13
それは夢だと分かっていた。
遠い夢だと。
追いかけてくる声から逃げる夢だ。
暑い夏の盛り。
蹲った背中に、じりじりと照りつける日射し。汗にべとつく肌に貼りつき、まとわりつく着物は重く、体にのしかかる。噴き出す汗がこめかみをゆっくりと這って、俯いた顔から流れ落ちる。
音も立てずに乾いた土へと吸い込まれていった。
ああどうして──
どうしていつもこうなのだろう。
遠かった声が──声たちが間近に迫る。
もうそこだ。
駆けなければ。
立ち上がろうとした腕を誰かに後ろから強く引かれた。
「──こっち、早く」
突然のことに目が眩む。
振り仰いだ顔は太陽の光を背にして、真っ黒に塗りつぶされていた。
──まただ。
また、そこで夢が終わる。
***
「まーちだー」
屋上の重い鉄製の扉が開いた。
「あーやっと見つけたわ」
振り返った衿久に、芦屋がひらひらと手を振りながら近づいてきた。
「なにー、屋上とか、めっちゃ寒くない?」
屋上を吹く風に、ぶるっと体を震わせて、芦屋は自分の腕を抱いた。学生服の下に着込んだセーターが袖口からはみ出ている。
「なんか用?」
屋上の柵に膝をついていた衿久は、芦屋のその様子に笑った。こちらはしっかり厚手のコートを着ている身だ。
「昼飯食わねえのかなと思ってさ」
「あー…」
そういえば今はもう昼休みのころだ。言われてはじめて気がついて、衿久は腕時計を見た。教室を出てから思うよりも時間は過ぎていた。ずいぶんとぼんやりしていたらしい。
その様子に、芦屋は笑いながら手に持っていたビニール袋を衿久に放った。
「ほらよ」
「──っと」
放物線を描いて落ちてきたそれを衿久は受け止めた。中を覗くと、購買で売っているパンがふたつ入っていた。
「そんなことだろーと思って買ってきてやった」
ポケットから缶コーヒーをふたつ取り出して、ひとつを衿久に手渡した。これも購買の横の自販機のものだった。まだ温かい。
「あー悪い、いくらだった?──あ」
衿久はポケットから財布を取り出そうとして、教室に置いたままだったと思い出した。
「いーよ。俺の奢り」
そう言って芦屋は自分の缶コーヒーを開け、衿久の横で柵に背を預けた。「こないだのお返しな」
こないだ?と衿久が聞き返すと、芦屋は肩を竦めた。思い当たることが多すぎていつのことだか分からないが、まあとにかく、衿久はありがたく頂いておくことにした。
「じゃ、遠慮なく」
「どーぞどーぞ」
衿久は立ったまま袋の中から取り出したパンのパッケージを歯で引き開けて、大きくかぶりついた。
いつもの購買の味だ。カレーパンのような揚げパンの中にキャベツがたっぷり練り込まれたメンチカツが丸ごと一個入っている。かけられたソースとマスタードとマヨネーズが合わさって、なんとも罪な味がした。運動部男子に大人気の商品で、大概購買が開くと同時に売り切れる。
衿久も、食べるのはこれが3度目くらいだった。
「美味い?」
「あ?美味いけど…おまえこれどうした?」
もう購買はとっくに閉まっている時間だった。衿久の問いに、ぐい、と缶コーヒー(よく見ればカフェオレだった)をあおった芦屋は、ごくりと中身をひと息に飲み干すと、衿久をちらりと見た。
「テニス部の後輩から巻き上げた」
「……」
芦屋はこの春まで、テニス部の副部長だった。受験勉強を理由に、他よりも早く引退をした。部長だった衿久の友人が嘆いていたのを思い出す。
「パン買おーと思って歩いてたら、ちょうど目の前を通りかかってさ、で、声かけた」
「よこせって?」
「いーや、可愛くちょーだいって言った」
衿久を横目で見てにやりと芦屋は笑った。
とんだ先輩だ。
「…ちゃんと謝っとけよ」
「今度コーチする予定だよ」
「なるほどね…」
コーチと引き換えに貴重なパンを頂いたということか。
その後輩には悪いことをしたな、と衿久は思ったが、まあ後輩たちには好かれている芦屋のことなので、これくらいは大丈夫なのだろう。
残りをひと口で食べ終えると、衿久はもうひとつのパンもふた口ほどで食べてしまった。ろくに噛まずに飲み込む衿久に、芦屋は前を向いたまま笑う。
「そういえばさ、スドーせんせが頭抱えてたなあ」
缶コーヒーを啜りながら、衿久はちらりと芦屋を見た。
芦屋は柵に腕を引っ掻けてぶらりと体を揺らしている。
「…なんて?」
「可愛い生徒が受験やめるって言ってるって」
飲み終わった缶を袋の中に入れ、ぐしゃっと衿久はそれを手の中で丸めた。
須藤とはさっき自習時間中に呼び出され、話をしたばかりだった。
教室に戻ってこない衿久を芦屋が探して、進路指導室に行ったことは、すぐに想像がついた。もしくは、教室を出たときに後をつけて、話を聞いていたのかもしれなかった。どちらでもありえそうだと衿久は思った。
「別に、可愛くねえだろ」
「学年5位内に入ってるやつが言う台詞かよ」
「いつもじゃねえよ」
芦屋がひゅっ、と手に持っていた缶を投げた。カン、と屋上のひび割れたコンクリートに甲高く跳ね返り、二度跳ねて、反対側の柵に当たった。
もう少しで外へと飛び出すところだった。空を舞って、それから…
カラカラと右に左にと転がっていくそれをふたりとも黙ったまま眺めていた。
やがて始業のチャイムが鳴った。
「受験しねえの?」
芦屋が言った。
「ああ」
しない、と衿久は言った。
「…冬休み、どっか行こうぜ」
不貞腐れたようなその言い草に衿久は笑った。
一週間前。
帰って来るなり進学をやめると言い出した息子に、母親は一瞬ぽかんとしてから、やがてゆっくりとした口調で、ご飯にしよう、といつものように言った。
『とりあえず着替えておいで。青衣、おかーさんを手伝って』
うん、と青衣が頷いて、母親の言いつけ通り皿や箸をテーブルに運び始めた。テーブルの周りをくるくる回って、嬉しそうに歌いだす。
『きょーはハンバーグだよー、あおいの好きなーえじまやのハンバーグ!』
それから普段と変わらずに3人で夕食をとった。青衣が寝てしまうのを待ってから、ようやく衿久は母親と向かい合ってダイニングテーブルについた。
父親は今夜も遅くなると連絡があったと母親が教えてくれた。ちゃんと聞いたことも──聞かずとも分かっていたことだが、衿久の進学に関しては、父親は間違いなく母親にすべてを任せているようだった。
衿久は、最近ろくに話せていない父親を思う。忙しすぎる父親は、衿久が幼いときはもっと忙しく仕事をしていて家にほとんど帰ってこなかった。一緒に遊んだ記憶はない。それを反省したのかその当時を取り戻すかのように、13年経って出来た娘を、少ない休みのたびに遊びに連れだしていた。
無理しているのだろうな、と思う。
『──はい、どうぞ』
ぼんやりと物思いに沈んでいた衿久の前に、母親が湯気の立つカップを置いた。甘い香りがする。ひと口飲むと、それはココアだった。たっぷりと砂糖が入っている。
テーブルの真ん中には、チョコレートとビスケットが背中合わせに貼りついたお菓子が載った皿もある。
『こういうときは、甘いものを食べながら話すといいんだって』
苛立つ気持ちを抑えるから、と母親は言ってビスケットをひと口かじり、自分のカップを両手に抱えてココアを飲んだ。
『それ、誰が言ってんの?』
んー、と母親は一瞬考え込んだ。
『なんだったかなあ、どっかの、医学博士?』
『なんだよそれ』
その答えに衿久が笑うと、母親も笑った。
ふふ、とふたりして笑い合う。
衿久と母親は笑い方がよく似ていた。
『それで、理由は?』
ひとしきり笑い合ったあと、静かな声で母親は言った。
『こんなにぎりぎりに言い出したのなら、ちゃんと人に言えるだけの理由があるんだよね?』
衿久は頷いた。
言うべきことはあらかじめ決めていた。
『大学に行く理由が見つからないんだ、なにも』
母親の手の中のカップがゆっくりと左右に回る。
『このまま大学に進んでも、時間の無駄だと思ってる』
『…お金がないからっていう、理由じゃなくて?』
『それは、この間まではそう思ってたりもしたけど──』
衿久は、皿の上のビスケットをひとつ取って齧ってみた。普段はあまり口にしない菓子の甘さが、舌の上でほろりと崩れ、溶けていく。
『でも今はそうじゃない。自分が納得できねえから』
この思いを、衿久はどう母親に言うべきか迷っていた。言えば、それは駄目だと反対されることは分かっていた。そんなことはないと反論される。自分がいるから何も心配することはないのだときっと母親は言うだろう。だから、最初からこれは自分の問題なのだと、強調しておきたかった。
『あんたには、色んな可能性がある。これからもそうだし、今も──大学に行けばもっと、もっと多く、その可能性は広がっていくんだよ』
母親は静かに言った。
『進学を時間の無駄なんかだとはお母さんは思わないよ、衿久』
目を合わせる。じっとこちらを向いている母親の顔を見ながら、こんなふうにゆっくりと話をすることは随分と久しぶりだった。夕食は一緒に食べるのに。母親の目元には隠しきれない疲れがあった。
衿久はゆっくりと首を振った。
『勿体ないなあ、あんたはなんにでもなれるのに』
『…なんにでも、は言い過ぎだろ』
親馬鹿だと笑う。
『だって私の自慢の息子だもん』
母親の言葉に衿久は苦笑した。ココアを飲むと、もう冷めかかっていた。温く甘い飲み物が、急かすような衝動を押し戻していく。母親の言ったことは、あながち間違ってはいないみたいだった。
母親もココアを飲んだ。
それで、と母親はカップ越しに言った。
『そんなふうに決意したきっかけはなんだったの?』
結論にはとっかかりが必要だ。
やはり見透かされていたのかと衿久は思った。女の勘だろうか。
カップをテーブルに置いた。
南人のことを考える。
『今はまだ言えねえけど、…でも』
もしもそう聞かれたら、言おうと決めていたことを衿久は口にした。
『でも必ず話すから、言うから、俺を信じててほしいって思ってる』
その言葉に目を丸くした母親は、目を細めて、待ってるよ、と慈しむように笑っていた。
**
また夢を見ている。
夢だと南人には分かっていた。
繋いだ手のひらが滑る。
汗に濡れた肌にまとわりつく着物が、手足を重くする。
足がもつれ、土から剥き出しになった木の根につまづいて、激しく転んだ。
「おい──」
繋いでいた手が離れ、それに気づいたその人が戻ってきた。
「大丈夫か?」
差し出された手を見つめる。
見上げた顔は、真っ黒に塗りつぶされていて──
「──」
そこに突然、見慣れた顔が重なっていた。
**
「──南人」
はっ、と南人は目を開けた。
逆さまになった衿久の顔が自分を見下ろしていた。
「──」
どくん、どくん、と心臓が鳴っている。
激しく、胸の内側から。
「どうした?」
心配そうに眉を顰めたその顔を南人は見つめた。
「大丈夫か?」
どくん、と心臓が跳ねる。
「南人?どうした…?」
震える息を南人は吐き出した。
夢の中でいつも繰り返し出てくる、黒く塗りつぶされた顔があった。
それは遠い記憶だった。
もう二度と思い出せないと思っていた。
なのに。
「──」
今──思い出したその顔は、衿久と同じ顔をしていた。
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