26
「じゃあよろしく」
手配を済ませてひと息つくと、礼を言って奥村はその店を出た。
金曜日の午前中、買い物客がまばらに目に付く。
喫煙所を捜して辺りを見回すがそれらしい建物はどこにも見当たらない。最近は喫煙者にことのほか風当たりが強く、人目につく場所にすら喫煙スペースを設けてはもらえないのが実情だ。よくてトイレの横か、もしくはそれすらも無いかだ。
ましてや、ここは子供をターゲットにしたファミリー向けのショッピングモールだ。あまり期待はしないほうがよさそうだった。奥村は早々に諦めた。
「さて…」
もう戻るか、と駐車場に足を向けた。時間を無駄にするのはあまり好きではない。何よりも、やっと採用した秘書が1週間も経たずにまた辞めてしまったので、やらなければならないことが山積みだった。それでも、電話ひとつ、パソコンひとつで終わったことをわざわざ普段来ることのない商業施設にまで出向いて来たのは、自分にしか出来ないことだったからだ。たとえあの秘書がまだ辞めずにいても、頼みはしなかっただろう。
自分はあまり人を雇うのに向いていないのかもしれない。
だがそれでもまた、人は探さないといけない。
車のキーをポケットに探し当て、車に触れるだけでドアが開いた。便利になったものだ。
馴染んだ車内に体を滑りこませて、エンジンをかけた。ボタンひとつで何でも出来てしまう世の中に、時間が止まったままの青年の姿がふと浮かんで、自分でも気づかぬほどに奥村の目がかすかに緩んだ。
動き出して車は大通りに出る。流れる車窓の向こうに一瞬だけ見覚えのある顔があったことに、帰りついてから奥村は気づいた。
「──と…みなと、…南人」
肩を揺すられて目を覚ますと、白い布団の隙間から、見下ろしている衿久の顔が覗いていた。
窓から差し込む陽が衿久の肩越しに降り注いで眩しい。南人は目を擦った。
「あ…、え?」
「おはよう」
笑って衿久が南人の額の髪を掻き上げた。いつも早く起きている南人が昼前までベッドの中にいるのが面白いのか、顔が笑っている。南人はゆっくりと起き上がった。
こんなに眠ったのはいつ振りだろう?
「今、何時だ?」
「11時前。起きる?」
「うん」
ベッドから降りてふらふらと歩く南人の後ろを、衿久が笑いながらついて来た。
昼には衿久の作ったシチューを食べた。それは以前食べた黄色いものとは違って辛くもなく、とても美味しかった。
「…美味しい」
「そうか?」
コンロの前で衿久が振り向く。食卓について目を丸くする南人を見て、照れたように微笑んでいた。
「うん、衿久、美味しい」
「まだあるからゆっくり食えよ」
美味しくて南人はおかわりをした。
よく晴れた金曜日の午後、まどろむような幸せが南人の中に満ちていた。
夕方、青衣の迎えがあるからといつもより早く衿久は帰り支度をした。
勝手口まで見送ると、衿久は振り向いた。
「明日は昼にはあいつらを連れて来るよ」
南人はふと眉を寄せた。
「衿久、そんなに早く来なくてもいい」
「…なんで?」
「なんでって、…おまえが」
大変だろうから、という言葉を南人は呑み込んだ。
ふっと衿久が笑う。
「大丈夫だよ。それに、青衣が言うこと聞かないんじゃないか?」
「そうか、なら──いいけど」
「明日は何食べたい?また俺が作るよ。つっても出来んのはカレーか、あと…」
「あれがいい、今日の」
南人は即答した。
「また?」
衿久は声を上げて笑った。夕飯用にとローテーブルの上に用意してあるシチューは、鍋いっぱいのそれを、結局南人がほとんど全部食べてしまったので、もう一度余った材料で衿久が作り直したものだ。
「そんなに気に入った?」
頷くと、衿久が柔らかく笑んで南人を見下ろした。
「じゃあ明日もあれにするか」
そう言って衿久は帰って行った。
ぱちんと暖炉にくべた枯れ木が爆ぜる。
「…それでは」
電話を終えて暗いリビングに南人は戻った。
陽はもうすっかり暮れていた。
誰もいない部屋、ソファに座り、ローテーブルの上にラップをかけて置かれた夕食を南人は眺める。もったいなくて食べられない。でも食べておかないと衿久が悲しむような気がして、先日衿久が買って来たばかりのレンジに皿を入れて、メモを見ながらスイッチを押した。シチューの皿がぱっと灯った光に照らされる。
やがて軽やかな音がして、言われた通りに注意深く皿を取り出した。熱いから気をつけろと何度も練習させられた。気をつけながら指先でラップを剥ぐと、優しい湯気がふわりと立ちのぼって、温かく頬を撫ぜていく。南人はゆっくりとスプーンで掬ってそれを食べた。
***
土曜日の朝から町田家は大わらわだった。
家を出る間際になって母親の携帯電話が行方不明になった。母親よりも後に出る予定の父親が家中を捜したのだがどこにもなく、何度か家の電話で鳴らして、ようやくベッドの丸まった布団の中から見つかったころには、もう父親も出る時間になっていた。
「お、そうなのか、ふーん」
にもかかわらず、父親は呑気に冷えたコーヒーを啜りながら新聞に目を落としている。興味を引かれるものでもあったらしく、目が釘付けだ。
「うわ、遅刻遅刻!パパ何やってんの、行くよ!」
駅まで一緒に行こうと母親が父親を急かした。急かす母親に、父親が新聞を差し出して、その紙面の片隅を指差した。
「なにこの忙しいときにっ…!」
ほら、と言われて母親が怒りの形相で新聞を覗き込んだ。ぴた、と目が留まり、視線で文字を追っているのが分かる。
「おい、あんたら時間ないのに何やってんだ、新幹線間に合わねえぞ」
玄関先にふたりの荷物を置いてリビングに戻ると、顔を上げた母親と目が合った。
「何やってんだよ」
「衿久、南人くんの家って、あの森の中だよね?」
「は?そうだけど…」
わ、と時計を見て父親が声を上げた。母親もぎょっとした顔で時計を仰ぐ。
「遅刻だ!衿久新聞見て!じゃあ行ってきます!」
「あーちゃん行ってくるねー」
父親が青衣の頭を撫でまわす。
「はあ?ちょっと…」
バタバタと靴を履いて玄関を出る両親に、青衣が大きく手を振った。
「パパママいってらっしゃーい!」
「衿久後よろしく!」
母親の声を残して、ばたんとドアが閉まった。
「何なんだ…」
やれやれ、とため息をついて、衿久は青衣のために子供番組のチャンネルを押した。青衣がテレビに夢中になっている間にパンを焼こうとテーブルの上の食パンの袋に手を伸ばす。トースターに入れながら、傍らに放り出された新聞を手に取り、ふたりが読んでいた箇所に目を走らせた。
衿久から少し遅れると連絡があったのは、昼に近くなってからだった。
外では雨が降り始めていた。
「分かった、また後で」
電話を切り、リビングに戻ろうとすると、戸口にいた奥村と目が合った。どうしたのかとその目が聞いている気がして、南人は衿久の用件を教えた。
「少し…、遅くなるそうです」
「そうですか」
奥村は穏やかに笑ってそう言った。
「じゃあ南人さん、終わりましたので私はこれで」
「どうも…ありがとうございました」
「いいえ」
玄関まで見送ると、奥村は南人を振り向いた。
「また電話をください。何でもいいですから」
奥村の手の中で握った鍵が小さく音を立てる。その音に、ふたりとも目を向けた。
「佐原の遺言もいい加減にしないとね」
苦笑する奥村につられて、南人もかすかに苦笑した。
「いえ、それは…佐原の願いですから」
奥村は何も言わず、ただ黙って頷き、帰って行った。
南人の家に着いたのは予定よりもだいぶん遅れた午後だった。
降り出した雨に手間取っているうちに遅くなってしまった。
「おにーちゃん、げんかんここだよー」
玄関脇から奥に進もうとした衿久に、青衣が首を傾げていった。
「でもそこ開かねえよ」
えー、と青衣が声を上げる。
「青衣がみたときは、ここあいてたもん」
「ふうん」
衿久にここを教えてくれたのは青衣だ。青衣が見たそれは、もしかしたら奥村がここを訪ねて来たときだったのかもしれない。
試しに衿久は玄関扉の取っ手を下に押してみた。
真鍮製のその取っ手は回して開けるものではなく、押し下げて開けるものだ。以前奥村がそうしていたのを衿久は見ていた。同じようにするが、案の定、がつ、と突っかかり、取っ手は途中で止まってしまった。鍵がかかっているのだ。
「な? ほら、行こう」
合羽から出た青衣の手を引いて衿久は裏へと向かった。青衣に合わせてゆっくり歩く。
勝手口を開けて青衣を先に中に入れた。
「南人」
奥に呼びかけながら、背中に背負ったキャリアバッグを下ろし、えくぼを出してやった。「ほら」
えくぼは身震いすると、たたっと、先を歩いて行く青衣の後を追いかけていく。衿久も靴を脱ぎ上がった。
「わあ!」
キッチンを通り抜けようとしたとき、リビングから青衣の歓声が上がった。
食卓の上に買い物袋を置き、衿久はリビングに向かった。
「青衣、どうし…」
ぴたりと、衿久の脳が止まった。
何だこれは。
「おにーちゃん、すごいね!」
目を見開く衿久のジーンズを、きらきらした目で青衣が引っ張った。
確かにすごかった。
リビングはどこもかしこも巨大なぬいぐるみで埋め尽くされていた。ソファの上にも大小様々なぬいぐるみがぎゅうぎゅうに詰め込まれている。古ぼけた照明や家具はそのままだが、染みの浮いたランプシェードは取り換えられ、なにかひらひらとしたものに交換されていた。レースのリボンがふんだんにあしらわれた真新しいカーテンが窓に下がり、余裕をもってゆるく左右に分けられて巨大なリボンで纏められている。雨の午後、暖炉の火に淡く浮かび上がるリビングは、絵本のおとぎの国から抜け出たような様相を呈していた。
まるでお姫様の部屋だ。
「なんだこれ…」
「みーくんちすごいねえ、えほんだねー」
南人が…これを用意したのだろうか。
ひとりで?
まさか──
「あ、みーくん!」
ぬいぐるみの海の中を青衣が泳ぐようにかき分けて、ソファに近づいていく。よく見れば裸足の足先が見える。ソファのぬいぐるみに埋もれるようにして南人は眠っていた。
いつも着ている大きめの襟の伸びたセーター、片側に寄った襟元が肩から外れて、白い肌に飛び出た鎖骨が丸見えになっている。
南人は大きなアシカのぬいぐるみを抱き締めていた。
「みーくん、おきてえ、青衣きたよ!」
遠慮なしに青衣がゆさゆさと体を揺すると、んん、と呻いて南人が目を開けた。もぞもぞと手足が動き、何度か瞬いて、ぼんやりした目を青衣に向ける。その髪を細い指がそっと撫でた。
「…いらっしゃい」
青衣に向けられた微笑みに衿久は息が止まるかと思った。
だから、と南人はそっぽを向いて言った。
「おまえが、お化け屋敷って言うから──」
衿久は目を見開いて言った。
「え、だからぬいぐるみまみれにしたのか?」
俺じゃない、と南人が声を上げた。
「俺じゃなくて、奥村さんが──」
南人の声がもごもごと口の中で小さくなっていく。んん?と衿久が耳を近づけると、女の子の好きそうなものを買ってきてと頼んだだけだと聞こえた。
「はーん…、で?」
「そうしたらこうなったんだ」
むすっとした顔で南人は衿久から顔を背けた。その表情の中に照れがあるのが見えて、衿久は苦笑する。
「まあ、あの人ならやりそうだな」
「ひとつでよかったのに…」
「店ごと買い取ったみてえ」
ぬいぐるみに埋もれながら遊んでいる青衣を、南人が見ていた。目元が柔らかく笑っていて、衿久はそこに口づけたい衝動を我慢した。青衣がいる、と己に言い聞かせて、衿久は立ち上がった。アシカのぬいぐるみを抱えて床に座っていた南人が、衿久を見上げた。
「飯作るわ。どうせなんも食ってねえんだろ?」
その髪を思わず撫でて衿久が言うと、南人の腹が盛大に鳴った。
「みーくん、おうじさまねー、青衣はね、おうさまだよ」
「…うん」
「おうさまはね、くまさんのいすにすわるの。おうじさまはねえ、うさぎさんだよ」
「……」
ぷっと衿久は噴き出した。
リビングを埋め尽くす巨大なぬいぐるみは、どうやら寄りかかれるような仕様になっていた。広げた手足の間に体を入れると、すっぽりと後ろからぬいぐるみに抱きつかれているようになるというものだ。寄りかかっても全く倒れたりはしない。
それを見つけたのは青衣で、青衣はさっきからずっと、南人にうさぎのぬいぐるみを勧めていた。
「うん、それでねー、こうするとだいじょうぶ」
先にやってみせた青衣がぬいぐるみの腕をぐいっと曲げて、自分のお腹に巻きつけるようにした。
「……わかった」
促されて、南人がうさぎの手足の中に体を入れた。クリーム色のふわふわの毛に覆われて…
「ぶはっ」
「衿久っ!」
堪らずに笑い出した衿久を、真っ赤になった南人が睨みつける。わーいいねー、と青衣が拍手をした。
「みーくんすごい、かっこいい!」
「……」
「……」
いや、目茶苦茶かわいいの間違いだろ。
「…見るなよ」
写真に収めたい。
これは絶対奥村の確信犯に違いなかった。
「ほら、ご飯出来たぞー」
ぬいぐるみを背負ったふたりに声を掛ける。にやにや笑いが止まらない衿久を南人はじとっと睨んでいた。えくぼが呆れたような目をして、アシカの腹の上で眠っている。
「おにーちゃんは、このおおかみだよー」
「…で、俺は何なわけ?騎士か?」
「おにーちゃんはあー、りょうしさんだよ」
南人が仕返しとばかりに鼻で笑った。
「似合いだな」
「…このやろ」
ローテーブルに皿を置いて、衿久はどっかと床に腰を下ろし、青衣の指定通り灰色の狼を腹に巻きつけた。もふもふの狼は衿久には小さすぎて、なんだか狼の方が必死に衿久にしがみついてるみたいになった。このぬいぐるみのラインナップの中に狼が入っていること事体、絶対奥村の仕込みだと、衿久はあの読めない男を思い浮かべてむっとした。誰が狼だ。
えくぼがにゃあと鳴いた。
おかしな格好で、3人で早目の夕食を取った。
雨は日が暮れる頃には止んでいた。
夕食の後片付けをしながら、衿久は遊んでいる青衣に聞こえないように、食卓で紅茶を飲んでいる南人にそっと言った。
「南人、この森を売却するっての、本当なのか?」
今朝見た新聞の片隅に載っていた記事は、ふたつの市の境にある、この森の半分ほどが近く売却されるだろうという見出しから始まっていた。
南人は衿久を見て、目を丸くした。
「…どうして知ったんだ?」
「今朝、新聞に載ってた」
ああ、と南人はため息のような返事をした。
「まあ、そうなるんじゃないか」
「じゃないかって…」
「そのことは奥村さんに任せてあるよ」
じっと見下ろす衿久に、南人はかすかな微笑みを返した。
「奥村さんは悪い人じゃない。このことはもうずっと前からあった話だ。彼はずっとここを守ろうと、交渉をし続けてくれていたんだ。結果としてそうなるのなら、それは仕方のないことだ」
時代が変わり、人も増え、町も大きくなった。
求められるものを差し出さないわけにはいかないときもある。
そう頭では分かってはいるが、衿久は思った。
けれど、もし──
ここが失くなってしまったら、南人は…?
「衿久、まだ結論は出てない」
顔に考えが出てしまっていたのか、南人が仕方ないなというふうに衿久に笑った。
夜が更け、順番に風呂に入り、寝支度をする。南人の寝室に、奥村が用意したという女の子向けの寝具が一式揃えてあるのを見て、衿久は頭を抱えた。
「あの人の趣味が分かんねえ」
淡い色合いのパステル調の花柄が一面に散り、その上からレースのフリルがこれでもかとふんだんにあしらわれたそれを、ベッドの横に敷いて衿久と青衣が寝ることにした。
「やーだー、青衣はみーくんとねるのっ」
「はあ?」
しかし結局、青衣の鶴の一声で、そこには南人と青衣が寝ることになった。
ベッドの上には衿久ひとりだ。えくぼはリビングにいて、珍しくついて来なかった。
「青衣こわくないよ」
「そう?」
「てをにぎってるね。こうしたら、みーくんもこわくないね」
「…うん」
ほのかなサイドランプだけをつけた部屋の中で、青衣と南人の囁きが聞こえる。やがて声はだんだんと消え、小さな寝息が聞こえ始めた。
「……寝た?」
ベッドの上から衿久が聞くと、南人が、うん、と言った。
衿久はベッドを降りて、南人の横に体を横たえた。ベッドの布団を引きずって、すっぽりと南人ごと背中から覆う。
「衿久…!」
「何もしねえから」
背後から抱きしめてくる手を、南人が身を捩って躱そうとするのを衿久は強く抱き締めた。南人の左手はしっかりと青衣が繋いでいて、右手しか空いていない。けれど右側を下にしているのでほとんど身動きが取れないのだった。
衿久は南人の細い足に自分の足を絡めた。
「こうやって寝よう?」
「……」
真っ赤になった耳の後ろに口づけを落とすと、ばか、と小さな声で南人が言った。重なった体から伝わる鼓動が次第に同じリズムを刻み始める。ゆっくりと、ゆっくりと、同じになっていく。
やがて南人の呼吸が深くなり、眠ったのが分かった。
胸の中に南人を抱き込んだまま、衿久は南人の後を追うように、眠りに落ちていった。
外では雨がまた降り始めていた。
真夜中、何かの音がして、南人は目が覚めた。
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