10
あれから南人は、衿久によく笑うようになった。口調のきつさは相変わらずだが、言葉の端々でごく自然に笑顔を見せてくる。皮肉もぎこちなさもいつのまにか消えていて、知り合ったころよりもずっと、衿久は南人との間に距離を感じなくなっていた。
「毎日勉強ばかりで飽きないのか」
ソファの向かいで参考書を読んでいる衿久に、南人は言った。
それに衿久は顔を上げた。見れば南人はソファの上で膝を抱えて、今日のおやつを手に持って、じっとローテーブルに広げた衿久のノートを見つめていた。
「しょうがねえだろ、受験なんだから」
ふうん、と南人が相槌を打った。
「おまえ、字が綺麗だな」
「うちのばあちゃんが習字の先生でさ、小さい頃に教え込まれたんだよ」
「へえ…」
ひどく感心したような声を南人が出したので、衿久は思わず吹き出した。たしかに、この見た目からは想像もつかなかったのだろう。
「なあ、食わねえの?」
大事そうにバナナブレッドを両手で持ったまま食べようとしない南人に、衿久は言った。もしかして、バナナが嫌いだったとか?
いや、それはないかと衿久は思い直した。前に母親が南人にと作ったバナナのパウンドケーキを、丸ごと一本食べ切ったのは、まだ記憶に新しい。あのときは本気で南人の体を心配してしまった。
「それが終わったら食べる」
「?…それって?」と衿久はノートに答えを書きながら尋ねた。
「おまえの勉強」
つと、衿久は顔を上げた。
「なんで」
聞き返すと、南人は目を丸くした。
「だって、紅茶がない」
「──」
そうか、飲み物がなかったからか。
こいつ。
ぱたん、とペンを置いて、衿久は立ち上がった。
「──分かった」
え、とこぼした南人の手からバナナブレッドを取り上げて、衿久は南人の腕を掴んで立たせた。
「じゃあ、自分でお茶ぐらい淹れられるようになろうな」
「え──嫌だ」
キッチンに連れて行こうとすると、南人は足を止めて踏ん張った。
「あんたなあ…」
呆れて振り返ると、南人がじっともの言いたげに衿久を見ていた。衿久は浅く吸った息を呑みこんで、自分の目が揺れないようにと念じながら、それを見返した。
「いいから、それぐらい出来るようになれよ」
「嫌だ」
この家には山のように食器がある。南人ひとりしかいないのに、一生かかっても使い切れないほどの皿や茶碗が、キッチンの古めかしい戸棚にぎゅうぎゅうに押し込まれていた。はじめて衿久がその戸棚を開けたとき、食器にはどれにも薄く埃が積もっていて、長い間使われていないのが一目で分かった。客に出すための漆が施された一揃いの茶器、金の縁で彩られたきらびやかな大皿、それらの上に無造作に詰め込まれた日用の食器。欠けた皿や小鉢、中には子供が使っていたような、小さな茶碗や汁椀も混じっていた。だがそのどれもが長く触れられていないのだった。
もしかしたら戸棚すら、久しく開けられたことがないのかも知れなかった。
南人が普段使っているものは、流しの横の水切り籠の中にあるものだけだった。それだって、何日も同じ場所で、動かした形跡がないことも多かった。
衿久が帰った後、南人はこの家でどんなふうに過ごしているのだろう。茶も淹れず、何も作らず…衿久と出会う前は、一体どんなふうにして生きてきたのだろう?
その思考を遮るように、南人はまっすぐに衿久を見て言った。
「おまえが淹れたのがいい」
「……」
息を詰めた衿久は、視線を逸らすなと自分に言い聞かせる。
逸らすな、意識するな。
「俺は、おまえが淹れたのが飲みたいんだ」
考えるな。
──くそ。
「……わあかった」
けれど、やはり先に視線を逸らしたのは衿久だった。衿久は気づかれないように、ため息まじりに呟いて目を閉じ、肩を竦めた。掴んでいた南人の腕を離す瞬間、細いな、と思わず感じてしまう。
「しょうがねえな、今日だけだからな」
南人に背を向けてキッチンに行きながらそう言うと、南人が笑った気がした。きっと笑っている。見なくても、衿久にはもう南人のすることが自然と分かるようになってしまった。あれから、あの夜から変わったのは、南人ばかりではない。衿久もまた変わっていた。
「あー牛乳あったよなあ、ミルクティーにでもするか?」
「うん」
少しだけ弾む南人の声に、衿久の鼓動も弾みそうになる。
水を入れた薬缶を火にかけ、その横で鍋に牛乳を入れて温まるのを待つ間、南人の腕に触れた手のひらが痺れるほどに熱いことを、衿久は自覚していた。
柔らかな感触が今も残っている。
意識のはっきりしない相手に──ましてや座ることさえ困難だった相手に、どうやって水を飲ませたらいいのかなど、考えてもひとつしか思いつかなかった。
『…ん』
縋る手に力が入らないのか、南人の指が衿久の服を弱く引っ掻いていた。
抱き締めた体がくたくたと倒れそうになる。ペットボトルを煽り、崩れそうになる背を腕を回して支え、顎を上向けて口移しで水を与えた。
『んぅ…っ』
上手くいかず、南人の口の端から水が落ちていくのを手のひらで拭って、また口を塞いだ。
こぼれないように覆い尽くした。舌先が触れて、潤っていく。
『…と、…』
無意識に求める声に、衿久は夢中になって水を飲ませ続けた。
溺れるほどに、もっと、もっと…いっぱいにしたい。
南人の唇を覆いながら、衿久は、これは介抱しているのだと自分に言い聞かせ続けた。
経験がないわけじゃない、衿久も18だ。人並みに経験をしている。
でも今までの誰とも違う感覚が、理性を奪っていきそうになる。
このまま──
『…みなと』
充分に潤った腔内を舐めて、衿久は南人から離れた。追いすがるように南人の赤い舌が唇の隙間から見えたとき、何かが自分の中で音を立てたような気がしていた。
***
「じゃあ、また明日な」
勝手口から出る前に、衿久は振り向いて言った。
珍しく見送りに後ろをついて来た南人の腕の中で、えくぼが鳴いた。
「毎日来なくてもいいんだぞ」
南人の言葉に、衿久は笑ってえくぼの頭を撫でた。
「また明日」
そう言って扉を押し開け、衿久は外に出た。外はもう暗い。冷たい風が前髪を煽った。扉を閉める瞬間、こちらを見つめる南人の視線がちらりと見えた。
それを頼りなげだと衿久は感じた。
「……」
閉めた扉をまた開けたくなる。
まだいたいと、思ってしまう。
帰るとき、最近はいつもそうだった。
引き留められたいと──
あのときのことを南人は覚えていない。寂しいと思ってしまうのは、きっと自分だけなのだ。
覚えていられても困るだけだろうけれど…
衿久は少しの間そこに立ち尽くした。やがて、深く息を吐き、帰ろうと歩き出す。
かすかな電話の音が、閉ざした扉の向こうから聞こえていた。
ただいま、と言って入った家の中は、温かな夕食の匂いが立ち込めていた。カレーだ。
「おかえり」
廊下からリビングに続くドアを開けると、キッチンから母親の声がした。そういえば、今日は母親は休みだったと、衿久は思い出した。
「ただいま」
「ご飯、もうすぐ出来るよー」
ぎゅ、と衿久の足に青衣が抱きついてきた。
「おにーちゃん、今日カレーなんだよ」
「うん、カレーだな」
青衣の髪を撫でて、衿久は頷いた。
「手洗って着替えておいで。青衣、テーブルの上片付けてくれる?」
「はーい」
手を離した青衣が母親の言いつけ通りテーブルに散らばったおもちゃや色鉛筆を片付けだした。衿久は洗面所で手を洗い、2階に上がると制服を脱いで部屋着を取り出した。
何のことはないパーカーとジーンズを身に着ける。あの夜に着ていたものだ。着るたびに、衿久は言いようのない思いに晒された。ちらつくその思いを頭をひと振りして追い出し、リビングに戻る。
すっかり片付いたテーブルの上には、久しぶりに見る母親の手作りのカレーが並べられていた。サラダもあって、青衣にはきちんと別に好物のポテトサラダが用意されていた。休みの日くらいゆっくりすればいいのに、母親は普段出来ないからと家族の好きなものばかりを作ったようだった。
「さあ食べようか、お腹空いたね」
いただきます、と言った青衣がスプーンでカレーを掬って食べた。おいしい、と声を上げたのを見て、衿久と母親も食べ始める。父親は今日も帰りが遅いと母親が言った。
「ねー見て、あおいの、ポテトサラダだよ」
「よかったな青衣」
見せつけるように食べる青衣の皿からわざとポテトサラダを取ろうとすると、さっと隠された。衿久は声を上げて笑いカレーを食べた。
久しぶりに食べる母親の料理は美味しかった。カレーか、と衿久は食べながら考える。これなら、自分でも作れるだろうか。
南人は何か、食べたんだろうか。
衿久、と呼ばれて、はっと我に返った。
「あ、何?」
「今日試験どうだった?」
母親が聞いてくるのに、衿久はまあまあだよ、と言った。
「まあ大丈夫だと思う」
「そうね、うん──ねえ、衿久」
向かい合って食べる母親に、衿久は顔を上げた。
母親は衿久をじっと見つめていた。
まずい、と衿久は瞬間的に感じた。
母親がこんな顔をするときは──
「あなた、志望先変えたって本当?」
ぐ、と衿久は息を詰まらせた。
咄嗟に上手く言い繕えない衿久に、母親が言葉を被せてくる。
「今日、学校から電話があったんだけどね」
「あー…、と」
担任か──須藤か。
…余計なことを。
「あとで、話しようか、衿久」
静かにゆっくりと母親は言った。そういう言い方をするときは、決まってひどく怒っているときなのだと、衿久はよく知っていた。
***
扉が閉まった。
衿久が帰ったすぐあとに鳴りだした電話は、予想通り来患の予約だった。
南人はいつものように一通りの質問をし、日にちと時間を決め、電話を切った。
電話の向こうでかすかに聞こえていた泣き声に、きっと今度も酷い痛みを抱えた人なのだろうと思う。どれほどの痛み、どれほどの傷を、また自分は見ることになるのだろう。
ライティングデスクの上で取ったメモに視線を落とす。手元だけを映すスポットライトのような光が、走り書きした自分の字を意味深に浮き上がらせている。
紙に滲んだインクがぼやけていた。
それを指で辿る。聞き取った言葉が、一語一句違えずに書き留めてあった。
何度も繰り返したことだ。
質問をすることに何の意味もないのに。
どんなに聞いていても──どれほど詳しく聞いたところで、本当に会ってみるまでは分からないのだ。言葉を尽くしても、人は誰も正確に自分の感じる痛みや苦しみを言葉にして他人に伝えることは出来ない。感じるものは人それぞれで、使う言葉もそれに乗せる意味も違うからだ。
理解などきっと出来はしない。
きっと。この先もずっと。分かり合えないまま、ずっと。
この手で力を使い、痛みを失くしていく。
部屋の入口から中を覗き込んでいたえくぼが、にゃあと鳴いて、南人は振り返った。
「大丈夫だ」
南人はその小さな生き物に近づいて、そっと腕に抱きあげた。
「…おまえのせいじゃない」
耳の裏をくすぐると、えくぼは気持ちよさそうに目を細めて、首を伸ばし南人の頬に擦り寄った。柔らかく温かい体。
生きているものはこんなにも温かい。
ふと寂しさが込み上げる。
家族の元に帰った衿久を思う。家族…自分にもかつて家族はいた。確かに、そういったものを手にしていた時もあった。
けれどそれはもう、遠い昔のことだ。
思い出せないほどに遠く…
あまりにも遠い。
「…大丈夫だ」
あと一度きり。
そのときにようやく願いが叶う。
南人は腕の中の小さな体を抱き締めた。
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