<TIPS5「黯然失色」>

「……優しいだけじゃ、ダメだよね」


 それは、好きだった彼女の申し訳なさを含む声色だった。いつも陽だまりの様に温かで、僕を見るときには優しく目を細めながら、口角を上げて笑顔をたたえる彼女の珍しい一面だった。

 高等部2年の冬、3年に上がる前のそろそろ雪が降り始める頃。

 誰も来ない空き教室に二人きりで、僕の心には初霜が降りた。彼女のその声を聴いて、その表情を見て、僕は冷たい手で心臓を鷲掴みにされた気がしたんだ。一瞬息が止まって、裏切られたような錯覚に陥った。


 どうして……? 優しい人が好きって言った。彼女に恋をしたと自覚した日から今日まで、ずっと優しさとは何かを考えてそれを言葉に、行動に変えてきた。

 その行いは全て、彼女の為で、彼女に好いてもらえるための努力だと思っていた。クラスのみんなからも優也は優しくて、良い人だっていう認識が広まっていたんだ。当然、彼女にもその印象を残せていたと思う。


 なのに、最後の最後で……すべてを否定された気持ちだった。分からない、分からない……。君は、優しい人が好きって……。だから僕は、優しい男になろうとして……。


 ……違うだろ。それこそが、彼女の優しだってなんで気づかないんだよ。僕があれこれ考えたって、母性という優しさに男の脆弱な優しさなんて到底及びはしない。

 そうさ、全部僕の勘違いだったのだ……。彼女が優しい人を好いているのは真実かもしれない。だからといって、その先に僕がいるとは限らない。

 彼女にとっての優しさと、僕にとっての優しさにすれ違いがあっただけなのだ。だからそう……僕がいくら努力したところで彼女の望む男には全然成れていなかったんだ。それだけのこと……。

「ごめんね。私を好きになってくれて、ありがと。……私がこんなこというの変かもだけど、優也君は優しい人だから素敵だと思うよ。私より良い人がきっと……あ、ごめん」

「……いいよ、もう謝らないで。ありがとう」

「うん……。それじゃ、私行くね。また明日」

 僕はどんな表情をしていただろうか。曖昧に手を振って、彼女の気遣いに惨めさを感じ目を反らした。そんな僕の落胆に気づき彼女の表情も陰を落とした。後ろ髪を引かれたように、数秒間教室のドアを閉めるのを躊躇ったのは彼女の優しさ。

 僕を気遣う優しさ。……そう思いたいだけの未練。そんな意志薄弱な自分を断ち切るように、僕は彼女に背を向けた。


 そっと閉じられた教室のドアからはトン……という、普段聞き慣れた音が控えめに聞こえた。もう彼女の声も、息遣いも、視線も感じなかった。

 ただ、微かに感じるのは彼女の残り香。ふわふわと踊るように軽い短い髪の仄かに甘い清潔な香り。もうここに彼女は居ないんだと、香りも返してあげようと窓を開けてふと見上げた空は、かつてどこかで見上げた空と似ていた。



 中等部の頃、似たようなことがあったっけ。

 その時は、告白する前にフラれたような淡い恋心だったけれど。彼女も「優しい人がいいな」と言っていた一人だった なんとなく彼女を目で追う日々が続いて、短髪の細い髪が不規則に外に跳ねる髪型は、活発な彼女の大きなリアクションで踊るように見えたっけ。

 ああ、僕はきっと彼女のことが好きなんだと自覚するようになってからすぐのことだった。彼女が近頃よく声をかける男の子がいた。

 クラスでもそんなによく話すような男の子ではなかったが、それとは対照的に元気な彼女。それがプラスマイナスの磁力のように引かれ合ったのかもしれない。

 しばらくすると、二人は付き合ったという話が僕の耳にも届いた。

 確かに彼は大人しい子ではあったけれど、優しい人なのかどうかは僕には分からなかった。なんだか釈然としないまま、告白もしないまま、彼女を目で追うことは自然と減っていったのだった。

 彼女を目で追うことがなくなった頃、僕は窓際の一番後ろの席で外を見上げることが多くなった。その時見上げた空はきっと、こんなつまらない雲だった気がする。

 色も無くて、精彩もなく、楽しくもない。そんなつまらない空。彼女を目で追っていたのは……そうか、僕は彼女が好きだったんだなぁ。


 彼女の元気で活発な仕草が好きだった。笑う時は両手で口を押さえながら猫の様に目を細めるのが可愛らしかった。グラウンドの遠くまで聞こえるような響く声はクラスの喧騒の中でも彼女の声に気づくことが出来た。

 走るのが得意な彼女は体育の授業で、誰よりも先を走り額に汗しても涼しく咲く笑顔が魅力的だった。大きな目で僕をまっすぐに見て小首を傾げる時、外に跳ねる短い髪がふわふわ踊って揺れるのを見るのが好きだった。たまに落ち込んでた時、屋上に続く階段に座って一人、腕の中に顔を埋めている姿は愛おしかった。その姿はクラスの誰にも見せていない。

 そんな彼女に僕は目を、心を惹きつけられていた……。


 この色のない空に、彼女はもう居なかった。


 ――彼女に告白をして振られた数日後。


 彼女は同じクラスの男子と付き合ったと人伝に耳に入った。彼は部活動のキャプテンで、どちらかというと兄貴分で自分から前に出ることに臆さない頼りがいのある男だった。

 同性としてみても男気があると思っていた。しかし、彼女の前ではすごく気を遣うように言葉を選んでいるような印象を受けた。

 部活になれば力強く、彼女の前では優しかった。隣で話す彼女も、僕には見せたことのない笑顔で話している。それがとても、幸せそうに見えた。

 僕が落としてきた優しさが、何一つ繋がらなかった。優しいって、何だったんだろう……。


 僕がしてきたことって何かの意味があったのだろうか。彼女の世界に、僕はいなかった。それもそうか、僕は彼女のいない世界でズレた優しさを勘違いしたまま零してきた。

 だってそう、僕の世界にも彼女は居なかったじゃないか。お互いに別の世界に生きてきて、それが繋がるわけも無かったんだ。

 僕は最初から、間違っていたんだろうな。


 ……ああ、勝てないな。


 僕はまたつまらない雲を見上げたのだった。

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