15


 部屋の中は闇だった。

 目が覚めたのだと自覚するまでに少しかかる。

 体を起こし、ぼんやりとした頭で南人は周りを見回した。

 家の中は静まり返っている。

 誰も──自分ひとりだ。

 何をしていたんだった?

 暗闇に慣れてきた目に、傍のテーブルの上の皿が見えた。そうだ、衿久を待っていて…

「……衿久?」

 呟いた声は戻っては来ない。

「衿久?」

 南人は立ち上がって部屋の中をさまよった。

 リビングを歩き、仕事部屋に行き、廊下に出てみた。

 引き返す。

 窓辺に座っていたえくぼがさっと床に降りた。

 食卓の上、荷物はそのままだ。なにひとつ変わっていない。

 一度も戻って来なかったのか…

 そのまま帰った?

 戻って来れなかったのか?

 それとも、何か──

 何かが衿久の身に起こったのか。

「──えりひさ」

 さあっと血の気が引いた。

 息が詰まる。

 指先が冷たくなる。

 南人はそのまま勝手口から外へ出た。



 冷たい風が頬に当たる。

 こんなときだというのに、思い出すのは遠い遠い記憶だ。

 いつも何かに追われて走っている。

 いつも何かが追いかけてくる。

 おまえがいるから、おまえがいたから──

 声たちが口々に言う。

 掴まえろ。

 手のひらを返したように、冷たい目を向けてくる。

 だから南人は振り返らなかった。ただひたすらに前だけを見て、太陽を背にして、行き先を照らす月明かりだけを目指していた。


***

 

 そろそろ看板を仕舞うかと、ALTOの北浦はレジの中で大きく伸びをした。ふああ、と欠伸が出る。遅くまで開けていたところで、人通りがないのだから無駄なことだった。

 今日も暇だったなあ、とため息が出そうになるのをぐっと堪えた。ため息をついたら幸せが逃げる。負けだ。負けるのは嫌だ。

 カウンターを回りこんで、売れ残っているパンを籐籠ごと回収していく。営業時間と決めた21時まではまだ1時間ほど残っていたが、今から客が来るとも思えなかった。

 奥の方から始めて、袋詰めされた総菜パンをカウンター奥のドアを開けて厨房に持っていく。すでに相方は帰ってしまったのか、厨房には人気がなかった。ピカピカに磨き上げられたステンレスが目に痛い。暇を持て余して磨いたのは、もっぱら北浦だったが。くそ。

 一言声かけろよな、と思ったが、今さらかと北浦は店のほうに引き返した。

 フランスパンが一本、ミルク缶を模したブリキ缶の中に残っている。明日はもう売れない。今日の夕飯はこれにするかと思ったとたん、無意識にため息が出た。

 本当は今日は海苔弁の気分だったんだよなあ。

 しかもシャケののったやつ。

 ガラス戸を押して外に出る。冷たい風がびゅっと吹き抜けて、一気に体温を奪っていく。もう年末だ。凍えそうだと腕をさすった。薄いシャツにエプロンでは寒すぎると、手早く入口の横に置いた看板を振り返る。

 あ、と北浦は驚いた。

 店の窓の明かりの中に人がいた。

 客だろうか。

「あー、えと…?」

 その人は裸足だった。


 

 人気のない道路に零れる光に、なぜか足が止まった。

 上がった息を整えようと、南人はその光を見つめていた。

 ガラスの扉が中から開いた。

 エプロンを着けた青年が出てくる。寒そうに背を丸めて振り返り、南人に気づいた。

 大きな目が見開かれる。

 風が吹いて南人の髪が煽られる。額に滲んだ汗が冷えていった。青年は南人の足下をちらりと見た。

「…足、どうしたの?」

「え?」

 言われてはじめて、南人は自分が裸足だったことに気がついた。

 見下ろしたつま先は、家から出るとき、茂みの中の柔らかい土を踏んだためにひどく汚れていた。走っていたために肩で軽く息をしている自分は、一体どんなふうに見えているのだろう。

「なんでも、…」

 南人は首を振った。

 見つめてくる目がまっすぐすぎて、視線を逸らした。明かりのほうに目を向けると、ガラスの扉に見たことのある文字が貼りついているのに気づいた。

 ALTO、──何だっただろう?

「ここは…?」

 南人の呟きに青年が答えた。

「パン屋だよ」

「パン屋…」

 そうだ、衿久がいつも買って来るものは、この字が書かれた袋に入っていた。

 じっと南人を見つめていた青年が、あ、と小さく呟いた。

「もしかして…町田くんの、バイトの?」

 南人は目を丸くした。

 驚いている南人に、慌てたように青年は体の前で手を振った。

「あ、いや、いつも町田くんから話聞いてたので…だからそうかなって。その通りだったんでびっくりした」

 そう言って青年はふわっと綻ぶように笑った。

 名前を知っている彼は、衿久と親しいのか。

 南人は思わず青年に言った。

「衿久を、見てないか」

「今日は来てないですけど、もしかして町田くんを探して…?」

 頷いた南人に青年は小首を傾げた。

「町田くん真面目そうなのになあ…何かあったら連絡くらいくれそうだけど──」

 連絡?

「──」

「そういえば、ホットケーキ食べました?こないだ作り方教えてくれって…」

 青年が嬉しそうに言ってくるのを、南人はもう聞いてはいなかった。踵を返して、来た道を走り出す。

 家に、帰らないと。

「え?あっ、ちょっと待──」

 青年の声が遠くなる。

 帰らないと。

 追いかけてきた声はやがて聞こえなくなった。

 立ち尽くす青年の姿を南人は振り返らなかった。


***


 病棟の面会時間はとうに過ぎていたが、こういう場合は関係なく部屋へ出入り出来た。そのために皆個室なのだということを、このときになってはじめて衿久は知った。

 明かりの絞られた、もう誰もいない待合室で長椅子に座り、くたびれて膝の上で眠ってしまった青衣の髪を撫ぜた。子供特有の柔らかな髪だ。寝息は安らかで、笑っているようだ。青衣はよく分かっていないんだろうな、と衿久は思った。

 こつこつ、と薄暗い廊下を歩いてくる足音に目を向けた。通路の奥から母親が電話を終えて戻って来たのだった。

「どうだった?」

 青衣を挟んで反対側の長椅子に母親は腰を下ろした。

「うん、大丈夫。近くのホテルに部屋が取れたから、お母さんと青衣はそっちに行くよ。家に帰るのも手間だしね」

「そっか」

「ちょっと休んで、あとでお父さんと交代する」

 父親は職場からこちらに直行して、今は祖母の病室に詰めている。病室には仮眠用のソファがひとりぶん用意されていた。

 祖母の容態が急変したと家族が連絡を受けてから、6時間は過ぎていた。危篤は脱し、今は小康状態で比較的落ち着いていると医師から説明を受けていた。

 でもまた、いつ急変するか分からない。山場は今日明日で、家族は待機しておいて欲しいと告げられた。

「衿久はどうする?」

 家に帰っていてもいいよ、と母は言ったが、衿久はいや、と首を振った。

「俺、行かねえと。ごめん」

「佐原さんのところ?」

「ん、あの人仕事中だったからちゃんと言って来なかったし、荷物そのままだし」

 母親から連絡を受けて青衣を幼稚園まで迎えに行き、病院に着いたあと一旦戻ろうとしたが、とてもそんな余裕はなかった。せめて電話を入れようと携帯を見れば、充電切れで──書き置きひとつだけを残して出て来たことが、ひどく気になって仕方がない。

 あいつ、大丈夫かな。

 やっぱりちゃんと顔を見てから来ればよかった。

 書き置きなんかじゃなく──

 胸騒ぎがして衿久はずっと落ち着かない。

 ざわざわする。

 祖母が──こんなときなのに。

 母親は頷いた。

「それは心配してるかもね。じゃあ衿久は佐原さんのところに行って、明日の朝また来る?」

「うんそうする。なんかあったら連絡してよ、充電しとくし。あ…なんかいるものとかあったら取って来るけど?」

「んー今んとこは大丈夫かな」

 かたわらの小ぶりなスーツケースを母親は叩いた。会社で病院から連絡を受けた母親は、青衣の迎えを衿久に頼んだあと、いったん自宅に寄ってから必要なものを詰め込んで来たらしい。

「分かった」

 その手際の良さに衿久は感心する。

 待合室の外に面した大きなガラス窓に車のヘッドライトが映った。さっと横切り、自動ドアの前に停まる。エンジンは掛けたままだ。

「あ、タクシー来た」

 母親がさっと立ち上がり、スーツケースを引きずって自動ドアをくぐった。衿久も眠っている青衣を抱き上げて、その後を追った。

 降りてきた運転手がスーツケースをトランクに入れている。

 後部シートに乗り込んだ母親に、衿久は青衣を渡した。むずかるように青衣が体を丸めて小さく呻いた。

「じゃあ、気をつけて」

 と衿久が言うと、母親は上目に衿久を見つめた。

「ね、衿久…思ったんだけど」

 衿久も母親を見る。

「あんたが言ってた理由って──」

 奇妙な間が空く。

 衿久が目を丸くしたのを見て、なんでもない、と母親は笑った。

「衿久も気をつけて、また明日ね」

 と言ってタクシーが走り去った。



 戻った家の中は寒く、暗かった。見慣れたはずの光景が他人のもののようによそよそしく、ひんやりと冷たい。

 勝手口から息を切らして駆け込んだ南人は、深く息を吐いた。

 暗闇の中に白く、吐きだした息が広がっていく。

 どこかでえくぼが鳴いている。

 家に上がると床がざらついた。自分の足の裏が土にまみれて汚れているのだ。落とすのももどかしく、床板に擦りつけるようにして歩いた。

 そのまままっすぐに自分の──仕事部屋に向かう。えくぼがソファの背もたれの上に座っていた。南人を呼ぶように鳴いたが、構わなかった。早足でリビングを横切った。いつのまにか月が出ていて、窓から入るわずかな月明かりが、部屋の中のものの輪郭をぼんやりと浮き上がらせていた。

 部屋の扉は開け放したままだ。南人は部屋に入るなりライティングデスクの上の電話に飛びついた。

 何も光っていない。

 留守番電話機能のあるそれの、通知ボタンは点滅していない。南人はそのボタンを押してみた。無機質な音声が流れ始めて、お知らせはない、と丁寧に告げた。着信もあれば光るはずだったので、連絡はなかったのだろう。

「……」

 南人は床に座り込んだ。

 どうして。どうして、何もない?

 久しぶりに外に出た。それだけでも疲れるのに、おまけに走ったおかげで、体が怠い。ひどく腹も減っていた。鼓動がまだ落ち着かない。呼吸が浅く、肩で息をする。両手のひらに顔を埋めた。

 衿久。

 本当に、何があった?

 苦しい。

『ホットケーキ食べました?』

 耳元でさっき会った青年の声がする。ホットケーキ──衿久が、作ってくれた。

 南人は立ち上がって、ふらりと部屋を出た。よろよろと歩きながら、テーブルの上に置いたままだった皿の上のホットケーキに手を伸ばした。

 冷たい。

 ホットケーキはカチカチに固まっている。

 食べればよかった。

 ちゃんと衿久は温め直してくれていたのに。

 台無しにした。

 ぱたっ、とホットケーキを持つ指先に涙が落ちた。

 ぱたぱたと続けて落ちた涙が干からびたホットケーキに染み込んでいく。

 視界が揺れた。滲んだ薄墨のような暗闇の中で、南人は固くなったホットケーキを齧った。

「……っ」

 固くなったホットケーキはもそもそとして、喉に引っ掛かってひどく食べにくかった。込み上がる嗚咽を堪えながら、南人は口の中のものを無理やり喉の奥に押しやり、飲み込んだ。

 なにか飲む物が欲しい。

 紅茶が欲しい。

 衿久の淹れてくれたものがいい。

 でも、衿久がいない。

 衿久がいないだけで。

『紅茶ぐらい淹れられるようになれよ』

 ただいないだけだ。

「どこに…っ」

 いつもそうだ。みんな突然いなくなる。

 突然、何の前触れもなく、手のひらを返したように突き放す。

 でもそれは、自分の力のせいだと分かっていた。

 自分が不用意に見せた力のせいだと。恐れをなして近づかなくなる。あるいは力尽くで排除しようとする。

 けれど衿久は怖がらなかった。

 あんな目は向けてこなかった。

 夢で見る衿久とそっくりの彼と、同じ眼差しをくれたのに。

 何も出来ないから、嫌われたんだろうか。

 今日は少し冷たくし過ぎただろうか。

 いつものように言ったつもりだったのに、傷つけていたんだろうか。知らないうちに、衿久を貶めていたんだろうか…

 もう戻って来ない?

 ただ帰っただけ?

 それとも、それとも──

 激しく南人は咳き込んだ。

 にゃあ、とえくぼが鳴いた。

 まるで自分を非難するかのようなその鳴き方に、カッと南人は苛立った。

「うるさいっ!」

 テーブルの上の書き置きを掴み取り向かいのソファに投げつけた。背もたれの上にえくぼがいる。

「そんなのおまえに言われなくたって分かってる!」

 えくぼは動かなかった。じっと南人を見下ろし、ひと息置いてから身を翻らせ、しなやかな動きで反対側に飛び降りた。軽い足音を立てながらどこかに消える。

 ひく、と喉が鳴った。酷い八つ当たりだ。酷い癇癪だ。まるで子供だ。何も出来ない子供のようだ。

 子供みたいだ。

 いつまでも、どれだけ生きていても。

 震える息を吐いて、南人は立ち上がった。


***


 勝手口は開け放たれていた。

 放り出されたように半分だけ開いた扉が風で軋んで揺れている。

 衿久はそれを手で押さえた。さらに開いて中に入った。。

 後ろ手にそっと扉を閉める。

『あっ、町田くん!よかった…!』

 幸いにも、病院から南人の家までは自転車でほど近かった。幼稚園を経由しなければすぐだ。大通りをまっすぐに進み、一度脇道に入って道なりに行くだけでいい。ちょうどALTOの前を通る。もしまだ開いていたら何か買って行った方がいいかもしれない。望みは薄そうだ、と思う。もう21時になっていた。それか──コンビニにでも寄るか…

 そうこうしているうちに衿久はコンビニを通り過ぎてしまった。前方の暗がりの中に小さな明かりが見えて、衿久はほっとした。ALTOは今日は開いているようだ。まだ北浦はいるだろうか。ペダルをこぐ足に力を入れた。

 そして──なぜか店先に座っていた北浦に、声を掛けられたのだった。

 そっと衿久は暗がりに目を向ける。

 明かりはない。

 けれど南人はいるはずだ。北浦に聞いた話ではそのはずだった。

 がちゃん、と金属が激しくぶつかり合う音が響いた。

「あつっ…!」

 南人の声、ざっ、という大きな水音──

「──」

 衿久は飛び込んだ。

 足の裏のざらりとした感触で足を止めた。なにかを踏んでいた。

 勝手口からは死角になる場所だった。目を凝らせば、茶色の草のようなものが大量にぶちまけられている。

 むせかえるような紅茶の匂い、──茶葉?

「──南人?」

 床は濡れていた。熱気で、暗がりでもそれが湯だと分かる。蓋の外れたケトルが転がっている。空になった紅茶の缶。あれはまだ、開けたばかりだったのに。

 その傍で、南人が蹲っていた。

「南人」

 声を掛けると、びくりと肩が震えた。

 南人はくしゃくしゃの顔で、衿久を振り返った。

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