17


 眠そうに舟をこぎ始めた南人を風呂に入れて寝支度をしてやった後、衿久も風呂に入った。

 時間はもう日付けが変わるころだ。

 手早く済ませ衿久は浴室から出た。廊下を数歩行くと、2階への階段がある。けれどその階段は昇れないように、その幅にぴたりと合わせた天井まで届く書架でふさがれていた。わずかな隙間はあるが、人が通れるようにはなっていない。

 洗い髪を拭いながら、衿久はぎっしりと本が詰め込まれた書架を見上げる。

 いつ見ても不思議な光景だ。

 はじめてこれを目にしたとき、南人にどうしてかと聞いたら、使わないからだと面倒くさそうに言っていた。

 面倒くさいにもほどがあるだろ。

 南人の家に泊まるのはこれで2度目だ。この家は広く、入り組んだ不思議な造りをしているので、家のどこに何があるか、衿久の知らない部分は多い。毎日訪れていても、使う場所はせいぜい一階の半分ほどの部屋だ。台所とリビング、洗面所と浴室、南人の仕事部屋、廊下、その突き当りにある南人の私室だ。他にも部屋はあるようだったが、用もないので衿久は足を踏み入れたことはない。

 廊下の先に目を向ける。色々あって疲れ切った南人は、もう部屋で眠っている。

 スリッパを鳴らして衿久はリビングに──自分の今夜の寝床に戻った。



 夜中に目覚めると、私室で眠っているはずの南人が、衿久の傍で眠っていた。ソファのわずかな隙間で衿久に背を向けて、丸まっている。腰を引っ掛けただけのような格好で、片足も片腕もソファからははみ出していて、今にも床に落ちそうだった。毛布はすでに床に落ちている。

 衿久は苦笑した。

 まるで猫だな。

 肘をついて上半身を起こすと横向きになり、背もたれに体を押し付けて、衿久は南人のために少し場所を空けた。

「ほら、こっち…」

「…ん」

 落ちた毛布を拾い、南人の腰を抱き寄せて胸の中に引き込んだ。枕代わりのクッションの下から取り出した携帯で時間を見ると、午前3時前だった。

 連絡はない。

 着信も、メッセージもなかった。

 ほっとして衿久も横になる。南人が落ちないようにと後ろから抱き締める。

 南人の痩せた背中の感触を胸に感じる。浮きだした美しい背骨の曲線、闇の中のほのかな輪郭、細い肩からのびるほっそりとした首。腕を回して頭をそっとクッションの上に載せてやると、少し身じろいで、また深く眠りに落ちていく。

 このまま朝まで何もなければいい。

 祈るように思いながら、衿久は南人のうなじに顔を埋めて目を閉じた。



 月のある夜は安らげた。

 なにかあっても、誰かが今このとき、自分を追い立てても──それさえあればどこにでも行くことが出来る。

 月明かりを目指してただ行けばいいのだ。

 何も考えず、何ひとつ持たずに。

 夜。

 ふと気づくと障子の向こうが薄青くなっていた。

 ああ、今夜は満月だった。

 障子を開ける。

 空には白く丸い月が出ていた。

 誰かが傍にいる気がした。


***


 朝、朝食を食べた後で母親に連絡を入れると、今病院にいるとメッセージが返って来た。明け方父親と交代し、今は母親が祖母についている。容態は落ち着いているようだった。衿久は今からそっちに行くとメッセージを送って、南人と一緒に南人の家を出た。

 早朝の病院は静かだった。

 病室の扉の前で、ここだと衿久は南人を振り向いた。南人は病室の名札を見つめていた。

 ああ、と衿久は笑う。

「変わってるだろ、ばあちゃんの名前」

 コンコン、と扉をノックすると中から母親の声がして、衿久は扉を引いた。

「衿久」

 椅子に座っていた母親が顔を上げた。少し疲れた顔をしていたが、おはよう、と微笑んだ。

「おはよう、どう?」

「うん、落ち着いてるよ。まだね、大丈夫」

 言いながら、衿久の背後にいる南人に目を向ける。衿久は振り返り南人の背に手を添えた。

「母さん、この人が佐原さん」

「あ、やっぱりそうなの」

 そう言って、母親は優しい目を南人に向けた。

「はじめまして、衿久の母です。いつも息子がお世話になっていて、猫のこともずっと甘えてしまって。昨夜も泊めていただいたそうで、ありがとうございました」

「いえ、とんでもない──」

 頭を下げられて、南人もはっとしたように頭を下げた。

「こちらこそ、こんなときに…、え…町田くんには、よくしてもらっています」

「えーそうですかあ?あんまり役に立たないでしょ?」

 ふふ、と母親は笑った。

「いや、そんなことは…」

「でかいだけで鬱陶しいでしょう、うちでも場所取って家が狭くなるんでホント持て余しちゃってー」

 なんだそれ、と衿久が肩を竦めた。

「だって本当のことじゃない、卒業したらさっさと出て行って欲しかったのに」

「普通本人の前で言うか」

「あんたに言わないで誰に言うの、ねえ佐原さん?」

 にこっと笑いかけられた南人は、咄嗟に返事が出来ずに固まった。

「え、と…はい、いや、そんなことは」

 その反応を楽しむかのように、うふふ、と母親は笑った。

「佐原さんって可愛いー」

「は、──え?」

 おい、と衿久が言った。

「あんまりからかうなよ」

「え、なんで?あんたひとりじめ?お母さんも仲良くしたい」

「駄目に決まってんだろ」

 意味が分からず南人は真っ赤になった。

 変な親子だ。

「じゃあ佐原さん、こんなときだけど、ゆっくりしてってくださいね」

 食堂で朝食を食べるからと、母親は南人にそう言って病室を出て行った。

「南人、大丈夫か」

「え、あ──うん」

 一気に静けさを取り戻した病室に、南人は息を吐いた。なんだか嵐のような人だ。陽気で、朗らかで、今日にも逝くかもしれない人がいる病室の中だというのに、まるで悲愴さはなかった。南人の前だから、無理をしたんだろうか。

 横を向くと、衿久は困ったように笑っていた。

「うちの母親あんな感じなんだよ、いつも。気にしねえでいいから」

「…いいお母さんじゃないか」

「そうかあ?」

「目元が、おまえと同じだ」

 衿久は嫌そうに眉を顰めてから、南人の手を取って、ベッドの傍へ歩み寄った。

「紹介するよ、うちのばあちゃん」

 乳白色の清潔なシーツの上に横たわる衿久の祖母は、柔らかな顔をして目を閉じていた。そこに苦しさは感じられない。

 南人はどこかほっとしていた。

 真っ白な髪、白い肌、年齢の割には皺もあまりない。細く痩せた体の上にはシーツと同じ色の薄めの布団と、ウールの淡いグレーのひざ掛けが掛けられている。

 細く静脈の浮いた腕が片方、管に繋がれて外に出ていた。

 衿久は南人を隣に導いた。祖母を見下ろして、その手に手のひらを重ねる。衿久は優しい声で囁いた。

「ばあちゃん、南人だよ」

 昏睡状態の祖母は当然のように返事をしない。南人はじっと衿久の祖母を見つめた。

「…はじめまして」

 と南人は言った。

 目を閉じていても、衿久の祖母は微笑んでいるように見えた。

 若い頃はきっと美しかったに違いない。

 形よく秀でた額が、結い上げればなお人目を引いただろう。

「きっと南人とは気が合ったと思う」

 ぽつりと衿久が言った。

「そうか」

 昨夜衿久が祖母に会って欲しいといった理由を、南人は聞いていた。衿久の祖母もまた、異端の人であったのだと。

 それを知っているのは、おそらく衿久だけだということも。

 それはきっと、大変なことだっただろう。

 隠して生きるのは──本当の自分を見せずに生きていくのは、想像するよりもはるかに辛いことだ。

 南人には結局出来なかった、もうひとつの選択肢。

 対のような生き方だ。南人も話がしたかったと思った。

「元気なときにお会いしたかったな」

「ああ…、俺も会って欲しかった」

 衿久がそっと祖母の額の髪を直してやった。かき上げたとき、生え際に小さな傷跡があるのが見えた。とくに目立つわけでもないのに、南人はなぜかそれが気になった。

 なんだろう?

 どこか、知っているような──

 知っている?

「どうした?」

 黙り込んだ南人の顔を衿久が覗き込んだ。

 南人はじっと衿久の祖母を見下ろしていた。

 知って、──いるのだろうか。

「南人?」

 その目がベッドの上を滑り、頭の上の壁に貼りつけられたプレートに向く。

 衿久、と南人は言った。

「なに?」

「…お祖母さんの名前は、あれは──なんて読むんだ?」

 ああ、と衿久は言った。

「あれ、『キッカ』っていうんだ。本当は漢字逆さまにしてカキツになるはずのを、読みにくいから『キッカ』にしたって。なんか俺と同じでばあちゃんのばあちゃんが付けたらしいけどな」

 キッカ。

「おまえと同じ…?」

「あー、俺の名前もばあちゃんが付けたから──」

 音が遠ざかっていく。

 キッカ。

 キッカ──

 プレートには「町田橘花まちだきっか」と記されている。

 橘花。

 開けた障子の向こうの白い月。

 南人の鼓動が大きくなる。

 知っている。

 

 キッカ──橘花。

「南人?」

 南人は震える手を伸ばして、衿久の祖母の手を握った。温かい。

「──」

 今朝、夢を見た。

 目の前には満月があった。

 薄青い月明かり。

 生垣の中に隠れていた小さな体。

 夢はこれを暗示していたのか。

 あれからどれだけ経ったのだろう。

 どれほど、自分は生きたのか。

 橘花は、衿久の祖母は、あのときの子供だ。

 長く生きる中でたった一度、唯一心を許した男の家族。

 そして、南人がその手で生き返らせることの出来た、ふたりのうちのひとりだった。


***


 いつ生まれたのかは記憶にない。物心がついたときには、もう自分は人とは違っていた。

 最初は小さなものを助けた。

 その次はもうすこし大きなもの。そしてまた大きなもの。少しずつ助けるものを大きくしていった。助けたあとには手の中に小さな欠片が現れる。舐めると甘露の味がした。それが楽しくてやっていた。誰にも見つからないように気をつけた。

 だがある日、同じ家に住む男に見つかった。

 男は親ではなかった。親には幼いときに捨てられていた。

 男は南人のことを名前で呼ばなかった。そのときはまだ、南人には名前さえ与えられていなかった。

 南人という名前が付いたのはもっとずっと後のことだ。

 薬師をしていた男は、南人を追い出しはしなかった。ただ、利用するようになっていた。男は口が上手く、狡賢かった。

 随分と身分の高い人から依頼を受け、法外な金銭をふっかけては、南人に次々と治癒をさせた。

 しかし南人に治せたのは、血を流している痛みだけで、古い傷や内臓の疾患などは治すことが出来なかった。男はそれが分かっていて、それでも南人に治療を強行させた。金持ちだけでなく、貧しい人からも請われれば出向き、治すふりをさせ、自分の薬を売りつけた。

 しかし、嘘はいずれ露見する。

 どんなに上手いことその場を切り抜け、言い繕っても、なかったことには出来ない。

 真実を知った人々が夜に家を焼き払った。

 男は捕まり処刑された。

 南人は逃げた。

 月のある晩だった。ただひたすらに逃げ、その記憶は捨てた。


 それから長い月日が流れ、時代も変わった。

 人々の装いも変わり、話す言葉も変わっていく。

 南人はその中で、目立たぬように生きていた。名前はその時々で変えた。幾人かに拾われ、養われ、仕事を手伝うこともあった。不思議と寝る場所には困らなかった。手を差し伸べ、面倒を見たがる人はなぜか途切れずに現れた。

 南人はあれ以来、決して力を人に見せないようにしていたが、ひとつだけ自分ではどうしようもないことがあった。力を使う影響なのか、体の成長がひどく遅い。

 あれだけの月日が流れたというのに、南人の体つきや外見はまだ18歳ほどでしかなかった。大人でも子供でもない体。それは奇妙に浮いていて、周りにいる人たちは、しばらく経つと全く変わらない南人を段々と気味悪がるようになった。

 そういったものは口に出されなくても分かるものだ。目が、物語っている。

 ある日、目の奥に恐怖を見つける。

 ああ、まただと思った。行かなければ。

 もうここにはいられない。

 月のある夜にいつもそっと姿を消した。その度に記憶と心を捨てた。

 

 もう何度目か分からない。

 暑い夏の日、南人は山の中を追われていた。

 声が追いかけてくる。

 声たちが──

 何も悪いことなどしていないのに。

 ただ助けただけだ。

 ただそれだけなのに。

 目の前でがけ崩れに巻き込まれた人を、咄嗟に南人は助けてしまった。

 それを周りにいた人が見ていた。そして追われた。

 しなければよかった。

 救わなければよかった。

 目に涙が滲んだ。背中に照りつける太陽が痛い。手の中に握りこんだ欠片が痛い。

 痛い、痛い。

 痛い。

 もう嫌だ。

 嫌だ。

「あ──」

 足がもつれ倒れ込む。乾いた土に汗が滴った。自分の濃い影の中を、小さな蟻が横切っていく。

 遠くから聞こえる声たち。

 …行かないと。

 立ち上がりかけた腕を、突然横から伸びてきた手に掴まれ、引かれた。

「──こっち、早く」

 振り仰いだ顔は太陽を背にしていて、逆光でよく見えなかった。その眩しさに目を焼かれ、くらりと視界が眩んだ。

 世界が動き出す。

「逃げるぞ」

 衿久と瓜二つの顔をした青年が、額の汗を腕で拭い、そう言った。

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