【Section2】

奏恵編 1日目

「ねぇねぇ! そこのあなた!」

 あたしは教師らしからぬ廊下ダッシュで、一人の女の子を捕まえた。振り向いた少女は中等部の子だろうか。まだ幼さの残る顔立ちで、私を綺麗な瞳で見上げてくる。

 キョトンとした表情は、朝の低血圧そうな雰囲気も相まって、まだ自分のことを呼ばれているのかも半信半疑といったところだ。

「美少女発見! ……じゃなくて、おはよう! ごめんね、職員室ってどっちだっけ?」

「……職員室は向こうの校舎、ですよ。1階の東側です」

「あーもう中高一貫校は広過ぎるのよねぇ。まだ把握し切れてなくてさー」

「……」

 中高一貫ともなると生徒数が多いのはもちろんのこと、それだけの人が集まる校舎も普通の学校の倍はある。

 中等部の校舎、高等部の校舎、体育館に無駄に広いグラウンド、プール施設まであるんだから、このあたりではちょっと有名校らしい。

 とはいっても、この地域には学校が少ない。

 小学校は2つあるが、中学校と高校はこの一貫校だけで、二つの小学校の卒業生はみんなこの学校に進学してくるってわけ。

「っとと、何一人でしゃべってるんだろうねあたし。確か渡り廊下は、右に……じゃなくて左だっけ……」

「あ、あの、先生……?」

「ん? あ、そっかそっか。ごめんね。私、新任教師の桜 奏恵。奏恵でいいよん」

 実は今日初めての登校で……なんていうと、ゆかり先輩に怒られるなぁ。

 出勤初日から遅刻は免れたけど、職員室に辿り着けないなんて前代未聞の大事件! 私ピンチ! 助けて女神様!

「か、かなえ先生。良かったら一緒に――」

「あー! いたいた! 桜さん、もう職員会議始まるよー?」

「あーん! 神様、女神様、ゆかり様ー! わざわざ迎えに来てくれたんですね!?」

「あなたがいつまで経っても来ないから心配したのよ。さぁ、今日の主賓はあなたなんだから、行きましょう」

「ありがとうございますー! って、ゆかり先輩。〝〟なんて他人行儀です。昔みたいに、私の愛する奏恵って呼んでくださいよー」

「あ、朝から変なこと言わないで。学校ではあなたは私の補佐なんだから、しっかりやってよね」

「はーい。……あ、ごめんね。あなたの名前聞いてなかったね。教えてくれる?」

「……はい。美笑です。ぃ……結城美笑、です」

「ありがと。今度、学校案内してね、美笑ちゃん。それから――」

 あたしは思ったことははっきり言う。昔、そう決めたから。後悔するくらいなら、大切なことを伝えたい。

 何もしないで後悔するより、何かして後悔するほうが、よっぽど良いから。見返りは期待しない、今はただ、届いてさえいれば。

「あんまり暗い顔してると、美人が勿体ないよ。悩みがあったらいつでも相談してね。辛いときは、ネガティブグッバイ♪ って言って一緒に笑おう? ねっ!」

 ネガティブグッバイ。それがあたしの、ポジティブシンキング。

「……はい」

 それでも彼女は、笑顔を見せてくれることは無かった。


 出会いはきっと、こんな先触れ――。

 この時のあたしには、美笑に私の気持ちが伝わったかどうかを確かめる術は無かった。表情だけでは汲み取れない。もっともっと深くに、美笑は抱えていたんだ……。

 あたしと、そして世界に対して〝〟という別れの言葉を……。


 せめて、笑ってくれたなら――。

 そう思ってしまうのは、あたしが昔のままだったからなのかもしれない。

 あたしの最初の1歩は、これで良かったのかな……幸枝……?



 あたしは今年の春から、音楽教師としてこの学校にやってきた。

 噂の新任教師は美人で若くて愛嬌がある、生徒から注目の的……というのは、あたしの自称だったりする。

 実際には、あたしの先輩であり尊敬すべき人であり憧れである、ゆかり先輩に与えられるものだった。あたしが大学1年の時に4年生だった先輩とひょんなことから知り合い、親交を深めていたお陰で、先輩のはからいで副担任に推薦してもらった。

 ゆかり先輩の近くに居られるというのは、あたしにとって幸せなことで、世間的にもとても恵まれたことだと思う。

 教師を志そうと思ったのも、ゆかり先輩の影響だったりする。

 下心を言ってしまえば、将来はゆかり先輩の近くに居たいと思ったから。仕事も一緒なら、なお幸せなんじゃないかって。

 ……でもそれは表向きのこと。やっぱりあたしには、生涯背負わなきゃいけないものがある。

 それが結局、学校という居場所に縛り付けられているのかもしれない。

 ……ううん、縛り付けられるなんて言ったら怒られちゃうね。ごめんね、幸枝。

 それくらいに、あたしがしたことは重いこと。

 自戒するのは当然だと思ってる。あたしの生涯を捧げることが、あの子に対して少しでも罪滅ぼしになればいいなって。

 だから、見守っててね。幸枝……。

「ぁぃてっ」

「ここは学校よ。あんまりくっつかないで。それと、学校では〝〟。あなたは、桜さん」

「そんなぁ! あたしたちの愛は偽りだったんですか!?」

「あ、愛って……。私もあなたが副担任になってくれて良かったと思ってるのよ?〝〟」

「さくらせんせい……良い。そう言ってくれる先輩が大好きです!」

「ちょ、ちょっと! 歩きづらいから腕にくっつかないでってば。もう……」

「先輩が居ない卒業までの時間は辛かったんですから…。あたしもう寂しくて寂しくて…」

「すぐ卒業すればもう2年早く会えたのにねー。留年したかと思っちゃった」

「あたしだってすぐ先輩に会いたかったですよ! でも、先生になるには音楽以外のこともちゃんとしなきゃいけないと思って、院生になって修行したんです! 修行!」

「そういえば、奏恵は院卒だから専修免許状だったよね。それでもなかなか出来ることじゃないよ。さすがだわ、奏恵」

「例え2年制でも短縮する勢いで頑張りましたから! もっと褒めてください!  もっと!」

「私も初担任クラスの卒業を見送ってから2年で専修免許にしたけどねー。ほら、そろそろ教室付いちゃうよ?」

「明日からのGWどこか行きましょう!」

「明日も学校よ。私は当番だから、ほとんど来なくちゃならないわ」

「えー!」

「あなたもよ? 私のお手伝い。副担任の桜先生。奏恵が専修免許だから副担任にも推薦しやすかったんだから」

「あ、それならいっか…」

「ふふ。久々にゆっくりお話ししましょ。奏恵」

「……はいっ!」

 そういってウィンクをしてくれる先輩。私もとびっきりの笑顔で答える。

「はい、みんなごきげんよう! 席に着いてねー!」


 朝の挨拶。日常の風景。ゆかり先輩の隣で教壇に立つあたし。

 あのドタバタの初日から、1ヵ月が過ぎていた。学校で迷子になることは無くなったが、それもゆかり先輩が居てくれるからであって、一人ではまだ不安かも?

 明日からゴールデンウィーク。

 あたしたちは学校に来なきゃいけないけれど、ゆかり先輩と一緒ならどこだって構わない。天気予報はずっと曇りで、崩れる日もあるみたい。

 そんな日は、雨に似合う曲を弾くのも乙かしら。なんたって今年は5連休! 新曲を書くのもいいかもしれない。ゆかり先輩もいるし、今年はなんだか幸せに過ごせそうな気がする。

 そういえば、美笑ちゃんは元気かな……。

 初日に会ってから今日まで、見てない気がする。高等部には居なかったみたいだから、やっぱり中等部の子なのだろう。今度、先輩に聞いてみようっと――。



 ゴールデンウィーク1日目。


 空はどんよりと曇り空。

 あたしの晴れやかな気分とは裏腹に、空はどこまでも不安で物悲しげな表情をしていた。それでも。あたしの空は今日も快晴!ゆかり先輩と居られる日は、いつだって清々しい青空。

 春から数えて今日まで雲が陰ったことは一度もないもの。なんたって今日からゴールデンウィーク。ゆかり先輩と二人っきりで――。

「はい。60点」

「うぅ……」

 先輩はそんなに甘くない……。なぜかあたしまで生徒の期末テスト(国語)を受けさせられたのだった。

「あなた……。よくこれで大学卒業出来たわね。しかも修士課程」

「うー。だって私、音楽専攻ですし……」

「確かにあなたのピアノは音大を出ていても不思議じゃないけれど、私たちの大学はどの学科も3教科は必須でしょう? それに、あなたは言語力にも難ありよ」

「それは……あたしオリジナルの愛の囁きが含まれているわけで……」

「はいはい。それから、連休明けに配るプリント、人数分印刷してくれた?」

「もっちろん! 終わってますよ!」

「ふふ、元気だけはいいんだから。……さて、少し休憩しましょうか」

「はーい! 紅茶淹れて来ますね!」

 最近のお気に入りはベルガモット。

 後味にちょっと苦味が効いた大人の味。それにオレンジを添えて、ベルガモットオレンジティーにすると、柑橘系の程よいさっぱり感とさわやかな後味が口あたりを楽しませてくれる。

 これでゆかり先輩もあたしの虜……。こんなあたしって質実剛健?

「ん……。女の子なんだからせめて、才色兼備くらいにしておきなさいな」

「あぁ……響きが綺麗ですよね。才色兼備。……至れり尽くせり。出来る女。美しい奏恵。あは、先輩褒め過ぎですって!」

「そこまでは言ってないけど……」

「こ、こんなあたしですが、お嫁に貰ってくれませんか!?」

「んー、どうしようかなぁ。あなたにもう少し貞淑さがあればね~」

「私、これから先輩の半歩後ろを歩きます」

「やっぱり元気が一番かなー? 弾ける笑顔、うん! 最高よね」

「あたし元気には自信があります! いえ、それだけが取り柄です!」

「いやいや、やっぱり私を引っ張ってくれるくらい、かっこいい女性も捨てがたいかな」

「先輩、次の小テストはあたしが作ります。箱舟に乗ったつもりで居てください」

「箱舟って……私どこまで行っちゃうのよ。はいはい。お芝居はそのくらいでいいから。あなた、入り込むと止まらないのね」

「あはは、やっぱりバレてましたか。でも、先輩への気持ちは嘘偽りありません。それだけは真剣です。あたし、先輩のこと本当に憧れなんです」

「ありがと。そう言ってくれた後輩はあなただけよ、奏恵」

 そういって微笑んでくれる先輩。あぁ、そんな風に見つめられたらあたし……。

「うん。やっぱり奏恵が淹れてくれる紅茶はおいしいわ。ごちそうさま」

「あ……。お粗末様でした。そういえば、先輩。ちょっと気になることがあるんですけど……」

「ん? どうしたの?」

「あの、美笑ちゃん……。初日に会った子なんですけど、覚えてますか? 職員室が分からなくて、近くに居た生徒に声を掛けたんですけど、その子が結城美笑ちゃんって子なんです」

「あ、うん……。結城美笑ちゃんね、覚えてるわ。その子がどうかしたの?」

「ええと、特に用事があるってわけじゃないんですけど、あれから見ないなぁと思って。高等部で見かけなかったので、中等部の子ですか?」

「そうよ。去年進学してきたから、あなたより1年先輩ね」

「やっぱり……。なんだかあの時、暗い顔してたんで今は元気かなぁって……」

「あぁ、美笑ちゃん……」

「先輩?」

 先輩の表情が心なし陰る。何か杞憂を含んだ響きだった。

「美笑ちゃんね、あんまり学校生活がうまくいっていないみたいなの」

「うまくいってない……って、友達が出来ないってことですか?」

「うん。私はたまに見かけるんだけど、一人でいることが多くて。休みの日とかは、よく学校に来てるみたいで、ポールのところに座ってるの」

「……そうなんですか。馴染めないのかなぁ。今友達が出来ないと、後々心配です」

「第一小学校の頃の友達とかも、一緒に進学してるはずなんだけどね。もしかしたら、クラスが第二小学校の子が多いのかもしれないけれど、ひょっとしたら……」

「小学校でも、あんまり友達が出来なかった…ってことでしょうか」

「ん……」

 肯定するには抵抗のある言葉だった。私も言葉を選ばなかったことに、反省。

「ごめんなさい。憶測でも失礼でした。でもあたし、昔そういう子と出会ってて、放っておけないんです」

「……そうだったね。前に、話してくれたね」

「はい。幸枝……高校の頃に、同じクラスメイトだった子がいじめを受けていました。きっかけはもう、何だったのか分からないくらい些細なことだったと思います。誰かが馬鹿にしたら、それに増長するようにエスカレートして……。引っ込みが付かなくなる頃には、クラス中が彼女を腫れもの扱いするように疎遠になっていきました」

 その時の私は、ただ彼女を〝〟だったのです。

 手を伸ばしたくても、私自身が同じようにいじめられるかもしれない……。

 それが怖くて、声を掛けたくても掛けられないもどかしい日々を過ごしました。たまに、やりすぎる男子たちに仲裁しようとしたときも、クラスメイトの女の子から「やめときなよ」って言われて結局助けることも出来ず、結果……彼女が自ら生の幕を下ろすまで私はその恐怖と弱さが、罪であることを自覚できなかった。

 後日、不思議なことが起こったんです。

 演劇部に入ろうか悩んでいる時に、放課後の空き教室で入部届とにらめっこしていました。

 すると、突然誰もいなかった教室に……幸枝に似た女の子が立っていました。こう、両手を広げる感じで……。

 あたしは人生を諦めきったような言動をする彼女にムッとして言ったんです。

 もう同じことは繰り返さない、見て見ぬふりをしないって豪語しました。

 あたしの目の届く世界で悲しい思いをしてる人が居たら、絶対に声を掛ける、手を差し伸べる。弱かった自分とは決別するって……。

 泣きながら、その子に詰め寄って。そうしたら、その子は許してくれたようにあたしを抱きしめてくれたような気がしました。

 気が付くと誰もいなくなっていて……。

 ひょっとしたら、あの子は本当に幸枝だったんじゃないかって思うと、どうしてあたしの前に来てくれたのか意味を考えるようになりました。

 きっと、あたしが決意するためには幸枝の存在が必要でした。亡くなってしまったけれど、ほんの少しの時間だけでも会いに来てくれて、和解出来たと思うと私は一生忘れちゃいけない出来事なんだと思えるようになりました。

 その日はすぐに帰って、髪を切りに行きました。長くて明るめだった髪を、短いショートカットに。

 幸枝の長くてまっすぐな髪は、少し青み掛かっててすごく綺麗だったのを覚えてる。その色は染色では出せなかったけれど、明るかった髪色も黒く染めることにしました。

 それから数年、あの日した決意と共に私の髪はいまでも短く整えられている。

 たまに指揮者のタクトのようにリズムよく外ハネしていることはあるけれど、それはご愛嬌。

「だからあたし、どんな理由があってもみんなには、生徒には学校生活を楽しめるものにしてもらいたいんです。疎外感を持ってる子とか、学校が嫌いな子とか、ましてやいじめとか……。もうそういうの、見てられないんです!」

「奏恵……」

「すいませんあたし、ちょっと行って来ます。今日来てるかもしれないんで!」

 あたしは職員室を飛び出して、校庭へ向かった。すこしの焦りを抱えながら……。

 あたしが焦りを感じてしまうのは、このままじゃ、また同じコトを繰り返してしまいそうだったから。

 目の前に掴める手があったなら、あたしは迷わず掴みたい。それが救いを求める手だったなら、なおさら――!


「……っ」

 あたしは、ハッとした。目を見開いていたのかもしれない。数秒間、その姿に既視感を覚え震えていた。

 …………ごめん、ごめんね……。

「さ……幸枝……」

 その横顔は、その涙は……あの頃の姿を彷彿とさせた。その虚ろな目は、光を失った涙は、あの頃の幸枝のようで。

「……先生?」

 どれだけの時間をそうしていたのだろう。美笑ちゃんがあたしに気づいて、涙を拭いていた。

「……あ、美笑ちゃん。ごめんね、こんにちわ」

「あの、えっと……。昨日あんまり、寝れなくて欠伸出ちゃいました……」

 それで涙が滲んだと、美笑ちゃんは言った。涙を見られたことを取り繕うかのように。

 あたしはもう、手遅れなのだろうか? 幸枝に似た美笑ちゃんを見て、動揺してしまったのだろうか。

 何かもう取り返しのつかないところまで、きてしまったかのような絶望感が一瞬にして込み上げてくる。

「……えっと、奏恵先生?」

「あ、うん。どうしたの?」

「お久しぶり、です。先生こそ、走って、どうしたんですか?」

 口調こそ覇気がないものの、もう涙のことには触れて欲しくないという拒絶が見て取れて、距離感を感じてしまった。

 あまりにもその切り替えについていけなくて、あたしは言うべきことを見失っていた。

「あのね、えーっと……ゆかり先生に聞いたの。もしかしたら校庭に美笑ちゃんが来てるかもって」

「……そうですか」

「久しぶりだね。新しいクラスにはもう慣れた?」

 あ……。失言だった。あたしは自分の軽率さに失望した。

「……はい。新しい授業の移動教室が少し大変ですけど、頑張ってます」

「そっか。学校広いからねー。あたしもやっと、教室の場所覚えてきたところだよ」

「……」

 やっぱり、元気がない。あたしの失言のせいもあるけれど、初日と同じく美笑ちゃんは暗いままだった。

 あたしも、らしくない。動揺していつものあたしを見失っている。頑張れ奏恵。超頑張れ。

 美笑ちゃんは笑ったらきっと素敵なはず。物憂げ美人も良いけれど、笑ったらもっと可愛いに違いない。

 ……よし! ネガティブグッバイ♪ 気合を入れなおして、拳を握る。

「そうだ! 美笑ちゃんさ、明日は予定あるかな? お祭りがあるんだけど、一緒に行かない?」

「お祭り、ですか……」

「うん! 楽しいんだよ! 色んなもの食べたり、ゲームしたり、とにかく楽しいのは間違いなし!」

「……。考えておきます。すいません、私、これから行くところがあるので」

「あ、そっか。ごめんね。明日も学校にいると思うから、良かったら来てね。待ってるよ」

「……はい」

 美笑ちゃんはこくりと頷いて、立ち上がる。

 校門を歩いていく後姿はとても小さくて、すぐ駆け寄って抱きしめなきゃ倒れてしまいそうで。

 まだまだ、心を開いてくれるまで時間が掛かるかもしれない、そう思った。

 ……あたし、今日何も伝えられてないや。失言して……、傷つけて……、空回りして…………。

 今日のあたし、ダメダメだ……。


「ただいまです……」

「おかえり。美笑ちゃんはいた?」

 あたしは倒れるように椅子にへたり込む。自分の空回り加減といい、やるせなさといい、ヘコみそうだった。

「……それでもう、トリルの連続で指が絡まったような感じで」

「あら、珍しいじゃない。あなたのピアノは天武の才だと思っていたけど?」

「うー。そんな日もあるってことです」

 先輩にはあたしの例えがどういうものか、分かっているようだった。あたしの辞書には、ピアノ関連の引用が多く含まれている。

「ところで先輩、明日空いてますか?」

「学校よ」

「ですよねー。実は明日、美笑ちゃんにお祭りいかない? って誘ったんです。保留ってことだったのでまた明日来たら聞いてみるつもりです」

「あぁ、そういうことね。それなら、私のことはいいから二人で行ってらっしゃいな。午前中だけ手伝ってくれれば、あとは大丈夫だから」

「えー! 先輩も来て欲しいなぁ」

「んー。今回ばかりは、奏恵と二人の方がいいと思うの。あなたの方が歳が近いのもあるし。実はね、美笑ちゃんにはお姉さんが居たんだけど、……不幸があってね」

「そうだったんですか……。って、先輩もあたしと3つしか変わらないですよ?」

「うふふ。それにね、これはあんまり他の人にしゃべっちゃダメよ?……ご両親も離婚されてて、今は義理の親御さんのところに住んでるの」

「義理の親御さん?? っていうと、本当のご両親は……」

「うーん。ちょっと複雑でね。奏恵に分かってて欲しいのは、今の美笑ちゃんは一人ぼっちっていうこと。だから、誰かが傍に居てあげないといけない。お姉さんの代わり…っていうと美笑ちゃんがどう思うか分からないけど、あなたならピアノも弾けるし、ひょっとしたら……」

「…はい。もしかしてそれが、共通点なんですか?」

「うん。だからもし出来たら、奏恵のピアノ聞かせてあげて欲しいの。私からのお願い、聞いてくれる?」

「はい! そういうことでしたら、あたしなりにやってみます。何より先輩の頼みでしたら、あたしなんでもやりますから!」

「ふふ、ありがと。奏恵」

 お姉さんが不幸、か……。親御さんもだなんて……。

 本当に美笑ちゃんは、ひとりぼっちなんだ……。助けて欲しいと言葉にすることが、どれほど勇気の必要なことか、あたしは知ってる。

 言葉に出来ない人の願いを汲み取ることも出来る。あの涙がその理由。

 ……うん、そうだよね。今がその時だよね、幸枝……。

 あたし、決めた。美笑ちゃんのためにピアノを弾く。

 そして、お姉さんの代わりになれるか分からないけど、美笑ちゃんの傍にいて、ひとりぼっちじゃないよって伝えたい。

 あたしの名前は、奏恵。奏という言葉はたくさんの意味を持つ。

 それを一つ一つ伝えていこう。

 それが今あたしに出来る、罪滅ぼし。あたしの禊。

「そういえば、そろそろお昼ですけど、ご飯を食べてから午後はどうします?」

「あ、そうそう。午後からは私が初担任だった時の生徒が来るの。3年振りかな。5、6人なんだけど、同窓会みたいに学校を見て回りたいみたいだから私も久々に会ってくるの」

「ここの卒業生なんですね。先輩が初担任の時の子たちかぁ」

「奏恵は自由にしててくれていいよ。音楽室で弾いてても構わないわ」

「ホントですか! じゃあお言葉に甘えて……。でもせっかくなら、ゆかり先輩に聴いてほしいなぁ」

「きっと音楽室も通るから、挨拶も兼ねて遊びに行くよ。そしたら、みんなにも聴かせてあげてね」

「りょーかいしました! ということで、ランチ行きましょランチ!」

「ふふ。その言い方はオシャレで素敵だけど、外食ってわけにはいかないのよねー」

「あたしは先輩となら、どこで何を食べても幸せです!」

 なんていいながら、あたしたちは静かな職員室を後にしたのだった。


 

 午後からは先輩の言うとおり、音楽室で過ごしていた。

 雨こそ降っていないが、ショパンの「雨だれ」がよく似合う湿度を感じさせる空模様だった。

 そんな景色を音楽室の窓から眺めながら、ポロポロと弾いている時。廊下が少し賑やかになったと思うと、ゆかり先輩と数人の男女が音楽室へと入ってきた。

 きっと先輩の言っていた卒業生たちだろう。とても良い子たちで、聞けばもう働いている子もいたり、大学に通っている子もいたりと賑やかに話してくれた。

 演奏を頼まれたので、数曲チョイスしてメドレーにしてあげた。

 クラシックよりかは、皆も耳馴染みがあるだろうポップスの耳コピアレンジをまとめると、温かい拍手を送ってくれた。


 気分を良くした私は、ゆかり先輩が次の部屋に移動しようというまで

ささやかな演奏会を開いたのだった……。

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