11
職員室の扉はいつでも開かれていて、生徒が気軽に出入り出来るようになっている。
「あー須藤先生…?いないけど、進路指導室じゃないか?」
戸口に近い席に座っていた教師が、回転いすを軋ませながら振り向いて言った。それに衿久は礼を言い、もう一度職員室内をぐるりと見渡してからその場を離れた。
上履きの底がきゅ、と床に擦れる。
本棟の3階まで駆け上がり、進路指導室の扉を叩いた。
どうぞ、と間延びした声が聞こえて、衿久は扉に手を掛けた。
深呼吸をして上がった息を整える。
「失礼します」
そう言って思い切り開けた。
だから、と須藤は言った。
「だから、どうせばれるだろうが、最後の三者面談で」
もう来月なんだぞ、と言われて、衿久は唸った。
「…だからって不意打ちってのはどうなんすか」
「悪かったよ。留守電に残すつもりで掛けたらさあ、ちょうどお母さんが休みだったなんてなあ」
あはは、と軽快に須藤は笑う。その前で、衿久は力なく机に頬杖をついた。
「冗談じゃねえよ、絶対狙ってやったんだろ」
「悪かったって」
「思ってないでしょうが」
須藤は笑って、進路指導室の窓から見える外を眺めた。この時期にしては珍しく、糸のように細い雨が降っている。
「それで、話し合えたか?」
衿久は深く息を吐いた。
「まあね」
先生のおかげさまで、と皮肉を言うと、須藤は声を上げて笑った。
「金がないことを理由にするなって言われたよ」
「俺だって、おまえが自分の息子だったらそう言うかもな」
ため息まじりの衿久の言葉に、須藤はそう言った。
衿久が第一志望としていたのは県外の私立大学だった。特にそこでなければならないという理由ではなく、そこが衿久の成績で入れる一番いい大学だからだと、それだけで決めたのだ。
大学であるなら、自分の目指す分野が学べるのなら、本当にどこでもよかったのだ。むしろ進学するということそのものが目的だった。それに、家を出て、ひとりで生活をしたいという希望も、少なからず県外の大学を選んだという理由の中に含まれていたかもしれない。
だが祖母が倒れ、家族の日常が大きく変化していくにつれて、その考えは次第に変わってきた。
病院に入院することは金がかかる。そして時間も、かかるのだ。
両親が仕事と家事と祖母の世話にと追われていく姿は、日に日に疲労を滲ませて、衿久を立ち止まらせた。
今自分がこの家を出たら、家族はどうなっていくのだろう。
手いっぱいの両親は、青衣は…
ただ負担が増えていくだけではないだろうか。
祖母が入院して少し落ち着いたころ、担当の医師は家族を呼び出した。
そして、これ以上祖母の容態は回復はしないと告げた。
『このままゆっくりと、緩やかに過ぎていきます』
青衣を除く家族3人に向かって、祖母を診た医師は穏やかな声で続けた。
『随分昔に体に大きな傷を負われていますね。それが長い年月をかけて、ゆっくりと、とてもゆっくりと、町田さんの体を弱らせていったようです』
家族の誰一人として知らなかった事実だった。
衿久の知る祖母は、物心ついたときから風邪ひとつ引かない丈夫で元気な祖母だったのに。
『でも、それがあったからこそ、町田さんはここまで生きてこられたのかもしれませんね』
静かに微笑んで、いつか来る最期のときまで一緒に頑張りましょう、とその医師が言うのを、父も母も泣きながら頷いていた。
よく晴れた日の午後、柔らかなクリーム色の診察室の中には、ブラインドの向こうから明るい日差しが差し込んでいた。すすり泣く両親の声が静かな部屋に聞こえる。
自分が何をするべきなのか、衿久はそのとき、おぼろにそれが見えた気がした。
「あれ、久しぶり。試験終わったんだ」
ALTOのガラス戸を開けると、北浦の声が聞こえてきた。ちょうど商品を補充しようとしていたようで、手にはトングとバスケットを抱えている。
ここに来るのは1週間ぶりだった。相変わらず客は誰もいない。
「うん、昨日で無事に」
「そっか、よかったね。今日は…半日?」
時刻は14時前だった。午前中というには中途半端な時間だ。首を傾げながら言った北浦に、衿久は笑って首を振った。
「いや今日は短縮授業」
「あー、あったねえ、そういうの。もう全部忘れてるわ」
はは、と笑った北浦の持つバスケットの中を覗き込むと、焼き上がったばかりの綺麗な焼き目のついたフレンチトーストが詰まっていた。美味そう、と衿久が言うと、北浦が嬉しそうな顔をした。
「美味しいよ。今出来立てだしね」
北浦はバスケットを商品棚に置くと、トングでひとつ摘み、半分にちぎって衿久の手に載せた。残りの半分は自分の口にぽいっと放り込んだ。
「んーうまーい!」
もぐもぐと幸せそうに噛み締めるのを見て、衿久もぱくりと食べた。じゅわっと口いっぱいに丁度良い甘さが広がって、自然と笑みがこぼれた。
「美味い」
「だろー?美味いんだよ、これ」
北浦が幸せそうに食べるのを見て、衿久は南人にも食べさせたいと思った。南人も食べたら、きっと同じような顔をする。
「これ、3ついい?」
「うん。あ、今から行くんだ」
そう、と衿久は頷いた。
「今日のおやつにするよ」
ありがとう、と言って北浦はフレンチトーストを3つ袋に入れてくれた。
「これはおまけね」
そう言ってもうひとつ、具だくさんのサンドイッチを袋の中に入れる。
「ありがとう」
「こっちこそ、いつもありがとね」
バイト先の人によろしくね、と北浦は手を振って衿久を見送った。
衿久もガラス越しに手を振った。
傘を開き歩き出す。
この店はこんなに美味しくて北浦もいい人なのに、どうして客が少ないのか衿久は不思議でならなかった。
散策路からいつものように南人の家に向かおうとした衿久は、ふと見慣れぬものに気づいて足を止めた。
ちょうど南人の家への入口になる茂みの前に、車が止まっている。ワゴンタイプの小型の高級車だ。たしかこの散策路への車の乗り入れは、許可がなければ出来ないようになっているはずだ。
車の側から、濡れた地面にふたつの轍の跡があった。幅が広く、平行に茂みの中へと続いている。
「……」
分け入ったときに折れたのか、細かな木の枝がいくつも落ちている。泥にまみれ、その上を踏んだ誰かの足跡。
それがふたつの轍の間にあり、同じ方向へと向かっていた。
「──あ」
車いすが衿久の頭に浮かんだ。
患者か。
南人を訪ねてきた人なら、それもあり得るだろう。足跡は車いすを押していた人のものに違いない。
南人の家に今──誰かが来ている。
衿久は素早く傘を畳んで足跡を追った。
温室には誰もいない。
その横の、いつもは閉ざされている家の扉が薄く開いていた。
その隙間から、中に入れられた車いすが見えた。
ここから入れば、きっと南人の仕事部屋に一番近いはずだ。間取りを思い浮かべ、でもそこからは入らずに、衿久はいつも自分が出入りしている裏の勝手口に走った。
普段はしない人の話し声がかすかに聞こえ、衿久の腹の底がざわめいた。
何だろう、この…得体の知れない感覚は。
勝手口は開いていた。衿久は靴を蹴り脱いで、家に上がる。
「…、……」
奥の方から声がしている。
知らず、衿久の息は上がっていた。霧雨に湿った前髪の先から、ぽたりと雫が頬に落ちた。
深く呼吸をする。
自分の鼓動がやけに激しくて、苦しくなる。
そっと奥へと衿久は進んだ。
リビングに足を踏み入れたとき、小さく鳴き声がした。
どこから現れたのか、えくぼがいつのまにか衿久の後ろにいて、振り向いた衿久を見上げていた。
「…です、でも、あなたは──」
南人の声がして、はっと衿久は聞き耳を立てた。
くぐもった詰るような声が上がり、続いてがたん、と大きな、何かが倒れる音がした。
詰った声の男が、慌てたように叫んだ。
「おい、君、どうし…」
衿久は南人の部屋に駆け込んだ。
「──南人!」
床に膝から崩れ落ちた南人と、それを支えようと体に手を回している男と、簡易ベッドから腰を上げかけた女性の姿がそこにあった。
男と女性が同時に衿久に目を向けた。
「君はなんだ、《先生》の…?」
そう言った男の手が床に蹲る南人の肩を抱くようにしていて、全身の毛が逆立った。衿久は大股で歩み寄り、その手を払いのけた。
男から奪い取るように南人の体を引き寄せる。
「俺はここのバイトだ」
「バイト?」
男が怪訝な顔をして頬を歪めた。
衿久、と小さな声で南人が呟いた。やめろ、と唇が動いたが、衿久は気づかぬふりをして、まっすぐに男を見返した。
年の頃は60といったところか。壮年の男はがっしりとした体つきで、金がかかっていると一目で分かるようなスーツに身を包んでいた。その後ろでは同じ年の頃の少しやつれた女性が、心配そうに衿久と南人を見つめている。ふたりはきっと夫婦だろう。
妻が患者で、夫がその付き添いか。
「バイトなら分かるだろう、我々は先生に診察をお願いに来たんだ」
診察。
「…ならもう、治療は終わったんじゃないんですか」
それは南人の状態を見れば衿久にも分かった。力の抜けた体を抱き締める。
見返した妻が夫の後ろで気まずそうに視線を逸らした。
「いや、まだ、我々は──」
まだ?
まだだと?
その言葉に、カッと衿久の目の前が赤く染まった。
「あんたら、この人にこれ以上何をしてもらうつもりだ」
「いや…」
睨みつけると、やはり後ろめたく感じていたのか、夫は明らかに怯んだ顔をした。衿久は夫を見据えたまま、目を離さずに言った。
「こんな状態で、もう何も出来ねえの見て分かるだろうが」
「しかし、こっちだってそれなりの金を払ったんだ!──まだそれに見合ったとは…」
男の目がライティングデスクの上に泳いだ。衿久は振り返る。見れば厚みのある封筒がそこにあった。これか、と衿久はそれを片手で掴み取り、男に投げつけた。
封筒は夫の胸に当たって床に落ちた。束ねた札束がふたつ、開いた口から覗いている。
「金は返す、いいから帰れ!」
男の顔がみるみるうちにどす黒く、赤く染まった。
「何だと、このッ…!」
「あなたっ」
激高し振り上げた夫の腕を、あわてて妻が抑えた。
「もうやめて、お願い、先生が──」
妻の視線の先を夫が辿った。衿久の腕の中でぐったりとした南人の姿を見て、夫の体を覆っていた興奮が萎んでいく。
一瞬、誰もが黙り込んだ。
息を吸い込んで、衿久は言った。
「帰ってください」
ゆっくりと妻が南人に頭を下げた。
「本当に、ありがとうございました。もう、もう充分です、本当に…」
妻は自分の足でしっかりと立っていた。その姿はしゃんとして、とても車いすが必要な人には──今は、見えなかった。きっと南人が、彼女が立てるようになるまでその体を癒したのだろう。傷があったと思われる場所に巻かれていた包帯が、ゆるくたわんで、立ち上がった彼女の足首に絡まっている。
「…南人」
衿久の腕の中で南人が身じろいだ。顔を上げ、衿久に頷いた。
「あなたが体を取り戻せたなら、それでいいんです」
肩越しに振り返り、静かに南人は続けた。
「でも俺は、…今のものしか治せない。その人が今痛みを感じているものしか治せないんです。一度治癒したものは…古傷をなかったことには出来ない。ご期待に添えずに、申し訳ありません」
はい、と妻が頷いた。
夫は俯いた。
衿久は胸に抱えた南人を見下ろした。
南人の目はまっすぐに彼らを見ていた。その手がぎゅっと衿久の制服を掴んでいた。何かを握りしめたまま──
「そのお金は、持って帰ってください」
はっと、夫が顔を上げ目を見開いた。
「いやそれはっ──」
「持って帰ってください」
南人は言った。
「それに見合うだけのものを、俺はあなたたちには与えられない。過ぎたものを受け取るわけにはいかないんです。最初にそう、俺は言いましたよね…?」
うっすらと口元に微笑を浮かべた南人を、夫は茫然とした顔で見つめた。やがて気まずげに目を逸らして、ようやくのろのろと、床の上の封筒を拾い上げた。
帰る彼らを衿久は扉まで見送った。
夫は先に車いすを押して、雨の中で妻を待っていた。妻は扉から一歩出たところで傘を開き、戸口に立つ衿久を振り返った。
「…あの」
雨はまだ細く降り続いていた。
続ける言葉を彼女は呑み込んで、衿久を見上げた。傘の中で翳るその目は不安に揺れている。言いたいことが何なのか、衿久には分かる気がした。
「…南人のことは、俺がいるから大丈夫です」
衿久がそう言うと、彼女はほっとしたように目元を緩めた。
頭を深く下げ、去っていく背中に、衿久は声を掛けなかった。
やがて見えなくなる。
扉を閉め、鍵をかけ、部屋に戻った。
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