12


 ふたりを見送ると言って、衿久は部屋を出て行った。南人は床の上で簡易ベッドに寄りかかり、衿久たちの足音が廊下を遠ざかっていくのを聞いていた。

 まだ、雨は降っている。

 投げ出した手足が重かった。怠く思うように動かない体は気を抜けばすぐにでも沈み込んでいきそうだ。横になったとたんにきっと眠ってしまうだろう。体が回復を求めているのだ。南人はなんとか気力だけで自分の体を起こしていた。せめて衿久が戻ってくるまでは眠らずにいたい。

 衿久にはこれ以上、みっともない姿を見せたくはなかった。

「まあ、いまさらか…」

 呟いて、我ながら自嘲めいていて笑うと、どこからかえくぼがやって来て、南人の足先に体を擦りつけた。そのくすぐったさに思わず足が跳ねて、えくぼを驚かせてしまった。

 恨めしそうにえくぼはこちらを見て、にゃあ、と抗議の声を上げた。

「悪かったよ」

 尻尾をひと振りし、えくぼはベッドに飛び乗ると、シーツの間で丸くなった。長い尻尾がベッドの端から垂れて、ゆらりと揺れた。そしてそのまま目を閉じて眠ってしまった。

 南人は深く息を吐いた。

 手のひらを開く。透明の欠片がいつものようにそこにあった。

「……」

 前回倒れたときのことを、ほとんど南人は覚えてはいなかったが、それでも、自分がどんな状態だったかは大体分かるものだ。

 おぼろに残る記憶の中で、食べてはいけないと何度も自分に言い聞かせていた。何度も繰り返して思っていたそれを口に出してはいないと、どうして言い切れるだろう。

 食べたくないと言ったはずだ。衿久はそれを聞いたはずだ。

 あのときのことを衿久は何も言わない。

 でも時折、何か問いたそうに視線を向けてくる。

 きっと衿久は聞いてくるだろう。今度は本気で。

 これが何かと。

 遅かれ早かれ──それが今日だったとしても、おかしくはない。

 前に聞かれたときのように、誤魔化すことはもうできそうになかった。

 どこまで言えるだろう。

 衿久に、どこまで話せば…

「俺を怖がらせずにすむんだろうな…」

 欠片を握りしめる。

「──南人」

 南人は振り返った。いつの間に戻ったのか、衿久がすぐそこに立っていた。

 聞かれただろうか。

 すべてを話す覚悟はまだ出来ていなかった。



 衿久に気づいて、ゆっくりと顔がこちらに向いた。

 帰ったよ、と衿久は言った。

 南人は頷いた。

「今日は、早かったんだな」

「授業が短縮だったんだ」

「そうか」

 ほっとしたように南人が言った。

「先生だって?」

 戸口に寄りかかり、わざと衿久はそう呼んでみる。ふっと、南人が皮肉っぽく笑った。

「勝手にそう呼んでるだけだ」

 衿久は近づいて、南人の前に座った。

「あのお金、ちょっともったいなかったな」

 少し抜いとくんだった、と衿久が言うと、南人は笑った。

「どうでもいいよ」

 青白い顔だと衿久は思った。

 南人の右手を見た。握りしめている。

 その中にあるものを衿久はもう知っている。

 それが何なのか、知りたがっている自分に、南人が気づいていることも分かっている。

『俺を怖がらせずに──』

 言えないのはそれが理由なのか。

 俺が怖がると南人は思っているのか。

 ありえないことをひとりで思っている南人に腹が立った。

 言って欲しい。

 言えない理由がそれだけなら──

 衿久は南人の手首を掴んだ。

「──南人」

 ぴく、と南人の指先が跳ねた。握りしめている手を、衿久は手首ごと持ち上げる。少し緩んだ指の間からそれは床の上に落ちた。

 透明な欠片。

 目が合った。

「俺は南人を怖がったりしない」

 南人の目が驚きで大きく開かれる。

「え…」

「さっき聞こえてた」

 衿久はさらに強く南人の手首を握りこんだ。

「い…っ」痛い、と南人が声を上げた。「衿久…!」

「南人」

 目を合わせて名前を呼ぶ。落ちた欠片を衿久は顎で示した。

「前も聞いたけど、これ何?」

 南人は顔を背けた。

 その横顔に、衿久は南人、ともう一度呼びかける。

「あのさ、多分覚えてないだろうけど、こないだ…あんたはこの欠片と同じのを食べようとしてたんだ」

 南人の首筋が強張った。

「俺に食べさせてって言った。でも食べたくないって泣いたんだよ」

「──」

「食べたら…戻れなくなるって」

 南人が衿久を見た。

「それってどういう意味だ?」

 目を見つめながら問うと、南人はゆるく首を振った。

「俺が怖がるって何だ、これは──戻れなくなるってなんなんだよ」

「何でもない」

 詰問する衿久の言葉を遮って、南人は言った。強く衿久を見返してくる。

「何でもないわけないだろ?」

「本当に何でもない!」

「じゃあなんであんなこと言ったんだよ。あんなに泣いてただろ」

「知るか、覚えてないんだよ。おまえだってさっきそう言ったじゃないか」

 きつく睨みつけてくる目は今にも揺れそうだった。

 問えば問うほどかたくなになっていく。

 くそ、と内心で衿久は自分を呪った。

 失敗したかもしれない。苛立ってこんなやり方しかできないなんて。俺は馬鹿か。

 でも後にはもう戻れそうにない。

 深く、気づかれぬように、衿久は息をした。ゆっくりと南人の手首を離し、転がっていた欠片を摘まんだ。

「本当に何でもないんだな?」

「そう言ってるだろ」

「じゃあ俺がこれを食べても、大丈夫なんだな?」

 硬く、指先にひやりとした感触。自分には食べられるわけがないと分かっていても、衿久は南人に見せつけるように欠片を持ち上げて言った。

 透明な石の向こうに、こわばった南人の顔が屈折して逆さまに透けて見えている。

 これは賭けだった。

「だろ?」

 口元に欠片を持っていく。

 わざとゆっくりとやった。

「やめ…」

「何でもないんだろ」

「衿久っ…!」

 南人の顔が歪んだ。

 がり、と衿久の歯が欠片を噛み──蒼白になった南人が叫んだ。

「──やめろ!」

 ぱん、と衿久の頬が鳴った。南人が叩いた衝撃で口から飛び出した欠片が、かん、と床に落ちて跳ね返る。それを目で追っていた衿久は、襟首を掴まれて引き戻された。

「この馬鹿!なにやってるんだおまえ!」

 南人が衿久を引き寄せ、鼻先を突き合わせるようにして怒鳴った。青白い顔は一層青ざめていて、衿久の服を掴んだ手はぶるぶると震えている。

 目には薄い涙の膜が張っていた。

「あんなことして…!おまえは、あんな…っ!あれが何か、知りもしないで!」

「南人──」

「よくもあんな真似…っ、おまえになにかあったらどうするんだ!」

 南人の剣幕に衿久はたじろいだ。

 やり過ぎたと思った。でも、あと少しだと、衿久は首元を掴む南人の手に自分の手を重ねた。

「なにかって…、南人、ちゃんと言わなきゃ分かんねえから」

「だからって、俺は…おまえは、なんでもう少し…」

 唇がわなないて、言葉を紡ごうとしては、薄く開いて閉じていく。普段の硬質さが嘘のように、弱っているときの南人はどうしようもないほど無防備だった。

 衿久は問い詰めている罪悪感と同じほどの愛しさを感じた。

 ごめん、と衿久は言った。

「このまえの、あんな状態の──俺は、すごく怖かった」

 噛んで含めるように衿久は言った。

「南人がどうにかなりそうで、本当に怖かったんだ」

 言いながら、青衣にするように、顔を覗き込んで目を合わせた。

「だからちゃんと、いろいろ、知っておきたい。知りたいんだ。怖がったりなんてしねえから」

 ついに目の縁から溢れた涙が頬を伝って落ちた。

「なあ…知らないほうがずっと怖いよ、南人」

 衿久が言うと、南人は目を伏せた。諦めたように深く、震える息を吐き出した。

「もうあんなことするな…」

「うん」

「言うから…二度とするな、衿久」

 涙に濡れた目で衿久を見つめて、南人は言った。

「分かった。もうしない」

 その言葉に頷いて、南人はまた目を伏せた。

「…あれは、俺が人の体から抜き取った、痛みの結晶だ」

 痛みの欠片。

 南人は衿久から手を離した。

「俺は人の痛みを消して、それを食べて生きていたんだ」

 離れた指先を南人は見つめていた。涙が手のひらに落ちる。

 手を開き、手を閉じる。

「痛みは俺の糧で、生きる術だった。だから…ずっと、ずっとそうしてきた。それしか知らなかったからな。でも、今は…食べるのをやめたんだ」

「どうして?」

 衿久の問いかけに南人は俯いたまま答えなかった。

 開いては閉じる南人の手を見ながら、衿久はもうひとつの疑問を口にした。

「やめて、生きていけるのか?」

 衿久の問いに、南人はかすかに微笑んだ。

「いけるさ。今、ちゃんと俺は生きてるだろ」

「ああ、だけど…」

 南人は顔を上げ、衿久を見た。

「衿久、俺は…──」

 南人は言い淀んだ。揺れる目が縋るように見つめてくる。衿久はそのまま南人の次の言葉を待った。長く、見つめ合ったまま、沈黙が続いた。けれどそれはほんの一瞬だったかもしれない。そんなふうに感じただけかもしれなかった。

 南人が言った。

「俺が──怖くないか?」

「…怖くねえよ」

 いまさら、と衿久は笑った。

「こんな力は普通じゃない。まともじゃないし、おまえは俺が気味悪くないのか?」

「どこがだよ、うちのばあちゃんだって、いつも天気を当ててたしな」

「いや…そういう話じゃ──」

「百発百中だぞ」

「それは、すごいな──いや、だから違う…」

「同じだよ」

 天気と一緒にするなと声を上げた南人に、衿久は口の端を上げて言った。

「同じだ、ちょっと人と違うってだけだろ。他人の痛いとこ取ってやるお人好しな力持ってて、それ使ってばかばか腹空かしてぶっ倒れてるだけじゃねえか」

 そんなやつ怖いわけないだろ、と言うと、南人はものすごく嫌そうに顔を顰めた。

「そ…っ、そんなにいつも腹空かせて倒れてないっ」

「はあ?嘘つけ、しょっちゅうじゃねえか。今日だって俺が来て助かっただろ?」

「うるさい」

 ふい、とばつが悪そうに南人は顔を逸らした。その拍子に、目尻に残っていた涙が頬にこぼれ落ちて、衿久は手を伸ばしそれを指で掬った。

「どう思ってるか知らねえけど…信じろよ、俺は南人を怖がったりしないよ」

 南人が呼吸が詰まったように目を閉じて、息を吐き出した。

 笑って、衿久は言った。

「なあ、腹減らねえ?今日のおやつ、あるんだけど」

 そう言ったとたん、そっぽを向いていた南人の腹が盛大に鳴った。

 ぷっ、と衿久は吹き出した。

「はははっ」

「わ──笑うなっ」

 耳まで真っ赤になった南人が衿久の胸を叩く。弱弱しくて痛くなどないと分かっていたから避けずに受け止めていた。

 衿久はその瞬間、その仕草が──南人が、たまらなく愛しいと思った。

 一緒にいたい。

 もっと知りたいと思った。

 南人がを知りたかった。

 リビングにまだ歩けない南人を抱えて運び、ソファに座らせた。

「衿久、お茶」

「はいはい分かったよ」

 甘く胸が軋む。

 この感情が何か、衿久は知っている。

 そうだと認めるには充分過ぎるほどに自覚はあった。

 この体に触れる自分以外のものがいとわしい。

「なに?」

「まだ濡れてる」

 涙が伝い落ちた跡の残る南人の頬を指先で拭った。

 紅茶を淹れるためにキッチンに向かう。かすかに濡れた指先を舐めると、それは砂糖水のようにひどく甘かった。


***


 暗い夜道を、衿久は家へと歩いている。

 雨は南人の家を出る頃には止んでいた。

 離れるのが寂しいと思った。

 いつももう少しいたいと思う。

 ひとり呟いていた南人の言葉が頭から離れていかない。

『俺を怖がらせずにすむんだろうな…』

 思いのほか、その言葉は衿久の心を抉った。

 そんなふうに思われていたのだと思うと苛立ちが募り、強引に追い詰めて聞き出してしまった。自分がこれほど狭量だったとは、衿久は今日まで思いもしなかった。

「なにをやってんだ俺は…」

 ため息まじりに衿久は呟いた。

 怖がったり、気味が悪いと思うわけなどない。

 南人にも言った通り、衿久の祖母もまた、人とは違う力を持つ人だ。もっともそれは彼のように誰かの傷を癒したり出来るようなものではなく、明日の天気を当てたり、探し物を言い当てたりといったような、ごく些細な、日常の中で使うものの延長線上にある力だった。人よりもはるかに勘が鋭く、予言めいたことを言ってそれを当てては、幼いころの衿久を驚かせた。

『ね、これは私と衿久だけの秘密だからね』

 誰にも言っちゃだめだよ。

 いたずらっこのように片目をつぶっては、約束だよ、と言って、いろいろなものを見せてくれた。

『わあ…!』

 向かい合って教えてもらっていた習字、その半紙を1センチ程テーブルから浮かせてみせたこともあった。

『おばあちゃんすごい!』

 そうでしょう?

 でも、誰にも内緒だからね。

 その祖母は今はもう意識がなく、病院のベッドの上で、いつ容体が変わるかもわからない。

 もしも祖母が元気だったら、南人に会わせたかった。

 南人にも会ってほしいと思った。

 祖母になら──

 南人は結局、肝心なところを衿久には言わなかった。

 なぜ、痛みを食べるのをやめたのか──

 なぜ自らの糧を捨てたのか。

「戻れないってなんだよ…」

 知りたかった。

 南人のすべてを衿久は知りたいと思った。



 やがて家に着いた。衿久は自宅の門の前に佇み、生まれたときからずっと住んでいる家を見つめた。

 明かりの灯る玄関、どの窓からも中の光が漏れていて、外にまで、かすかにテレビの音に混じって青衣の笑い声が聞こえてくる。

 人の住んでいる場所だ。

 南人の家とはあまりにも違う。暗く、森の中に埋もれるようにして、息をひそめているあの家とは。

「……」

 衿久は手を握りしめた。

 決意をするのは、たったひとつの理由があればよかった。

 衿久は門を抜け、玄関を開けた。

「ただいま──母さん?」

 リビングに入り、キッチンの母親に声を掛ける。駆け寄ってきた青衣を受け止めた。

「おかえりー」

 笑顔で母親が振り向いた。

 離れたくないと──南人の傍を離れたくないと、それだけでよかった。

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