21


 きっか、と叫んでいた。

 きっか、きっか。

『きっか、…しっかりしろ、きっか…!』

 ああ、三津に──何て言えばいいのだろう。

 蓉に合わせる顔がない。

 もとより疎まれている自分が何を言えばいいのかも分からない。それなのに。

『…さま』

 南人の着物の袖をぎゅっと握りしめて橘花が腕の中で身じろいだ。

 支える手がぬらりと温かいもので濡れている。闇に慣れた目に、黒いものが地面にしたたり落ちていくのが見える。

 おじいさま、と小さな声がした。

 駄目だ、駄目だ。

 連れて行かないで。

 自分はどうなっても構わないから、この子を。

 強く打った自分の背中も濡れているのが分かる。汗か血か、どうでもいい。痛みも何もかもどうでもよかった。

『待ってろ、すぐに、すぐに…っ』

 手のひらに力を集めようとする。くらりと霞んだ視界に眩暈が重なって、上手くいかない。乱れる呼吸を整えて、もう一度。

 もう一度。

 着物を握る小さな手が、ぱたりと落ちた。

 見開いた目に星が映って──

 ああ、これは夢だ。

 夢だ。

 そうでなければこんなにも今も哀しいはずがない。

 目じりを涙が伝って、南人は目が覚めた。


***


 朝起きた空気の冷たさに衿久は身震いした。昨夜から急に冷え込みが強くなったらしい。遅すぎた寒波に、ようやく今が冬なのだと実感する。

 今さらに、時間が経つのは案外早いものだと思う。気づけばもう今日は大晦日だ。明日からは新しい年になる。

「おはよう」

 階段を降りると、かすかに線香の匂いがした。祖母の部屋のドアが開いて、ちょうど母親が出てくるところだった。

「おはよう、寒いね」

 衿久は母親と入れ違いに部屋に入り、小さな組段の上に置かれた祖母の写真に手を合わせる。写真の横にはまだ白い織物に包まれた小振りな陶器の入れ物がある。

 祖母の病室のクローゼットから出て来たと言うそれは、生前祖母が自分で自分用にと買っていた骨壺だった。白磁にうっすらと入った葉模様。

 百合だろうか。

 祖母らしいと家族で笑った。人は死ぬとこんなに小さくなる。衿久はそれを撫でて部屋を後にした。

 少し遅い朝食の後、買い物に出かけると言う家族を衿久は見送った。

「じゃあ衿久、佐原さん、18時くらいに連れて来てね」

「はいはい分かってるよ」

「あっ、嫌いなものないよね?」

「なんでも食うって」

「ほんとでしょうね」

「おにーちゃん、つれて来てね!」

「あー分かったからちゃんと座ってろよ、ほら」

 後部座席のチャイルドシートから身を乗り出す青衣を中に押し込んで、衿久はその横に荷物を入れ、ドアを閉めた。

「いい子にしてないと来ないぞー」

 助手席の父親が振り返って笑う。えー、と青衣が声を上げたところで、じゃあね、と母親が車を出した。

「気をつけてな」

「いってきまーす!」

 手を振って送り出す。

 車が角を曲がるまで見届けてから、衿久も出掛ける準備をしに家に入った。



 母親が勢い込んで買って来たペット用のキャリーバッグを自転車のかごに放り込み、衿久は南人の家に向かった。途中昼食の買い出しをスーパーで済ませ、また自転車を走らせる。

 ALTOに差し掛かり、衿久は速度を落とした。店の前で止め、自転車に跨ったままガラスの扉を眺めた。

 店内に明かりはなく、店の名前を覆うように白い紙が一枚貼りつけられている。

 北浦が手書きした閉店のお知らせだった。

「……」

 おとついの29日、衿久は店に寄った。最後の日だと北浦はいつもよりも随分明るくしていて、それが空元気だとすぐに気づいた。

 心配で何度か、交換したばかりの連絡先にメッセージを送ってみたが、返事はない。既読になりはするが、電話を掛けても繋がらないままだった。

 あれからどうしてるだろう。

 また明日にでも連絡してみるかと、衿久は白い息を吐き出して、自転車をこぎはじめた。

 散策路から南人の家に入る茂みの前に、一台の車が停まっていた。

 南人の患者だろうか?

 衿久は自転車を押してその横を通り過ぎ、茂みの中に入った。門を抜け、玄関の前に出たとき、苔にまみれたその扉が、中からぎいっと軋んで開いた。

「じゃあ南人さん、また年明けに」

 扉を押し開けて、きっちりとスーツを着た男が家の中に向かって言いながら出て来た。驚いて立ち尽くす衿久に気づき、顔を上げた男も、衿久を見て目を丸くした。

「あ──、あなたは…?」

「え、俺は…」

 お互いに咄嗟のことに言葉が見つからず、見合ってしまう。男はかなり年上で、髪はところどころ銀色が混じっていた。痩身にダークグレイの三つ揃いのスーツがよく似合っている。

 いや、それもそうだが…

「玄関、開いてる」

「え?…ああ」

 男は扉を振り返った。

 この扉は開かずの扉ではなかったのか?

「衿久」

 玄関の中から南人の声がした。見れば裸足のまま、扉のところまで出て来ていた。

「南人」

「南人さん、こちらの方は?」

 男が尋ねると、南人は衿久に向けていた視線を男の方に向けた。斜めに少し上。男は衿久と同じほどに背が高かった。

「友人です。以前話した」

「ああ…」

 男の声が弾んだ。衿久を振り返り、微笑んだ。

「そうか、きみが」

「あ──町田です」

 相手は自分よりも目上の人だ。戸惑いつつも衿久は名乗って、軽く頭を下げた。

 何だろうこの人は。

 雰囲気はどことなく親戚の叔父さんといった感じだが、南人とは痩せていること以外、まるで似ているところがない。

 それに呼び方も親族のそれではなかった。

 どこか上下関係を含んだような…

「うん、町田くん、いつも南人さんをありがとう。あ、そうだこの間は──」

「奥村さん」

 言おうとした男の言葉を遮って、南人が咎めるように言った。

「もう時間でしょう」

 ああ、と目元を和らげて男──奥村が南人に笑いかける。

「はいはい、分かりました。厳しいなあ、じゃあまた新年に」

「どうも」

 奥村は不愛想に言い放った南人の言葉には慣れているようで、まるで気に留めずに衿久に向き合った。胸ポケットから名刺を取り出すと、レジ袋を持つ衿久の手の中にすっと滑り込ませた。

 ぎゅっと、その上から手を握られる。

「町田くんもよいお年を。またお会いしましょう」

「え、あ──はい」

 慣れた手つきにあっけにとられていると、奥村はにっこりと笑った。衿久に目礼を返して、玄関に鍵をかけ、門を出ていった。

 その背中を見えなくなるまで眺めてから、衿久は南人を振り返った。

「南人、あれ誰?…」

 閉ざされた扉に寄りかかった南人は面白くもなさそうな顔をしていた。

「てゆうかそこ、開いたんだな」

「ああ…あの人は鍵を持ってるから」

 鍵?

 だから──南人がいるのに鍵をかけたのか?

 分からない。衿久はいったん考えるのをやめた。とりあえず一番気になることからはじめていこう。

「で、誰なんだ?」

 南人が衿久を見つめた。

 同じような角度で。少し斜め上。

「古い知り合いだ──義父の」

 義父?

「彼の父親が義父の付添人だったんだ」

 とため息まじりに南人は呟いて、裸足のまま、裏に回った。



 甘い匂いが部屋中に満ちていく。

 フライパンの上に落とした生地が、じゅっと小さな音を立てる。昨日の帰りに何が食べたいかと聞いたら、ホットケーキがいいと南人が言ったのだった。

 焼けたホットケーキを皿に乗せる。焦げずに焼き上がったそれを見て、衿久はよし、と次の生地をフライパンに落とした。なかなか上手に焼けるようになった気がする。

「この家は元々俺を引き取ってくれた人のものなんだ。この家も、この森一帯の土地も」

 ソファの上の定位置で膝を抱えて、南人はこちらを向いていた。

 ふうん、と衿久は返事をする。

「て、──この森全部?」

「そうだろうな」

「そうだろうなって…」

 焼き上がったホットケーキを先に焼いたものに重ね、大きめに切ったバターを乗せて南人の前のテーブルに置いた。ティーポットから紅茶を注いで淹れてやると、南人はソファから降りて、ぺたんと床に座った。

「よくは知らない。義父はあまりにも多くのものを俺に遺して逝ったんだ。誰も…把握しきれないほど」

 ふうっとカップを吹いて表面を冷まし、南人は紅茶を飲んだ。冬の日差しが差し込む部屋の中、湯気の立つ向こうに、目を伏せた南人の顔がある。

「そうか」

 衿久は食卓に置いてあった自分の分の皿を取りに行き、テーブルの南人の向かいに腰を下ろした。

 それを待って南人は言葉を続けた。

「それを全部彼の父親が管理してたんだ。もう随分前に亡くなって…今は息子である彼が跡を継いで管理してくれてる。俺じゃよく分からないから。それと、俺が診る患者の選別も」

「…選別って──」

「俺に診てもらいたい人は、あの人を一度通さなければ予約は出来ないってことだ」

「そうなのか?」

「ああ、義父の…それが俺がこのことを続けるための条件だった」

 伏した目の先には温かなホットケーキがある。でも南人はそれを通り越して、違う何かを見ているようだった。

 今まで聞かなかった南人の生い立ち。

 どんなふうに生きてきたのか、衿久は何も知らない。

 人とは違うものを体に有して生きるというのは、どれほど大変なものだろう。

 そのすべてを知りたいと言ったら、傲慢だろうか。

 南人のすべてを。

「俺と知り合うまで、あの奥村さんが…南人の世話をしてくれてたのか?」

 こんなふうに食事を作ったり、運んだり。

 今着ているものも、食べるものも、飲むものも。この家にあるものすべて。

 生きている何もかもを、あの人が?

 お湯ひとつ満足に沸かせない南人の世話を、あの人がしてきたんだろうか。

「──」

 ぞわっと腹の底が覚えのある感情でざわめいた。衿久はそんな自分に驚いて、取り繕うようにホットケーキにフォークを突き刺した。

「いや、あの人は何もしないよ」

 乱暴に切り取った欠片を口元に持って行く手が止まる。

「え?」

「ああやって時々鍵を持って勝手に入って来るだけだ。年に3、4回節目ごとに…俺が生きてるかどうか確認して帰って行く」

「それだけ?」

 南人が不思議そうな顔をした。

「…それだけって?」

 南人の言葉では冷たそうな人にしか聞こえない──それにしてはすごく、優しそうだった。

 あの人は間違いなく南人のことを気に掛けていた。

 南人が思うよりもずっと。

『あ、そうだこの間は──』

 その先を──奥村は何て言おうとしたのだろう。

「他になにもないよ」

 南人がホットケーキを口に入れた。

 口元が綻ぶ。

「美味しい…」

 こぼれた蜂蜜が南人の唇を濡らした。それをぺろりと舌先で舐めるのを、どこか落ち着かない思いで衿久は眺めていた。



 家には18時ころに着けばよかったので──あまり早すぎるのもこういう場合駄目らしい──昼食の後はのんびりと過ごした。

 いつものようにふたりで思い思いに好きなことをするだけだ。

 南人は大抵ソファの上で寝転がり、衿久はその傍で本を読むか勉強をしている。今日も同じだった。えくぼの居場所が違うだけだ。えくぼは今日は、南人の腹の上で丸くなっている。別れを惜しむように、南人の手がえくぼの背を撫でている。

 床に座り、衿久が南人の寝ているソファに背を預けて本を読んでいると、後ろから南人が覗き込んできた。

「衿久」

「ん?」

 なに、と振り向くと、南人の顔が鼻先が触れそうなほど近くにあった。

「最近…勉強はしないのか?」

 声に、ぞく、と背筋が震える。

「え、ああ──冬休みだしな」

 ページを捲る振りで、衿久は南人から目を逸らした。

「…? そうなのか?」

 南人の呼吸が耳の下の首筋に当たる。

 今日は駄目だ、と衿久は自分に言い聞かせた。

 今から家に連れて行くのに。

 駄目だ、だめだめだめだめ──

「ああ…これ、読んだことがある」

「──」

 肩越しに身を乗り出した南人の髪が頬を掠めた。

 駄目だって──

 くそ。

 拷問だ。

 


 夕方、キャリーバッグにえくぼを入れ、衿久と南人は歩いて衿久の家に向かった。

 自転車は南人の家に置いて行った。どうせ南人を送ってくるのだから。

 住宅街に差し掛かる。家が見えてきたところで衿久は時間を確認した。17時57分。ゆっくり歩いて5分稼いだ。

 南人とふたりで外を歩いていることが不思議だった。

 冬の夕暮れ、藍色の空の端はまだほんの少し赤い。

「ここだよ」

 遠回りをして着いた家を衿久は指差した。

 南人が見上げて、かすかに微笑む。

「いい家だな」

 えくぼが早く出せと催促をするように鳴いた。目を見合わせて笑うと、家の中から青衣が大きな声で歌を歌っているのが聞こえた。

「みーくんが来るってはしゃいでるんだよ」

「…みーくん?」

 首を傾げた南人に、くすっと衿久は笑った。

「南人のミ、で、みーくん、だろ?」

 祖母を看取った病院で会ってから、青衣は南人がすっかり気に入ったようで、ずっとそう呼んでいる。青衣にはまだえくぼのことは内緒にしていた。

「……」

 かあ、と南人が頬を赤くした。そこに触れたいと唐突に思う。

 込み上げる欲求を押し殺して、衿久は門を開け、南人の手を引いた。

 鍵を取り出して差し込んだ。握ったままの南人の手が、ぎゅっと衿久の手を強く握った。南人の背に手を当てて、ドアを引いて開ける。

「みーくん、いらっしゃい!」

 薄く開いたドアの向こうから青衣の声がする。音を聞きつけて駆けてくる足音。あ、と南人が廊下の奥に青衣を見つけて微笑んだ。柔らかな横顔。

 その瞬間、衿久は南人の腕を後ろに引いた。

「あ──」

 よろめいた体を抱き止める振りで、ドアの影の中に引き寄せて、誰にも見えない場所でその赤い頬に口づけた。

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