20
胸が痛い。
苦しさに息が詰まる。
吐く息を絞り出すように、衿久は言った。
「…飯、食った?」
安堵で声が震えそうになり、片手で顔を覆った。
よかった、ここにいた。
背中でかすかに南人が身じろいだ。
食べていないのかもしれない。
温かな吐息。
「北浦さんに頼んだの、迷惑だった?」
南人が首を振った。
コート越しに伝わる温もりが、衿久の胸の奥を締め付けてくる。背中に呟く声。
「衿久」
たった三日だ。
それだけ、それだけだ。なのに。
「……あ!」
「南人」
抱きしめてくる腕の中で衿久は強引に体をねじり、向き合った。驚いて声を上げた南人の顔を両手で上向かせると、外れた指が行き場を探すように衿久の腕を掴んでくる。
「ちゃんと俺を見て言えよ」
目を合わせて衿久は言った。
暗がりで揺れた目が濡れたように光る。
「衿久、ごめ…」
それだけで何のことだか分かる。
「馬鹿だな」
衿久は苦笑した。
「ほんと、もう──」
「えり…」
くしゃっと崩れた顔が愛しくて、衿久は堪らずに唇を塞いだ。
言葉に出来ない。
あとからあとから溢れてくる。
溢れ出したそれを、止められないと思った。
こんなことを南人は誰かとしたことがあるんだろうか。
介抱でもなんでもない口づけを、言い訳もできないようなキスをしながら衿久は思った。
なんでこんなに甘い──
自分の知らない誰かにも、この甘さを味わわせたんだろうか。
壁に押し付けた体を抱き上げて、掬うように深く口づける。
飲み込みきれない唾液が落ちてくるたびに、衿久はそれを舐め取って南人の口に押し込んだ。くぐもった声が甘く部屋に響く。甘い体液が顎を伝って首筋を濡らす。夢中で辿って、また口づける。
「…ん、や…っ」
いつの間にか窓からは月明かりが差し込んで、互いの顔が分かるまでになっていた。
「も、だめ…」
潤んだ目が泣きそうだ。
「まだだろ」
「あ、も…っ」
「駄目」
「…ん、んんっ」
首を振って逃げる南人の顎を言い捨てて向かせ、今度は覆い被さった。壁に両手をついて肘を折り、狭く囲い込んで、崩れ落ちそうになる南人の足の間に片足を捻じ込んで支えた。
上向いた南人の後頭部が、ごとん、と壁にぶつかる。ぶつからないように片手を後頭部に添えて固定し、引き寄せて貪った。
「んん、う、…ん、ん…っ」
甘い。
甘くて、頭の芯が痺れていく。
なんでこんなに──
「南人」
「はっ、…は、あ」
たどたどしく紡ぐ息。
青い闇の中でも分かる上気した頬。
とろけだしそうな目が、衿久を見つめている。
薄く開いたままの唇が何かを言いかけてやめる。
「みなと…?」
確かめるように名前を呼ぶと、一瞬南人は息を呑んだ。衿久の腕に縋る指が深く食い込んで、濡れた唇が衿久、と声を出さずに動いた。
「──」
好きだ。
──好きだ。
どうしようもなく。
「くそ…」
南人の体がずるりと崩れた。
駄目だ、これ以上は。
衿久は南人の肩に顔を埋めて、止まらない衝動を抑え込むように、その体を抱き締めた。
案の定と言うべきか、予想した通りのことに、衿久はため息をついた。
「…ったく」
冷蔵庫から取り出したサンドイッチをフライパンの上で焼き目をつけるようにして温め、ホットサンドのようにしていく。これは北浦に教えてもらったやり方だったが、なるほど、こうすればそのまま食べるよりも美味しそうだ。冷蔵庫の中で固まったチーズがとろりと溶け出して、いい匂いだ。
「なんでちゃんと食わねえんだよ」
珍しく食卓に着いた南人に、衿久は声を上げた。南人は行儀悪く椅子に足を上げて、膝を抱えるようにしてこちらを向いている。
「食べただろ」
「一日だけだろーがっ」
結局南人は、最初の一日だけ食べて、後は何も食べていなかった。北浦が持ってきたものはそのまま袋ごと冷蔵庫の中に突っ込まれていた。開けた形跡さえないそれに、衿久は呆れを通り越して苛立ってしまう。食べない理由は、相変わらずだ。
「…それでいいだろ」
あのなあ、と衿久は頭を抱えた。
「毎日食わねえと意味ないだろうが」
だん、と目の前に出来上がったホットサンドを載せた皿を置くと、目を見開いた南人が、衿久を見上げてきた。
「何だ、意味って…?」
「あれを食いたくないんだろ」
「──」
「だったら食えよ」
見下ろした衿久とわずかな間見つめ合う。南人は何も言わずに目を逸らし、目の前の皿に目を向けた。
「……いただきます」
「おう」
衿久も椅子を引いて食卓についた。
両手で焼いたサンドイッチを持ち上げてぱくりとひと口齧る南人を目の端に意識しながら、ティーポットからカップふたつに紅茶を注ぐ。
「…美味しい」
思わず漏れたような感想に、衿久は苦笑した。
「持ってきてくれたときに食べればもっと美味しかっただろ」
それぞれの前にカップを置いて、自分の分を啜る。
湯気の向こうに少しだけ痩せたような南人の顔がある。元々細い南人だが、衿久が食事を持って来るようになってから、顔色もよくなっていたけれど、この3日で、出会った頃に戻ったように見えた。伏せた瞼、長い睫毛の翳り、気がつくと、衿久は無意識に頬を指先で撫でていた。
「…?なに?」
「ケチャップ付いてる」
驚いて目を丸くする南人に、衿久は嘘だとばれないようにその指を舐めた。
「子供みてえ」
「…うるさいよ」
「俺も食おうかな」
冷蔵庫にはまだ北浦の持ってきてくれた手製のサンドイッチがある。早く食べないと傷んでしまう。せっかく作ってくれたのに。
「衿久、ほら」
「え?」
ぼんやりとそんなことを思っていると、南人が食べかけのサンドイッチを衿久に差し出した。食べようかと口にした言葉を、ひと口欲しいと催促されたと、南人は思ったようだった。衿久は笑った。
「くれんの?」
「少しだけ」
「やった」
じゃあ遠慮なく。
手首を掴んで引き寄せて、南人の手から衿久は大きく口を開けて、がぶりとそれを食べた。
「あっ」
と南人が声を上げた。
勝手口で振り返り、衿久は苦笑した。
「なんだよ、まだ怒ってんの?」
そっぽを向く南人の顔は不貞腐れたままだ。それでも見送ろうとしてくれているのが可笑しい。
南人の足下でえくぼが鳴いた。
「当たり前だ」
「謝ったろ」
「謝ればいいってもんじゃない」
勝手口までは中の明かりはぼんやりとしか届かない。南人の裸足の踵が、古びた明かりのほのかな暗い橙色に照らし出されている。どちらの顔も輪郭だけが影の中で淡い飴色に浮かび上がっていた。
「明日また買ってくるよ」
南人の差し出したサンドイッチをひと口で半分以上食べてしまったことで、あれから南人はずっと機嫌が悪いままだ。冷蔵庫の中のもうひとつを同じようにして温めて出したが──南人はそれをぺろりと食べたが、衿久は許してもらえなかった。
「ごめんって。…な?」
髪を撫でる。目を合わせない南人の目を覗き込むと、怒りの色はなかった。どうやらただ収めどころが分からないだけのようだと、衿久は目を細めて微笑んだ。とりあえず話題を変える。
「南人、大晦日、うちに来ないか?」
「え?」
「親がさ、もうえくぼを引き取れるって」
目を丸くして見上げてくる南人の目には衿久が映っている。
「ほら、ばあちゃんのことがあったからクリスマス出来なかっただろ?それじゃ青衣が可哀想だからって大晦日に仕切り直すから、南人とえくぼを招待したいって、母親が。まあケーキ食うだけだけどな」
「俺も…?」
衿久は笑った。
「南人に来て欲しいんだ」
「…衿久は、嫌じゃ、ない…?」
「なに言ってんだよ」
驚いたままの南人の髪を衿久は撫でた。
「来て欲しいに決まってるだろ?」
南人が嫌じゃなければ、と続けると、南人はじわりと顔を赤くして頷いた。
「じゃあ、…お邪魔する」
「うん」
暗がりでも判るほど、南人は首筋までも赤くなっていた。照れて伏せた目、俯いた顔、大きめのセーターの首周りから鎖骨が覗いて、衿久の目が留まる。ふいに撫でたいと衿久は思った。撫でて、舐めて、舐めまわして──噛みつきたい。
「っあ」
──まずい。
え、と南人が顔を上げた。
「あっ、で、出来たらそのときえくぼを引き取ろうって言ってたから」
「…?分かった」
貼りつく視線を強引にそこから引き剥がして、衿久は早口で言った。
まずすぎる。
込み上げる衝動を抑え込み、首を傾げる南人に慌てて背を向けた。衿久、と南人が呼んだが、答えず、肩越しに衿久は手を上げた。
「じゃ、また明日な」
後ろ手に戸を閉める。
閉まる瞬間、泣きそうに歪んだ南人の顔がそこにあったが、振り返らない衿久には気づけなかった。
──また明日。
その言葉が嫌いだった。
「……っ」
『また明日』
明日なんて来ないかもしれないのに。
どうして皆同じことを言うのだろう。
「う…っ」
ぱたぱた、と涙が裸足の足に落ちた。
伸ばそうとした手を握りしめる。
俺に明日が来ても、衿久に来なかったら?
『また明日来るから』
『また今度』
『──また来る、南人』
置いて行かれる。
皆そう言って行ってしまった。
自分を残して。
「えりひさ…っ」
重なる面影が怖い。
衿久は日置じゃない。違うと分かっているのに、同じかもしれないと思ってしまう。同じような目に衿久が合うかもしれないと考えてしまう。
日置が好きだった。誰よりも大事だった。南人にとって日置は、追われるばかりの生の中から抜け出す道を与えてくれた人だった。望んでくれるのなら傍にいたいと思えるほどに。でも、今なら分かる。その思いは愛や恋ではなく、純粋な愛情だ。友情の延長線にあるような、家族に抱くものと同じ親愛だ。遠いあの日、日置が自分に向けた愛情とは、きっと意味の違うものだった。
『好きだ、南人』
けれど衿久は違う。
衿久を好きだと思う。
欲しいと思う。
いなければ息が出来ないほどに。
一緒に生きていきたい。
けれど、向けられる背中が、いつかそのときが来るのだと思い出させる。
歳を取れない自分が衿久と同じように生きてはいけないのだと。分かっている。それでも、愛しくて。
慣れているはずだった。
見送ることには慣れているはずなのに。
怖い。
こんなにも怖い。
いつか衿久を失うことが。
こんなにも好きになってしまって。
どうしよう。どうしよう。
「嫌だ…」
両手に顔を埋め、閉じた扉の前で蹲る南人の足先を、小さなざらついた舌が掠めた。
にゃあ、と鳴くと、えくぼは南人の足に落ちた涙を、南人が顔を上げるまで、くすぐるようにまた舐めた。
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