<TIPS1「あの日の教室で」>

 あれから一つの季節が通り過ぎました。教室の雰囲気はさほど変わっていません。

 事件があったあの日からしばらくは、少なからず動揺はあったと思います。けれどクラスメイトの皆も、先生も、腫れ物を扱うかのようにその話題を口にしないし、学校も1回全校集会が開かれたけれど、それ以降目立った動きはありませんでした。

 PTAのお母さんたちが何度か学校にも来ていたみたいだけれど、肝心なあの子のご両親は出席していなかったようです。

 みんな、忘れようとしています。みんな、無かったことにしようとしているかのようでした。

 そんな周りの様子に怒りを覚えましたが、その炎も一瞬で自ら消しました。私が憤る権利も、避難する権利も、ましてや彼女を庇う権利なんて……今の私には無いからです。

 私は彼らと同じく、彼女を見殺しにしてしまったからです。

 積極的にいじめに加担していなくても、消極的に加担していたのは事実。その様子を見て彼女が失望し、独り塞ぎ込んでしまったのも分かりました。

 だから私が今更、声を荒げたところで犯してしまった罪を無かったことにもできず、贖罪にもなりません。

 そんな弱い自分を見るのが嫌なのに、彼女への無念が捨てきれなくて……。二つの心が私の中で喧嘩をするでもなく、相手を非難するでもなく、ただじっとお互いを睨み続けているだけですごく気持ちが悪い日々が続きました。

 そうして1学期が終わって、夏休みに入って学校が長いお休みになりました。私は部活動に入っていなかったので、夏休みは中間登校日以外に行く予定はありません。

 友達に誘われたお出かけも断り、一切の予定を入れる気になれず独り家で膝を抱えている日々が続きました。

 宿題も手に付かず、朝起きて、テレビを見ながらぼーっとして。お昼ご飯はお母さんが仕事から一度帰ってきて作ってくれました。

 午後からは部屋でぼーっと空を眺めていました。とてもつまらない雲たちが流れていくのを眺めていたら、知らない間に眠っていたりしました。

 お母さんが夕方に帰ってきてご飯を作り、夜になったらお父さんが帰ってきて一緒にテレビを見ながらご飯を食べました。バラエティ番組も、ミステリー仕立てのドラマも、いつも見ていた番組だったのにとてもつまらなく感じてしまいました。

 その時、ご飯を食べる手が止まっていたのをお母さんに言われるまで気づきませんでした。そこで初めて、私はご飯の味を感じていないことに気がついたのです。

 でも、お母さんを悲しませたくなくてご飯美味しいねって言って嘘をついてしまいました。


 そんな時間が半月くらい続いて、お盆になった時。お母さんたちもお休みになったので田舎のおばあちゃん家に帰省することになりました。

 山形県の山の奥の方にお家はあります。山と山の間にありながら、綺麗な深緑の最上川も一望できる山紫水明の場所でした。

 おばあちゃんの作る料理はいつも本当に美味しかったし、まさか味がしないなんて思いもしませんでした。そう思ってしまったら最後、自然と箸が止まってしまいました。

「……奏恵、どうしたんだい?」

「あ……ううん。いつもお婆ちゃんのご飯美味しいなって」

 また私は嘘をついてしまいました。お婆ちゃんの顔色を窺うと、とても哀しそうな顔をしていました。その意味が分かりませんでした。

「奏恵、お婆ちゃんはな。また奏恵が来てくれて嬉しんだ。んだども、ほがい顔されだら哀しくなっちまうべ」

 私は今、どんな顔……? 両手でペタペタと顔を触ってみる。いつもと変わらないはずの私の顔……?

「この子、最近クラスの子が亡くなったんです。それを気に病んでいるようで……。一度、綺麗な空気を吸わせてあげようと思ってきたんですが……。お母さんもやはり気づきましたか」

「私もPTAの集まりで知ったの。それからずっとこの調子で……」

 お母さんたちは私が塞ぎ込んでいるのを当然分かっていました。それでも自分から何か話さないかと期待していたのかもしれません。もしくは心が落ち着くまで、そっとしておいてくれたのかもしれませんでした。

「奏恵、今辛いのは分かる。でも君がお母さんに嘘をついたことを、父さんは知っているよ」

「え……」

「あなた、それはこの子が……」

「ああ、分かってる。でも、嘘をつくのは何よりも悲しい。お母さんにも嘘をついて、お婆ちゃんにも嘘をついたね。それが辛いから、奏恵は今泣いてるんじゃないか?」

 私が、泣いてる……? あっ……。

「奏恵……。あなたは優しいから、何も言わなかったかもしれない。お母さんにも気を遣ったのかもしれない。でもずっと泣かなかったよね。辛いときは周りがどうだって気にしなくていいの。お母さんも経験してるから分かる。辛いときは、辛いって言っていいのよ」

「んだずー。奏恵は優しい子ら。奏恵ぇ、大丈夫らー。じょさねーさけ」

 あ……。あぁ……っ。

 私はようやく、自分が涙していることに気が付いた。

 嘘をつくのがとても辛かった。悲しかった。幸枝が消えたあの日からずっと、誰かに気を使って幸枝の為に涙を流せずにいた。それが今、初めて涙を流すことが出来た……。

 泣きながらお母さんに謝った。嘘をついてごめんなさいって。お父さんにも謝った。お母さんを悲しませてごめんなさいって。

 幸枝に何もしてあげられなくて、周りは幸枝のこと忘れようとしてて、私はどうしていいか分からなくて辛かったのって。

 お婆ちゃんにはありがとうって言った。じょさねーっさけ!

 大丈夫、何も心配いらないよって言ってくれて嬉しかった。ずっと気持ち悪かったもう一つの心が、すっと消えていくのを感じた。

 バイバイ、私のネガティブな弱い心。

 ネガティブ、グッパイ……ありがとう、私の心。


 そうして、私の帰省は風光明媚な景色に心を溶かして終わった。気が付けばもう、宿題に手を付けなければいけない危機が迫っていた。

 夏休みが終わり、クラスを見渡すとみんなもう幸枝が居たことすら覚えていない風だった。

 でも……いいんだ。これはあたしが自戒することであって周りは巻き込まない。

 そう決めたから。そうして、また一つの季節が過ぎた。


 冬休みに入る前、期末テストも終わったころ。

 その頃には、食べるご飯も美味しくなっていたし、見ていた番組も彩りのあるものになっていた。

 両親はよくピアノの演奏会やお芝居などを見に行くことが多かったので、部活も入っていないあたしはよく一緒にくっ付いて観劇するようにしていた。

 そんな中である日、とある小劇場で見た役者さんたちのお芝居がとても印象的だった。目の前までやってきて会場全体に聞こえるかのような声量で話す迫力もあれば、背中越しなのに凛と響き渡る声がちゃんとあたしの耳に届いたり。そんな後ろ姿や横顔を見て、あたしはお芝居っていいなと思うようになっていた。


 あの日から立ち直るにはいくつかの季節を巡る必要があった。

 そういえば、うちの高校に演劇部って無かったっけ……。あった気がする。高校3年の春からなんて、今から始めても1年も出来ないかもしれない。

 でも、やってみたい。あたしもあのお姉さんみたいなお芝居がしてみたい。そんな気持ちばかりが急いて、先生に入部届をせがんで持って来てもらったのに、今頃もっていっても先輩たちが受け取ってくれるだろうか……迷惑じゃないかな……なんて思ってしまって、空き教室でウジウジしていた。

 その時、ふと背中に人の気配を感じて振り返る。そこには、両手を広げて目を閉じたまま何かを待っているように見えた。

 不思議と、教室の真ん中にいるせいか舞台の上の役者さんのように見えて、一瞬声をかけていいか躊躇ってしまう。

 でもよく見るとウチの学校の制服、学年も同じだ。

 スカートの色で分かる。別のクラスの子かな……?

「……何してんの? あんた」

「へ?」

 その子は素っ頓狂な声を発し、しばらく目をパチクリさせている。そして自分がしていたポーズに気づくと急に顔を赤くして両手で顔を隠してしまった。

「演劇の練習……とか?」

「ち、違うの!」

 両手で頬を抑えながら俯いてしまった。ひょっとしたらこの子も、あたしと同じで演劇に興味があるのかもしれない。でも恥ずかしくて入部するには勇気がない?

 それなら好都合、一緒に演劇部に入らないか誘ってみよう。

「実は、あたし演劇に興味があってね……。良かったら一緒に――」

「いいの。もう全部終わりにするから」

「え?」

「もう、終わりだから。放っておいて」

 あたしはハッとした。この声、この瞳、この綺麗な青みがかった長い髪……。それはかつて、あたしが見殺しにしてしまった彼女……幸枝のそれにとてもよく似ていたからだ。

 でも、そんなはずはない。彼女は去年の春に自殺してしまった。こんなところにいるはずがないんだ。でも……でも、そんな言い方あんまりじゃないの。

 ……もう嫌なの。全てのことに諦めてしまったら、幸枝と同じ未来になってしまうかもしれない。この子が幸枝ならなおのこと、あたしは伝えなきゃいけないんじゃないだろうか。

 ああ、もうそんなはずないって分かってるのに。混乱してる、頭が!

 でもでも! もうあたしの中にあの時の弱い心はいないんだ!

 彼女に軽蔑の視線を向けられて、背を向けられた。教室を出ていくつもりらしい。あたしはもう、自分の気持ちを止められなかった。

「放っておけないよッ!!」

 あたしは叫んだ。彼女の手を掴んで、こちらを強引に向かせる。目を見て、両手を掴んで逃がさないようにした。

「あんた、さっきから終わり終わりって何よ。全部ダメみたいに言わな

いで!」

 一瞬驚くような表情をした後、すぐに嫌悪の表情であたしを睨み返して

くる彼女。あたしも負けじとその目を逸らさない。

「……あなたに何が分かるのよ。いつも見ているだけで、何もしてくれ

なかったくせに!」

「ど、どうしてそれを……」

 嘘……。やっぱり幸枝なの……?

 クラスメイトにここまで幸枝に似てる人なんていない。クラスの内情を

別のクラスの人が知っているなんてありえない。じゃあ、本当に……?

 嘘、うそうそ……。どうして今ここに幸枝が? 分からない、分から

ない……。

「白々しい。どうせ心配なんてしてないんでしょ? みんなそうよ!」

 ダメ……飲み込まれてはダメ。でも、この敵意も、軽蔑も、あたしは

受け止めなければならない。いくら幸枝に罵倒されようと、あたしがして

しまったことはそれくらい惨いこと……。

 ごめん……幸枝、あたしはあなたを見ているだけで見殺しにして

しまった……。

 でも、でも……ちゃんと後悔したんだよ? 幸枝がいなくなってすごく哀しかったんだよ? 辛かった、毎日が灰色だった。ご飯の味もしなくなった。空から色が消えた。たくさん嘘もついた……けど! もう同じことは繰り返したくないって思ったの!

 どうしてか分からないけど、幸枝が目の前に居て、その贖罪が今しかできないのなら! あたしはもう嘘をつきたくない、自分の心にも…あなたにも!

 ”弱い私”とは決別したの! だから……!


「違うッ!!」

 叫んですぐ、涙が溢れてきた。声も震えたけど気にしなかった。

「あたし……すっごく後悔した。だから変わったの。虐められてた子が自殺しちゃって、どうして何もしてあげなかったんだろうって。……そう、あんたにそっくりな子だった! あたしは見てるだけで何もしなかった。だから、そんな弱い自分とは決別したの!」

「ウソ……」

 信じてほしかった。今を逃したら永遠に幸枝には伝えられないと思って。

「嘘じゃないッ! だから放っておけないの!」

 あたしは強くつかんでいた手を放して、彼女を抱きしめた。あとは祈るしかなかった。

 すると彼女はあたしの背中に手をまわして抱き締めてくれた。その温かさに安堵して膝が崩れてしまったが、一緒に座ってくれた。

 幸枝、なんだよね……。どうして今になって、会いに来てくれたんだろう……。

「うぅ、ごめんね、ごめんね……」

 そう思うと、涙が止まらなかった。ただただ、謝ることしか出来なかった。それを幸枝はしっかりとあたしの目を見て受け止めてくれた。

「あたし、何で声をかけなかったんだろうって何度も思った。でも怖くて、勇気がなくて、あたしまで虐められちゃうんじゃないかって思ったの……」

「うん……うん……」

 幸枝はこんな風に、お母さんみたいに優しく笑えるんだね。あたしよりずっと大人っぽい。

「あたしね、何度も止めに入ろうと思ったんだよ。でも先生も見て見ぬふりだし、男の子も怖いし、女の子たちにはかかわるなって言われてたの。でも、あたし言えば良かったんだよね……。もうそんなこと止めようって。あなたと目が合ったとき、いつも助けてって言われているの、分かってたのに……目を背けちゃってごめんね……」

「本当に、そう思ってくれてたの……?」

「本当よ! 友達になりたかった、一緒に遊びたかった。でも、もう遅いんだよね。ごめん、本当にごめんね……」

「そっか……」

 幸枝はあたしの髪をなでてくれた。許して、くれるの……? どうしようもなかった、あの日の弱い私のこと……。

「ありがとう……奏恵」

 その囁くような霞みがかった声は、温もりと共に霧散した。光が瞬くでもなく、夢が醒めるのでもなく、もともとそこには誰もいなかったかのようにくすんだ地面が視界に広がった。

 あたしは自分の両肩を抱いて、涙を流していた……。

 しばらく、何が起こったのか分からずにいると、また別の気配が背中に現れた。


「…イイ! 舞台の一幕を見ているようだったよ! 君の涙は本物だ!」

 突然拍手が聞こえたかと思うと、海を縦に割ったかのように清々しい凛とした声が教室に響いた。

 振り返ると、そこには見上げてしまうほどの細身の長身で、だけれども自信に満ち溢れたような表情で体躯のしっかりした女性の姿があった。

 髪は短く整えられ、毛先は内巻きで明るい髪質の女性が腰に手を当ててあたしを見下ろしていた。

 え、え……? こんな先輩いただろうか? でももう少し年上のような気も……。

「せ、先輩……?」

「ああ、すまない。僕は教育実習で来ている身でね。もう少し年上だ。期間が限られているから、どれだけ近づけるかが勝負なんだ。おお!これは演劇部の入部届! やはりこれは運命ということだな!」

 全然話が読めず、目を白黒させていると小気味よく笑う彼女。この人は先生……になる人?

 へたりこんでいるあたしの前まできて、片膝をついた。まるでお芝居をするかのように左手を恭しく顔の前に差し出した。

「ひと月しかないが、どうしても作りたい舞台があるんだ。その舞台に……君が欲しい。どうか、引き受けて欲しいんだ」

 その真剣な眼差しに目が離せなくなる。差し出された左手の細い手首には、ピンク色のキーチェーンにガーネットの水晶石が付いたブレスレットをしていた。

 その煌めきは、きめ細やかな白いシルクのような肌とも相まって見惚れてしまうほどだった。そして、イニシャルであろうMのチャームが揺れている。

「え、でも、あたしまだ演劇部じゃ……」

「大丈夫! そこはなんとかする! よし、早速提出しに行こう!」

「えぇ!? えー! まだあなたの名前も聞いてないのにー!

おっと!」

 強引に手を引っ張られ、危うく転びそうになるところを踏ん張って持ち直す。


「ああ、すまない。自己紹介がまだだったね。僕の名前は――」


 そしてあたしは、演劇部に入部した――。

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