23
話を聞いて欲しいと言ったのに、衿久はまるで聞いていないかのようだ。
どこかにぶつけたのか、肩がひどく痛む。
「ん…っ」
遠回りをしたはずが、案外早く辿り着いてしまった家に入るなり、塞がれた口の中を舐め回される。
「えりひさ、苦し…っ」
苦しくて振りほどくと、なおも衿久の大きな手が逸らした南人の顎を捕まえて、自分に向けさせる。
「駄目、まだ…息して南人」
「ちが、はなしを…!」
「聞くから、話聞くから、こっち見てよ」
暗がりに目を開くと衿久と目が合った。押し付けられた勝手口の傍の戸棚ががたがたと音を立てる。
ねえ、と衿久が言った。
「俺が好きなの?」
「そ…」
そうだと言えずに、南人は頷いた。
「ちゃんと言えよ、もう一回」
「なんで、もういいだろ…っ」
「駄目」
南人の二の腕を戸棚に押さえつけて、腰を屈め、衿久は南人を見上げていた。闇の中の淡い光を集めた瞳が、濡れたように光っている。
縋るように見つめてくる。
「言ってよ、ねえ…俺が好き?」
話を先に聞いて欲しいのに。
南人は唇を噛んだ。
「言えよ、そしたら話を聞くから」
「…っ」
好きだ。
震えながら吐き出した呼吸の中でようやく南人が口にすると、その言葉ごと噛みつくように、泣きそうな顔で衿久が口づけてきた。
「あ、んんう、っ…!」
甘く上がる声に脳が溶けていきそうだと衿久は思った。
南人を抱き込んでもつれるようにして、南人の部屋のベッドに転がった。
飽きずにずっと唇を合わせている。甘い口の中を深く舌で抉る。角度を変えて何度も何度も逃げる南人を吸い上げた。
全部、全部欲しい。
南人のすべて。
この甘い身体のすべて。
誰にも、こんなふうに思ったことなんてない。
「ん、ん、っんん…」
抱きしめたまま離そうとしない衿久の腕の中で南人がもがく。のしかかる衿久の胸を叩いては押してくる。
苦しいのだろうと、少しだけ唇を離した。その隙間から南人が喘ぐように息をする。
「え、りひさっ…なんで」
濡れて赤くなった南人の唇を、肘をついて体を起こし指で拭った。
「なんで…、聞くって言ったくせに」
衿久の服の胸元を掴んで引っ張り、悔しそうに南人が顔を歪めた。
「最低だおまえ…っ」
「うん、ごめん」
「俺は話したい、今、衿久に」
うん、と衿久は頷いた。
「俺のことを聞いて欲しいのに」
「うん…分かってる。分かってるけど、でも」
涙目で睨んでくる南人に、衿久はそっと笑いかけた。
「話を聞いてもしも俺が…そんなのありえねえけど、南人のこと少しでも怖がったりしたら、どうするの?」
息を呑んだ南人にやっぱりかと衿久は苦笑する。
南人は衿久が一瞬でも受け入れられないと思ったそのときに、手放すつもりなのだ。
好きだと言いながら、知って欲しいと望みながら、心のどこかではありえないことだと諦め切っている。
寂しいくせに、寂しくないと必死で背中を向けてくる。
「俺は南人がなんだっていいんだ」
衿久は言った。
何者でも構わない。
「どんなふうに生きて、どうだったかなんて、南人が何者かなんて、そんなのもう関係ないよ」
「でも」
「南人がいいんだ。大事だから、好きだから」
南人が震える唇を噛み締めた。
長くため息のような息を吐いて指を伸ばし、南人は衿久の頬をそろそろと包んだ。
「俺が、化け物でも?」
自分を貶める言葉を口にするとき、決まって南人は少し眉を顰めて泣きそうな顔をする。本人は気がついていないその表情は、衿久の胸をいつもちくりと刺した。
「あんた、いつもそれ言うよな」
「だってこんな…おまえは知らない。俺がどれだけ、どれだけ長く──」
「いいよ」
言いかけた南人の口を衿久は自分の口で塞いだ。呼吸ごと飲み込んで、喉の奥で笑う。
「全部いいよ。全部南人だから、…だから、今俺にちょうだい」
「──」
お互いの額をつけて目を合わせると、びく、と南人の体が押し付ける熱に震えた。
「今欲しい。南人の全部、俺がもらうから」
「駄目だ、きっと後悔する…!」
「しない」
「衿久、はな、話を」
「後で聞く」
「衿久…っ!」
肩を押し返す両手を掴んでシーツに押し付けた。冷たい布の感触が、熱を帯びた体に気持ちいい。
「馬鹿、…いやだ、やだ…っ」
「南人、俺を見て」
衿久は腕で囲い込んで、首を振る南人の顔を無理やりに自分に向けさせた。その強引さに自分で呆れる。けれどもう抑えきれそうになかった。
見上げてくる目には涙が溜まっている。
欲しいのに手を伸ばせない子供のようだ。
我慢して我慢して、ずっと我慢し続けて──
愛しいと思った。
愛しくて壊しそうだ。
怖いと小さく呟く声に、衿久は仕方がないなと微笑んだ。
「俺がいる」
南人の目から涙が溢れてこめかみを落ちていく。
「俺を信じてよ。それで全部、俺に南人をちょうだい」
「えり…」
「俺がいるよ」
衿久、と南人の顔がくしゃっと歪んだ。蕩けた瞳に自分が映っている。かすかに南人が頷いて、好き、と言った。息が止まるかと思うほどの眩暈の中で、もう堪らずに、衿久は痩せた背中に腕を回してその体を折れるほどに抱き締めた。
***
窓を開けると雪が降っていた。
細かな白い粒が灰色の空から落ちてくる。地面にはうっすらと積もった雪、家の前の道にはそこを歩いた人たちの足跡が続いている。
「じゃあ行ってくるわ」
朝食を済ませて、玄関で靴を履きながら奥に向かって言うと、気をつけてね、と母親の声がリビングから返って来た。青衣がみーくんちに行くの?と駆けてくる。
「青衣もいくっ」
そう言った後ろからえくぼがのそりと近づいて、青衣のそばに座った。
「おまえは今からお出かけだろ?」
ぽんぽん、と頭を撫でてやると、へへ、と青衣は笑った。
今日は郊外のショッピングモールに3人で行くらしい。雪が激しくならないうちに出るのだと、父と母は大慌てで支度をしているところだ。
「じゃあな」
「うん!」
衿久は立ち上がって青衣に手を振った。
外に出るとまだ雪はちらついていたが、思ったほどではない。昼からは止むだろうと天気予報でもそう言っていた。
冬休みも終わってしばらく経った、今日は日曜日だった。
昼食の買い出しをして自転車を走らせていると、前方にどこかで見たことのある人が路肩に停めた車に寄りかかって、目の前の建物を見つめていた。それはちょうど、ALTOの前、目を凝らして、あ、と思ったとき、相手がこちらを向いた。
「町田くん──」
やあ、と手を上げたのは、奥村だった。
「奥村さん」
「あけましておめでとう」
吸っていた煙草を携帯灰皿に押し付けてにっこり笑う。衿久も自転車から降り、おめでとうと頭を下げた。
奥村は今日も三つ揃いのスーツに、黒いロングコートを羽織っている。
「今日は寒いね」
雪なんかいつ振りぐらいかな、と空を見上げる奥村に、衿久は訊いた。
「こんなところで何してるんですか?」
ああ、と奥村はALTOを指差した。
「今日は新年の挨拶でね。話してたら南人さんがここ、美味しいのに閉まって残念だって言っていたから、ちょっと見にね。いや本当、いい店構えなのに惜しいなあって眺めてたところだよ」
衿久を見て、思いついたように言う。
「今から行くの?」
「え、まあ」
自転車のハンドルにはレジ袋がぶら下がっている。ちらりとそれに目をやって、隠すことではないと衿久は頷いた。
「すぐ行くのかな?」
言ってる意味が分からずに答えそびれた衿久に、奥村は、はは、と声を上げて笑った。
「店も見たかったけれど、本当は君を待ってたんだ。ちょっとお茶でもどうかな?まだ時間も早いし」
昼食にはちゃんと間に合わすよ、と言われては衿久に断る理由は何ひとつなかった。
奥村に連れられて入った喫茶店は恐ろしく古い店だった。外観もそうだが、店の中も古いアンティークの家具で埋め尽くされている。どことなく南人の家と似通った雰囲気がするのは、暗すぎる照明のせいばかりではないはずだ。
「ここはね、佐原の家にあったものを引き取ってもらった店なんだよ」
「引き取って、って…?」
オーダーを取りに来た店主にそれぞれ注文して、店主が立ち去ると、奥村は深く椅子の背にもたれ掛かった。
「あの家の2階、封鎖されてるでしょ」
「…ああ」
階段にぴったりと押し込まれた書棚を思い出して衿久は相槌を打った。
「あの家の2階には元々主人の…南人さんを引き取った佐原の部屋があってね、寝たきりになったときに今の南人さんの部屋に移ったんだ。南人さんの部屋も今彼が使っている仕事部屋に移して、まあそのあと、佐原が死んでしばらく経って…、南人さんが一度も2階に上がっていないことに私の父が気がついた」
コーヒーが運ばれてくる。音もなくテーブルに置いて、店主はまた立ち去った。
「階段を、天井まで届くほどの大量の本で埋め尽くして…どけるのが大変だったと父がぼやいていたよ」
カップを持ち上げて奥村はコーヒーを啜った。猫舌なのか、何度も吹いて冷まして、また啜る。
「その2階にあったものを、ここに?」
「うん、そう。父が引き取り手を探してここに落ち着いた。今の店主は二代目でね」ふうっとまた吹いた。「見れないくせに思い出を捨てきれないんだ。彼は、自分はその思い出を忘れてしまえるのにね」
意味深な目を向けられて、衿久はカップを持ち上げる手を止めた。
「聞いたんだって?全部、南人さんから」
南人が奥村に言ったのだろう。衿久は頷いた。
「はい」
ひと口飲んだコーヒーは美味しかった。
そうか、と奥村は言った。
「すごいな君は」
「何が…ですか?」
「あの南人さんに受け入れさせた」
かすかに微笑んで、奥村はカップに口をつけた。
「私の父には出来なかったことだ。私も未だにそうだけどね」
奥村の父親は南人の義父の傍使いだと聞いていた。主人と執事のような間柄で、佐原を南人が助けたとき、傍にいたのが奥村の父親だ。主人の傷を治した南人を追い立てたのも──
「私の父はオカルト嫌いでね、怖がりな人だった。それでも南人さんのことは渋々ながら認めていた。どんなに懐疑的であっても、自分の仕える人の命を救った人だから。佐原が死んだ後も、人に会いたがらない南人さんに、つかず離れず仕えていた」
カップをソーサーに戻す音が小さく響く。
店の中には奥村と衿久のふたりだけ。BGMもない。
時折店主が奥で何かをしている音だけが聞こえてくる。
「ああいう人だから、どう接すればいいのか分からなかったんだろうけど…でもある日を境に、父は南人さんを亡くなった主人と同じほどに心酔するようになった。それ以上といってもいいかな」
「なぜですか?」
「君が聞いた、南人さんが君のおばあさまの…橘花さんを助けた夜、その場には私の父もいたんだ」
南人から聞いた話を衿久は思い出す。長い話の中で、南人があえて言わなかった部分なのだろうと納得した。
「そうですか」
「そのとき、私の父も傷を負っていた」
奥村がカップを置き、じっと衿久を見つめる。
「南人さんはまず橘花さんを、そして父を助けた。自分の傷は治さずに。彼の体にはまだそのときの傷が残っていると思う」
「ああ…そうですね、あった」
白い背中に大きな傷跡は確かにあった。
答えた衿久に、奥村は少し目を瞠り、口元にかすかな笑みを浮かべた。
「…あのとき南人さんは、死んでしまった橘花さんを生き返らせた。生も根も尽きかけた中で父の傷を治すのは並大抵のことではなかったはずだ。父は感謝して…したりないほどに心酔して、南人さんに一生を捧げて仕えていた。勿論私も感謝してる。彼が父を助けてくれなければ、今私は存在してないだろうからね。その二年後に私は生まれたんだ。十年経ってやっと出来た子供だった」
目を伏せた奥村がカップを持ち上げて両手で包むようにして弄ぶ。カップの底に少しだけ残ったコーヒーがゆらゆらと揺れている。
「父はそのとき…南人さんが助けてくれたとき、譫言のように言った言葉が忘れられなかったそうだ」
「…うわごと?」
「うん。あと一度、だそうだ。あと一度だけ…と繰り返していたと」
あと一度。
「それが何のことか、南人さんは君に言ったかい?」
あと一度──
『戻れなくなる…』
あれは、南人がひとり倒れていた時のことだ。あと一度。
「彼はこれまでに二度、人を生き返らせている。君の高祖父である日置氏と、祖母の橘花さんだ。私はずっと、あと一度というのは人を生き返らせることが出来る回数じゃないかと思ってる」
「あと、一回…」
「南人さんはそれが自分で分かっていて、だから二度目の後、治療を再開したんじゃないかとね」
「どうして」
あの結晶を食べるためではなく、もしも…
今は欠片を食べていないと南人は言っていた。
では南人は?
どうやってあの力を補っているのだろう?
「あと一度で、きっと彼は、力を使い果たすと分かっているんだよ」
がたん、とテーブルが揺れた。
「使い果たしてしまったら──」
「どうなるんだろうね」
奥村が衿久を見上げていた。
それでようやく、衿久は自分が立ち上がっていることに気がついた。
ゆっくりと椅子に座る。
「どうなるかは誰にも分からない。南人さんにも、きっとそこまでは分からないんだろう。だからずっと、患者の選別は私がしていたんだ。でもこの間は、私の秘書が私を通さずに重篤の患者を通してしまって…」
奥村が頭を下げた。
「町田くん、南人さんを…ありがとう」
突然のことに驚いて、衿久は目を丸くした。この間、と奥村は前にあったときも言っていた。
重篤、と聞いて衿久は思い当たる。
「南人が、倒れたとき…?」
「それと、その後揉めた夫婦も」
「ああ…」
さらに治療をしろと迫っていた夫の顔を思い出して、衿久は苦い笑いを浮かべた。
「でもあれは南人が自分で撃退してたけど」
「それは町田くんがいてくれたからでしょう」
顔を上げた奥村は眉を下げて微笑んだ。その秘書はすでに解雇してしまったとコーヒーの最後のひと口を飲んで告げた。
店を出て、ALTOまでまた車で送ってもらった。店の影に置いていた自転車を出していると、車の傍に立っていた奥村がまた煙草に火をつけていた。
「最近はどこも禁煙で困るね」
「やめたらどうですか」
ええー嫌だなあ、と笑う奥村に衿久は苦笑する。
「そういえば君は進路どうするの?」
衿久は肩を竦めた。
「今日センター試験でしょう、推薦入学かな」
「まさか。一般入試で、国立志望でした」
「でした?」
「保留にしたんです。何が出来るか考えてて、受験やめようかと…どうなるかわかりませんけど」
「ふーん、そうか」
衿久にかからないように横を向いて煙を吐き出して、奥村は空を見上げた。
雪はもう止んでいた。
そうか、と煙草を咥えたまま、また奥村が言った。
入った家の中は暖かかった。
暖炉に火が入っているのだ。
ソファの端から裸足の足の裏が見えている。レジ袋を食卓に置いて、衿久はそっと近づいた。
「南人」
南人はうつ伏せで目を閉じていた。
大きめのセーターから覗く頸椎の形が綺麗で、思わず手を伸ばしそうになる。その少し下についた赤い痕は、自分が昨日つけたものだ。消えかかるたびにつけるので、元からそうだったように錯覚してしまう。
「南人?」
床に膝をついて顔を覗き込む。呼吸は安定して深く、眠っているのだと分かった。
長い睫毛にかかる髪を払い、そこに口づける。
甘い匂いに誘われるように抱き寄せると、くたりと寄りかかって来た体が衿久の体にぴたりと寄り添った。ゆらゆらと子供にしてやるように揺らして、髪に顔を埋めた。
あと一度、と言った奥村の言葉が頭から離れない。
『南人さんは、きっと力を使い果たそうとしている』
使い果たして、その後は?
奥村はこのことは、南人には言わないようにと念を押した。
『選別は亡くなった佐原の言いつけということにしてるけど、実際には私の独断でね』
腕の中で南人が身じろいだ。指が何かを求めるように、衿久の体を探る。
「ん…、…えりひさ?」
胸に南人の息がかかる。
声が甘く、とろりとして、まだ眠りの中にいるようだった。
衿久はぎゅっと抱き締めた。
『私は彼に生きて欲しい。たとえ憎まれても、この先も。彼がいなければ私は今ここにはいない。南人さんに生かされているのだと…私もまた、彼の子供のようなものだしね』
また?と衿久は訊いた。
奥村は微笑んでいた。
『君もそうだ。君も…』
俺も──
「南人?寝たのか…?」
呼びかけると、んん、と南人は返事をした。ゆっくりと開いた目が、衿久を探す。
「…どこ」
「ここ」
軽くその唇をついばんで、衿久は自分を教えた。
「衿久…」
衿久を見つけ、子供のように嬉しそうに笑う。その顔に、胸が締め付けられる。
生きて欲しいと奥村は言った。
俺もそうだ。
南人に生きていて欲しい。
そのときが来たら、きっと。
「昼、なに?」
人の気も知らないで呑気に言う南人に、衿久は笑った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます