25
木曜日、奥村はまた衿久をALTOの前で待っていた。
今日は芦屋が登校をしないと言っていたので、何となく衿久も登校せず、自宅でルーティンとなっている勉強をし昼前に家を出た。昼すぎには南人のところに行くことになっていたので、どうせなら昼前に買い物を済ませ少し早めに行くかと思ったのだ。
ALTOの前に差し掛かったとき、前と同じように奥村は停めた車に寄りかかって煙草を吸っていた。ひとつ違っていたのは、奥村ははじめから衿久の来る方向を向いていて、かなり離れている距離から手を振っていた、ということだった。
「やあ町田くん」
俺が違う道から来たらどうするつもりだったのかとは、衿久は聞かないでおいた。
どうも、と自転車を降り、頭を下げる。
「南人の、帰りですか?」
「君は今から?」
質問に答えるかわりに質問を投げられて、衿久は黙って肩を竦めた。
あれから奥村は2度ほど、こうして衿久を待ち伏せては他愛もない話を向けてきた。お茶を飲むほどではなく、立ち話程度だったが、それも今日で3度目。はじめを入れれば4度目だ。来る方向も来る時間も読まれているようだった。
奥村の表情はいつも穏やかだが、内面はどうだか分からない。掴みどころがなく、感情があまり表に出ない性質のようで、向かい合う人を時々困惑させる。この場合は衿久を。
何か言いたい事でもあるのか、その目的が見えず、よく分からない人だ。
「最近よく来ますね」
「ん?」
咥えていた煙草を奥村は携帯灰皿に押し付けた。
「南人が…奥村さんは年に数回しか来ないと言ってたんで」
「ああ、そうだね」
ふふ、と奥村は可笑しそうに笑った。
「これ以上嫌われるのは悲しいから、あんまり行かないようにしてたね」
でも、と付け加える。
「最近は前よりもずっと邪険にされなくなったから、つい調子に乗って足が向いてしまう」
「仕事、忙しいんじゃなかったですか」
「うん、忙しいねえ…面倒なことが山積みだ」
そう言いながら2本目の煙草に火をつける。取り出した煙草のパッケージをまた胸ポケットに捻じ込んだ。奥村は今日も三つ揃いのスーツに黒いコートだ。制服のように、会うときはいつもそうだった。
奥村は衿久にかからないように横を向いて煙を吐き出しながら、喉の奥で笑った。
「そんなに嫌そうな顔しないでよ」
くすくすと笑いながら衿久に言う。
「早く帰れって思ってるでしょう」
まあそうだったが、衿久は口の端を持ち上げて、まさか、とだけ返した。
「正直だな」
奥村は笑いの収まらない顔で衿久を見た。細めた目尻に案外深い皺が寄り、50代にしか見えないその容貌に、一体この人はいくつなんだろうとふと衿久は思った。
「疲れてますか?」
何の気なしに発した言葉に奥村は一瞬目を丸くして、微笑んだ。
「どうだろうね。でも、ふたりの顔を見るのが最近の私の癒しだよ」
と、眩しそうに目を細めてそう言った。
そのあとすぐ2本目の煙草を咥えたまま奥村は車に乗り込み、仕事に戻って行った。
本当に衿久と立ち話だけをするためにあそこで待っていたようで、相変わらずよく分からない人だと思いながら、衿久は南人の家に向かい、いつものように扉を開けた。
「南人──」
リビングの定位置に姿が見えず、衿久は奥に向かって声を掛けた。返事はない。
家の中はしんとしていた。外だろうかと、衿久は靴を履いて勝手口から外に出た。
来るときに通った温室を覗いてみる。誰もいない室内に天窓からまっすぐに日差しが降り注いでいる。
思えば、はじめてここで南人の力を見たのだった。
あの雨の日に。
瀕死だったえくぼを治し、えりひさの頬の傷を癒してくれた。
もしもあのとき、ここに来ようと思わなければ──何気ない青衣との会話を自分が思い出さなければ、今こうしてここにはいなかった。
「…あ」
温室のガラス窓の向こうに動く白い影が見えた気がして、衿久は顔を上げた。葉の落ちた椛の木立の奥に小さく見える人影は、きっと南人だ。
衿久は温室を出て横の茂みに分け入った。道のない、枯れ葉の積もるふかふかとした土の上を歩く。冬の湿った森の匂いが肺の奥まで入ってくる。
思えば衿久は温室から先の森の中には入ったことがなかった。
「南人」
木立を抜けた先は細い木がまばらに生える空き地だった。小さくぽっかりと出来た隙間のようで、その周りを背の高い木々が取り囲み、地面には土が見えないほどの枯れ葉が吹き溜まり、小さな山を作っていた。
南人は空き地の前に取り残された低い柵の前に立っていた。柵は長いこと放置されたままだったのか、雨や風に朽ち、半分以上が崩れ落ちていた。
「衿久、早いな」
振り向いて、南人が驚き、笑う。
「学校はどうした?」
「今日は…休みだよ」
「そうか」
世間から隔絶された生活を送っているのに、南人は物事の仕組みをよく分かっていた。衿久が受験を控えていることも、何を受け、どうしなければならないのかもよく理解している。下手な嘘をついても、南人はそれが嘘だとは言わないが、結局はいつもばれているのだと思った。
早く言わなければいけない。
受験をやめたことを。
その理由に離れたくないからと言ったら、我儘だと言われるんだろうか。
「…さっき奥村さんに会った」
それでもまだ言えず、誤魔化すように衿久がそう言うと、南人がかすかに苦笑した。
「ああ、今朝来てた」
「ALTOの前にいたよ」
「…衿久を待ってたのか?」
「そんな感じ」
そうか、と南人は言った。首を傾げて衿久を見上げる。
「そういえば彼とは?連絡、つかないのか?」
彼とは北浦のことだ。衿久は首を振った。
「一回電話あって、それきりだよ」
最期に声を聞いてから、もう2ヶ月近く経つ。北浦からはあれから何も音沙汰がなかった。
何かを考え込むように南人は黙り込む。
冷たい風が吹き抜けて、シャツ一枚の南人の襟が煽られてめくれ上がった。ボタンをひとつ外している首元が開いて鎖骨が見える。吐き出した白い息とはまるで噛み合わない南人の季節感のない薄着に、衿久は我慢できずに自分のコートを脱いでその体を包んだ。
「なあ、ちょっと、なんでそんな薄着なんだよ。…風邪引くだろ」
「そんなに寒くない」
「見てるこっちが寒いの」
着せたコートの前を無理やり合わせると、南人は諦めたように肩を竦めた。足元を見れば素足につま先だけを引っ掛けるサンダルを履いていて、その白い足の指が枯れ葉の屑にまみれていた。土も付いているそれに、南人が随分な時間、この森の中を歩き回っていたのかもしれないと衿久は思った。
「何してたんだ、散歩?」
「いや、ここに立ってた。たまにそうするんだ」
「ここ、──」
南人が見ている方を衿久は見た。小さな空き地。以前に何かが立っていた名残り…
あ、と衿久は呟いた。
「ここ、南人が住んでた離れ…?」
「ああ。もう何もないけど」
風が木々を揺らす。ざわざわと軋む木たち。枯れ葉が舞った。
衿久は南人の話を思い返す。間違えていなければ──想像が正しく合っていれば、今南人が立っている場所は衿久の曾祖母、蓉が夜ごと家を見つめていたという場所だろう。そして祖母の橘花がこのあたりにあったはずの生垣に隠れていた…
「行こう」
南人が振り返った。そう言って衿久の横をすり抜け、家に戻って行った。衿久はその後を追った。
昼を食べ、暖かな部屋で思い思いに過ごした。15時少し前にひとり南人の患者がやって来て、小一時間ほどで帰って行った。今日の患者はそう力を使わなかったようだ。
患者を見送ってリビングに戻って来た南人に衿久は紅茶を淹れた。暖炉の爆ぜる音、ソファの隣に座りながら、衿久は言った。
「南人、今度の土曜、うちに来ないか?」
「土曜?」
買って来たカップケーキに今まさに齧りつこうとしていた南人が、ぽかんとしたまま顔を上げた。
「うちの親揃って仕事でいないんだよ。昨夜青衣にそのこと話したら泣きだしてさ」
前の日に言おうと衿久と母親が決めていたのに、父親が──この日に限って早く帰っていた──うっかり漏らしてしまった。収拾がつかなくなった母親と父親は、苦し紛れに「じゃあみーくんを呼んだらどうかな」と口走った。そこでぴたりと青衣が泣き止んだのは言うまでもない。
「そうか、いいよ」
ふふ、と可笑しそうに声を出して南人が笑った。
「ごめん。親が勝手に」
「いいよ。俺も…楽しいから」
そう言ってカップケーキを頬張った南人の横顔が淡く笑んでいる。楽しいと言った南人の言葉に衿久の胸が締め付けられて、じわっと熱を帯びた。
「楽しいなら、よかった」
なぜか震えそうになる声を抑え込んで、衿久は自分のカップに口をつけた。
「衿久の家は楽しいよ」
南人が衿久の目をじっと見て言う。目を合わせたまま衿久は笑い、指を伸ばして南人の頬に触れた。
「…なに?」
「ケーキ、ついてる」
南人の目が揺らいだ。何もついてなどいないのに、摘まんだ振りをして指を舐め、しばらく衿久は南人がカップケーキを頬張るたびに同じ悪戯を繰り返して南人を困らせた。
***
やあだあ、と青衣の声がした。
「やあだあっ、みーくんちいきたい!青衣みーくんちがいいっ」
その夜、風呂から上がった衿久の耳に、リビングで大声で言う青衣の声が聞こえてきた。
「どうしたの?」
頭にタオルを被ったままドアを開けると、だっと青衣が駆けてきた。
「おにーちゃん、青衣みーくんちおとまりしたいっ」
「え、え?」
「青衣」
ほとほと困った顔で母親が青衣を呼ぶ。青衣はぎゅっと衿久の足に抱きついたまま、母親を振り向かなかった。
南人が泊まりに来ると夕飯のときに青衣に話したのだが、どうやら衿久が風呂に入っている間に、「みーくんが来てくれる」から「みーくんちに行きたい」、に気持ちが変わったようだった。
大きくため息をついて母親が呟いた。
「困ったねえ、どうしよう」
ここまで愚図る青衣は珍しい。いつもは聞き分けが良すぎるほどだ。祖母が亡くなってから1ヶ月余り、青衣なりに我慢していたものが溢れ出してきてもおかしくはなかった。
「出張やめようかな」
「いいよ、大丈夫だろ」
小さな母親の独り言に衿久は返した。
「でも」
「南人に聞いてみるよ」
スウェットをぎゅうぎゅうと握りしめて離さない青衣の腕を取って、衿久は目線を合わせるようにしゃがみ込んだ。
「青衣、聞いてやるから、な?」
覗き込むと涙の滲んだ顔で青衣がこくっと頷いた。
「でもみーくんが駄目って言ったら、そのときは、うちに来てもらおう?それでいいだろ?」
「うん」
「それに」涙を拭ってやりながら、衿久はにやっと笑った。「みーくんちはお化け屋敷みたいに暗くて古いんだぞ?」
「えっ」
きらっと青衣の目が輝いた。
参った、と言う電話の向こうに南人は笑った。
「お化け屋敷はないだろ」
『ああ、怖がるかと思ったのに逆効果だった』
衿久が困ったようにため息をつく。声が掠れて、思わずどきりとしてしまい、南人は受話器を持ち直した。
暗い照明のライティングデスクの前、真夜中の少し前にかかって来た衿久の電話は、土曜日に青衣とえくぼを連れて泊まってもいいかというものだった。事の顛末を聞いて、南人はいいよ、と了承した。断る理由もない。
「だけど、うちは何もないし、大丈夫か?」
古くて照明も暗い。すすけた天井を見上げながら南人は言った。
小さな女の子が好むようなものは何もない。テレビも見ないし、本当に何もないのだ。
衿久が笑った。
『いいよ、南人がいれば大丈夫だから』
「……そう」
返事に詰まって小さく呟くと、笑う衿久の吐息が聞こえた。南人、と呼ばれた声にぞくっとする。
『明日、何食べたい?』
「え、なにって…」
話題の変化についていけず戸惑っていると、衿久が明日の昼は自分が作るから、と言った。
「おまえが…?」
『今色々試してて、食べてくれたら嬉しいんだけど』
学校は?と聞きたい気持ちを南人は呑み込んだ。
先月、大きな試験があった日に衿久は普段と変わらずここに来て一日を一緒に過ごした。南人は何も聞かなかった。
衿久が言わないのならそれでいい。
きっとそのうち話してくれるだろう。
見えないと分かっていて、南人は仕方がないなと苦笑した。
「うん、食べる」
『じゃあまた明日』
「…ん」
おやすみ、と言って南人は電話を置いた。
声が残っている。
耳の奥が熱を孕んで熱く火照っていた。嫌な言葉も衿久が言うだけで変わっていく。
また明日。
明日が待ち遠しいと思った。
土曜日が早く来ればいい。衿久と青衣とえくぼと、同じ時間を過ごしたい。
明日も、土曜日も、その先も、衿久と一緒にいたい。
この願いが叶うのなら。
「……」
南人は通話の切れた電話を見つめた。
そばに置いた時計はもう真夜中を指していた。
構わないだろう。夜型なのは知っている。
南人は滅多にこちらから使わない短縮番号を押した。受話器を持ち上げて、相手が出るのを待った。
「確かに、お化け屋敷みたいだな…」
ふふ、と声が溢れた。
南人は自然と笑顔を浮かべていた。嬉しさに胸の奥が暖かくなる。
呟いた声の終わりに電話が繋がった。
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