奏恵編 2日目
「昨夜はお楽しみだったみたいですね」
ゴールデンウィーク2日目。
清々しいとは言い難い空模様の朝、ベートーヴェンの「運命」の弾き始めのようなトーンで私は先輩にジト目を送った。
昨日の出来事――あれからゆかり先輩は、卒業生の子たちと飲みに行った。
もちろん、しっかり残務を終わらせてからだったのと、夕方あたしにもう今日は帰っていいと言いに来てくれるところはキッチリしていてさすがだと思ったけど……。
「あたしも先輩とお酒飲みに行きたかった―!」
「そうはいっても、同窓会みたいなものなんだから仕方ないじゃない?」
確かにあたしは、ゆかり先輩の初担任のクラスメイトでもなければ彼らと面識があったわけじゃない。
そんなところへあたしがお邪魔しても、文字通りお邪魔なのは分かってる。
「でもでも! あたしも将来的には担任のクラスを持つかもしれませんし? 卒業生といえど、ゆかり先輩の教え子たちですから当時のお話とか色々聞きたかったなぁ」
「あ、でも奏恵のことも話してたわよ。当時はまだ女性の音楽担当の先生がいらっしゃらなかったから、あの子たちも奏恵みたいなピアノが弾ける先生が良かったって言ってたよ」
「ホントですか! やっぱり音楽の先生はあたしみたいな女性が良いですよねー。保健室の先生的な? 家庭科の料理上手な先生的な? あぁ、あたしは生徒たちのマドンナになる!」
「クラスのマドンナみたいな? 確かに奏恵の容姿なら、他に音楽の先生が男性だけだったら生徒たちの人気は出そうよね」
「やっぱり! この学校に赴任出来て良かったー!」
あたしは演奏が終わった後のカーテンコールに応えるように、両手を挙げて歓喜する。
「はい誤用ね。この場合は着任が正解。それにしても、子供たちはよく昔のことを覚えてたわ。といっても3年なんだけど……。当時の授業のことだったり、私がまだ右往左往してテンパったりしたことだったり、よくまぁ楽し気に話すのよねー。懐かしかったなぁ」
「ダカーポ!」
曰く、最初に戻る……。
天井に視線を向けて、懐かしさに浸る先輩は本当に楽しい一夜を過ごしたのだろう。今朝は職員室で会ってからずっとこの調子だった。
あたしにはまだ、肴に酔えるほど思い出のブランデーは無いけれど、いつかこの教師生活がゆかり先輩との思い出になってくれたらいいな……。
まだ余韻に浸りたいであろう先輩に、あたしは爽やかな香り立つレディ・グレイを淹れてあげた。
「美笑ちゃん、今日は来ないのかなぁ……」
昨日、美笑ちゃんを祭りに誘ったけれどさらっと流されてしまった。
あたしも強要は出来ないので、美笑ちゃんが乗り気でないのなら諦めようと思う。
その確認だけしたかったのだけど、学校で会えなければ仕方が無い。わざわざ家まで押しかけて聞く事も出来ないし、ましてや勤務中。
さすがに、ゆかり先輩もそれは許してくれないだろう。思えば、美笑ちゃんは祭りという単語に不思議な受け取り方をした。
まるで、お祭りがどういうところか分からないという風に。ひょっとして、お祭りに行ったことがないのかもしれない……。
それならそれで、あたしが初めてのお祭り案内人になろう。きっとお祭りの楽しさを分かってくれるはず。ゲームから食べ物まで、奏恵プランでご招待しちゃうんだから!
そんなあたしの妄想とは裏腹に、一向に美笑ちゃんは学校にやってこない。休憩中にちょっと校庭を見に行ったが、やっぱりまだ居なかった。
「まだ午前中だし、美笑ちゃんにも都合があるのかもしれないね。仕方ないよ」
そこでゆかり先輩は作業の手を休め、あたしに振り返る。
「ところで奏恵。昨日音楽室に居たとき、変な感じしなかった?」
「変な感じ、ですか? いえ、あたしは気持ちよく弾いてましたよ」
「そう……。なんかね、誰かからじっと見られてる気がして……」
「だ、誰かって……。今休み中ですし、部活の先生たち……とか?」
「ほら、音楽室って多いじゃない? 怪談みたいの。肖像画とか色々……」
「え……。やめてくださいよ、あたしそういうの苦手だって知ってるじゃないですか……」
「奏恵は鍵盤を見てたから気づかなかったかもしれないけど、ひょっとしたらあれは、私じゃなくて、奏恵を見てたんじゃないかって……」
「や、やだなぁそんなわけ……。なんか急に悪寒が……」
「知ってる? 今噂になってる新しい音楽室の怪談。それはね……」
「ひぃー! やめてくださいよー! 聞きたくないです!音楽室はあたしの聖域なんです、怪談も妖怪もいませーん!」
「うふふ、あはは。ごめんなさい、冗談よ」
「……へ?」
「奏恵があんまりにも、美笑ちゃん美笑ちゃん言うものだから。私が目の前にいるのに……」
「あ、いえそれは……。えっと……?」
「ほら、噂をすれば何とやら。ポールの所に物憂げな美人が座ってるよ? 奏恵の待ち焦がれた人じゃないの?」
「え!? あ、えと……美笑ちゃんはそういうのじゃないですからね!? あたしが好きなのは、ゆかり先輩だけですからね! 誤解しないでくださいよー!?」
あたしは二人を交互に見ながら弁解をする。足はもう職員室の出口へと向かっていた。
「はいはい。行ってらっしゃい」
小悪魔なゆかり先輩の笑勝ちな様子に、あたしはアセアセしながら職員室を後にする。
なんだろう、伴奏と主旋律が噛み合わない感じ。足並みが揃うまで走らせるしか無いんだけど……。
ゆかり先輩はいつも優しくて綺麗で、なんて月並みだけど、こういう小悪魔的ないじわるをするときもある。
それは嫉妬か好意の裏返しか、先輩のにこやかな笑顔からは想像出来ない。
でもあたしにとってそれは、斜に捉える理由は一つもない。それも含めてあたしはゆかり先輩が好きなのだ。ちょっとだけ、嬉しいんだからね!
「美ぃ笑ちゃん」
「……先生」
美笑ちゃんは今日も沈鬱な表情だった。
せめて、笑ってくれたなら……あたしがもっと楽しませてあげたい。美笑ちゃんは笑ったら可愛いに違いないんだから。
「どうしたの? ほら、笑顔笑顔♪」
あたしは少しオーバーに、笑顔を作って〝にっ〟と、してみた。
この奏恵さんのスペシャルスマイルで、美笑ちゃんもイチロコ!さぁ、一緒に笑おう!
……と、意気込んだのはあたしだけで、美笑ちゃんはあたしを見上げるばかりで頬を緩めることはなかった。
「あの……えっと……」
次第に目尻に涙が溜まり始め、目が細められていく。
その様子をずっと、あたしは見ていた。美笑ちゃんもずっとあたしを見ていた。
あたしたちは見つめあったまま、だけれども美笑ちゃんは込み上げる感情を涙に変えて、とうとう両手で顔を押さえてしまった。
「ど、どうしたの!? ごめんね、ごめんね!? あたし、何か嫌なこと言っちゃった!?」
「いえ……違うんです。私、笑い方、分からないんです……。忘れちゃったんです……。ごめんなさい、ごめんなさい……」
「み、美笑ちゃん……」
あたしは自分がしたことが、ひどく彼女を追い詰めていたことを知った。笑顔、それは人の表情の一つ。それは、感情表現のごくごく自然な表現。
いやもっと、それ以上に笑顔は多くのことを伝え、多くの意味を持つ。
それを、忘れてしまったら……。きっかけは、美笑ちゃんのとりまく環境を考えれば一目瞭然だった。
いや、きっかけは今ではもう、きっかけでしかない。
その理由も、意味も、あたしは理解しなくちゃいけない。今はもう、美笑ちゃんの笑顔は喪われてしまっている。
それを取り戻すのは容易なことではないかもしれない。忘れたことを、思い出すのってどうすればいいの……?
「ごめん、ごめんね……」
あたしは自然と、美笑ちゃんを抱きしめていた。……気がつけば、あたしも涙していた。
幸枝は涙を、美笑ちゃんは笑顔を……無くしてしまっていた……。
あたしは今、涙を流せる。笑顔を咲かせる。でも……何も与えられない……。
私は、どうしようもなく何も出来ないの……?
「……先生。奏恵先生? 泣いてる、の?」
「うん……。ごめんね。あたしが美笑ちゃんを傷つけてたね。無理言って、ごめんね?」
「いえ……いいえ。私、全然そんなこと、思ってないです。嬉しかったです。あたしのほうこそ、取り乱してごめんなさい……」
「……」
美笑ちゃんは私の腕の中で、ちょこんと顔を上げてあたしを見る。
「……ねがてぃぶ、ぐっばい」
「…え?」
「ネガティブグッバイ。奏恵先生。……嬉しいです。こうしてくれたの、先生が二人目です」
「……二人目?」
「はい。お姉ちゃんも、してくれました。お姉ちゃんの匂いがします……。でもちょっと、いたひ……」
「あ、ごめんね。力入れ過ぎちゃったね」
「…いえ。お姉ちゃんもそうでした。ありがとう、ございます。……ネックレスも可愛い、ですね……」
そう言って、美笑ちゃんはあたしの胸に顔をうずめた。背中に手を回し、あたしたちは抱きしめ合う形になる。
ちょっと、恥ずかしいけど……あたしはこの儚さを手放しちゃいけない、そう思った。あたしは、取り戻すことが出来るだろうか。この子の、笑顔を……。
離さない。目を逸らさない。それだけが、笑顔に繋がると信じてる。
目の前にあるものを、見るだけじゃダメ。しっかり伝えていこう。
それがあの日の決別。あたしの決意、ネガティブグッバイ――。
「ネガティブグッバイ。ありがとう、美笑ちゃん」
「……はい。あ、あと……お祭りは、ごめんなさい。行ったことがなくて……お金もあんまり持ってなくて」
「あ、そっか。でも、お金のことなら気にしなくていいよ。初めてでも色々案内して上げられると思うよ?」
「……そうですか。でも……」
あまり乗り気ではないみたい。気を使ってくれているんだと思う。気が乗らないではなく、申し訳ないという表情だった。
だから、あたしはそれを汲み取って美笑ちゃんの気持ちを尊重することにした。
「うん、そうだね。お祭りは毎年あるから大丈夫だよ。ふふふ、そしたらさ、美笑ちゃん。あたしとデートしようよ!」
「で、デート……ですか?」
「うん! っていっても遠くに行くってわけじゃなくて、これから音楽室に行こう? 奏恵主催! ピアノコンクールに美笑ちゃんをご招待!」
「わぁ……先生、ピアノ弾けるんですか?」
「まっかせて! 入場料は無料、特等席に美笑ちゃんだけ! 飲み物とお菓子も付けちゃう! って、モノで釣る訳じゃないんだけどさ。美笑ちゃんはピアノ好き?」
美笑ちゃんは、こくんこくんと首を縦に2回振った。心なしか表情が明るくなってきた気がする。
「よっし、決まり! それじゃあちょっと待っててね。ゆかりせんぱ……じゃなかった。縁先生に事情話してくるから」
「……あ、先生」
駆け出そうとするあたしの袖を、美笑ちゃんが引っ張る。
「ん? どうしたの?」
「えっと、その……」
「うん、言ってごらん?」
「わ、私の為に、色々ありがとうございます。奏恵先生も忙しいのに……」
「ううん、そんなこと美笑ちゃんは気にしないで? あたしが美笑ちゃんにピアノを聞いて欲しいの。美笑ちゃんは私が招待したいお客さんだもん。でも、無理にとは言わないよ? どうする?」
「行きます。聴きたいです」
「そっか、良かった良かった。それじゃあ、ちょっと待っててね!」
あたしは美笑ちゃんの頭を数回撫でて、その場を後にした。
職員室のゆかり先輩に事情を話すと、先輩は快く承諾してくれた。
一旦、午前中は美笑ちゃんの傍にいることにしよう。
早く美笑ちゃんの顔が見たくて、私は急ぎ音楽室の準備に向かうのだった……。
二人で歩く廊下は新鮮だった。いつもはゆかり先輩と歩く道も、美笑ちゃんと一緒だと雰囲気が違って見えるのだ。
あたしは饒舌に紅茶の講釈を交えながら一緒に歩いている。
まぁ、殆ど話しているのはあたしだけど、美笑ちゃんもちゃんと相槌を打ってくれるし、傍から見れば姉妹のように見えるかもしれない。
うん、妹が居たらきっとこんな感じなのかな。
こんなに可愛い妹だったら、あたしが依存しちゃうかもしれない。物静かだけど、あたしの声を聞いてくれる、それが嬉しかった。
いつもはこの広い校舎も、今だけはゆっくり話す時間が出来て良かったなと思えたのだった。
「皆さん、こんにちは! 桜奏恵です。本日はあたしの演奏会にご来場くださいましてありがとうございます。今宵は美しい青い月。ブルームーンの下で、ピアノの音色をどうぞお楽しみ下さい」
あたしは仰々しく挨拶をする。まるで、舞台女優さながらの身振りを加えて。
美笑ちゃんはあたしを見つめながら、小さな拍手をしてくれた。初めて見るものに、ドキドキする気持ちはよく分かる。
それが美笑ちゃんの表情から見てとれて、くすぐったいくらいに嬉しかった。
二人きりの演奏会。
カーテンコールは無いけれど、あたしは今、舞台の上で咲き煌めいている。
あたしは伝え人。贈る相手はもちろん美笑ちゃん。今この時が美笑ちゃんにとって、有意義な時間であって欲しい。純粋にそう思った。
「あたしとピアノの出会いはずっとずっと幼い頃。子守唄のように聞いていた音色です。両親がピアノを聞くのが好きだったこともあってピアノの演奏会がある時は、ことあるごとに一緒に連れて行ってもらいました。当時はまだ、ピアノに強く関心を持っていなかったあたしでもその音色は、胸に響くものがありました。そうして幼少時代を過ごし、歳を重ね、物心が付いた頃、あたしは衝撃的な出会いをしました。あれは忘れもしない、高校3年生の夏。3年生に上がって少し後の夏休みでした。当時の私は恥ずかしながら、将来の夢も決まっていませんでしたが、その衝撃的なピアノと出会い、音楽の道を志すに至りました。あの時の音色は今でも忘れません。例えるなら、広い大空に煌めく爽やかさと、広い海を青々と染める深さ。それがクラシックでもなくメジャー曲でもなく、創作曲だったのですから、さらに衝撃でした。あぁ、あたしはもう一度聞きたい。あの音色を。その曲にもう一度出会うまで、あたしはピアノを弾き続けるでしょう。あの曲には遠く及ばないけれど、今夜あたしのピアノを、どうかお楽しみください」
黙礼をしてから、あたしはスタンバイする。この静けさは、なんと形容すれば伝わるだろう。
ピアノを演奏する瞬間、第1音が発せられるまでの時間。それは演者の呼吸であったり、観客の期待であったり、コンサートホールの空間はこれから始まるだろう世界を受け入れる。
それはプロローグ。物語の始まり。
まるで、本を開いたときのような音の世界への誘い。その1ページ目を開くのは、あたし。桜奏恵が紡ぐ物語。
「…………」
美笑ちゃんが息を呑むのが分かる。あたしはそれを耳で受け止め、物語を開始した……。
あたしの物語は、後悔から始まった。
高校の頃、あたしは大きな過ちを犯し自らを戒めた。今でも、なぜあの時あたしは目を背けてしまったのかと、後悔に押し潰されそうになる。
見ているだけで、何もしなかった私。
助けを求められても、何もしなかった私。
彼女の涙が枯れてしまったことを知った時、私はなんてことをしてしまったのだろうと気がづいた。
涙が枯れてしまうなんて思いもしなかった。そのうち終わるだろうと思ってしまった。自分勝手に、自分の都合で、他力本願の極み。
涙が枯れてしまった後、それが終焉を迎えたのは、彼女自身の生の幕を下ろすという終止符だった。
最悪の……結果だった。私は涙した。自分の行いひどく呪った。命とは、力強く輝くものだと思ってた。しかし、儚く脆いものだった。
命が背中を見せることはない。生きて、最後の瞬間まで命たろうと輝く。
もしも背中を見せることがあったなら、それは光を失った時、涙を失った時。輝きを失った命を見て人は思い知る……。
なんて儚く、脆いものだったのだろうと。
それが悲しいことだったとは思いたくない。〝心非ず〟なんて、それこそ悲し過ぎるから。
だから、優しさが生まれ、気遣いが生まれ、思いやりが育まれる。
そして学んでいく……。私には何が出来たのか。私に出来ることがきっとあったはず。死は悲しむべきではなく、悼むこと。哀悼を捧げ、十字架を背負うことを決めるのだ。
あたしは悔やむ、あの時の自分を。だからこそ今、背中に十字架を刻んでいる。
でも十字架は枷ではない、決意なのだ。もしも語ることがあったなら、あたしは伝えよう。今度こそ、同じことを繰り返さぬよう伝えていこう。生涯を賭して……。
それがこの曲、ネガティブグッバイ。あたしのオリジナル曲の一つだった。
「…………」
演奏の幕間。数曲をメドレーで弾き終わり、MCでも入れようと美笑ちゃんの方を向くと……。
「ありがとうございました。これがあたしの……あ、あれ? 美笑ちゃん?」
「……あ。はい」
美笑ちゃんは軽く放心状態というか、ぽかんとしていた。うっすらと涙を浮かべているのを、自分でも気が付かなかったようだ。
「なんだか、すごく懐かしくて。でも……優しくて。お姉ちゃんのピアノにそっくりで。えっと……」
片目を擦りながら、感想を言おうとしてくれてるのがとても可愛らしくて、嬉しくて。
こんなにもあたしのピアノで感動してくれたのが純粋に嬉しかった。あたしまでもらっちゃいそうなくらい。
「すごく、懐かしい気がしました。なんというか、とても嬉しかったです。……あ、もし良かったら奏恵先生。この曲聴いてくれませんか?」
すると美笑ちゃんは、ハンドバッグからウォークマンを取り出した。
そういえば、校庭にいる時はイヤフォンしていたっけ。いつも持ち歩いているのかもしれない。
「うん。さぁて、どんな曲かなー?」
あたしはワクワクしながらイヤフォンを耳に当てる。
しかしそれは、一瞬にして衝撃に変わった。
「……っ。この曲って――」
「…はい。お姉ちゃんが私の為に創ってくれた曲なんです。曲名は〝beautiful smile〟って言います。ピアノの演奏会でも、弾いたことあるんですよ」
「……あたし、この曲……知ってる……」
「……え……?」
あたしは信じられないといった表情をしていたと思う。美笑ちゃんも大きな目をこちらに向けて、驚きの表情を向けていた。
聞き間違えるはずがない。うん、確かにこの曲だった!
所々、断片で覚えていた旋律。どうしても思い出せないところがあって、耳コピには至らなかった曲だった。当時まだピアノが弾けるレベルではなく、月日が経って、耳コピも出来るようになった頃には、思い出しながら採譜するには限界があった。
でも、電気的に記憶が繋がる。
あたしが衝撃を受けた素晴らしいピアノは、音楽にそしてピアノに惚れ込んだきっかけをくれた音色は、確かにこの曲だった!
でも、待って……。
この曲は美笑ちゃんのお姉さんの曲……? 確か、演奏会で聞いたときの演奏者さんは、石川……詩織さん、だったはず。けど美笑ちゃんの苗字は、結城さんだったはず……。
「……はい、お姉ちゃんの名前は詩織です。えっと、私の親は、離婚しちゃってて……。私、昔の苗字は石川なんです。石川美笑……」
「っ――。……そっか。やっぱり、そうなんだ……」
こんなことって、あるの……。あたしが焦がれた音色が、ここにあった……。
でもそれは同時に、永遠に再会の叶わない演奏でもあった。この曲の奏者、石川詩織さんはもう、この世にはいないのだから……。同じ曲を、違う奏者が弾いたなら別の曲になるのはみんな知ってる。なぜなら、奏者とは込める想いが皆違うのだ。
詩織さんが弾くピアノと、あたしの弾くピアノが違うのと同じように。
ましてこの曲は、詩織さんが美笑ちゃんの為に贈ったピアノ。詩織さんが込める想いに勝るものは、もうこの世には、存在しない――。
「……奏恵、先生?」
「…………」
永遠に再会が叶わないと知った絶望と。
それでもまた耳にすることが出来た幸運と。
あたしは気持ちは揺らぐ。哀しさに浸りたいのか、もう一度聞けたことを幸いとするか……。
……あたしは………。
もう一度訪れた幸運を、享受した。
ネガティブグッバイ。最高の贈り物をありがとう、詩織さん。
……うん、そうだよね幸枝。これはあたしに訪れた幸運で、美笑ちゃんの為に贈られるものなんだよね。そして今はもう、あたしにしか出来ない事なんだよね。
あたしは奏恵。あたしは奏者。誰かの想いを繋ぐ人。
でも、それでも……あたしにも伝えたい想いがある。〝奏〟は融和の意味も持つのだから……。
「美笑ちゃん、目、閉じててくれるかな?」
「え? はい……」
「良い子……」
あたしは2、3回美笑ちゃんの頭を撫でてから、ピアノの前に座る。
目を閉じて、あたしは世界を再構築する。旋律が身体を駆け巡る。あたしは、弾く決意をする。
詩織さんの込めた気持ち、すごいなぁ……。あたしのスペシャルスマイルなんて、全然だったね……。beautiful smile、美しい笑顔、美笑かぁ……。
あの日の感動をもう一度。あの日の後ろ姿をもう一度。
詩織さんの背中はとても美しく、ホールを一体として空間が咲き煌めいていた。そして横顔は、とても幸せそうだった……。
あたしの指が、鍵盤に触れる。
その瞬間、あたしの腕は詩織さんが動かしているかのように軽やかに。自然と、動き出したのだった……。
「お姉ちゃん……詩織お姉ちゃん……」
弾き終わった時、目を閉じたままの美笑ちゃんは涙を流していた。その涙の量は、愛しさの証。その涙の大きさは想いの大きさ。
涙を零しながら、お姉ちゃんと何度も呼びかけていた。
あたしは、それに応える。それが、あたしに今出来ること。
「……美笑。もう泣かないで」
「お姉、ちゃん……?」
「ごめんね。家に帰れなくて……。背、伸びたね」
「ううん。ごめん、ごめんね…。私があの日、アイス買ってきて
って言ったから違う道、通らなきゃいけなかったんだよね、だから……」
「……それは違うよ、美笑。あの日は雨上がりだったから路面が濡れてた。運転手さんも悪くない。誰も悪くないよ。もちろん、美笑が自分を責めることなんて、ないんだよ?」
「でも…でも……」
「美笑、目開けていいよ」
目を開く瞬間、あたしは美笑をぎゅうっと抱きしめた。一番伝えたかったことを伝えるために。
「あたしはここにいるよ。ずっと、ずーっと。これからも、美笑と一緒にいるから。約束する。だから、もう泣かないで? 悲しまないで?」
「おね……」
「うん、美笑は笑ったら誰よりも可愛いんだから。あたしの大切な妹……」
「…ぷはっ。ちょっと、いたひ……」
「あ、あぁ! ごめんね! 大丈夫?」
「はい、大丈夫です。嬉しいです、すごく…すごく…。ありがとうございます」
すると、美笑はあたしの背中に腕を回してぎゅっと抱きしめてくる。
その安らかな表情は、薄らと笑っているようにも見えた。
それはすぐに、あたしの胸にうずめられて見えなくなってしまったけど、あたしの気持ちが伝わったのだと実感出来た瞬間だった。
美笑にはまだまだ、支えが必要なんだ。それを環境が突き放してしまった。
子供の時代は子供でいることが大切だと思う。早く大人になる必要なんて無い。精神的に早熟なのと、早く子供を卒業させられるのとは意味が違う。
大人になったら甘えさせてくれる人なんてほとんど居ないんだから……。あたしは、ゆかり先輩が居てくれることが幸せなんだけどね。
美笑も、環境が彼女を悪い意味で背中を押してしまったから追い詰められてしまっている。まだまだ甘えたい年頃だというのに……。
あたしが、お姉さんの代わり…かぁ……。ゆかり先輩の言葉がよぎる。詩織さんの代わりが、あたしに出来るかな……。
そうしてあたしたちは、お互いの温もりを確認し合った。
「奏恵、お姉ちゃん……」
「え……?」
「ダメ、ですか?」
「あ、ううん。そう言ってくれるとあたしも嬉しいかな」
「良かった……。お姉ちゃん、約束守ってくれた……」
「約束?」
「うん。また何か辛いことがあったら、この曲を弾いてあげるからって」
「…そっか。また来年も、再来年も……これからずーっと、美笑が聴きたい時はいつでも弾いてあげるからね」
「っ…………。うん…」
あたしたちの手は自然と重ねられた。
寄り添いながら座って、グランドピアノの後ろ姿を眺めているとまるで詩織さんの後ろ姿が見えてくるようだった。
幸枝にも、今のあたしのピアノ聴いてほしかったな……。
いつかそんな日があれば、素敵かな……。たまには会いに来てね、あの日みたいにさ。あたし、待ってるから……。
旋律の余韻が鳴りやむ頃、肩に寄りかかっていた美笑の頭に気付き、いつの間にか安心しきった表情を見せている。
安らかな表情。心休まる場所でなければ、人は安心して目を閉じれない。美笑は、初めて聴いた私の演奏会で心地よさそうに耳を傾けてくれた。
それはこの場所が、美笑にとって心の置ける場所になったということ。今、美笑の心は安らかであって欲しい。それが今の、あたしの願い。
姉のあたしはゆっくりと立ち上がると、もう一度ピアノの前に座った。
「美笑、何か弾いてほしい曲ある?」
「えっと……お姉ちゃんが弾ける曲全部聴きたいな」
「欲しがりさんめぇ! いいよ! 奏恵のスペシャルメドレー行きます!」
あたしたちはお昼のチャイムが鳴るまで、ひたすら弾いては話し、弾いては
話し……。
静かでゆっくりとした時間を過ごすことが出来た。午後からはまた仕事に戻らないといけない。
名残惜しいけれど、あたしの演奏会は閉幕として一緒に職員室に戻ることにした。
職員室に戻ると、ゆかり先輩は美笑にある教室になら入って休んでてもいいと言っていた。それはどうやら、かつての初担任だった頃の教室だった。
一緒にご飯でもどうかと美笑を誘ったが、一度家に帰ってご飯を食べるようで、その後またくるようだった。
あたしたちも軽い昼食を取り、いつもの日常に戻る。
ゆかり先輩も図書室を見に行ったり小忙しく動いていたので、頼まれた雑務をこなしながら午後も平和に職務を全うしていた。
……そういえば、昨日も図書室に先輩は行っていたけど帰ってきたら少しご機嫌斜めだったなぁ。
何があったのか分からないけど、聞いても大丈夫大丈夫と流されてしまったので、些事だったのだろうということにしておく。
先輩は図書委員にも関わっているから留守番の子たちと何かあったのかな。
とはいえ、あたしは今任されている美笑ちゃんのことを優先しようと思って特に詮索はしなかった。
そんなこんなで、プリントの印刷や授業の準備をしていたら気が付けば18時になっていた。念のため教室を覗いたけれど、美笑ちゃんの姿は無かったのできっともう帰ったのかもしれない。
街中はお祭りをやっているから、ゆかり先輩と行くのも良いなぁなんて考えていると先輩からショッピングに誘われた。
そこは賑やかな街中から横に逸れて、駅前近くの路地に佇んでいる雑貨屋だった。
「わぁ。こんなオシャレなお店、駅前にあったんですね! 何があるのかな~」
そこは珍しいデザインの小物が色々あって、ちょっとした隠れ家的な雰囲気だった。
目に留まったのは、色々な種類のヘアピン。花を模ったものが多いようだ。
「ほら、奏恵はアクセサリーも好きでしょう? 今付けてるネックレスも可愛らしいし。奏恵のお眼鏡に適う掘り出し物もあるんじゃないかって思ってね」
ここは定番のものから、ハンドメイドの作品もあるようだった。
ぶら下がっているものから、ケースに小分けにされているもの、またガラスのショーケースに飾られているものまでとても種類が豊富だった。
「色々目移りしちゃうけど、やっぱり8分音符が定番なのかな。このサクランボみたいなデザイン可愛い! 先輩もどうですか?」
「良いね。せっかくだからお揃いのにしようかな」
「やったー! 君に決めた!」
お揃いのヘアピンを買って、ちょっとくすぐったいようなドキドキするような。これで一つ500円なんだから良き良き。
色はそこまで眩しくないアンティーク調のシルバーを選んだ。これで先輩とおソロ!
「……あれ? 先輩、ここオーダーメイドもやってるみたいですよ」
「あら、そうみたいね。1個2000円なら悪くないんじゃない?」
確かにそこまで値も張らないみたい。五線譜の上に、好きな音符とイニシャルを入れられるようだ。うん、可愛いデザイン。
サンプルが5つ用意されていて、これまでオーダーした人たちのデザインを模したものなのだろう、プレゼント用サンプル……S.Y、D.H、M.I……。
あ、旧姓なら美笑のイニシャルだ。そういえば、美笑もあたしのネックレス可愛いって言ってくれたっけ。
もしかしたら、アクセサリーに興味あるのかもしれない。
「先輩、今日美笑から聞いたんですけど、美笑の旧姓って石川……なんですよね?」
「あ、うん……。詩織さんのことも聞いた?」
「はい。そういえば美笑も、アクセサリーに興味がありそうだったのでプレゼント用に作るのもいいかなって」
「良いと思うわ。きっと美笑ちゃんも喜ぶよ。どのくらいで製作できるんだろうね」
「あ、サンプルにM.Iがあるんですよ、ほら。すいませーん! このサンプルにあるデザインって、予備ありませんか?」
早速、お店の人に確認すると幸いにも予備があったので即決することが出来た。ラッキー!
音符と休符と選んで……よし、これで世界に一つだけのヘアピン。
どうやら、接着から完成まで1時間ほどで出来るらしいので、先輩とディナーでもしてその帰りに受け取ろう。
昨日今日で、美笑は笑顔こそないものの、心なしか表情は明るくなってきている気がする。初めて会ったときからの暗い表情は、今は無い。
少しずつだけど、打ち解けて来たのかもしれない。
そんなちょっとした変化に嬉しさを覚えつつ、あたしは特別なプレゼントが出来ることを噛み締めていた。
綺麗に包装された箱を眺めながら、「Beautiful Smile」が脳内に流れ出して自然と頬が緩むのだった。
帰宅してシャワーを浴びた頃。
髪を乾かしながら何気なく付いていたテレビで天気予報が流れていた。
キャスターのお姉さんが、明日の夜は数十年振りにみずがめ座流星群が極大になることを伝えている。
みずがめ座流星群かぁ……。見てみたいけど、天気予報は曇りっぽい。午後は雨も降るらしくて見れる確率はそんなに高くないかも。
この辺の地域では運が良ければ短い間だけでも見れるそう。
美笑を誘ってみようかな……。夜だけど、タイミング次第では遅くならないで帰してあげられるかもしれない。
雨が降り出したらタクシーで送ってあげよう。あ、そこでプレゼントしてあげたらいい演出になるかも? いやいや、やっぱり明日も音楽室で演奏会やって、その時に渡そうかなぁ。けど、毎日来るとは限らないよね……。
みずがめ座流星群は明日しか見れないから、もし明日来てくれたら夜かな。でもでも、美笑がピアノ聴きたいって言ったら弾かないわけにはいかないよね!
先に演奏会やってプレゼントを渡して、その流れで星を見にデートに誘う?
よし! このプランで行こう! ちょっと待って何その最高なプラン!
その後プロポーズでもしちゃうの? ダメダメあたしにはゆかり先輩が……。美笑は妹であって、愛の種類が違うの!
家族愛? 母性愛? ゆかり先輩には信愛? もうどっちも好き!
……そんな浮かれた心を抱きながら、あたしはベッドにもぐりこんだ。
終わりを知らせる鐘の音は、もう目前に迫っているなんて思いもせずに……。
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