優也編 5日目

 ゴールデンウィーク5日目。最終日。


 昨夜、とあるビルの屋上から飛び降り自殺があった。

 そのビルは近々取り壊しが決まっていたらしく、無人の建物だったらしい。

 遺体は、頭蓋骨骨折、頚椎損傷で即死だったという。雨の日だったせいか、血溜まりはとこまでも長く引いていたらしい……。

 全てこういう言い方になるのは、実際に目にしていないからだ。聞いた話を、ただ事実のみを記している。

 自殺を図ったのは、結城美笑ちゃん15歳。

 美笑ちゃんの遺体への面会は叶わなかった。だから、美笑ちゃんを最後に見たのは、あの雨の中泣いていた姿になった。

 〝ありがとう〟と〝さようなら〟……。その二つの言葉が、頭の中で永遠にループされる。


 あの時、僕がしたことは何だったのか。……何もしていない。ただ美笑ちゃんの最後の告白を聞いていただけだ。それに満足に相槌も打てず、ただ名前を呼んだだけ。

 あの時美笑ちゃんは、本当は何を伝えたかったのか?

 僕の目を見て、何かを訴えるように懇願していた。僕はそれが何なのか、分からなかった。

 ひょっとして、僕に連れ去って欲しかった……? この理不尽な世界から。

 いやそうだったとして、僕は美笑ちゃんを養えるのか?

 これから中等部、高等部と進級し、大学にいくか就職するか。それまで僕が美笑ちゃんと生活していく……。

 その為の費用は僕の給料でまかなえるのか? 月18万程度の給料で、自分の食費だけでもギリギリだというのに?

 相手の親のことはどうする? そもそも自分の両親にはなんと説明する?

 結局僕は、不遇の少女を、自分は白馬の王子を気取っただけで満足しようとしていたんじゃないだろうか……。

 ……駄目だ。人と生活をするというのは、簡単なことじゃない……。そういう思考に至る自分が、ただただ情けなかった。


 気が付けば、美笑ちゃんが泣いていた。

 気が付けば、放っておけなくなっていた。

 気が付けば、美笑ちゃんは消えてしまった。


 学校の校旗を上げる支柱に触れる。美笑ちゃんと初めて会ったこの場所……。

 ここから美笑ちゃんには、どんな空が見えていたのだろう……。

「……冷たい」

 僕は額を支柱に当てて、泣いた。

 僕は、美笑ちゃんを、救えなった……。


 どうすれば、彼女を救えたのか。

 どうすれば、笑顔を取り戻せたのか。どうすれば……。


 その答えはもう、出ない。

 美笑ちゃんはもう、居なくなってしまったのだから……。


 教室は、いつもどおりだった。

 窓を開けて外気を招き入れる。ただ風は虚しく、空は重く。気分は晴れそうに無かった。

 雲を眺め、形から何かを想像する。……どうしてだろう。何にも見えない……。

 今の僕にとってこの空は、今にも泣き出しそうなほど悲しく、それが僕の心のようで胸が痛んだ。

 もう、取り戻せない。もう、届かない。……いつだって空は……、遠い。

 振り返り教室を見ると、机の上にウォークマンが載っていた。

「……これは、美笑ちゃんの」

 そういえば、あの時……。美笑ちゃん何も持っていなかった。いつ置かれたものなのか。……いや、今となっては関係が無い。

 そっと手にとって、イヤホンを耳に当てた。流れてくる空の旋律。「beautiful smile.」その時、ハッとする。旋律に乗せて流れてきたのは……美笑ちゃんの声だった。


『……こんにちわ、優也さんですか? 美笑です……』


 それは間違いなく、あの場所で出会い……傘を貸し、ヘアピンを手渡し、祭りで遊び、一緒にたこ焼きを食べ、カレーをご馳走し、花火を見上げて、お姉さんを想い涙を流し……。

 雨の降る校庭でさよならを告げた……美笑ちゃんだった。


『ちゃんと、録れてるかな……。ええと、3分しか録れないみたいなのであんまり時間無いんですけど、えっと……ありがとうございました。優也さんと会えて嬉しかったです。本当に、笑えなくてすいません。頑張ってみたんですけど、やっぱりダメ、でした……。でも、本当に楽しかったんです。初めてのことばかりで、本当に。ありがとうございます。ありがとう……。優也さんみたいな、お父さ……ううん。お兄ちゃんが居たら良かったのになって。一緒に、ご飯を食べたりお祭りに行ったり……。もっとしたかったなって……。お姉ちゃんの話とか、もっと色々お話したかったなぁ……。優也さんもきっとお姉ちゃんのことを好きになってくれると思います。ピアノがすごく上手、なんですよ。この曲以外にも一杯弾けて、いつも隣で聴かせてくれました。優也さんは、ピアノ、弾いたことありますか? 部活とかしてましたか?

私は身体が弱くて運動が出来ないので、文化部なら入ってみたかったな……。そんな何でもないことをお話出来る人が、いなくて、お母さんにもたまにしか会えないから。優也さんも、これ以上は迷惑かもしれないし……あれ、ごめんなさい。私、支離滅裂で……。えっと、私やっぱりもう辛くて……。もう、歩くのも足が痛くて。時々苦しいのも病気みたいなんです。だから……お別れしようと思います。短い間でしたけど、ありがとうございました。あっ、ヘアピン、可愛くてお気に入りでした。ありがとう……。今日も付けてるんですよ。大事にしますね。……あの、本当に……本当は、私は、優也さんが……優也さんのことが――』


 そこで、録音は終わり、ピアノの旋律が引き継ぐ。

「あ……ぁぁ……ぅ……」

 開かれた両目から、涙が溢れ出す。それは、悲愴。後悔という悲愴の涙……。

 このメッセージの中に、何回〝ありがとう〟が含まれていた……?

 こんなにも、美笑ちゃんは僕に感謝を伝えたかったんだ……。なんで、僕は気づけなかったんだ……。

 僕は嘆きたい。もっともっと、美笑ちゃんのことを気に掛けてあげれば良かったんだ。体面なんて気にせず、もっと深く考えてあげていれば……。こんなことは……。

 美笑ちゃんはこんなにも近くに居たのに。手を伸ばしていたのに。僕が、手を伸ばそうとしなかった……。

「っ……そうか……」

 僕は知る。今更になって、ようやく二十歳を過ぎて始めて知る。

 涙にはもう一つ、あったのだ……。安堵、悲愴、そして……嘆き。これは悲愴とは違う。嘆きとは悲しみに浸され、切に願うこと。

 切に願う……何を? 美笑ちゃんは最初から、嘆いていたんだ。あの校庭で、初めて会ったときから、初めて涙を見たときから……。

 僕は最初から、間違えていたんだ……。悲愴の涙と間違え、救えるものだと勘違いしていた……。

 嘆きは救えない。その願いを受け止め、叶えてあげること。そして救われたと自らが選ぶこと。

 美笑ちゃんは死を選んだ。一抹の願いが潰え、生の幕を下ろした。美笑ちゃんは初めから嘆いていた。願ってた。この世界から、手を引っ張り陽の当たる場所へ連れ出してくれる人を。

 両親は手を取ってくれなかった。詩織さんは手の届かないところへいってしまった。

 だから……。その最後の最後の時――僕が居たんじゃないか……。

 これは自惚れなんかじゃない。美笑ちゃんは、僕の中に、一縷の望みを抱いた。

「……なんで……なんで僕は……っ!」


 今までそんな経験が無かった?

 優しくしても実ることが無かった?

 全て自分の自己満足で良しとしていた……?

 だから深入りはしないようにしていた?


 それが……美笑ちゃんの心を裏切った。思わせぶりな言葉で、突き放してしまった。

 優しさで人を救いたい。そんな奇麗事、誰だって願うさ!

 でも……心のどこかで、僕は信じていなかったじゃないか……? 救えたかもしれない命に、優しさを捧げることが出来たのに……。

 僕の目の前に、それがあったというのに……。僕の膝は崩れ、両拳を握り締めながら地面を叩き、嗚咽を漏らす。

 耳に流れるピアノの旋律は、どこまでも澄み渡り、高い空と水平線の煌きを併せ持つ音色を奏でていた。


 せめて、笑ってくれたなら……。


 僕は美笑ちゃんを、生涯守ろうと思えたのかもしれない。

 責任転嫁と言われればそれまでだろう。

 なぜなら最後に美笑ちゃんは、さようならという言葉と、笑顔を、僕に向けてくれていたのだから……。

 それは彼女の心そのままに、美しい笑みを浮かべていたのだ。

 これは、僕が彼女の心に、本当の美しい笑顔を見出せなかった悔悟の物語……。


 いつだって美笑ちゃんは、笑ってくれていた。

 彼女はカルミア。僕は彼女をミムラスだと思っていた。

 この世界にカルミアは咲いていたのだ。

 素敵な思い出と、美しい笑顔が、彼女を祝福してくれていた。

 美しく咲く笑顔、それは彼女だけのもの。


 だから彼女は、美笑だったのだ……。

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