【Section1】
優也編 1日目
「私は……もう、嫌なんです……」
少女は泣いていた。
まだ年端もいかない少女は、肩を小刻みに震わせて、両手で顔を覆いながら嗚咽を漏らしている。
僕はただ、少女の肩を抱くでもなく、頭を撫でるでもなく、どうすれば少女の心を癒せるのかと言葉を捜していた。
……見つからない。
涙を止めるだけでは駄目なのだ、少女は救われない。
涙を拭いてあげるだけでは駄目なのだ、少女は救えない。
僕は後に思う。今日この日、雨が降る学校の校庭で、少女は僕に告げたのだ。
助けて欲しい、と……。もしもそれに気づけていたなら……と。
しかし、もう遅い。少女はもう……消えてしまったのだから。
その日以来、少女は姿を見せなくなってしまったのだから。
あれは……そう。
五月のゴールデンウィーク。少女の心のように晴れることなく続いた、
梅雨空の五日間。
せめて、笑ってくれたなら――。
僕は少女を、生涯守ろうと決意出来たのかもしれない――。
―――。
――――――。
「今日も降りそうだなぁ……」
僕はゴールデンウィークの休みを利用して実家に帰ってきた。現在は一人暮らしだが、実のところ実家はそんなに離れていない。
仕事場に近いところということで、隣町に住まいを置いている。
仕事を始めて三年目。二十歳になった僕は、久々に地元の母校に顔を出そうと考えていた。理由は、ちょっぴり早い同窓会。
成人式で久々に再会し、特に仲の良かったクラスメイト達とは連絡先を交換していたのだ。近いうちにまた集まろう、せっかくなら僕たちの母校で……。
そんなノリで企画された今回の同窓会。
僕のように仕事を始めた人もいれば、大学や専門学校に通っている人もいる。
皆の都合が合いそうな時といえば、直近でゴールデンウィークだろう。今年は五連休だ。
大型連休ということもあって、学校にいる先生たちも少ないに違いない。遠方に引っ越してしまった人は残念だが、地元に近い人たちには声を掛けて予定を組んだのだった。
当然、学校も長期連休に入ることもあって突然押し掛けるわけにはいかないので、僕らは事前にアポイントをとっておいた。
当時担任をしてくれていた先生に話は通してある。きっと、門を開けて待ってくれているはずだ。
「ん? あの子は……」
門を入り、職員室へ行こうとした時。校旗を揚げる支柱の下にちょこんと座っている女の子がいた。
ここの生徒だろうか。一見、小柄で小学生かとも思ってしまうがあのスカートの色は中等部の制服だ。上着は私服のようだけど、少女がここの生徒であったとしても不思議ではない。
この学校は、中高一貫である。女生徒の制服はスカートで色分けされていた。
中等部が緑を基調としたチェック柄で、高等部が紺を基調とした赤いラインの入ったチェック柄のはずだ。
その表情はどこか虚ろで、焦点が遠い。
考え事をしているのか、疲れているのか分からない。僕は声を掛けようと、手を上げて……。
「こん……っ」
言葉に詰まる。少女の目から、涙が零れたのだ。
どうしたんだろう……。何かあったのだろうか。僕は誰かの涙を
見たとき、たとえ小さい子であったとしても、楽観視出来ない性質だった。
あの年頃くらいの子なら、誰かとちょっとケンカをしてしまったとか、何かで失敗してしまったとか。そういう楽観には思えないのだ。
涙には必ず理由がある。そして人の涙には二種類ある。一つ目は、安堵。二つ目は、悲愴。
僕は少女を見て後者だと思った。だから、言葉を掛けてあげよう。辛いことがあったなら、聞いてあげよう。
優しさで人は救えると、僕は思っているから……。
しかし、もう一度少女に声を掛けようとしたところで呼び止められた。
「優也君、久しぶりね。三年ぶりかな」
「あ、先生。お久しぶりです」
声を掛けてきたのは、高等部の時に担任だったゆかり先生だ。
当時は新任で初々しさがあったが、三年を経た今はそれなりに落ち着いてきたのだろう、表情から見て取れる。
歳もそんなに離れていないから、先生というより近所のお姉さんという感じがしていた。でもそれを言うと拗ねるので、みんな口にしないという暗黙の了解があったっけ。
「なんだか、逞しくなったねぇ。社会人って感じするよ」
「はは、まだまだ新米です。……ところで先生、あの子はここの生徒ですか?」
「あの子? んー?」
先生は僕の肩越しから目をやるが、いまいち反応が分かりにくい。
僕は振り返り、そこの少女のことだと言おうとしたが……。
「……あれ?」
さっきまで支柱の下で座っていた少女は、居なくなっていた。僕がゆかり先生と挨拶を交わしている少しの間に。
もしかしたら、人が来たことに驚いて帰ってしまったのかもしれない。
ただ、少女が零した涙が頭からついて離れない。まるで、悲しい夢を見たあとの寝覚めのようで……。
もちろん夢なんかではなく、目の前の出来事だった。
少女の目は虚ろで、涙を零すほどのどんな理由があったのか。それが魚の小骨のように残り、僕に思考させる。
……。
目は口ほどにモノを言う。
心情を察する上で、目は重要な位置を占める。僕の短い人生の中で培われきた色々な不幸が首をもたげてきた。
目が虚ろ。虚無。虚構。虚偽。虚心……。いやあれは、虚無だった。人は物思いに耽るとき、視線が上を向いたり下を向いたりする。加えて、横の動きが重なるとその思い詰め方は倍になる。それは深く、悲しいほどに。
虚無な目で、右下を向いて俯く少女。そして零した、大きな涙……。
まるでそれは――。
「何してるのー? 置いてくよー?」
「あ……今行きます!」
思案していると、ついつい周りのことを忘れてしまう。ゆかり先生は歩き出し、ついてこない僕に声を掛けてきたのだ。
慌てて先生のところまで行き、スリッパを借りて校舎の中へ入った。校内は掲示物こそ変われど、青春時代を過ごした記憶そのままだった。
とはいえ、まだ三年しか経っていない。感慨を覚えるには少し早いだろうか。
先生の後ろ姿を見ながら歩く廊下は三年前の映像を投影すれば、ありありと当時の喧騒が聞こえてくるようだった。
「どう? ちょっぴり懐かしい?」
歩きながら軽く振り向き、流し目で僕をみやる先生。
「そうですね。ゆかり先生も変わってなくて、安心しました」
「……優也君、女性に対して変わってないって言うのは二つの意味で取れるんだけど?」
「も、もちろん良い意味で、です」
「うふふ。社会人になって、お世辞も学んだってことにしておきましょう」
ゆかり先生は小悪魔の角を生やして笑う。こうして僕をおちょくるのは昔のままだ。ということは、社会人になっても僕は子ども扱いされているというわけで……。
「さぁ、入りましょうか。あなたが最後よ」
懐かしいアルミサッシのこする音を立てて、教室のドアを開けた。
そこには学校生活を共にしたクラスメイトがいた。
特に仲の良かった男友達二人と、女の子二人。みんなもう成人して、社会に出ている。僕とてそれは同じだ。
三年で見違えるほど変わったという友人はおらず、良く言えば大人びた、悪く言えば変わらなかった。
おっと。女性に対しては変わらないは言わないほうがいいと学んだばかりだ。
僕は無難に、皆さんご機嫌麗しゅう、と答えた。
「あはは、優也くんだー。ご機嫌麗しゅう!」
「優也、久しぶりー。咲季、もっとお上品に、御機嫌よう、でしょ」
「なんだよそれ。普通に挨拶でいいだろー? オホン、久しいではないか優也殿」
「どこの貴族だお前ら……。優也もご機嫌麗しゅうなんて、誰が来たかと思ったぞ」
「うふふ。あなたたちは、本当に賑やかねぇ。はい、みんな御機嫌よう!授業始めるよ!」
「そこでノってくれる先生も確信犯!」
そして溢れ出す笑い声。僕らは久しぶりの再会に喜び合うのだった。
あの頃の懐かしい香りと、楽しかった思い出と。梅雨空が少し残念だったが、僕たちは先生を囲んで当時の思い出話を振り返りながら会話に花を咲かせた。
一人暮らしをしながら仕事をする人、地元に残り実家から通う人、就職先は県外を選びこの街を出ていく人など散り散りになったクラスメイトたち。
今日集まってくれた数少ない友人たちは、地元に残っている人たちだ。僕も隣町とはいえ、近場であることには変わりはない。
先生が授業スタイルを始めたものだから、それぞれ挙手制で覚えているイベントやアクシデントなどを挙げていった。
学生の時分には授業などつまらないものだろう。それでもみんなゆかり先生の現国の授業だけは好きだった。この先生の授業は分かりづらかったとか、急に小テストを出してくるあの先生はきっと性格が悪いとか、チョークも黒板消しも投げてくるゆかり先生はきっとソフトボール部だった等々……。
あること無いことを冗談めかして笑いを誘っていた。
学園祭や体育祭などのイベントは、中高一貫ということもあり他の学校とは規模の大きさからして違う。
この地域には学校が少ないのもあるが、全校生徒だけでなく保護者も集まるとなればこの学校がどれだけマンモス校だったかは、改めて感じるものばかりだった。
そんな中で、クラスメイト消失事件があったりしたが大抵はサボってる人たちの溜まり場に居て、ゆかり先生によって制裁されたのだった。彼らは何回鼻にチョークを詰め込まれたかを知る者は居ない。
様々な話をしていく中で、この広い学校も久々に見て回ろうということになり一同懐かしの学校巡りへと赴いた。
高等部の校舎から中等部の校舎へ、そして職員室で当直の先生たちに挨拶をしつつ……音楽室では、ゆかり先生の後輩である新任の先生を紹介された。
真剣にピアノを弾く表情を見て、僕の頃にも音楽担当の先生が女性だったらよかったのにと思ってしまった。どうやら皆も同じことを思ったらしく、新任の先生に演奏をせがんでは聞き入っていた。
ゆかり先生もピアノを弾くことは出来るが、この先生の演奏は比じゃないらしい。センスとか技術だけじゃなく、とても情緒的な印象を受けたのだ。
綺麗系なゆかり先生とは少し違い、可愛らしい感じの雰囲気がある新任の先生だった。
小さな演奏会を終えた僕たちは、先生にお礼を言って音楽室を後にした。
―――。
それから早いもので、夕刻……。
数時間はあっという間だった。
音楽室を出た後も、体育館や視聴覚室など色々と場所を変えて、当時を懐かしみながら歩いた時間は、本当にあっという間に過ぎてしまった。
僕らは、みんなで夕飯を食べに行こうという話になり、職員入口のところで先生と別れることにした。
「ごめんねー。私もご一緒したいんだけど、今日は当番の日だからもう少し居なきゃいけなくて」
「僕たちで何か手伝えるなら、やりましょうか?」
「いいのいいの。それよりみんなは、ゆっくり交友を深めて下さいな」
「縁センセー。そんなに仕事ばっかりしてると、婚期逃しますよー」
「そ、そんなことは、あなたたちに心配される必要はありません!」
「あはは、大丈夫。先生美人だもん!」
「ほらほら、囃すのはそのくらいにして。先生も良かったら仕事終わった後、来てくださいね。私たちはいつものお店にいますから」
「ありがとう。出来るだけ早く済ませて、お店に行くからね」
先生はお約束のウィンクを返して、職員室へ戻っていく。
「……よっしゃ。これで先生のオゴリだぜ!」
「こらー! 聞こえてるぞー! 割り勘だからね、割り勘ー!」
地獄耳……。
まぁ僕たちも社会人だ。いつまでも先生に頼っていてはいけないな。
僕はそんな会話を耳で聞きながら、視線はずっとその先に向いていた。 ……少女が、また居たのだ。
しかし、数時間前見たときの物悲しさはなく、静かに目を閉じて
イヤホンをしていた。
それだけのことなのに、僕は目が離せない。あれは杞憂だったのかと確かめたかった。僕の周りにはみんなが居て、少女の周りには誰もいなくて……それがとてつもなく遠い距離のような気がして……。
声を掛けたくても掛けられない、そんな遠い世界の光景のように思えた。
その時、ふと少女は目を開けた。そしてゆっくりと……こちらに目を向ける。
「……あ」
目が合う。……光が宿らない目。
瞬き一つ、少女も同じように少し驚いたような顔をした。ちょっぴり
だけ生気を取り戻し、慌てて俯く。
戸惑うように視線を彷徨わせ、左手で耳を掻き揚げる。短く整えられた真っ直ぐな髪が、さらさらと畳まれて小さな耳が露になった。
じっと見続ける僕は、きっと少女からすれば不審者と思われたかもしれない。
もう一度、ちらっと僕を見るとおずおずと会釈をした。僕もぎこちなく頭を下げる。コミュニケーションが取れたことに安堵した僕は、それで良いと思った。
コミュニケーションが取れなかったならまだしも、意思を示してくれたのだから僕の杞憂だったと思ったのだ。……そう思ってしまった。
この時すでに、少女はもう追い詰められていたなんて気づける訳もなく……。
それが僕と少女の、出会いだった。
「おーい優也ー、行くぞー」
「あ、ごめん! 今行くよ!」
後ろ髪を引かれる思いで、僕はその場を離れる。少女を残したまま……。
空はいよいよ暗く。あと30分もしないうちに、雨が降り出すだろう。そうなれば、校庭も水溜りができ、傘が必要になるだろう。
少女は傘を持っていなかった。
でも、この天気だからそろそろ少女も帰宅するに違いない。漠然とそう思った。
梅雨空のように曇天で、一抹の不安の残るそんな出会いだった。
———。
――――――。
「……気になる」
駄目だ、気になって仕方が無い。
僕たちはいつものお店へ向かっていた。その間ずっと少女のことが気になって、みんなの会話に参加出来ずにいる。
あれから15分くらい歩いたのだろうか。雨が降りだしていて、近くのコンビニに立ち寄りビニール傘を買った。これが意外と高い……。
雨の音を聞いていると、あの子はまだ学校で傘も差さずに居るんじゃないだろうか……と思ってしまう。いやそんなこと、僕の気にし過ぎだと笑われてしまうだろうけど。
でも、もしも……。そう考えると気になって仕方が無い。それを考えてしまうと、僕の思考はぐるぐると回り続ける。
そんなIFの袋小路を、僕は思考の迷路と呼んでいた。
そしていつも思う。出口が分かっているなら、そこへ行けばいい。動かずそこで思考を続けているのは、自ら迷路で彷徨っているのと同じだと。
僕はその出口に向かうべく、みんなに告げた。
「ごめん! ちょっと学校に忘れ物した。先に行ってて!」
「お、おう。転ぶなよー」
僕は、もと来た道を逆走していく。走らなければならない訳ではない。
ただ、早く傘を届けたくて、自然と足を急がせた。
「……はぁ、はぁ」
三年というのは恐ろしい。僕の体力は何kmも走らずに息切れした。校門に掴まって、呼吸を整える。……あの子は――。
「……いた」
僕の想像どおり……ではなく、少女はちゃんと雨がしのげる体育館の屋根の下にいた。
でも傘は持っていない。帰るに帰れないのだろう。僕はゆっくりと、驚かせないように少女に近づいていった。
「こんばんわ。雨、降り出してきたね」
「……」
少女は一度こちらを見て、こくんと頷くとまた遠くを見つめた。
「多分しばらく止みそうにないかもね。傘は持ってきてない?」
「……はい」
むむ……。やっぱりまだ警戒されているみたいだ。
当然といえば当然か。いきなり声を掛けてきたのが、知らない男の人となれば不審者だと思われても仕方が無い。
「はい、これ。あんまり帰りが遅くなると家の人が心配するよ」
「……それは大丈夫、です……。まだ帰らなくても……いいんです」
「え? でも、いつまでもここにいると冷えるよ。この傘使っていいから」
「で、でも……お兄さんが……」
「気にしないでいいよ。もとより、そのつもりで戻ってきたんだからね」
「……」
不思議そうに、傘と僕の顔を交互に見る少女。もう一度、使っていいよという意味で頷くと少女もこくんと頷いてくれた。
「ありがとう、ございます……」
「どういたしまして」
そして少女は、小さく会釈をしてから背を向けた。その後姿を校門を出るまで見送る。
少女に、あまり表情の変化は無かった。
歳相応の対応と、淡々とした表情だった。何かの変化を期待したわけではないが、やっぱり元気がないなと思った。
「あ……そういえば、名前も聞いてないや」
自己紹介すらしていない。
……まぁ、お見合いを始めようってわけじゃない。また会うことがあったらその時することにしよう。
「優也君」
勤務時間が終わったのだろう、ゆかり先生が声を掛けてきた。
「ひょっとして、優也君。美笑ちゃんと知り合いなの?」
「いえ……初めて会った子です。美笑ちゃんって名前なんですね」
「うん、結城美笑ちゃん。去年入学してきた子なんだけどね。あんまりクラスに馴染めてないみたいなの。……担任の先生も、あまり熱心な方じゃなくてね」
「……そうなんですか」
あの子の……美笑ちゃんの涙を思い出す。
もしも担任が、ゆかり先生だったなら……と思うのはきっと都合のいい考え方だ。
もちろん、ゆかり先生は生徒受けは良かったし、親身になってくれる良い先生だ。
だからきっと、自分の教え子にそういう子が居たら放っておかないだろう。
でも、先生も社会に生きる人。体面上、中等部の生徒の一人を気にかけることは、はばかられるのだろう。それに、ゆかり先生に預ければ問題解決……なんて他力本願の極みだった。
だから僕はそこまで思考が至って、それを口にすることはしない。
「あの子は夕方……美笑ちゃんは、あの場所に座って泣いていたんです。それはクラスでの不和だけじゃ、ない気がしました」
「……やっぱり君は、優しいね。それでわざわざ戻ってきて、傘を貸してあげたの?」
「そうです。なんだか、放っておけなくて……」
「なるほど、優也君は年下の女の子が大好きだもんねー。大人の女である私に見向きもしなかったくらいだし?」
「な、何言ってるんですか。誤解を招くようなこと言わないで下さい。僕は本当に心配で……」
「ふふ、ごめんごめん。茶化すところじゃなかったね」
先生は茶目っ気のある笑顔でそう言った。
「優也君には話してもいいかな。本来はプライバシーだからあんまり話せることではないんだけれど、今の君は……もうそういう分別は付けられるよね?」
「……はい」
「うん。実はね、美笑ちゃん……ご家庭が今大変みたいなの」
「家の事情、ですか?」
「家の……というよりはご両親の、かな。今のご両親は再婚された親御さんで、血縁関係は無いみたいなの」
「え? 無いって……」
「法律って残酷よね……。美笑ちゃんの本当のお母さんは近くに住んでるんだけど、本当のお父さんは都会のほうにいるらしいの。最初の離婚の時は、お父さんに引き取られたみたいなんだけど、そのお父さんとの再婚相手の女性もあまり教育熱心ではなかったみたいで、しばらくして離婚。今度はその義母に引き取られて、今この町で
生活してるみたいなんだけど……そうして、今の親御はさんは美笑ちゃんに無関心。美笑ちゃんの話だと会話は全然ないんだって」
「……美笑ちゃん」
結婚って、何なんだろう……。幸せの結果、愛のかたち、人生の過程……。
それは理想であって、現実ではないのか……。
だからといって、親が子を蔑ろにして良い道理なんて存在しないはず。最愛の我が子のはずが、まるで枷か何かのように親権の押し付け合いが始まる……。
不遇というにはあまりにも、美笑ちゃんの境遇は過酷だった。
「でもね、近くに住んでる本当のお母さんのところには時々行ってるみたいなの。そこではどうなのか分からないけれど、今の家にはあんまり居たくないって、美笑ちゃん言ってた」
「……それで、学校に来たり、お母さんのところに行ったり転々としてるってことですか?」
「うん。そういう、家庭に不和を抱えてる子って初めてだから。私も、どう接していいか分からなくて……」
「先生……」
やっぱり先生は、良い先生だ。担任を差し置いて顔を突っ込めないが、心から心配してくれている。出来ることなら、何か力になりたいと思ってくれている。
「僕は……美笑ちゃんが涙を流した時、およそ人が推し量ることの出来ない何かを抱えてるんじゃないかって思いました。それが今、確信に変わりました。話してくれてありがとうございます、先生」
「優也君……」
「美笑ちゃんが心から笑えるように、僕なりに模索してみます。話を聞くだけでもいいし、美笑ちゃんが何か望むことがあったら、それに応えてあげたいと思います。もちろん僕に対する警戒が解けたら、ですけど。やっぱり、女の子には笑っていて欲しいですから」
「うん、ありがとう優也君。君のそういう優しいところ、先生知ってるよ。でもね……」
そこで先生はちょっとだけ、寂しいような、嬉しいような、どっちとも取れる
表情をした。
「優しいだけじゃ、ダメだよね……」
「それは……」
「ううん。優しいことがダメって言ってるんじゃないの。……ひょっとしたら、美笑ちゃんは、優しさを求めてるんじゃないかもしれないって、そう思って」
「優しさじゃない、何か……」
「でも、美笑ちゃんの心を開くにはまず優しくしてあげなきゃね、美笑ちゃんも安心出来ないと思うの。女の子としては、やっぱり優しくして欲しいって思うから」
「先生、僕は……」
「大丈夫、分かってる。三年も君を見てきたんだもの。優也君のことは心配してないよ。私も君なら、美笑ちゃんの心を開けるんじゃないかって、思ってるよ」
「先生……はい。僕なりに頑張ってみます」
「ふふ。私も優也君にばっかり頼ってちゃダメだよね。生徒と、どう向き合えばいいか分からないーなんて、先生がそんなこと言ってちゃダメだよね!」
そういって先生は両腕を力こぶしを作るように、頑張るぞっというポーズをしてくれた。
「それから、先生。僕から一つだけ、お願いがあります」
「ん? 私に出来ることなら何でも」
「多分明日も、美笑ちゃんは学校に来ると思うんです。だから、そしたら教室に入れてあげてください。外では、可愛そうですから」
「うん、分かった。ありがとう、優也君」
もう一度、満足そうに頷くと、先生は不安が吹っ切れたかのように満面の
笑みを浮かべていた。
「さぁってと! みんなを待たせてるんでしょ? 早く行きましょう!」
「うわぁっと! 先生! そんなにくっつくと……」
「んんー? 傘が一つしかないんだから、仕方ないでしょ? 今日は飲むぞー」
「は、はい……」
「あらあらぁ? 異性と腕を組むの初めてなのかなぁ? 初々しいね、少年」
「僕はもう成人してます。少年は勘弁してください」
「ちょっとー。年下の子だけじゃなくて、たまには大人の女にも興味持ちなさいよ。それとも、先生にはそんな魅力がないと思ってるの?」
「い、いえ。先生は、綺麗です……」
「あはは。よろしい。それじゃあ、行くよー!」
そういって、僕の腕をぐいぐいと引っ張る先生。
そんなに近づくと駄目ですってば先生……ひぃー。……なんて、思いながら。
僕は先生から傘を受け取ると、少し傘を先生の方に傾けるのだった。
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