9


「はい──そこまで」

 水を打ったように静かだった教室がその一言でざわめきたった。

 そこかしこで深く息を吐く音がした。

「答案用紙伏せて。回収するよ」

 一斉に紙を捲り、ペンを置く。

 机の上に伏せた答案用紙を、教師が机の間を歩いて順番に回収していく。往生際悪くまだ答えを書こうとしていた生徒が、取り上げられた用紙を恨めしそうに見つめていた。

「はいはい、今さら慌てても駄目だからねー」

 試験官を務めた若い英語教師が茶化して言うと、あちこちから笑いと、同じくらいの呻きがこぼれた。試験が終わり解けた緊張に、誰もが安堵の表情を浮かべている。その色合いは様々だったが。

 今日は期末試験の最終日だ。

「町田どうだった?オレやばいかもしんない」

 前の席の山ノ井が振り返った。

「俺も」

 椅子の背に寄りかかって、衿久は大きく息を吐いた。

 とりあえず終わってほっとしたが、それも束の間のことだ。

 明日からはまた別の目標が待っている。

 衿久にとってはそちらの方が問題だった。



 試験最終日の今日は昼で下校となっていた。ホームルームが終わり、担任が挨拶を済ませると、帰宅しようとするクラスメイト達で教室内は騒がしかった。

 皆もう部活もない、委員会活動も引き継ぎを終わらせた後なので、放課後学校に残る者はサークル活動をする生徒か、3年生に解放されている図書室の自習室を利用する者くらいだ。しかしその数も今日は少なそうだった。

 ようやくひとつの試験から解放されたのだ。この後にまだいくつもの関門があっても、今日くらいは早くここから出て家に帰るなり遊びに行くなりしたい。

 周りで集まった女子達がどこに昼ご飯を食べに行くかで盛り上がる中、衿久も帰ろうと、荷物を詰めた鞄を持って立ち上がった。

「──ねえ、町田くんも行かない、カラオケ」

「は?」

 横から掛けられた声に衿久は振り向いた。近くで集まっていた女子達のひとりが、突然衿久に話を振ってきたのだった。一斉に4人の女子の目が向けられて、衿久は驚いた。

「私たち、今からカラオケでご飯食べようかってなったんだけど、人数多い方が楽しいし、ね?」

 小さく首を傾げて見上げる彼女は、隣のクラスの女子のようだ。胸のネームプレートを見ると「嶋野しまの」という名前だった。顔にもその名前にも見覚えはなく、同じクラスになったことがない子だ。なぜ自分の名前を知っているのかと思ったが、話していた他の3人は同じクラスなので、衿久の名前は彼女たちから聞いたのだろう。衿久が近くにいたから、とりあえず声を掛けたというところか。

 悪いけど、と衿久は言った。

「俺そういうのいいわ、今日は用もあるし」

 ええー、と嶋野は声を上げた。少し大げさなくらいのそれに、衿久は内心鼻白む。

「なんで、行こうよ?」

 用事って何時から?と、嶋野は衿久の袖を引っ張って、せがむように見上げてきた。こういう視線に覚えがないとは言わないが、衿久には厄介だという気持ちしかなかった。

 ほかの3人を見れば、いささか衿久に同情的な目を向けていて、なるほど、これは嶋野が勝手に言い出していることだと分かった。

「あのさ…」

 衿久が再び断ろうとしたとき、芦屋が大声で近づいてきた。

「えーなに、町田女子に囲まれちゃってー、いいなあ、どっか行くのー?」

 はっと芦屋を見た彼女が、あわてて衿久の袖を離した。芦屋がにやにやと笑いながら、その摘まんだ彼女の手を見ていたからだ。

「カラオケ?いいね、俺も行っていい?」

 嶋野ににっこりと笑いかけて芦屋は言った。

「え、と、──やっぱ、またにしようかな」

 たじろいだ嶋野が3人に、ね、と同意を求めた。3人は衿久と町田を見て、頷いた。

「用事あるみたいだし、また今度ね」

 そのうちのひとり、クラスメイトの相川あいかわがやんわりとそう言って笑った。かどを立てないためなのだろうその言葉に、嶋野も気まずそうに、じゃあね、と言って4人は足早に教室を出て行く。

「またねー」

 芦屋は彼女たちに手を振った。教室を出て行く瞬間、一番後ろにいた相川がちらりとこちらを見て、くすりと笑った。

「積極的だなあ」

 彼女たちが出て行った戸口を見ながら芦屋が言った。

「あれ嶋野だろ、隣の」

 かわいいよなあ、と言われて衿久は首を傾げた。

「そうか?」

「え、かわいくない?」

 それは好みの問題だ。

「よく分かんねえ」

「ふーん?」

 確かに可愛らしいとは思うが、それだけだ。それに、自分の感情を構わずに押し付けてくる、ああいう手合いは苦手だった。恵まれた体格で目立つ衿久は、異性から声を掛けられることも多い。好意を持たれていることは有り難いと思うが、興味も持てない相手に衿久はいつも対処に困っていた。口は上品とは言えないが、衿久は性格的に女性にきつい言葉を言えない。かといって上手く躱せもせず──その結果断るのが面倒になって、惰性で付き合った相手も何人かいたが、あまりいいことではなかった。

 異性関係にいい思い出がないな、と衿久は思った。

 押されるのは嫌だ。ペースに巻き込まれるのもごめんだ。

 もっと──求めているものはもっと、違うものだ。

 芦屋が衿久の顔を、じっと意味深に覗き込んでいた。何が言いたいか分かり、衿久はため息まじりに、助かった、と言った。芦屋は衿久に助け舟を出してくれたのだ。

「どういたしましてー。なあ、昼メシ、奢ってくれんだろ?」

 にやりと芦屋が笑った。

「またかよ」

「いいじゃん、助かったんだろー」

「ま、そうだけどさ…」

 苦笑して衿久は鞄を肩に掛けた。教室を大股で歩く後ろを、芦屋が笑いながらついて来た。



 午後から塾に行くという芦屋に付き合って、昼は芦屋が通う塾の近くのコーヒーチェーン店に入った。平日の昼時だが割合は学生が半数を占めていて、どこも試験期間は大体同じようだった。

「おー、今から?」

「そ、午後イチでさ、またな」

 入り口で芦屋の知り合いと鉢合わせた。もう帰るという彼に、芦屋は手を上げて気軽に挨拶を交わす。同じ塾だが専攻が違うため、受ける講義が違うのだという。

 じゃあなと言って店を出て行った彼は、この界隈では有名な進学校の制服を着ていた。

「あ、窓際空いてる。俺とっとくわ」

 衿久の手から鞄を取り上げて、芦屋はそう言った。

「いつものでいいんだろ?」

 注文カウンターに並んだ衿久が聞くと、うん、と芦屋は頷いた。

 注文したものを受け取り、衿久は芦屋がとっておいた席に向かった。通りに面した大きな窓の前のカウンターの並び席、ガラスに入った店のロゴの隙間に、道を行き交う人が見える。

「おーありがと」

「こちらこそ、どうも」

「…ん?なにそれ」

 衿久がカウンターの上に置いた紙袋を見て芦屋は首を傾げた。

「あー青衣ちゃんに?」

 ややあって、思いついたように言った芦屋に、衿久は椅子を引きながらそうだと頷いた。

「…今日のおやつ」

「へえ、いいお兄ちゃんじゃん?」

 衿久は肩を竦めた。

 それを機に、腹を空かせた男子高校生ふたりは、無言でそれぞれ厚切りカツサンドとチーズホットドッグに齧りついた。三口ほどでお互い平らげて、甘いコーヒーを啜る。素早く腹を満たして落ち着いてから、ふたつめに手を伸ばしたのは芦屋が先だった。

「町田、冬期講習申し込んだ?」

 ブルーベリーマフィンをゆっくりと美味しそうに味わいながら、芦屋は窓のほうを向いて言った。

 衿久が通っていた塾は芦屋が行っている塾の系列校だった。なので、そういったスケジュールはほぼ同じように組まれている。

 辞めていても、先日家に冬期講習の案内が届いていた。

 芦屋はもちろん申し込んだのだろう、衿久は案内を思い出しながらストローでカップの中のクリームを掻き混ぜた。

「いや、俺は行かねえから」

「えっ、そうなの?」

 芦屋は横の衿久を見て、目を丸くしていた。

 それを横目に衿久は言った。

「受けなくてもどうにでもなるだろ」

「あーまあ、おまえはそうだろうけど…。そっかあ…俺、なんならウチで申し込めばって言おうとしてた」

「なんでおまえと一緒のとこ?」

「え、だって、楽しくない?」

 と芦屋が不思議そうに言った。

「さっき入口で会ったやつ、俺仲良いんだけど、凄い良いやつで、志望先町田と同じって言ってたから、おまえもウチで講習一緒なら俺も冬休み充実だわって思ってたのに」

 お互い仲良くなれそうじゃん、と屈託なく芦屋は笑う。

 だが肝心なところが抜けていて、衿久は苦笑した。

「ばか、狙ってるところ同じならライバルだろ、普通そんなふうに思わねえって」

「えーそんなやつじゃないって」

 基本的に誰とでもすぐに仲良くなれる芦屋には、衿久の理屈は分からないらしい。しきりに首をひねる芦屋に、衿久は笑ってトレイのバナナブレッドに手を伸ばした。

「それに、どっちみちおまえの友達とは、この先会うこともきっとないし」

「え、なんで?」

 芦屋はストローを咥えたままきょとんとした。見れば大きなマフィンはいつのまにか食べ終わっていた。

「大学一緒じゃん」

 それは受かればの話だ。しかもお互いそこが第一志望とは限らないのだ。

 それに根本的に前提が間違っている。

 衿久はバナナブレッドをちぎって口に放り込んだ。もごもごと口を動かしながら芦屋の問いに答えた。

「俺、そこ受けねえから」

「──はア?」

 芦屋が素っ頓狂な声を上げた。


***


 勝手口はいつものように開いていて、不用心だと思ったが、そもそもこんなところにやって来る人もいないのだと、衿久は思った。

「こんちはー」

 声を掛けて扉を閉め、家の中に上がった。家の中は暖かく、火の燃える匂いがした。

 キッチンの床で寝そべっていたえくぼが、さっと身を起こす。通り過ぎざまに甘えるように体を擦りつけてくるので、衿久はえくぼを抱き上げてリビングに向かった。

 午後の曇り空が高い位置にある窓から見えていた。

 柔らかな光が部屋に差し込んでいる。裸足の足先が見えた。

「──狸寝入り」

 ソファで眠る南人の額に、衿久は紙袋を乗せた。

 南人の口元がピクついた。

「今日のおやつ、欲しくないか?」

 衿久が言うと、南人が紙袋を掴んで額からずらした。かすかに笑った目が、片方その下から現れて、逆さに覗き込む衿久を見上げていた。

「いる」

「じゃあ起きろ」

 子供のようなその返事に、衿久は笑って言った。

 

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