14


 蝉の鳴き声がした。

 ああ、どうして──

 南人は差し伸べられた手を取った。

 ──、名を呼ぼうとして、分からないことに気づく。



「南人?」

 覗き込む衿久の目がこちらをじっと見つめていた。南人は瞬いた。

 今のは白昼夢か。

 同じ顔、覗き込む目の同じ仕草。

 記憶からは名前だけが抜け落ちている。

「なん、でもない…」

「ちょっと待ってろ」

 うだるような夏の日差しが、首筋にまとわりついている気がした。

 耳の奥で一瞬聞こえた蝉の声──

 ありえない。

 目をぎゅっと閉じて、南人はそれを追い払おうとする。衿久が傍を離れていく気配がした。──嫌だ。

「えり…っ」

 南人は叫んで目を開けた。

「南人、水飲んで」

 目の前に水の入ったグラスを差し出されて、南人は顔を上げた。腰を屈めた衿久と近い距離で視線がぶつかった。

 衿久はこれを取りに行っていたのか。

「あ…ありがとう」

 南人はそろそろとそれを両手で受け取った。グラス越しに、冷えた水を手のひらに感じる。口に運ぶと水は喉を滑り落ちていった。気持ちがいい。内側から、夢の中で受けた暑さが冷まされていく。

 もうひと口飲もうとして、南人は衿久がじっとこちらを心配そうに見ていることに気づいた。まるで何も出来ない子供を見守る親のようだと、それは言いえて妙で──南人は少しおかしくなって、詰めていた息を吐きだした。

「そんなに見てると飲みづらい」

 むっとしたように衿久は眉を顰めた。その表情が、南人の中に残っていた夢の残滓を消していった。

 鼓動が静まっていく。

 衿久が傍にいると、息がしやすい気がするのは、気のせいだろうか。

「夢を見てた」

「夢?」

「うん」

「悪い夢か?」

 冷たい水を含む。

「いや…ただの夢だ」

 と南人は言った。背中を汗が伝っていた。

 


 衿久はその次の日から昼前に来るようになった。

 学校は、と聞くと、長い休みに入ったのだと言った。

 特に何をするわけでもない、ふたりと一匹の家の中。古い家の中は随分と居心地がいいのか、衿久は午後いっぱい食卓で勉強をしては、夕方妹を迎えに行く時間になると帰っていく。また明日、と言って。

 また明日。

 南人は曇った窓を擦った。

 指先のかたちに跡が残る。

 外は寒そうだった。衿久は2時間ぐらいまえに帰ったばかりだ。もう日は暮れて、家の周りを暗闇が覆っていた。

 振り返ると、食卓の上には衿久が持ってきた食事の詰まった容器があった。温めて食べられるようだったが、その気になれなかった。

 あれからも夢は見ていた。

 思い出した顔は衿久によく似ていた。瓜二つだ。

 衿久と彼はどこかで繋がっているのか。

 抜け落ちた名前さえ思い出せれば、衿久に尋ねることも出来たが、それを聞くのが怖い気がした。

 怖い──何が。

 一体自分は何を怖がっているのだろう。

 南人はリビングを横切り食卓に立った。

 その上に載ったつるりとした容器を持ち上げる。鼻を近づけてみるといい匂いがした。

 匂いに誘われるように蓋を開けた。

 指先を入れて舐めてみる。

「…美味しい」

 少し辛いそれはとても美味しかった。

 ひとりで食べるのは嫌だと思った。

 誰か。誰かと一緒に。

 衿久。

「……」

 ひとりには慣れていた。いつでも自分だけだった。

 いつも──なのに。

 そんなことを思った自分に、南人は戸惑いを隠せなかった。

 うだるような暑さの中で手を差し伸べては、が笑いかける夢を、思い出していた。


***


「毎日来なくたっていいんだぞ」

 まるで自分の家のように勝手口から入って来る衿久に、南人は呆れたようにソファの上から言った。

「いいじゃん、こっちのほうが家より落ち着くし。それに世話もあるしな」

 そういえばいつかも同じような会話をしたな、と衿久は思った。

 荷物を食卓の上に置く。途中で買って来たビニール袋がかさりと音を立てた。

「今日は昼から人が来る」

「あーそうだな」

 コンロにケトルをかけながら衿久は言った。一昨日、その電話を南人が受けたところに衿久も居合わせていた。

 最近ではそれが当たり前になりつつある。衿久が電話を取ったことも一度あった。

「おまえは顔を出すなよ」

「分かってるって」

 仕事の邪魔などしないのに、南人は近頃よくそう言ってくる。先日のことは不可抗力だと思うのだが、あえて衿久は口に出さなかった。

「なにかあったら、呼ぶから」

 紅茶の缶を取り出す手が止まった。

 振り向くと、背を向けている南人がちらりと──一瞬だけ、視線を投げてきた。

「だから、扉の外にいるのはやめろ」

 衿久は笑った。

「…気のせいじゃねえ?」

「馬鹿にするな」

 南人はじろりと衿久を睨むと、そのままふいと背中を向けてしまった。

 衿久はその態度に苦笑する。

 いつのまにか足下にはえくぼが寄ってきていた。見下ろすと、衿久を見上げて甘えるように鳴いた。

 昼には衿久がホットケーキを焼いてふたりで食べた。

 昼過ぎ、時間通りに南人の患者はやって来た。言われた通り、衿久は食卓でペンを走らせながら、廊下の奥で南人がその人を迎える声を聞いていた。

 温室側の扉が開き、交わされる挨拶、廊下を歩く足音。ひそやかな話し声。

 南人の部屋が開き、閉ざされる音。

 聞き耳を立てたいが、そうもいかないかと笑みを零す。祖母と同じで南人も勘が鋭い。先日こっそり──あんなことのあった後だし、心配で──また相手が性質の悪い要求をしてきてはいないかと、外の廊下から中の様子を窺い聞いた。

 俺も大概過保護か。

 南人だって子供ではない。ああいうことははじめてじゃないと言っていた。

 何か飲むかと、衿久はペンを置いて立ち上がった。

 ん、と伸びをして振り返ると、参考書の上には、さっきからずっとえくぼが寝そべっていた。衿久の邪魔をする気らしく、退く気はまるでなさそうだ。

 衿久はえくぼの背中をくすぐった。

「おまえはいいな」

 なにをせずとも、南人の傍にいられるのだ。

 これから先、いちいち名目をつけず、理由などなくても南人の傍にいられるようになりたい。それには何をすべきか、衿久は考えていた。

 自覚したばかりの思いは日に日に強くなっている。

 衿久は壁の古びた時計を見た。14時過ぎ。もうしばらく南人は出てはこないだろうなと、衿久は南人がいる部屋のほうを無意識に見つめた。

 えくぼがさっと身を起こした。

 鞄の中に入れたままの携帯が鳴りはじめた。



 痛みを消す、という行為は南人にとってはイメージをすることだった。

 傷口に手をかざし、目を開いたまま閉じる。

 見えているはずのものをひとつずつ消していくのだ。

 音も、空気も、匂いも、色も、世界を形作るものすべてをバラバラにしてそこから抜き取っていく。

 そうして残ったもの──それは、黒く煌めく無数の針に覆われた球体だった。おいで、と南人は思った。思うだけでいい。思いながら、球体が根を下ろした場所の名前を言っていく。

 おいで。こっちに、その針を抜いてあげる。

 覆われた針を抜いていくイメージ。

 手の中で小さな風が起こる。

 すべての針が取れたとき、誰も見つけることの出来ない美しい顔がその下から現れる。

 小さな音がした。

 目を開くと、そこにあった傷は消え、小さな欠片が転がっている。

「終わりです」

 と南人は言った。

 相手の目は驚愕に見開かれ、自分の傷があった場所を見ている。南人の手を見、そしてゆっくりと南人を向く。目の奥には恐れがある。

 自分と違うものを見る目だ。

 見慣れた目だった。

 自分が異端だと思い知らされる瞬間。

 南人は気づかぬふりをして、いつも、穏やかに微笑んで彼らを見送った。

 リビングに戻ると衿久はいなかった。

「衿久?」

 荷物は食卓の上にそのままだ。

 ソファの傍のローテーブルの上に、切り取られたノートが一枚あった。すぐ戻る、と衿久の字で走り書きされていた。

 どこかに行ったのか。

 南人はリビングを見回した。

 いつもよりもがらんとして見える。何もない。

 何も。

 ひとりきり。

 急に体が重く、怠くなった気がして南人はソファに座りこんだ。力を使った後はいつも体に力が入らず気だるいが、最近はあまりそれを感じなくなっていたのだと、ふと気づく。

 どうしてだろう。

 今日来た人の傷は軽い方だった。こんなのは大したことないはずなのに。

 両手に顔を埋めて、沈み込みそうになる体を支える。深く息を吐き、顔を上げた。

 走り書きされた紙の横に、皿が置いてあった。

 昼に食べたホットケーキの残りだ。端が少し焦げたとかで、衿久が除けていた…

 南人は手を伸ばして皿を手に取った。ラップを剥いで匂いを嗅いだ。甘い匂い。ほのかに温かい。

 蜂蜜がかけてある。バターが溶けていた。

 食べていいんだろうか。

 紙をよく見ると、すぐ戻るとあった下のほうに、小さく書かれた衿久の字を見つけた。

『ごめん、焦げてるところは取ったからこれ食べて待ってて』

 とたんに、ぐう、と腹が鳴った。

 添えられていたフォークを手に取って、南人は食べようとして、やめた。

「……」

 きっとすぐに戻って来る。

 そうしたら紅茶を淹れてもらおう。あれがないと。

 それまで待っていよう。

 皿をテーブルに戻した。

 南人はソファの上でじっと皿を見つめていた。えくぼが足下に擦り寄ってきて、その体を撫でていると、ひどく眠くなってきた。体が自然と横になっていく。えくぼが鳴いた。

 ちょっとだけ、と目を閉じた。

 衿久が帰ってくるまで。

 少しだけ。

 だが日が暮れて夜になっても、衿久は戻っては来なかった。

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