優也編 2日目

「……朝、か……」

 昨夜は先生と友人たちと、飲み明かした。お陰で目覚めは10時。朝と呼ぶにはいささか遅い起床だった。


 ゴールデンウィーク二日目。

 昨日と同じく、空はどんよりと曇り空。ゴールデンウィーク中の週間予報では、連休が明けるまでこの天気は回復しないらしい。

 せめて清々しいくらい快晴になってくれたら、気分も変わるだろうにと思いながら僕は家を出た。

 このゴールデンウィーク中、両親は不在。休みを利用して母親の実家へ帰省している。一緒にどうかと誘われたのだが、僕はたまの休みなので辞退し、ゆっくり過ごそうと思っていた。だから時間はたっぷりある。何に使うのも自由。

 でも僕には、やらなきゃいけないことが出来た。

 ……美笑ちゃんのこと。

 少なくともこのゴールデンウィーク中は、彼女の為に時間を使おうと思っていた。

「……って、こんなことを言うと、また先生にからかわれるなぁ」

 僕が年下の子を気にかけるのは、決してそういう興味本位とか嗜好があるとかそういうのではないということを、重ねて言及しておく。

 なんというか、純粋に放っておけない。

 ただそれを年齢で加味すると、ある程度歳を重ねた女性は強さを学んでいる。

 だけれども、まだ幼い子は弱さも脆さも抱えているから、目に付きやすいということなんだ。

 まぁ単純に僕は〝綺麗〟よりは〝可愛い〟というほうが好きではあるけれど。


「うん。これなら似合いそう」

 途中、商店街に立ち寄った。雑貨から飲食店まで並ぶ、街にはよくある地域の商店街だ。その中の一つのお店に寄ってあるものを買う。これを、美笑ちゃんにプレゼントするために。

 名前のとおり笑ったらきっと素敵な笑顔だろうと思って、笑顔を見せて欲しいという気持ちも込めて、ミムラスの花をかたどったヘアピンを選んだ。

 いきなり初対面にも等しい相手に、プレゼントだなんてと思うが、そこは考慮してある。

 ヘアピンを買ってみた。受け取ってもらえなかったらやっぱり寂しいが、食べ物とか何かよりは、当たりさわり無い無難なラインだと思うのだけど……。

 遅い昼食を取った後ちょっぴりの不安も抱えながら、僕は学校へと足を向けた。


「……お」

 門を入っての第一声だった。驚きというより、安心したと言ったほうが妥当だろう。教室の窓を開けて、遠くを眺める女の子が居た。

 その表情は穏やかで、気持ちよい風に身を任せているようだった。

「おはよう!」

「あ……」

 美笑ちゃんは僕に気づき、小さく会釈をする。

「おはよう、ございます……」

「うん、おはよう」

 小さい声だったが、僕の耳にははっきり聞こえる。

 そんなありきたりのコミュニケーションを取れたことに安堵して、僕は職員室に向かう。心なしか表情は明るかった。

 ゆかり先生はちゃんと、約束を守ってくれたようだった。美笑ちゃんがここに来たら教室まで案内してほしいという約束を。

 学校に着いたのが午後三時を過ぎてしまったが、今日も美笑ちゃんと会うことが出来てホッとした。先生に挨拶をしてから、僕は教室に上がる。

 どの教室かは分かっていた。僕が馴染み深い、僕らの教室だったからだ。


「おはよう、美笑ちゃん」

「あ、ごめん、なさい……。勝手に入って……」

「あ、いや謝ることはないよ。ゆかり先生にお願いしておいたんだ。美笑ちゃんが来たら、中に入れて欲しいって」

「……わ、私の名前……」

 しまった……。僕はこの子の名前を知っていても、美笑ちゃんは僕のことを知らない。殆ど見ず知らずの僕に、名前を知られていたなんて、僕はただの不審者じゃないか。これじゃあ余計、警戒されてしまう。

「あ、ごめん。ゆかり先生に聞いたんだよ。僕は優也、ユウヤでいいよ」

「優也、さん……」

 美笑ちゃんはおずおずと、僕の表情を伺う。警戒を解くために、努めて笑顔で答えた。

「うん。ここの卒業生なんだ。連休を利用して戻ってきたんだよ。よろしくね、美笑ちゃん」

 そういうと、美笑ちゃんはこくんこくんと二回頷くと、警戒を解くように強張った両手を下ろしてくれた。

「お兄さんが、優也さん……先生が言ってた人……」

 小声で呟くような囁きは、自身の言葉を確かめる美笑ちゃんの声だ。どうやらゆかり先生が少し僕のことを話してくれたようだった。

「……あ、あの。昨日は、ありがとうございました。傘……」

「あぁ。そのまま使ってくれても良かったのに。わざわざありがとう」

「い、いえ……。借りたものはちゃんと、返さないといけないので……」

 律儀にも傘を閉じて、ボタンで止めて綺麗な形で僕に返してくれた。こういうところは女の子にしか出来ないよなぁ。しみじみ。男ではこうはいかない。

「そうだ、美笑ちゃんはヘアピンとかする?」

「……ヘアピン、ですか」

「美笑ちゃんに似合うんじゃないかなって思ってね。良かったら、付けてみて」

「あ、ありがとうございます……。でも、いいんですか?」

「もちろん。これはプレゼントだから、気にしないで」

「……はい」

 美笑ちゃんはこくんと頷くと、物珍しそうに眺めた後それをポケットにしまった。


 そして再び窓辺に行き、遠くを眺める。僕もそれにならって、遠くを眺めた。

「美笑ちゃんは休みの日、よく学校に来るの?」

「……はい。空を見るのが好き、なんです」

 空なら家からでも見えるが、美笑ちゃんは家にはあまり居たくないらしい。

だから、そういうのは全部端折る。

「そっか。でも残念だけど、今日は曇りがちだね」

「いいえ。雲も好きです。わた飴みたいで……」

「あ! 僕も昔そうだったなぁ。あの雲は何に似てるとか、ね」

「はい。あれは、ソフトクリーム。こっちは小さいわた飴で……」

 自然と頬が緩んでしまう。

 笑顔こそないものの、指をさしてあれは何、これは何と想像をする美笑ちゃんは、純粋に雲を見て楽しんでいるように見えた。

「あ、ごめんなさい。私、食べ物ばっかり……」

「はは。いいよ、なんだかお腹空いてきちゃったね」

 先ほどから視界に入ってはいたが、美笑ちゃんの空の話を終わらせるのは無粋だと思って黙っていた。

 目の届く距離に提灯が並んでいるのが見える。もちろん、祭囃しが聞こえていた。今日はお祭りをやっているみたいだ。

 今の時間では少し早いが、夕方からなら屋台も出始めて賑わってくるだろう。屋台で何か食べたり遊んだりするのも悪くないと思った。

「美笑ちゃん。これから用事はある?」

「……いえ、特にはありません」

「よし、それじゃあ一緒にお祭りに行こう」

「お祭り、ですか……」

 ほら、屋台が並んでるところ。と指をさすと、美笑ちゃんは遠くを眺める。

「でも、私は……」

「あ、ひょっとしてお祭りには行ったことがない?」

「……はい。初めてなので……。何か必要なものはありますか?」

「ううん、何もないよ。歩いて行って、好きなものを食べたりゲームを

したりするんだ」

「そうですか……。あ、でも私……あんまりお金もってないです……」

「大丈夫。僕が出すから、お金のことは気にしないでいいよ」

「で、でも……」

 謙虚で、良識のある素直な子だと思った。だから、そんな純粋さを壊さないように言葉を選ばなきゃいけない。

「それじゃあ、こうしよう。今日はお祭り体験。何か買ったら一緒に食べよう。一緒にゲームをしよう。美笑ちゃんは体験だから初回無料券!」

「初回、無料……いいんですか?」

「うん。その代わり、ちゃんと楽しむこと。これが一番大事」

「は、はい……」

 美笑ちゃんは納得してくれたようで、こくんと頷いてくれた。

 それから、いつも持ち歩いているのだろうイヤフォンとウォークマンをハンドバッグにしまって、忘れ物が無いかを確認する。

「ごめんなさい。ちょっとお手洗いに行ってきます」

「うん、分かった。あ、急がなくて大丈夫だからね。まだ屋台とか少ないから夕方に行こう。17時に校門のところで待ってるね」

 そう言うと、美笑ちゃんは小さく会釈をしてからぱたぱたと廊下を駆けていった。


 適当に時間をつぶして、約束の17時に校門に向かった。

 美笑ちゃんも時間通りにやってきたが驚いたことに、僕があげたヘアピンをしてくれていた。

「……お、お待たせしました」

「あ、うん。……ヘアピン付けてくれたんだね」

 ちょっと恥ずかしそうに、ヘアピンに手をかざしながら頷く美笑ちゃん。選んで良かった……。

「どうで、しょうか……」

「うん、似合ってるよ。それにしてよかった」

 そうして美笑ちゃんは、笑おうとした……んだと思う。でもそれは、どこかぎこちなくて、ちょっと心配になった。

「ご、ごめんなさい。うまく、笑えないんです……」

「あ……気にしないで。笑顔って自然に出てくるものだから、笑いたいと思ったときに笑ってくれればいいよ」

「はい……」

 出会ったときから、少しずつ変わってきている。そんな気がした……。

 あの悲しそうな涙から、笑顔を引き出すのは容易ではない。

 でも、それでも少しずつ美笑ちゃんの心を解きほぐせているのかもしれない。

 僕は努めて明るく答えると、美笑ちゃんを祭りへ促すのだった。


 祭りの往来に来ると、美笑ちゃんは目新しいものを見るように

キョロキョロとしていた。

 本当に、祭りには来たことがないらしい。立ち並ぶ屋台を見ては、何をやっているのか観察し満足すると隣の屋台へ……そうして、目を輝かせていた。

 年頃の女の子なら嬉々として、これ食べたい!  あれやりたい! と、せがむだろう。でも美笑ちゃんは遠慮がちで、興味はあるのだけど自分から何をしたいとは言わなかった。

「美笑ちゃん、何か食べたいものある?」

「……いえ」

「嫌いなものとかは、ある?」

「多分、無いと思います」

「えらいね。それじゃあ、最初にあれを食べよう。綿飴!」

「は、はい」

 美笑ちゃんが食べたそうにしていたのは、ちゃんと見ていた。雲に見ていたくらいだから、ずっと食べたかったのだろう。

 早速二つ買って、美笑ちゃんと食べた。そうそうこれこれ、口の中でパチパチする感じ。懐かしいなぁ、この町のは普通の綿飴と違うんだよね。すぐ口の中で無くなっちゃうけど、このパチパチ感がたまらない。

「わ……。んん……!?」

「あはは。こういう綿飴は食べたことはない? 面白いでしょ」

「はい……うわっ」

 しばらく美笑ちゃんは、このパチパチ感に目をパチクリさせながら驚いていた。

 そして次は、ヨーヨー風船。スーパーボールすくい。輪投げ……。

 遊べるゲームは全部教えてあげた。初めてにしては美笑ちゃんは、なんでもソツなくこなしていく。色々な景品を貰えて、心なしか満足気の表情をしていた……。


 ―――。


 気がつけば夕刻。

 結構長いこと遊んでしまっていたらしい。小腹も空いたところで、たこ焼きを買ってから小道のベンチに僕たちは腰を下ろした。

「よいしょっと。はー、久々だったけと楽しかったー」

「……はい」

「美笑ちゃんも凄かったよ。初めなのに決めまくりでさ」

「ごめん、なさい……」

「え? いやいや、謝ることじゃないよ。僕もゲームでは負けない自信があったのになぁ」

「あの……」

 ……ん。少し美笑ちゃんの様子がおかしい。どうしたんだろう……。

「私も、楽しかったです。でも……」

「……うん」

「どうしても、笑えないんです……。笑い方を忘れて、しまったんです……」

 笑い方を、忘れてしまった……。

 なんて、悲しい響きなのだろう。人は笑顔によって、印象を変える。そして、笑顔で誰かに何かを与えることも出来る。

 ……逆も然り。笑顔で救われることだってある。

 それを、忘れてしまったら――。きっと本人の胸中は複雑で、もどかしいのだろう。

 忘れた、ということは……もとは知っていたということ。以前出来た事が、出来なくなるということ。喪失感……。

「パチパチするわた飴は初めてで、びっくりしました。ヨーヨーの風船も初めて遊びました。輪投げも、射的も、みんなみんな……。すごく、楽しかったんです……」

「美笑ちゃん……」

「ごめんなさい……。それなのに、笑えなくて……。本当は、本当に…楽しかったんです。なのに私、約束守れなくて……」

 ぽたり、ぽたり……。美笑ちゃんが両目から、涙を零す。楽しいのに、笑えない。

 面白いのに笑顔で返せない。それがものすごく、歯がゆくて、もどかしくて、やるせなくて……。

 ここまで思い詰めてしまった美笑ちゃん。

 精一杯楽しむこと、という約束はひょっとしたら枷になっていたのかもしれない。

 僕が校門のところで言った、笑顔は自然に出てくるから、なんて……残酷な言葉だったのかもしれない。

「そんなことは無いよ、美笑ちゃん。美笑ちゃんは、ちゃんと楽しんでくれた。そして僕も楽しかった。だから、ほら、こんなに景品があるんだよ。ちゃんと、心の中で楽しんでくれてたのは分かってたよ」

「……ごめんなさい」

 悲痛な謝罪を、それ以上言葉にさせたくなくて。僕はそっと、美笑ちゃんの頭を抱いた。

「大丈夫。きっと思い出せるよ。これからは、色々楽しいことをして遊ぶんだ。そうして、毎日を楽しいことで一杯にしていこう。そうするうちに、だんだん、少しずつでいいんだよ。自分がどういう風に笑っていたか、思い出していこう。鏡に映る自分の顔を毎晩見るんだ。今日は、どんな楽しいことがあったか思い出してニコニコしよう。まぁもちろん毎日お祭りのように、輪投げとか射的とかは出来ないけど、今日のことを思い出したりしてくれると、僕も嬉しいよ」

「優也、さん……」

 美笑ちゃんは嗚咽を漏らしながら、こくんこくんと二回頷いてくれた。

「さぁ、涙を拭いて。冷めないうちにたこ焼きを食べよう」

「……は、はい」

 頭を撫でてから、美笑ちゃんの膝の上に置いてあるたこ焼きを食べるように促す。楊枝で刺して、ぱくんと一口。

「しょっぱいです……」

「あはは。それじゃあ、特製の唐辛子粉末!」

 もう一つ、口へ運ぶ美笑ちゃん。

「か、からひ……」

 当然の反応だった。もしかして、辛いの駄目だったのかな……。僕も1個食べてみる。これは……辛いな。辛い物好きの僕でもピリリとくる味だ。

「でも、温かいです……」

「……うん」

 たこ焼きを食べ終える頃には、美笑ちゃんから涙は無くなっていた。

 その間、僕らは特に会話をするでもなく黙々とたこ焼きを口に運んだ。少ししょっぱく、辛さが後を引く不思議なたこ焼きを。

 祭囃子がお祭りの喧噪を伝える中、僕たちの周りだけはゆっくりと、静かな時間が流れていた。


 しばらくして美笑ちゃんの気持ちが落ち着いた頃、僕たちはその場を後にした。

「うーーんっと。今日は久々に遊んだなー。帰りは気をつけてね」

 とりあえず、学校の校門のところまでやってきた。

 美笑ちゃんの家がどこかは聞いていないけど、分かりやすいところということで、ここまで戻ってきたのだ。

 陽は傾いているが沈んではいないので、まだ少しばかり明るい頃合いだった。

「優也さん」

「ん?」

「……まだ、帰りたくないです」

 僕は最初、まだ遊び足りないんだと思った。

 それはそれで嬉しかったし、本当の意味でお祭りを楽しんでくれたことの証だったから。それで名残惜しくて、まだ何かをして遊びたいという申し出だと思った。

 ……でも、違う。美笑ちゃんには、家に帰りたくない理由がある。

 もしくは、帰れない理由があるのか。どちらにしても、美笑ちゃんは懇願していた。

「でも……」

「……」

 服の裾をぎゅうっと握って頭を垂れる美笑ちゃん。

 どうしたものだろうか……。

 夕暮れ時だが、もう少しで辺りも暗くなってしまう。本当なら、家まで送って行きたいところだけど、家庭の事情を抱えてる子の家に行くことは逆に美笑ちゃんに迷惑になってしまうかもしれない。

 だから、あえてここで別れようと思ったのだ。

 でも、今日一日を楽しかった日として持ち帰ってもらうには、ここで突き放すのは酷だと思った。

「……わかった。でも、ちゃんと家の人に連絡を入れること」

「……はい」

「と、言ったところで僕、携帯家に置いてきてたっけ」

 ポケットを確認するが、やっぱり携帯は入っていなかった。幸い、両親は不在だ。少し家で休ませてあげることも出来るだろう。

 美笑ちゃんは携帯を持っていなかったので、家に帰ってから電話してもらうことになった。

 連絡ももちろんだが、年頃の女の子を家に招待するのは恋人でもなければ、あまりよろしくない。誤解を招きやすいし、何より相手のご両親に不信感を与えてしまいかねないからだ。

 それも踏まえて、美笑ちゃんには一言連絡を入れてもらわなければならなかった。


 学校からは、15分くらい歩いて家に着いた。

 その間、特に会話をすることもなく、静かに美笑ちゃんは僕についてきたのだった。

「電話番号は分かる?」

 美笑ちゃんはこくんと頷くと、子機をダイヤルする。しばらく耳に当ててから、ハッとして僕に子機を譲る。

 ……僕に出て欲しいのだろうか。突然、知らない男から電話が掛かってきて、お宅のお嬢さんを家で休ませているなんて、ちょっと言いづらかったが仕方がない。

「……もしもし? いたずら電話?」

「あ。……えっと、結城さんのお宅でしょうか?」

「はい、そうですが」

「今、美笑さんと一緒にいまして――」

「ミエ? うちにそんな子はいませんけど」

「え――」

「掛け間違いじゃないですか? 失礼しますね」

「あ、あの……!」

 聞こえてくるのはビジートーンだけ。電話は一方的に切られてしまった……。

「美笑ちゃん……」

「……」

 本当に掛け間違いだったのか聞こうと思ったが、きっとそれは愚問だった。美笑ちゃんは、力なく首を横に振った。

 それだけで何が起こったのか、いや何が起こっているのかを想像出来てしまった。

「義母の目には、私は映っていないんです。今日は朝から気が立っていましたから、あまり近くに居たくありませんでした。義父はもう最近家に帰ってきません。だから……連絡はしなくても良かったんです……」

 そういって俯いた横顔は、少しの寂しさと諦観と失望と。

 電話をせずとも家に居ようと居なかろうと、義母は美笑ちゃんのことを気にも留めていない……。

 これは、育児放棄とは言わないのか……?

 美笑ちゃんからすれば、そうであっても近くに居たくないのだ。人がイライラしている姿など見ても、聞いてもいたくない。

 いやそれだけじゃない。関心を持ってもらえないというだけで、どれだけ心の安定が崩れるというのか。

 人はコミュニティに生き、コミュニケーションで疎通する。コミュニティとは、そこに居るだけじゃない。コミュニケーションとは、会話だけじゃない。それを、親が教えなくてどうするというのか……。

 瞬間、業火のような怒りが込み上げる。でもそれは、一瞬で消えた。ここで再度電話をして、相手に怒鳴ったところで何も解決しない。むしろ、無意味に近い。義母は関心を示さない。美笑ちゃんは失望している。そこにどんな言葉も、届かない……。

「お母さんは、今日は遅くなるそうなのでそちらの家にも入れ

ないんです。だから……」

 どうして……。どうしてここまで美笑ちゃんが……。

「ごめん、美笑ちゃん。色々勘違いしてた。……今日は、泊まっていくかい?」

「い、いいんですか?」

「うん。気の利いたお持て成しは出来ないけどさ。お風呂と夕飯くらいは用意するよ」

「……ありがとう、ございます」

 そう言って美笑ちゃんは、深々と頭を下げた。その顔に笑顔はなかった。


 それから僕たちは、夕飯の買い物に出掛けた。

 こう見えても、僕は普段自炊している。

 ある程度のものなら出来るつもりだ。美笑ちゃんは、好き嫌いは無いみたいだったので、野菜たっぷりのカレーにすることにした。

 経済観念も二十歳になればそれなりに身に付く。

 スーパーのタイムセールを狙うのはセオリーだ。安くて安心な物を、なんていうのは世の主婦様方の常識を通り越して呼吸にも等しい。

 それくらいに、自然な行いであるということだ。

 良い具合にお腹も空いてきた頃に帰宅して早速夕食の準備に取り掛かるのだった。


 僕が夕飯の準備をしている間、美笑ちゃんには準備しておいたお風呂に入ってもらうことにする。

 着替えは、母親のものを借りることにした。

 お風呂から上がって、それに着替えて出てきたときには……なんだか、時代の流れを感じるのだった。

「……わぁ。おいしい」

「ありがとう。カレーにはちょっと自信あるんだ」

「で、でもちょっとからひ……」

「あはは。これでも中辛なんだけどね。辛いのは苦手?」

「いえ……。ひりひりするのがちょっと気になるくらいで、嫌いではないです」

「そっか。僕は辛いの大好きなんだけど、美笑ちゃんが苦手だったらいけないと思って、控えめにしてたんだ」

「……ゆ、優也さんが作る辛いカレーなら、食べてみたいです」

「お、本当に? 激辛になるよ?」

「げ、激辛ですか……。だ、大丈夫です。頑張ります」

「あっはは。無理はしないでね。じゃあ今度遊びに来たときはご馳走するよ」

「……はい」

 静かな、静かな……。

 だけれども、ありふれた会話というコミュニケーション。

 時に人は、言葉ではなく別の方法でコミュニケーションを取る時もある。

 でも、会話とは人に許された疎通の手段、方法としてだけじゃなく、お互いの関係の表現も如実に表すことが出来る。

 少なからずこの数日で、僕は美笑ちゃんの信頼を得られたのだと実感することが出来た。きっかけは何であれ。美笑ちゃんの心は今、安らかであって欲しい。まず最初にすべき信頼の構築と、心の安寧を築くことが出来たと思う。

 もう少しで、笑顔を引き出せるかもしれない。……そう思った。


「優也さんは、音楽って聴きますか?」

 ご飯を食べ終わり、月明かりだけの縁側に二人して座っていた。

 昼間は晴れることが無かった空の雲は途切れ、間から綺麗な月が顔を覗かせている。

「うん。歌よりも、曲……を聞くかな。ピアノとかヴァイオリンが好きだよ」

「あ、じゃあ……」

 そう言って美笑ちゃんはハンドバッグの中から、ウォークマンを取り出した。

「聴いて欲しい曲があります」

 イヤフォンを片方だけ借りて聴いてみる。

 そこから流れてきたピアノのメロディ……。それはまるで、澄み渡る高い空のようで。燦然と広がる水平線のようで。

 爽やかで温かで、だけれども一抹の寂しさも含む……そんな音色だった。

「……素敵な曲だね」

「〝beautiful smile〟という曲です」

「この曲は……」

「はい……。お姉ちゃんが私のために作ってくれた曲です」

 美笑ちゃんは遠くを見つめながら、ぼんやりと雲を眺めるときのように話してくれた。

 美笑ちゃんのお姉さんはピアノが好きで、ピアノ教室に通っていたという。発表会には美笑ちゃんも見学しにいって、いつもお姉さんのピアノを聴いていたそうだ。

 そんなある日、お姉さんは美笑ちゃんを呼んでこの曲を聞かせてくれた。「美笑の曲が出来たよ」と、言って。

 その時に一緒に録音をしていたらしく、そのデータは大切にCDに保存されていたのだ。その日は美笑ちゃんの9歳の誕生日だった。穏やかで温かい、そんな日常の中で起こった美笑ちゃんにとっての特別な日だったのだ。

「この曲を聴いていると、お姉ちゃんが近くにいるように感じられて安心出来るんです」

「……美笑ちゃん」

 もう片方のイヤフォンを耳に付け、両手を添えるようにして聴いている美笑ちゃんは、心なしか笑みを浮かべているようにさえ見えた。

 でも、少しニュアンスが引っかかった。

 近くにいるように、というのは……? こんなにも敬愛しているお姉さんのことだ。どうして……?

 また妹想いのお姉さんなのは美笑ちゃんの口振りから信頼が窺える。

 それなのに美笑ちゃんの、今の過酷な状況で手を差し伸べない訳がない。ひょっとして、お姉さんは……。

 しかし、思考しようとした瞬間。ドンドンと空から音が降ってきた。……花火だ。

「……わぁ」

「おお。今年もでかいなぁ……」

 ちょっとした自慢だが、うちの庭は花火を見るには良い隠れスポットだった。

 毎年祭りへ行っていた覚えがあるが、どこか適当な場所を探すよりはうちへ帰ってきて縁側で見たほうがよっぽど良く見える。

 そんな、僕たちだけの特設ステージで。しばし、空を見上げていた。

 縁側の特設ステージに月明かりで照らされた二つの影は、片方ずつイヤフォンを付けながら、ピアノの音色と共に雲の隙間を縫うように打ち上がる花火を出すのだった。

「……綺麗、です。本当に」

「綺麗だね。これだけは毎年見ても見飽きないよ」

「うん……綺麗……。綺麗……」

 うわ言のように綺麗を繰り返す美笑ちゃん。ちょっと不思議に思い、目を向けると……。

 空を見つめながら、大きな瞳に花火を写しながらぽたりぽたりと、涙を流していた。この時、なぜ美笑ちゃんが涙を流していたのか僕には分からなかった。それは悲しみでもなく、懐かしみでもなく。花火の向こう側に、何を見ていたのだろう。

 僕は掛ける言葉が見つからず、美笑ちゃんの頭を撫でる。心が見えなくても、自然とそうするべきだと思ったからだ。

 そうすると美笑ちゃんは、ゆっくりと身体を傾けてこてん、と頭を僕の胸に預けてきた。顔は空を向いたまま。

 僕は手を肩にまわし、同じように花火を見つめなおした。

 ……今は、これでいい。これでいいんだ……。

 掛ける言葉が見つからなくても、心が分からなくても、今傍に居てあげられるのは僕だということだから。しばらくして花火が終わり星々を八雲が再び隠す頃、美笑ちゃんを見ると小さな寝息を立てていた。

 起こさないように、そっと抱えてベッドまで移動する。布団をかけると、寝返りをうった。

 僕はそれを見届けてから、居間に戻った。テレビを消してソファーに深く腰掛ける。


「さて……」

 僕は思考する。考えなければならないこと、それは……育児放棄についてだ。

 とはいえ、僕の人生は裕福とは言えないまでも五体満足で、順風満帆な学校生活をおくらせてもらってきた普通の人間だ。

 ……いや、普通って何なのだろう。

 自分の思想や価値観が基準なだけであって世間一般的に〝普通〟などと誰が決められるというのか。

 普通でなければ、異常なのか。……やめよう、言葉で美笑ちゃんを貶めるのは。

 そもそも、僕の経験知では育児放棄というものに触れたことが無い。であれば、調べる他ないだろう。

 まずは、ベースとなる知識からだ。

「刑法218条……老年者、幼年者、身体障がい者、病者を保護する責任がある者が、これらの者を遺棄し、またはその生存に必要な保護をしなかった時。保護責任者遺棄等罪が適用される」

 これだ……。僕たちがいわゆる育児放棄と聞いて連想される罪は、この「保護責任者遺棄等罪」に該当する。

 適用されれば、3月以上3年以下の懲役が科せられる。仮に死亡させた場合は219条の保護責任者遺棄〝致死傷罪〟になって、15年以下の懲役または50万円以下の罰金か……。

 じゃあ、保護責任者っていうのは誰にあたるのだろう。

 通常であれば親等の親権者だが、その子が実の子であるかどうかは関係ないらしい……。

 やはり、例え血の繋がりが無いにせよ今の親権者は美笑ちゃんをしっかり監護する義務があると言える。

 では、どのような場合が育児放棄として認められるのか。問題はそこだ。僕の倫理観や価値観は、主に個人の道徳でしかない。

「児童虐待防止法……。近年子どもの虐待が社会問題化してきたことにより、児童福祉法とは別に制定されることになった。主に、4つに分類されている……」

 まずは身体的虐待のケース。

 子供の身体に外傷を負わせる、もしくは生じる恐れのある暴行を加えること――。

 つまり、暴力全般ということだろう。当然だ、誰であろうと暴力で虐げて良い道理なんて存在しないはず。

 次に性的虐待のケース。子供に対してわいせつな行為をすること、または子供にわいせつな行為をさせること――。

 これも分かる。身体の未発達な子に対して行為に及ぶなんてもっての他だ。

 青少年保護育成条例でも「何人も、青少年と性交または性交類似行為を行ってはならない」としている。この場合の青少年の定義は、各自治体によって異なるが主に6歳以上18歳未満の未成年のことを指している。

 三つ目がネグレクト。これが今回最も重要な項目だ。

 子供の心身の正常な発達を妨げるような著しい減食、または長時間の放置、保護者以外の同居人による虐待行為と同様の行為の放置、その他の保護者としての看護を著しく怠ること――。

 難しい所だが、美笑ちゃんは〝家に居たくない〟といった。

 その理由はまだわからない。ネグレクトが起こっているのか、それとも美笑ちゃんの心の問題なのか。それが分からないことには、育児放棄の決定的な証拠にはならないだろう。

 最後に、心理的虐待。

 子供に著しい心理的外傷を与える言動を行うこと――。いじめや、差別、ハラスメントも含まれるだろう。言葉も凶器であり人を殺すこともある。

 家庭もある意味では檻であり、牢であるかもしれない。

 なるほど……具体的な事例はないだろうか。出来るだけ多くのケースが知りたい。

「過去の事例は……あった。典型的なケースは、十分な食事を与えていなかった。病気になっても通院させなかった。下着や洋服を洗濯せず不潔なまま放置していた。学校に行きたいと希望しても通学させなかった。暑い日差しの中、車の中に放置した。

寒い時期に十分な防寒着を付けずにベランダに放置した……。親はパチンコなどの娯楽に興じて、何時間も育児を放棄していた……」

 なんだよこれ……。

 何なんだよ、それ……。僕はこんな世界知らない。僕がのうのうと生きてきたすぐ隣で、こんなことが起きていたのか……。

 一体どれだけの子供たちが生きながらにして、心を擦り減らしていたのだろう。自分の一番身近な人間を頼れなかったら、それもまだ子供であれば他に行く当てもなく、どうやったってその状況から逃げ出すことなんて出来ない。

 実質的な、精神と肉体の軟禁状態だ。

「平成20年度の、厚生労働省調査……? 児童相談所が対応した児童虐待の件数は全体で42664件……! その内ネグレクトの件数は15905件で身体的虐待についで2番目に多かった……?」

 そんなに……なんて数だ……。

 全体の約四割近くがネグレクトだったなんて……。もちろん、その上には暴力があるが、どれもあってはならないのに桁が恐ろしい。ここ15年の間で虐待や育児放棄の相談件数は、7倍から8倍にもなっているらしい。

 多すぎる、なんでこんなにも……。

 ダメだ、感情的になっては目的を見失ってしまう。一度冷静になろう……。

 先ほど電話したときに義母と思われる女性の声は、とても無気力そうだった。それが無関心なのか、疲労なのかはあの場だけでは推察できない。

 美笑ちゃんは、ちゃんと衣食住は与えらえているのだろうか。華奢で小柄なのは生まれつきなのか、それとも……。

 確かゆかり先生は、義母たちとは全くと言っていいほど会話が無いと美笑ちゃんから聞いたと言っていた気がする。そんな状況では家に居たくないのも分かるが、ひょっとしたら無関心な義母はちゃんとご飯を作っていないのではないか。

 それに、休日にもかかわらず美笑ちゃんは、制服のスカートを履いていた……。

 偶然? たまたま着替えていなかった? もし本当に無関心だったのなら、美笑ちゃんの世話を何一つしてないのではないか……。

 全部が、最悪の方向に繋がってしまう。

 そう思うと、すでに結城家は家庭崩壊しているんじゃないかという気さえしてくる。

 これはもう育児放棄なんじゃないか……? 少なくとも、その可能性があると児童相談所に電話したっていいのではないだろうか。


 ふと、時計を見上げた。時刻は9時過ぎ……。

 これから電話をするのはいささか失礼ではあるが、やはり一報は入れるべきだと思った。

 それに、あの時は突然で言い返せなかったが、一言……いや、三コトくらい言わなければ気が済まない。無意味なのは分かっている。頭では理解出来ても、感情を抑えられないこの矛盾。

 こんなことがあってはいけないんだ。他所の家の事情とはいえ、これを見過ごすことは僕が自分を許せない。

 今一番悲しんでいるの誰だ? 美笑ちゃんに他ならない。例え血の繋がりがなかろうと、同じ屋根の下、生活を共にする家族を蔑ろにしていい訳が無い。

 離婚や再婚のことは、僕にはまだ分からない。だけど、それを理由に美笑ちゃんに不幸を強いるのは間違ってる。

 まずは、もう一度結城家に電話して美笑ちゃんは今夜、うちに泊まることを伝える。

 そして、今の状況を美笑ちゃんは悲しんでいる。仮にも親権者ならもっと面倒を見てあげてほしいと、余計なお世話だろうと言おう。

 それから……児童相談所にも電話だ。匿名じゃなく、ちゃんと名乗って現状を伝えてみよう。何か良いアドバイスをもらえるかもしれない。


 ……よし。僕は思考をまとめ、子機を取る。

「……履歴が、消えてる」

 いや、消されている? 誰に?

 ……この家には今、僕と美笑ちゃんしかいない。ということは、ひょっとして美笑ちゃんに……? 僕に、再度電話を掛けさせたくなかったのだろうか……。

「……ごめん、なさい」

 その時、僕の持つ子機に手が添えられた。

「ごめんなさい。私が、消したんです……」

「美笑ちゃん……」

 目が覚めてしまったのだろうか。そのまま、両手で僕の腕を掴む。

「……優也さんは、優しい人です。だから今しようとしてくれていることは、正しいことなんだと思います。でも、正しいことをしても聞いてくれないこともあります。……もう、いいんです。あの人たちとは、もう優也さんには話して欲しくないんです」

「……」

 美笑ちゃんの手に、少し力がこもる。それだけで、僕は大きな間違いをしていたのだと気づいた。

 それが正しいことだったとして、世の中評価されるとは限らない。逆も同じで、悪いことだったとしても、制裁を受けるとは限らない。

 伝えるべき人がいて、それを聞く人が居て初めて意味が生まれる。

 僕は正しい行いをしたと、相手を叱り付け、それで満足しようとしていた……?

 結果的にそれは、美笑ちゃんの笑顔に繋がると信じて正義感という奇麗事で誤魔化そうとしていた……?

 ……それは、優しさでもなんでもない。人に与えるべき優しさを、自己満足にしてはいけないのだ。間接的でも、直接的でも、優しさとは受け止めてもらって初めて

成立する。

「ごめん……美笑ちゃん」

 僕は、優しさで人は救えると思っている。

 でもそれは、美笑ちゃんに受け取ってもらって初めて、笑顔に繋がるのだ。

 美笑ちゃんが望まないことをしたところで、それは僕の自己満足でしかない。でも、それでも……これじゃああまりにも……。

 優しいだけじゃ、駄目なのか……?

 先生の言葉が蘇る。過去の記憶もフラッシュバックして、顔を歪めた。


 ――優しいだけじゃ、駄目だよね――。


「……ありがとうございます、優也さん。その気持ちだけで、私はすごく嬉しいです。本当に、ありがとう……」

 なんて、健気なんだろう……。

 こんなにも辛い境遇の中で生きて、笑顔を取り戻したいのに、僕にまで気を遣って……。

 僕は今、どんな表情をしていたのだろう。

 受話器を握りしめながら、一体どんな顔を美笑ちゃんに向けてしまったのだろうか。優しさというのは、人の心だ。

 心は、想いを映す鏡でもある。

 だから、僕には美笑ちゃんの優しさが分かる。だけど……美笑ちゃんの心の奥が分からない……。

 僕は悔しかった。美笑ちゃんの優しさや、健気さが分かるのにそれは僕に対する気遣いなのだ。僕が美笑ちゃんを救ってあげたいと思っているのに、逆に美笑ちゃんに

心労を掛けてしまっている。

 それはつまり、近づいていたようで何も変わっていないのだ。

 固く閉ざされた心は開くどころか、どこにも扉が見えないんだ……。

 美笑ちゃんが望んでいるのは、優しさじゃないのかもしれないと先生は言っていた。それじゃあ一体美笑ちゃんは、何を望んでいるのか――。

「私も、ここで寝ていいですか?」

「あ……うん。でもソファーだと身体が痛くなるかもしれないよ?」

「大丈夫です。……一緒が、いいですから」

 美笑ちゃんはゆっくりとソファーに身体を預け、目を閉じる。夢うつつだったのか、寝ぼけ眼だったのかもしれない。

 すとん、と……。ソファに毛布を被せるように身を委ねていた。僕は掛けるものを持ってきて、美笑ちゃんに掛けてあげる。

 そうする頃には、美笑ちゃんは小さな寝息を立てていた。

 僕も反対側のソファーに横になり、天井を見上げた。

「優しいだけじゃ、駄目なのか……」

 本当の優しさは、どこにあるんだ――。

 僕の知る優しさでは、人を救えないのだろうか……。言葉で示せる優しさ。態度で示せる優しさ。想いを伝える優しさ。

 ……優しさというものが分からなくなる。

 そういえば、こんな大事な時にお姉さんはどこに行ってしまったんだろう。

 美笑ちゃんが敬愛していて、お姉さんも妹想いなのは分かった。こんな状況を知れば、放っておかないに違いない。

 どこか遠くへ、離れ離れになってしまったのだろうか。美笑ちゃんの安らかな寝顔に、答えは映らない。


 横で寝息を立てる美笑ちゃんが、笑ってくれる日は来るのだろうか……。

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