24

 週明け、朝一番で呼び出されて行った進路指導室に入るなり、須藤がため息をついた。

「はあああ…」

 この世の終わりでも来たようなその大きさに、衿久は笑った。

「なんっすかそのため息」

 須藤が唸った。

「あのな、おまえのためのため息だろうが」

「そりゃどうも」

 須藤の前に置かれた椅子を引いて座ると、再びため息をついた須藤がごしごしと手のひらで顔を擦った。

「あああ、まさか本当に行かないとかあり得んわ…」

 センター試験を受けなかったことを嘆く須藤に、衿久は何も言わずに肩を竦めてみせた。担任にも同じようなことを言われた。気にかけてもらうことは有り難いが、こればかりはどうしようもない。衿久の人生だ。

「俺は有言実行の男なんで」

「実行する時と場合を選びなさいよ」

 諦めと呆れの入り混じった笑いを須藤は浮かべて言った。それを見て、選んでるよ、と衿久も笑った。

「…今がそのとき?」

「そう」

 と衿久は頷いた。



「ま、ち、だ、くーん」

 屋上の扉を開け、芦屋が手を振りながらやって来た。昼休み、すでに自由登校になっていたが、芦屋は学校に来ていた。学校図書館の自習室は3年のみに解放されているので、市の図書館よりも邪魔が入らずにはかどるのだそうだ。ちなみに芦屋の自宅は現在、昨年末からいきなり持ち上がった父親の再婚話により改装工事が行われていて、駅前のゲーセン並みに騒がしい、とのことだった。せめて受験が終わってからにしてくれよと芦屋が電話で言っていたのは、冬休みが終わる日のことだった。

 そういうわけで家にいられない芦屋に付き合うように、衿久もほぼ毎日登校している。

「屋上さみー、なにここ死にそうなんだけど」

 着ているコートのフードを被って、芦屋はぶるっと震えてみせた。

「天気はいいけど?」

 空を仰ぐと快晴だった。風は冷たいが日差しは柔らかく、暖かい。衿久もコートを着ていたが、体感が違うのかそうでもなかった。

「いいけど、寒い」

「じゃあ教室行くか?」

 んー、と芦屋は柵に寄りかかる衿久の側まで来てから、どさっとその足下に座り込んだ。

「やあっぱいい、食おうぜメシ」

 衿久もその横に腰を下ろす。陽だまりの中でも、コンクリートの冷たさが制服を通してじわっと肌に伝わってくる。

 芦屋が弁当箱の蓋を開けた。たくさんのおかずがぎっしりと詰め込まれた手作りのお弁当は、その再婚相手の新しい母親が作って持たせてくれたものだ。芦屋の昼ご飯は最近充実している。

「今日も美味そう」

「あいつさあ、料理だけは上手いんだよ。見た目普通だけど」

 普通のおばちゃんなの、と憎まれ口をたたきながら、どこか嬉しそうに芦屋は笑った。芦屋の家は長く父子家庭で、大抵の食事は芦屋が作るか、買ってきたもので済ませていたらしい。

 そんなことを知ったのも、珍しく手作り弁当を食べていた芦屋に何気なく聞いたことがきっかけだった。知り合って随分経つのに、知らないことはまだたくさんある。

 新しい母親にも案外早く馴染んでいるようで、衿久は他人事ながらほっとしていた。

 大きめの卵焼きを口に入れて、そうだ、と芦屋が言った。

「さっき、ちらっと自習室に嶋野来てた」

 パンを齧る衿久の手が止まる。

 衿久は教室にいたのだ。

「ちょー気まずいの、座ったの俺の斜め前」

 あれ絶対わざとだわ、という芦屋の言葉に、へえ、と衿久は気のない返事を返した。直接衿久に来ないところがらしいというか、ろくに話した事もないので何とも言いようがない。

「町田くん来てる?って、あんだけはっきり言われてそれでも探り入れてくるってよっぽどいい性格してる」

「どうだろうな…」

 単に嶋野は悔しいだけなのかも知れない。人前でやはりあんなふうに言うべきではなかったかと、ちくりと衿久の胸に後悔がよぎる。それをかき消すように、芦屋が言った。

「でも俺、あのときすっげえすっきりした」

 にやっと笑い、口の端を持ち上げる。

「おまえ最高だったわ」

 衿久が目を瞠ると、にやにやと嬉しそうにする。

「ミナトくんに感謝だなあ」

「やめろ」

 南人の名前を不意に出されて、衿久は憮然とする。芦屋の興味津々な目が頬に突き刺ささってくる。

「なあ、俺もミナトくんに紹介してよ」

 友達になりたい、と言われて衿久は顔を顰めた。

「嫌だ」

「なんで、ひとりじめかよ」

 まあそうだけど、と思ったが、口には出さなかった。

 パンをふた口ほどで片付けて、衿久は紙パックのジュースを飲む。

 いい天気だった。

「町田、俺おまえのこと好き」

 芦屋の言葉に、げほっと衿久がむせる。

「はあ?」

「だからあ、俺も衿久って呼んでい?」

 卵焼き一個あげるから、と強引に口に押し込まれて、衿久はそれを仕方なしに食べた。卵焼きは甘くて少ししょっぱくて、すごく美味しかった。

 芦屋はどうやら名前呼びがしたいらしい。

 南人が俺を衿久と呼んだから?

 変なやつ。

「別に好きに呼べばいいだろ」

 いちいち許可など要らないのに、よく分からない。

 芦屋がやった、と喜んだ。

「じゃあ俺も名前で呼んで」

 きらきらした目で見つめられ、ぞんざいに頷いて、はて、と衿久は首を傾げた。

 そういえば…

「芦屋」と衿久は呼んだ。

「ん?」

「…おまえ下の名前、何だったっけ?」



 放課後、芦屋と駅前で別れて、衿久はその足で南人のところへ向かった。芦屋はしきりについて来たがったが、丁重にお断りしておいた。ひとりじめかと言った芦屋の言葉はあながち間違いではないのだ。

 俺も大概だな、と衿久は内心苦笑する。

 今日は南人のところには患者が来ているはずだ。

 駅前を通り抜けたところの総菜屋で適当に見繕って南人の食事を買った。

 本当は南人はサンドイッチが好きなようなのだが──手軽だし──先日他の店で買ったものはあまり好みではない感じだった。残しはしなかったが何となく伝わってきて、それ以来サンドイッチは買って行っていない。

 あれから一度だけ衿久は北浦と話すことが出来た。何度か掛けて諦めかかっていたときに、北浦の方から折り返してきたのだった。

『町田くん、ごめんね。なんかバタバタしちゃってさ…』

 少し疲れた様子の声で北浦は笑った。深夜にも近い時間、声の後ろで人のさざめくような音がしている。

 どこか外からだろうか?

『北浦さん、あの』

 聞こうとしたとき、あっ、と北浦が声を上げた。

『あ、ごめん、ちょっと──また掛けるから』

 ごめんね、とそれきり切れてしまった電話に、衿久は掛け直すことも出来ず心配だけが募った。

 元気にしてるならいいけど。

 衿久も無性に北浦の作ったものが食べたかった。

 散策路から南人の家の方へ茂みを分け入り、裏へと回る。温室の扉が半分ほど開いていた。

 珍しいな、と衿久は戸口から中を覗いた。南人、と声を掛けると、温室の木机の傍にいた南人が振り向いた。

「衿久」

 切れ長の目が衿久を見つけた途端、ふわっと綻ぶ。

 それだけで衿久の胸が詰まったようになる。

「早かったな」

 南人は両手いっぱいに花を抱えていた。白い小さな花がびっしりと咲き、南人の髪を包むように垂れ下がっている。

「すごいな、それ、どうしたんだ?」

「ああ、貰ったんだ」

 今日来た患者に貰ったのだと南人は言った。その人は先程衿久と入れ違いに帰ったようだ。

「この間のお詫びだそうだ」

 言いながら、南人は慣れた手つきで、木机の上に置いた古い桶に入った水に茎を浸し、その先端を鋏で斜めに切り取った。ぱちん、といい音が響いて、小さく水が跳ねた。なぜか裸足のままの南人の足先に跳ねた水が落ちてかかる。

「この間って?」

「ほらこの間…、おまえが金を叩き返した人」

 そう言われて思いつくのはひとりしかいない。

「はあ? あいつまた来たのか?」

 この間と言うが、あれから随分経っている。今頃よくもやって来れたなと、衿久の声は苛立った。

「ああ、でもひとりじゃない。奥村さんも一緒だった」

 ほら、おまえもこのまえ一度会っただろ? と言われて、曖昧に衿久は頷いた。あれから奥村と会って話したことは南人には内緒にしていることだ。

「…そんな花突き返せばよかったのに」

「花は関係ない」

 俺のいないときに来たのか。なんだかおもしろくなくて衿久がそう言うと、南人は可笑しそうに笑った。

「ほら、綺麗だろ?」

 衿久を振り向く。

 南人の耳に被さる髪に花が絡まっている。衿久はそれを摘まんで取った。指先が耳を掠めて、くすぐったそうに南人が首を竦めた。

「なに?」

「花」

 一瞬触れた南人の耳はひどく冷たかった。天窓から降り注ぐ陽は暖かいけれど、体は冷え切っている。

 真冬に裸足で、手が水に濡れて赤い。

 冷たい体を温めたら──

 抱きしめたい衝動を衿久はなんとか飲み込んだ。

 今は駄目、と自分に言い聞かせる。まだ先にすることがあるのだし。でも、ちょっとだけ。

 少しだけ。

 衿久は後ろからそっと南人の背中を抱き寄せた。腕の中の冷たい体に自分の熱を移していく。

「それ、いい匂いがする」

 衿久が持っている袋を見て、南人が柔らかく微笑んだ。

 


 何事もなく日々は過ぎた。

 衿久は芦屋と自由登校中も学校に行き、南人の家に寄って自宅へと戻る。

 1月の末、青衣が6歳の誕生日を迎えた。誕生日会は家族だけでやることにし、南人をまた自宅に招いた。

 迎えに行くと、南人は両手いっぱいの花を抱えて衿久を待っていた。青衣への贈り物だと言うそれを、今度は衿久が持って、自宅までふたりで歩いた。

 皆で美味しいものを食べて、好き勝手に喋る。二度目の衿久の家族に、南人は前よりも少し打ち解けていた。クリスマスのときと同じようにケーキは青衣が自分で選んだ。

「みーくんおいしい?これね、青衣がきめたの、みーくんこないだクリームのケーキおいしいっていってたからね、これにしたよ。おいしい?」

「うん、美味しいよ」

 南人が言うと、ぱっと青衣の顔が弾けるように笑顔になった。

 誕生日会は明日が休日ということで日付けが変わるころまで続き、南人が帰るころにはすっかり酔っぱらった父親は、今回も騒いで疲れた青衣とえくぼと一緒にソファで丸まって眠っていた。いくら酒を飲んでも変わらない衿久の母は、家まで送っていく衿久と一緒に玄関先まで出て、南人を送ってくれた。

「南人くん、もう泊まっていけばいいのに」

 二度目でもう、母親の南人への呼び方は「佐原さん」から「南人くん」に変わっていた。父親に至っては青衣と同じ「み―くん」で、自分の家族の、他人への距離感のなさに衿久は苦笑するしかなかった。

 この分では母親が他の家族同様、みーくんと言い出すのも時間の問題だ。

「いえ、今日はこれで…ご馳走様でした」

「また来てね、今度はパジャマ用意しとくね」

 はい、と南人が少し困ったように笑う。

「じゃあ俺送ってくるわ」

 手を振る母親に、門を出て振り返り、小さく手を振る南人を、衿久は泣きたくなるような気持ちで見つめていた。

 


 遠回りをして帰った。

 誰もいない深夜の道を、衿久は躊躇なく南人と手を繋いで歩いた。

 誰に何を言われてもいい。

 綺麗な月が出ていた。

 南人の家に着くと、衿久は南人の手を引いて家の中に入った。

 扉を閉め、リビングを通り過ぎる。

 堪えきれない熱が溢れ出して止まらなくなる。自分の欲を押し込めた心ごと南人に渡してしまいたい。

「あ…、えりひさ…っ、んん、う、あ」

 南人の声を引き出そうと、衿久は執拗に体を愛撫した。

 柔らかな腹の奥深くで吐き出したい欲求を我慢する。

 自分の気持ちよさはずっと後まで引きのばした。今はただ、南人を溶かしてしまいたい。

「やあ、…!も、やだ、あ…っあ、あ、あ、っ」

「みなと」

「んん、あ、ひ、っだめ、だめ、衿久…!」

 青白い部屋の白いシーツの上、半端に脱がした服が腰のあたりで絡まって、手首にセーターを巻きつかせたまま、脚の間でもうずっと動いている衿久の髪を、南人が弱く掴む。引き剥がそうとするにはまるで力が入っていない。吐き出させたものを飲み込んで、ぐったりした細い足をさらに押し広げると、遂に南人が泣きだした。

「もう、はな、はなして、…衿久、えりひさ、やだ」

「駄目。ほら…気持ちいい?ここ、いい?南人」

 耳元で衿久はそう言って、そのまま耳朶を舐めた。

 下肢に手を伸ばし、濡れた先端を覆うように手のひらを押し付けて、ゆっくりと回す。

 ひく、とのけぞった喉から嗚咽が零れた。

「い、…あ、ああ、い、い…っ」

「俺を見て」

 甘い声ごと唇を覆った。口づけながら、ぬめる指を南人の奥にゆっくりと入れ、同じ動きで腔内を舌で犯した。

 南人が衿久にしがみつく。細い四肢が衿久の体に絡まって、過ぎる快感から逃げようと体を捩るのを、衿久は強く引き寄せて自分の手足で南人をシーツに縫いとめた。

「や…」

「南人、こっち向いて」

 手が使えない代わりに懇願すると、濡れた目が衿久を向く。目を合わせ好きだと言うと、上気した頬がなめらかな光を放って、くしゃっと歪んだ。

「衿久…」

 掠れた声で南人が好きだと呟いた。

 溢れて止まらない涙を舐め取って、衿久はゆっくりと南人の中に自分を埋めていった。

「あ──」

 南人の背がしなる。浮き上がった体を掬い上げ、きつく抱き締めて腰を揺らした。

 熱くて溶けた体、なのに…

 なぜだろうと衿久は思う。

 手の中にいるのにいない気がする。

 どうしてこんなに遠いのだろう。

 こんなに──傍にいるのに。

「南人」

 得体の知れない焦燥が沸き上がる。どこから来るのかそれすらも分からない。奥村の声が思い出したくもないときに耳の奥でよみがえる。

 すべてをかき消すように、衿久は南人の体温を追い求めていった。


***


「え?」

 2月の始め、祖母の四十九日を間近に控えた週末に、両親の出張が偶然にも重なった。父親はともかく母親が出張するのは珍しいことだ。

 買って来たコロッケをレンジに入れながら母親が衿久を振り向いた。

「お母さんだって行きたくないわよ。急に担当だった人が辞めちゃって、代わりにって頼まれたのよね。とにかくさあ、面倒だからって誰も受けてくれないから…」

 要するに誰も行きたがらない出張に話は進まず、見兼ねて引き受けたとの事だった。同行する社員は出世した同期入社の女性だ。途中出産でリタイアし、その後復帰した衿久の母とは違い、彼女は仕事一筋で生きてきた人だそうだ。今では母親の上司に当たると言う。

「ま、旅行だと思って行って来れば」

 衿久が軽く言うと、お、と母親が目を輝かせた。

「それもそうだ」

「冗談だろ、真に受けんな」

 声を上げて母親が笑う。

「土曜日、青衣を頼むね」

「はいはい、気にせずに行って来いよ」

 と衿久も笑って言い、ダイニングテーブルで遊ぶ青衣を宥めておもちゃを片付けさせ、3人でいつものように夕飯を食べた。

 父親はいつものように遅い、いつもの夜。

 それが月曜日の事だった。

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