16
明かりくらいつければよかった。
カタカタと鳴りだしたケトルの蓋に慌て、火を止めるよりも先にケトルの持ち手を握った。焼けた金属の蓋が浮き上がり、指先に落ちた。
「あつっ…!」
皮膚が焼ける痛みに手を離した。持ち上げていたケトルは跳ねた指先から床に投げつけられ、激しい音を立てて沸いたばかりの湯をぶちまけて転がった。
「──っ」
痛い。
痛い、痛い。
指先を胸に抱え込んで蹲った。
もう嫌だ。
嫌だ。
「南人」
びくっと南人の肩が震えた。
すぐ後ろから聞こえた声に、南人はゆっくりと振り返った。
暗がりの中に衿久の姿がある。
「大丈夫か?指──」
しゃがんだ衿久が南人の肩に手を掛けた。
南人は自分の顔が歪んでいるのに気づいた。
「火傷したんだろ?ほら、馬鹿だな」
抱えていた手首に衿久の手が伸びてくる。その手を躱した。
床に着いた反対の手の先に触れたものを、南人は掴んで衿久に投げつけた。
「……っ!」
ガン、とそれは衿久の肩に命中した。
衿久が痛みと衝撃に目を細める。投げたものは跳ね返り、衿久の斜め後ろに落ちた。カラカラと床の上を回る。
紅茶の缶だった。
「おまえなんか…!」
まだ散らばっているものを掴んで南人は手当たり次第に衿久に投げつけた。スプーンを投げ、ケトルの蓋を投げ、紅茶缶の蓋を投げた。投げるものがなくなって何でもいいとばかりに、床に散らばっていた茶葉を掴んで投げつけた。
「なにしてたんだ、どこに行ってたんだ、今まで!」
止めたくても止まらない。
「なんで、なんで…っ」
衿久はその間ずっと腕で顔を庇い、身じろぎもせずに南人の癇癪を黙って受け止めていた。
「うっ…」
ついに南人の周りにはなにもなくなった。投げつける言葉さえも上手く出てこない。南人は自分がみっともなくて床に額をつけて蹲った。どうにもならない怒りが、わけの分からない衝動が体中を駆け巡っている。哀しくなる。寂しくなる。小さく丸めた体の中でさらに小さな子供が震えている気がした。その子を抱き締めるように、もっと体を小さくする。
こんな自分を見られたくない。
今だけは衿久に見て欲しくなかった。
何をしていたかきっと──分かってしまう。
何も出来ない自分を。
頭を抱え込むように交差した腕に、衿久の手が触れてくる。手首を取られそうになって、ぎゅっと手を握りしめて引いた。その固く握られた手に、衿久の手が重なってくる。
「冷やそう、な?」
かぶりを振ると、すぐそばに──耳元に衿久の気配が下りてくる。
「そのままだと腫れる」
「…い、…」
いい、大丈夫、これくらいなんてことはない。放っておけ。言いたい言葉は全部喉の奥に引っ掛かって出てこない。
「…よくねえだろ?」
衿久の声が少し離れる。
衿久がわずかに動く気配。
かたん、と音がした。
「紅茶、自分で淹れようとしたのか?」
南人は動かなかった。
髪を衿久の手が撫でる。ゆっくりと、ゆっくりと、撫でていく。
「ごめんな」
ひく、と喉が引き攣って小さく声が漏れた。
「俺が悪かったな」
衿久のせいじゃないのは分かっている。
謝らせたいわけじゃない。なのに、そう思う心と体と脳は、全く別の動きをする。
「おまえが、いないから…っ」
「うん」
「すぐ戻るって、でも帰って来ないから…」
「うん…ごめん」
「……っ」
違う。
そうじゃない。
そうじゃないのに。
「南人」
衿久の両手が南人の頬を包んで顔を上げようとする。それに南人は抵抗しなかった。
部屋の有様を見れば何があったのかは一目瞭然だった。
来る途中で北浦に聞いた話を裏付けるように、暗がりに慣れた目に、南人の足がひどく汚れているのが分かる。
持ち上げた顔はくしゃくしゃに歪んでいて、元から冷たく整った顔立ちが、こうしていると本当に子供のようだと衿久は思う。
泣くのを堪えている唇が小さく震えた。
「俺が悪かったよ。連絡しようとしたんだけど、充電切れてさ…ごめんな?ホットケーキ、置いてただろ?食べたか?」
唇を噛み締めて南人は首を振る。
「なんだよ、足りなかったか?」
かすかな笑いを含んで言うと、南人は衿久の服を激しく引っ張って揺すった。
目に溜まっていた涙がその動きで零れ落ちた。
「違う…、ちがうっ、おまえがいないから、いないから!」
衿久を苦しそうに見上げてくる。
南人は俯いて、小さく、食べられなかった、と呟いた。
「おまえが淹れたのが飲みたかったんだ。だから、待ってて…」
「うん」
「でも目が覚めてもおまえはいなくて、だから、捜して…っ、そしたら固くなってて、も、食べられなくてっ…駄目にして」
「…そっか」
なんとなくそのときの南人の様子が想像できて、衿久は苦い気持ちになった。いない自分を捜し回っていたのか。
「でも、また作ればいいだろ?…な?」
「えりひさ…っ」
顔を覗き込むと、拙い言葉で名前を呼んでくる。衿久に縋りついてくる指に掴まれたところから、甘い痺れが生まれていく。
「ちゃんと、いろよ!俺が目が覚めたら、ちゃんとそこにいろ!何も言わずにいなくなるな!…あんな、あんな書き置きなんか…っ」
声は震えて、だんだんと嗚咽まじりになって最後はうまく聞き取れない。
『町田くんを探してたよ』
連絡しなかったの?と北浦は言った。
『裸足だったんだよ、薄着で。なんかそのまま飛び出してきたみたいだった』
怒りながら泣いている南人の濡れた頬を、包んだ両手で拭う。
「ごめん、ごめんな。ちゃんと言うから、もう泣くなよ」
「おれ、俺を……っ」
ぐっと南人が口をつぐんだ。この先は言ってはいけないと思っているように、唇を噛み締めている。何を言おうとしていたのか、衿久の胸に、その言葉が落ちてくる。
──馬鹿だな。
知らず目元が緩んでいく。
南人が飲み込んだ言葉を衿久は掬い上げた。
「…ん、ひとりにしてごめん」
一瞬目を丸くした後、南人の驚いたその顔が、ぐしゃっと泣き崩れた。
「ううっ…えりひさあ…」
泣き声で、衿久、衿久と、何度も名前を呼ぶ。
ああ、もう駄目だ。
甘い声に吸い寄せられるように、衿久は南人頬に顔を寄せ、涙を舐めた。首筋にまで落ちるその跡をたどっていく。
「ん、んんっ…」
「南人」
顔を上げさせ、唇を舐めた。涙で塩辛い。薄く開いた唇の間から舌を差し込んで、その味を消していった。
「えりひ…、ん、うう、っ」
甘い南人の腔内を舌先で舐めていく。宥めるようにくすぐって、もっとと柔らかな髪に手を這わせ、後頭部を引き寄せた。
貪るように深く口づける。
「ン…ッ」
もう涙の味はしない唇をついばんで、下唇をゆるく噛んでから衿久は南人から離れた。目が合うと、拒絶の色はなく、後を追うように南人が衿久の首に腕を回して抱きついてきた。その背を抱き締めて、衿久は言った。
「ばあちゃんが危篤だったんだ」
「…え?」
はっ、と身じろいだ南人の体を離さないように、衿久は腕に力を込めた。
「大丈夫。今は落ち着いてるよ」
「でも、っ」
「明日の朝また行くから。今は父さんがいるし、母さんも妹もホテルで寝てるよ。なんかあったら連絡が来ることになってるから、いいんだ」
「でも──、おまえ…」
「南人」
それでも、行かないと、と慌てる南人を遮って衿久は言った。
「俺に、いて欲しい?目が覚めて、俺がいなくて、嫌だったのか?」
「……」
腕の中の、擦り寄る体温が少し上がった気がして、衿久は自分の顔が綻んでいくのが分かった。
「裸足で捜し回るくらい、いないと駄目?」
「……」
「南人」
こくん、と南人が頷いた。
「……ひとりは、もう、嫌だ」
「そうか」
両手で南人の肩を抱いて体を離し、衿久は首に絡んだ腕を外させた。くっついていた胸の間に隙間が出来て、それを寂しいと思う。細い腕を辿り、指先に触れ、慣れないことをして熱傷を負ったその指先を衿久はそっと持ち上げた。
指は熱を持っていた。きっと明かりの下で見れば、赤く腫れているに違いない。
「痛いだろ?」
冷やそう、と言うと、南人は首を振った。
「自分で治せる…」
その言葉に衿久はかすかに気持ちが波立つのを感じた。
「ふうん」
そう言って、衿久はその指を口に含んだ。驚いた南人が手を引こうとするのを手首を掴んで止めさせた。
「衿久…っ!や、いや」
「黙ってろ」
熱を持った場所を舌で包んで吸い上げる。
南人が首を振った。衿久の肩を押して離れようとするのを、その手も掴んで引き寄せた。
「あ、やだ、いやだ衿久」
「今力使ったらぶっ倒れるだろ」
「倒れない、倒れないからっ」
「なにも食ってねえんだろうが」
細い指に舌を絡め扱くようにした。南人の手が跳ねる。
「やだ、あ、っ、食べ、食べた…!」
固くなった端っこを齧ったから、と南人が言うのを、衿久は笑って一蹴した。
「駄目」
「えりひさ…っ」
甘い声に背筋が痺れていく。目を上げると南人はまた泣き崩れていて、目尻を濡らしたままじっと衿久を見ていた。堪らなくなって、衿久は目を合わせたまま、ゆっくりと指の股まで舌を這わせた。南人の上げる声を聞きながら、自分でも意地が悪いな、と苦笑する。びくびくと跳ねる指の付け根を甘噛みし、舌先で撫で、軽く指先を吸ってからゆっくりと離れた。
「俺が冷やしていいよな?」
鼻を啜りあげながら、南人は観念したようにこくりと頷いた。
「最低だ…おまえ」
衿久は笑った。
南人の手を引いて立ち上がり、流しの前に連れて行くと、思い切り蛇口をひねった。
***
どこをどうしたらここまで悲惨な状況を作り上げることが出来るのかと、明かりを点けた家の中を見回して衿久は笑うしかなかった。
「すげえなこれ、一体何したらこうなるんだよ」
家中の床についた泥の足跡、リビングのローテーブルに置かれたままの食べ残し、カチカチのホットケーキ──その端には本当に齧った跡があって、衿久は笑いをこぼした──、キッチンに散らばった紅茶の茶葉、紅茶を淹れようとあれやこれやと格闘した痕跡──
なんだ格闘って?
紅茶淹れるだけだろうが。
大体、暗闇の中でやろうというのが間違っている。
とりあえず携帯の充電をしながら衿久はまず掃除をした。
床を掃いて拭き上げて、散らばったものを片付け、ついでに南人の足も浴室に抱えていって洗い、ようやくひと段落したところで、衿久は紅茶を淹れるために湯を沸かした。床に投げつけられたケトルは少し凹んでいたが、水は漏れてこなかったので問題はなさそうだった。
「みなとー、蓋どこに投げたんだよー」
衿久に向かって投げられたケトルの蓋が見つからない。あちこち隙間を覗いたが、銀色の丸い蓋はどこにも見当たらなかった。
「知らない」
「たくもう…」
南人はソファの上で膝を抱えてこちらを向いていた。その手には指を冷やすための氷の入った袋と、北浦に貰ったパンがしっかりと握られている。売れ残りだから持ってってよと、袋いっぱいに詰め込んだものを渡されたのだ。
また今度礼を言わないと、と思う。思えば北浦には、なにかと助けられている。
開けたばかりのものを南人が駄目にしたので、新しい紅茶の缶を取り出して何気に振り向くと、リビングでは、南人が背もたれに飛び乗ったえくぼに遊ばれていた。ぱたん、ぱたん、と南人の肩をえくぼの尻尾が打っている。
なんだ?
「だから、さっきは悪かったって言っているだろう」
えくぼは前足でさっとパンを払った。
あれは南人の好物だ。
「あ!」
爪に引っ掛かって、好物のフレンチトーストが、ぼとっと床に落ちる。
「あーっ!」
勝ち誇ったようにフン、とえくぼが顔を上げ、さっと飛び降りて逃げた。
「待て、おまえっ!」
「ほらほら、なにやってんだあんたは、猫相手に」
「だってっ」
「紅茶入ったぞ」
座れ、と立ち上がりかけた南人の肩を押して、衿久はカップを渡した。
「衿久!おまえの猫だろ!」
「わかったわかった、まだあるから、な?これは俺が食べる」
「えりひさっ」
床に落ちたフレンチトーストを軽く払って口に入れる。先に床を拭いておいてよかったと衿久は思った。南人の横に座り、顔を覗き込む。その手に、袋から新しいフレンチトーストを取り出して渡した。
「南人さあ…、えくぼになんかしたのか?」
むっと押し黙った南人は、紅茶をひと口飲んで、ふい、とそっぽを向いた。言う気はなさそうだった。
氷が当てられた指先の腫れは、少し引いているように見えた。
衿久も自分の紅茶を飲んだ。
「今日、泊まってもいい?」
「…なんで」
「病院、こっからのほうが近いから」
南人が衿久を振り向いた。
揺れる目に、衿久は微笑んだ。
「もうずっと入院してて、悪かったんだ。まあ寿命なんだと思う」
そのとき南人の肩がわずかに動いたのを、衿久は気がつかなかった。南人が目を伏せた。
「…そうか」
「うん。それでさ、南人」
顔を上げた南人に、衿久はずっと思っていたことを言った。
「ばあちゃんに会って欲しいんだ」
え、と南人は言った。
「おまえの、おばあさんに…?」
衿久は頷いた。
目を丸くした南人の目尻は泣きすぎて赤く腫れていた。指を伸ばして、衿久はそっとそこに触れた。
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