22

 大晦日に仕切り直した妹のためのクリスマスは賑やかなものになった。

「ねこお!ねこちゃんだよ、ママ!」

 えくぼを見るなり大喜びした青衣が家中を跳ね回った。

「えくぼだよ、青衣」

 いつの間にかネットで買い込んでいた大量のペット用品を父親が抱えてリビングに運び込んできた。ケージにトイレ、餌入れに水入れにキャットタワーと、次から次に押し入れから出てくる大量の段ボールに、衿久は苦笑した。この日のために両親がコツコツと買い溜めていたものがようやく陽の目を見たようだ。

「すごいすごいすごーい!」

「佐原さん座っててね、すぐご飯だから」

「おにーちゃん、おにーちゃん、えくぼ青衣と寝る!」

「いや、あーちゃん、最初はケージに入れて家に慣らさないと…」

「やだあっ、一緒がいいっ」

「衿久、佐原さんに何飲むか聞いて!」

 父と母と妹が好き勝手に喋るのを、リビングの入口で呆然として聞いている南人を、衿久は笑いながら覗き込んだ。

「南人何飲む?」

「え、あ、──ああ…え?」

 なに、と衿久を見る。

「ノンアルあるわよー」

 キッチンの方から母親が声を上げた。

「の…?」

「酒じゃない酒ってこと」

 首を捻る南人に、いいよ、と衿久は囁いた。

「俺と同じのにする?」

 衿久を見つめて、こくんと南人が頷いた。

「ジンジャーエールで、辛いやつ。俺も」

「あら、お酒じゃなくていいの?」

「いいんだよ。つーか喪中にどんちゃん騒ぎってどうなんだよ、それこそ控えろよ」

 棚からグラスを取り出しながら衿久が言うと、母親はあっけらかんと笑い声を上げた。

「やだ、うちのおばあちゃんがそんなの気にするわけないでしょー、それにねえ、しんみりするだけが弔いってわけじゃないでしょ。さ、佐原さん座って座って!ご飯食べましょー、美味しいケーキ買って来たから!」

 テーブルの誰も座らない椅子の前に琥珀色の飲み物の入ったグラスを置いて、母親は南人の腕を引いてテーブルに着かせた。



 たくさんの料理をテーブルいっぱいに置いて、誰もが勝手に喋っている。しっかりと南人の隣を確保した青衣は、大皿から自分の好きなものを取っては南人の皿に乗せていった。

「みーくんこれね、えじまやのハンバーグだよ、おいし―の!」

 それを南人を挟んで反対側に座った衿久が窘める。不貞腐れた青衣を南人が慰める。食べ切れないものは衿久が食べてくれた。父と母がかわるがわる南人に他愛もないことを話し掛け、笑う。衿久の母はビールを何杯も飲んでいたが一向に顔色が変わらない。父親の方はひと口飲んだだけで真っ赤になって、さらに陽気になっていた。上手く話せなくても誰も気にしなかった。

 食事が終わり、テーブルを片付けて、大きな丸いケーキが真ん中に置かれた。人数分にひとつ足した数が切り分けられる。誰もいない場所に取り分けた皿を置いて、衿久が4人分の紅茶を淹れた。青衣は林檎ジュースを手に、ケーキは青衣が選んだんだよ、と南人を見て目を輝かせた。

「おいしい?みーくんおいしい?青衣のケーキおいしい?」

 皿の上の白いクリームのケーキをフォークで掬って食べ、南人はうん、と言った。

「美味しいよ」

 ぱっと青衣の顔が花が咲くように綻んだ。

 南人の胸の奥に小さく火が灯る。

 ケーキの上に散らばった銀色の星が瞬いている。

 暖かい。

 賑やかなこの場所で、南人は確かに生きている気がした。



 衿久の家を後にして、衿久と南人は夜道を歩いた。

 冴え冴えとした空気が満ちる、風のない夜だった。

 日付はもうすぐ変わろうとしている。

「うるさかっただろ」

 はしゃいで騒ぎ疲れてリビングのソファで眠ってしまった青衣が、隣にいた南人のセーターを掴んで離さなかった。酔って赤い顔をした父親が笑いながら小さな指をひとつずつ、丁寧に外していた。それだけで、どれだけ大事にされているのかが分かるほどに。

「いや、楽しかったよ」

 帰るとき、えくぼは青衣のそばで眠っていた。

 今夜の出来事のひとつひとつを思い出して、南人は衿久に言った。

 見上げた衿久は安心したように微笑んだ。

「ならいいけど」

 住宅街を抜けたところで、衿久が言った。

「南人、こっち」

 家とは逆の道に腕を引かれた。

「なにかあるのか?」

「ないけど、散歩しようよ」

 遠回りをして帰ろうと衿久が言った。

「いいけど…」

「じゃあ行こう」

 南人の腕を取って、衿久は歩き出した。

 なんだか嬉しそうに見える。

「変なやつだな」

「なんで?たまにはいいだろ」

 横に並んで歩く。

 心地よい沈黙が落ちてくる。

「南人、また俺と外に出よう」

 誰もいない、すれ違わない闇の中で手が触れ合って、追いかけてくるように衿久が南人の手を握りこんだ。

「こんなふうに歩いたり、どこかに行かなくてもいいから、散歩しよう」

「…ああ」

「またうちに来いよ。皆、南人のことが好きだよ」

「……」

 何も言わずに、頷きだけを南人は返した。

 指先が熱い。

 目の奥が熱い。

 衿久の顔を見られない。

 だから南人はそのとき、衿久がどんな顔をしていたのか知らなかった。

 かすかな人のざわめきが、道の先から聞こえてきた。



「ああ、そっか、神社」

 通りの向こうが明るかった。横断歩道を渡ったところに神社がある。

 こんなところに神社があるなんて知らなかった。

 長く同じ場所にいるのに。

 境内で松明やかがり火を焚いているのか、鳥居の向こうの闇がぼんやりと赤い。暗い空の縁が燃えるように。

 どこか遠くから除夜の鐘の音が聞こえてくる。

 年が変わるのだ。

 今が終わり、これからが始まっていく。

「行こう、南人」

 衿久にされるがまま、南人は横断歩道を渡った。

「あ──」

 衿久が小さく呟いた。

「どうした?」

「いや、今…北浦さんが」

 南人も衿久が見ている方を見遣みやった。

 衿久は何度か辺りを見回したが、その姿を見失ったようだった。諦めたようにため息をついた。

 動きさざめき、行き交う人たち。交わされる声や影の向こうに大きなかがり火が見える。

 暖かな光が離れたところに立つ、冷えた頬に暖かい。

 南人が吸い寄せられるように足を動かしたとき、前方の人垣の中から声がした。

「町田!」

 衿久が声の方を見て、あ、と目を見開いた。

「芦屋」

「うわ、なんかすげー久しぶり!」

 衿久と同い年ぐらいの青年が人をかき分けて嬉しそうに近づいて来た。彼はひとりではなく、その後ろから、3人の男女──男がひとりに女がふたり──が同じように笑いながら歩いてくる。南人は衿久の手を解いた。町田くん、と女の声がした。

「さっきそこでばったり会ったんだわ」

 彼女らを指差して、芦屋が言った。彼はどうやらもうひとりの青年と来ていたようだった。

 衿久は彼女たちを見て挨拶代わりに頷いた。

「冬休み遊びに行こうって言ったきりだなあ」

「ああ、まあ、おまえもそれどころじゃねえだろ、山ノ井も」

「そーそーこれは息抜き、遊んでられっかよ」

「そうだけどさ、…あ、ごめん、友達?」

 芦屋と呼ばれた青年の目が、衿久の横に立つ南人に向いた。他の3人がそこでようやく南人に気づく。

 不可思議なものを見たように、誰もが戸惑っていた。

「そう」と衿久が言った。

「そうなんだ。年上?だよな。どうも、こいつの友達の芦屋でーす」

 おどけてみせた芦屋を、連れの女の子のひとりがくすくすと笑った。その子が、衿久の腕を引っ張った。

「町田くん、ね、お参り済ませたら遊びに行こうよ」

 ちらっと南人を見る。

「お友達も、一緒に」

「遊んでる暇ねえだろ」

「えーなんで、これで2回目だよ。今日は何にも用事ないでしょ。行こうよ」

 彼女は言いながら、ちらちらと視線を南人に向けてきた。

 綺麗な子だな、と南人は衿久と彼女を見つめた。華があって、人を動かすことに長けていて、若く美しい。そしてなによりも女性だった。

 そんな当然のことに、今さらに南人は愕然とした。

 隣にいる自分は男だ。

「……」

 友達に囲まれた衿久を見るのははじめてだ。彼らの世界は、まだ始まったばかりだ。

 彼らに自分はどう見えているのだろう。年上かと聞かれた。それに頷いて、もう何年かしたら、彼らは自分よりも歳を取っているに違いない。そうして衿久も、いつか。

「嶋野、俺らも帰るし、町田もひとりじゃないしさ。今日は帰ろうって」

「えー、いいでしょちょっとぐらい」

 嶋野と呼ばれた彼女が、宥める山ノ井を撥ねつけた。衿久の腕をずっと離さないままの嶋野に、衿久が言う。

「悪いけど送ってくところだから」

「なにそれ」

 鼻白んだように嶋野が笑った。そして南人を見る。

「変なの、ひとりで帰れないの?男のくせに」

 細い腕が、とん、と南人の肩を突いた。

 軽く、戯れただけだった。誰が見てもふざけていただけだ。

 なのに、その指で、胸を抉られたような気がするのはなぜだろう。

 あやちゃん、ともうひとりの女の子が咎めるように声を上げた。よろめいた南人を見て、衿久の顔色が変わった。

「──」

 衿久が彼女の手を振りほどき、怒りで何かを言い出す前に、南人は彼女をまっすぐに見て言った。

「じゃあな、衿久」

「南人──」

 追いかけてくる手を躱して、南人は家へ走った。



「あーあ、行っちゃった」

 嶋野が軽く言った。

「南人!」

 くそ、いつもいつもどうして──

 いつまでも掴んだままの嶋野の手を振りほどいて、衿久は彼女を見下ろした。

「悪いけど、俺あんたのこと嫌いだから」

「え…」

 嶋野の顔から血の気が引くのが分かった。

 嶋野の後ろにいる相川が驚きで目を丸くしている。芦屋も山ノ井も、同じだった。

 でもどうでもいい。

 優しい言い方などしない。

 気など──誰が使ってやるものか。

「好きになれねえし、なりたくもねえ」

 どれだけ傷つこうが構わない。

 町田やめろ、と芦屋が止めに入った。

「人のもんに、勝手に触りやがって」

 びく、と嶋野が怯えた。

 じわっと涙を浮かべる。

 泣きたいのはこっちの方だ。

「芦屋悪い、またな、山ノ井も」

「お、おう」

 ふたりが我に返ったように返事をする。

 目が合った芦屋が、少し笑った。早く行けと声に出さずに促されて、衿久は踵を返し、南人の後を追った。



 衿久には未来がある。

 これから先も続いていく。

 でも自分は?

 自分はどうなる?

 分からない、分からない。分からない。

 時間は止まったまま──このままずっと。

 それでも。

「南人!」

 暗い道の端で追いついて来た衿久が南人の腕を掴んだ。

 引き寄せようとする手を振りほどいて、南人は先を進んだ。

「どこ行くんだよ、そっちじゃないって!」

 ぐいっと肩を強く引かれて振り向かされる。

「家、違うよ、そっちじゃない」

 目を合わせようとしない南人を覗き込むように衿久は言った。走って息が上がったのか、言葉は途切れ途切れだ。

「こっちでいい」

「…遠回りする?」

 肩から腕を辿り、衿久の指が南人の手を握った。

「帰ろう」

 返事をせずにいると、衿久はそのまま手を引いて南人が歩いていたほうへと歩き出した。横には並ばずに、南人は衿久の後ろを歩いた。

 汗をかいたのか、衿久の手は熱く、しっとりとしていた。

「…友達は?」

 滑りそうになり、何度も衿久は南人の指を握り直してくる。

「置いて来たよ」

「遊びに行くんじゃないのか」

「行かないよ」

「あの子、…行きたそうだったな」

「そうだな」

「……行かないのか」

「行かないよ」

 囁くように前を行く衿久が言う。

 白い息が空中に漂う。

 冷たい空気に鼻先が痛む。

「行ってもよかった」

 衿久の肩の後ろを見つめる。ここからでは表情は分からなかった。

 呼吸をするたびに白く、小さな塊が溶けて流れていく。

「衿久」

 綺麗な耳のかたち。

 少し癖のある髪。

 コートの襟で隠れる項には小さな黒子ほくろがふたつ並んでいる。

「俺を選ばなくてもよかった」

「なんで」

 その声が。

「俺は南人を選ぶよ」

 迷いのない言葉が、その目が好きだと思う。

 いつでもこっちを見ていて欲しい。

 いつも欲しい。

 こっちを見て、衿久。

 俺を見て。

 俺を見ていて。

「衿久」

 込み上げてくるものを南人は必死で押しとどめた。

 今覚悟を決めなければ、何も変わらない。

 すべてを話そう。

 衿久にすべてを話してみよう。

 化け物だとそしられてもいい。長い年月を、気の遠くなるほどの寂しさを、いつも月の夜に逃げ続けたことを思えば、きっと。

 衿久が望むのなら、俺を嫌だと思うのなら、この手をきっと放してやれる。諦められる。

 南人を選ばない道に戻してやれる。

 今ならまだ──これ以上欲しいと思う前に。

 目の前が揺れて滲んだ。

「衿久」

 衿久が振り向いた。

「好きだ」

 南人は見上げてそう言った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る