置の確認とかで見ているのかもしれないけれど、ほとんど弾いているというよりは聴いているような印象を受けた。
それが初めて詩織さんの演奏を聴いたときの衝撃だったのだ。
あたしも、あんな風に弾いてみたい……。もちろん曲自体も素敵なものだった。自由曲なので、詩織さんのオリジナル曲なのだ。
なんて、心温まる演奏なのだろう……。ピアノって魔法なのかもしれない。彼女の弾くピアノは他のどの演奏よりも、耳に心地よく、そして美しかった。
だからもう、これしかないと思った。私の歩きたい道。
拍手喝采のホールで、お母さんの手を握って告げた。
「……お母さん、あたしピアノを習いたい」
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