18


 手を引かれ、ひたすらに走り、やがて連れて行かれたのは山を下りた麓の小さな寺だった。

 鬱蒼とした森の中の、その廃屋のような寺の奥から出て来た年老いた住職は、青年を見て、またかと言う顔をした。横にいた南人には何も言わず、ため息をついてまた奥に引っ込んだ。

「遠い親戚でな、なにかと世話になってるんだ。俺の唯一の身内だ」

 戸惑う南人にそう言うと、青年は南人を促して寺に上がった。夕暮れの中でひぐらしが鳴いていた。

日置篤士ひおきあつしだ、おまえは?」

 奥の水屋から、なみなみと水の入った湯呑みを持ってきた青年が、それを南人に渡した。

「──」

 言葉に詰まる。

 本当の名前など南人にはない。

 その場で言い繕ってきた名前はいくつもあったが、それを言う気にはなぜかなれなかった。

「…名前は、ない」

「ないのか?」

 大して驚きもせずに日置は言った。意を決して言った割には肩透かしを食らったようで、南人はその反応に驚いた。

 日置はがしがしと頭を掻いた。

「ないと呼べねえし困るな…おまえ、どっから来たんだ?」

「…さあ」

「西?東?」

 どこだろう。いつも自分は太陽を背にして逃げていた。

「……南、かな」

「ふうん」

 そう言って日置は横を向いた。

 寺の上り口から、板敷きの本堂へ斜めに深く陽が入ってくる。夕焼けに染まる空を見ている日置の横顔を、南人は見つめた。簡素なシャツから伸びた腕、日に焼けた肌、高い鼻筋、はじめてまともに見た日置は、精悍な顔立ちをしていた。歳は今の南人と同じくらいに見えた。

「……」

 彼にはどう見えているだろう。自分も、同じくらいに見えているだろうか。

 汗に湿った髪が吹いてきた風に揺れる。

 目が、綺麗だ。

「じゃあさ、ミナトでいいか?」

「…ミナト?」

 何のことか分からずに首を傾げると、日置は可笑しそうに南人に目を向けた。笑うと、切れ長の目が柔らかく下がる。

 日置の黒い瞳の底までが赤い陽に照らされ、透けている。

 水の底だ。

「おまえの名前だよ。ミナト、南から来た人で、南人。な?」

「南人…」

 埃っぽい床に日置は指先で字を書いた。

 南人──その字を見ていると、南人の胸の内が火を灯したように熱くなった。

「気に入った?」

「うん…」

 ありがとう、と南人は言った。

 心から。

 はじめて、自分の名前を手に入れた。



 日置は山ひとつ向こうの町に住んでいて、ものを書いて暮らしていると言った。売れない小説家で、日銭を稼ぐために新聞や雑誌などに載せる雑多な記事を引き受けては書いて食いつないでいた。生活はその日暮らしで、返せない借金をしては追われ、この寺に逃げ込んでくるのだという。

 今回も金貸しから逃げている途中で南人に出会った。正確には、がけ崩れに居合わせ、その後人々に追われる南人を追いかけてきたようだった。

「まったくおまえは、いつまでたっても変わらないことばかりしおって。少しは成長というものをせんか」

「わかったわかった、わかってるよ」

「本当にしょうもない…、あんた、こいつの真似などせんようにな」

「…はあ」

 老住職は文句を言いながらもふたりに夕餉の支度をしてくれて、あとは好きにしろと、自分は酒を片手にふらりとまた奥に引っ込んでしまった。

 渡された椀の中にはゆるく湯でのばした粥が入っている。

 暗い寺の中、蝋燭の明かりがゆらゆら揺れて、粥の表面もゆらゆら揺れる。

 自分の分を持って行かなかった。

 南人は粥を啜る日置を置いて、老住職の後を追った。

 本堂から続く細い渡り廊下を進む。あちこち踏み抜かれていて、今にも崩れそうだった。

 その先に下がった、御簾みすとも呼べないような御簾の前で南人は廊下に膝をついた。明かりはなく、暗かった。

「あの、ご住職…?」

 なにか、と暗闇から返事が返ってきて、南人は少しだけ御簾を持ち上げた。

「粥を、…あの、俺は食べませんから」

 着物のたもとには、山で人を助けたときの欠片が入っていた。今食事をしなくても、腹は満たされる。

「これはご住職のものです」

 御簾の下からささくれた畳の上に椀と箸を置いた。御簾を下げ、立ち上がって日置のところに戻ろうとした。

 背中に小さな音が聞こえた。

「人でありたいのなら食え」

 はっとして振り返ると廊下に椀と箸があった。

「…え?」

 御簾が揺れている。

「人ならば食べねばならん。わしはもう先に済ませておるんでな」

 だから酒でいいと、御簾の向こうからどこか酔ったような声がした。



 本堂の床に体を横たえた。冷たく硬い。でも屋根があるだけよかった。

 天井は少しだけ高く、渡り廊下と同じようにあちこちに修理をしたような跡がある。つぎはぎだらけで、塞いだ穴から染み込んだ雨が黒ずんで、竜のような模様を作っていた。

 開け放した板戸の向こうから、草の生い茂った庭が見える。背の高い夏の草の匂い、細く笑うような三日月、虫の声。

 縁側に座っている日置の背中を、南人は見ていた。

「なあ」

 振り向かず、日置は南人に声を掛けた。眠っていないと分かっていたようだ。

「…なに?」

「おまえ、すごいな」

「何が?」

「見てたんだよ、あの崖が崩れたとき、おまえが…巻き込まれた人を治すのを」

「ああ…」

 と南人は言った。

 やはり見ていたのだ。だから追いかけてきた。

 いつ言われるかと思っていた。もっと早くに聞かれるかと思っていたが、意外と遅かったな。

「そうか」

 今度はどんな目を向けられるだろう。

 落胆はしない。

 いつもそうだったし、いつでも人の反応は変わらないものだ。

 ただ名前をくれて嬉しかった。

 名前のお礼に、借金の形に、見世物小屋に売り飛ばされてもいいかと思った。

 寝る場所には困らなそうだ。

「すごいな、すごい力だ。あんなの…俺ははじめて見た。興奮したよ」

 日置は振り返った。

 その顔は笑っていた。

「南人は選ばれた人間なんだな」

 淡い月明かりがその輪郭を縁取る。

 南人は目を見開いた。

 選ばれた?

 興奮した?

 こいつ、何を言ってるんだ。

 どうして、そんなに嬉しそうに笑っているんだ?

 南人は起き上がった。

「俺が、怖くないのか…?」

「怖い?」

「だって、こんなの普通じゃないし、まともじゃない。気味が悪いって──」

「皆がそう言う?」

「そうだ、皆、皆そう言って、気味が悪いって、化け物だって、だから」

 興奮して段々と声が大きくなる。

 縁側から立ち上がり、日置は南人の傍に膝をついた。月明かりを遮って、南人の上に影が落ちてくる。

「皆が言ってるからって、それがなんだ?」

「だって──」

「そんなの言わせておけばいい」

 日置が南人の髪を撫でた。優しい目で、南人を見つめる。

「皆は関係ない。だろ?南人、俺はおまえを怖がったりしない」

 息が詰まった。

「大丈夫だよ」

「そんなの…っ」

 今日会ったばかりで何が分かる?

 分からないではないか。

 南人は唇を噛み締めた。

 明日にはきっと。

 明日でなければ明後日に。

 きっと嫌になる。

 きっと、きっと…

 大きな手が後頭部を包み、そっと南人の顔を自分の肩に押し付けた。温かい。陽の匂いがした。日置のシャツが濡れて、はじめて南人は自分が泣いているのだと気づいた。



 一週間ほど寺で一緒に過ごしたあと、日置はまた来ると言って町へ帰って行った。ついに借金取りは一度も現れず、諦めたか、今頃町の借家に押しかけているかもしれないな、と日置は笑った。

 南人は寺に残った。

 老住職は何も言わず南人を傍に置いた。

 寺の手伝いをさせ、時折訪れる数少ない檀家には見習いだと説明した。寺の周りに住む人たちは皆親切で、随分若くて小綺麗な見習いさんだと、南人を受け入れてくれた。もの慣れない仕草も、なにか訳ありだと感じ取ったのか、誰も詳しく南人のことを訊こうとはしなかった。

 それが有り難かった。

 南人も次第に打ち解けていった。

 穏やかな暮らしだった。

 外の世界では色々と暗い影が立ち込めていたようだったが、ここはなにかに守られているように静かで、吹く風さえも甘かった。

 あの夜、老住職が南人に言ったことを、ふたりの間で持ち出すことはなかった。ただあれから、南人はあまり力を使わないようにした。やむを得ずに力を使っても、欠片を食べることはしなかった。

 人でありたいならば食え、と言われたように、老住職と同じものを食べた。思えば食べ物の味を覚えたのはこの頃のことだった。今までは力を使い、糧を得て、空腹を満たしていた。ここでは必要がなかった。

 記憶は実る稲穂のようにさざめいては、たまに山を越えてやってくる日置の面影を追っていた。



 南人が寺で暮らし始めてから三年ほどが過ぎた。

 その日、前触れもなくふらりと日置がやって来た。前に来てから半年ほど空いた訪れだった。しばらくぶりに見た日置は、一段と男らしくなっていた。出会ったころのまだ青年だった体つきは大人らしく変貌し、がっしりとして雰囲気も少し落ち着いた感じがした。

「おまえ、また借金取りか。今度はいくら借りた」

 本堂に上がる日置を見下ろして、うんざりした声で老住職は言った。

「まさか、もうそんなもんは卒業したよ」

「ほう…?じゃあ何の用だ」

「何って、南人の顔を見にだろ。ほら南人、土産だ」

 土に汚れた靴を脱ぎながら、傍に座っていた南人に、日置はぽんと小さな風呂敷包みを渡した。相変わらず日置は歩いて山を越えてくる。南人が受け取ると、顎をしゃくって開けろと促した。固い結び目に苦戦していると、日置が笑って、南人の手の上から自分の手を重ね、一緒に解いた。

「…本だ」

 出て来たのは一冊の本と、前にも貰ったことのある菓子だった。少し照れたように日置が言った。

「俺の本、ようやく出すことが出来たんだよ」

「すごいな、日置」

 声を上げた南人の後ろから首を出して、老住職がにやりと笑った。

「ほう、そりゃまたどこの酔狂が出した本だ?」

「俺だよ、俺の本っ」

「誰が読むんだかな」

 老住職と日置のやり取りに南人は笑った。本は薄く、紙質もざらついて上質とは言えなかったが、それでも日置の本だ。表紙に記された名前を手のひらで撫ぜた。その様子に日置が目を細めた。

「おまえに一番に知らせようと思って」

「うん、ありがとう」

 日置を見上げて、綻ぶように南人は笑った。

 夕暮れ時、少し散歩をしようと日置に言われて南人は寺を出た。

 赤く染まる空、夏がもうすぐ終わる。田のあぜ道を日置の背を見つめながら南人は歩いた。日置は明日には帰るという。一緒にいられる時間はもうわずかだ。

「もう秋だな」

 南人は頷いた。

「仕事、順調なのか?」

「ああ、今あちこちで書かせてもらってる」

「そうか、よかったな」

 稲穂の上を蜻蛉が飛んでいる。

「…なあ、南人」

 日置が立ち止まる。

「橘って知ってるか?」

 南人も立ち止まった。

「え…?あの、蜜柑みたいなのか?」

「そう」

 目を丸くする南人を日置が振り返った。

「その昔、橘の実は不老不死の力があると言われていた」

「そうなのか…?」

「食べれば姿が変わらないそうだ」

 風が吹いた。

「南人、俺と一緒に暮らさないか?」

「…え?」

「俺が橘の実を食べる」

 傾いた太陽が日置の目に差し込み、赤く光った。

 南人の心臓が早鐘を打つ。

 この三年、南人の姿はほとんど変わっていなかった。ほんの少し背が伸びただけ。

「…駄目だ」

「どうして?」

「おまえが、そんなことをする必要はない」

「俺が一緒にいたくても?」

「駄目だ」

 一歩、日置が南人に近づいた。

「好きなんだ、南人」

「…何、好きって…?」

 そんな感情を南人は知らない。

「ふたりでいたいってことだ」

 南人は首を振った。

「南人と一緒にいたいんだ。ずっと、一緒にいたい。傍に置きたい。おまえが人前に出たがらないのは、その姿が変わらないからだろ?だったら俺も同じになればいい」

「駄目だ…!」

 首を振って南人は後退りした。その腕を日置が掴んで引き寄せる。その苦し気に歪んだ顔に、南人は泣きたくなった。

「南人」

「おまえは──」

 橘の実を食べたところで、不老不死になどなれるわけがない。そんなのはお伽噺とぎばなしだ、戯言ざれごとだった。そんなことは分かり切っているのに、日置は南人と同じになると言う。

「おまえは何にも分かってない!」

 腕を振り払い南人は駆けだした。

 日置を同じ目に合わせるわけにはいかない。自分といることで日置がどれだけの苦痛を味わうのか、それは火を見るよりも明らかだった。

 日置の声が追いかけてきた。

 南人は背を向けて振り返らなかった。



 日置は朝を待たず、夜のうちに寺を出て行った。あれから布団にくるまって出てこない南人に、また来る、と言い残して行った。

 まどろみの中で南人はその声を聞いた。

 ふと雨音で目を覚ますと、夜中になっていた。

 激しく打ち付ける雨が、開けたままだった板戸の間から入ってくる。土間に跳ね返る雨粒。

 そうだ、日置は帰って行った。

 山道を歩いて──



 目の前には土に埋もれた道があった。

 三年前と同じだ。

 同じ場所で同じように土砂崩れが起きていた。

 闇の中で、南人は日置の名を呼んだ。激しい雨の音が南人の声を消してしまう。

 もう町に着いているならそれでいい。

 でも、もしも、そうじゃなかったら?

 夜の移動には時間がかかる。

「日置」

 あのとき、もしもあんなふうに言わなかったなら。

 もしも振り返っていたなら。

 一緒にいたいと素直に言えていたら。

 帰ると言ったときにその手を掴んでいたなら。

 その顔を見ていたら。

「ひおき…!」

 日置はまだ寺にいて、こんなことにはならなかった。

 雨避けのついた提灯の明かりが風に揺れた。頼りなげな丸い明かりの中に、赤茶けた土の中から突き出た腕がよぎった。

 日置だった。

 南人は夢中で土をかき、体を掘り起こして土の中から日置を引きずり出した。

 息が止まっていた。

「嘘…」

 雨が泥にまみれた日置の顔を洗っていく。頭の半分から血が流れていた。手を当て、力を使うが傷は閉じない。目を開けて欲しくて、南人は何度もその頬を擦った。まだ温もりが残っているのに、肌は蝋のように白い。

「日置、ひおきっ、ひおき、なあ…!日置っ!」

 雨が目に入り視界が滲んだ。やけに温かい雨が頬を伝って落ちていく。溢れて止まらない。

「ひおき、いやだ、やだ、いやだっ!」

 どうしてこうなったんだろう。

 どうして日置なんだろう。

「なあ、俺を置いてどこに行くんだよ…!俺がいるのに、おまえは死ぬのか?一緒にいるって、いたいって…」

 肩を揺さぶった。

 まだ何も言ってない、まだちゃんと、日置に何も言えていない。

 傍にいたいと言えばよかった。

「やだ、いやだ、…いやだ」

 死ぬな。

 死ぬな。目を開けて。

 神様、日置を連れて行かないで。

 どうか、俺から取り上げないでください。

「なんでもする、なんでもする、だから──」

 南人は力を解放した。

 手のひらに熱が集まり、ただそれだけを願って、日置の名前を叫んだ。


***


「…どうした?泥だらけじゃないか」

 朝靄の中をふらふらと戻ってきた南人に、老住職は訝し気に言った。

「あいつはどうだった」

 夜の雨の中を南人が出て行ったのを、気づいていたようだ。

 厳しい口調だが、その目は優しかった。

 いつでも南人のことを思ってくれている。

「…町に、帰りました」

 そうか、と老住職は言った。

「そろそろ朝飯にするか?」

 腹など空いていなかったが、こくりと南人は頷いた。

 支度をしに向かう少し曲がった背に、南人は声を掛けた。

柊丸とうがん様」

 柊丸とは老住職の名前だった。

「俺をまだ、ここに置いてくださいますか?」

 ちらりと老住職は振り返った。

「おまえには行くところなどないだろうに」

 視界が滲んだ。喉が詰まったように声が出なくなって、南人はただ頷いた。

 口の中に甘露の味が残っていた。



 南人の力で息を吹き返した日置は、前後の記憶を失くしていた。雨に打たれ泣き縋る南人を見て、首を傾げていた。

『どうした?寺に帰れよ、南人』

 俺も帰るから、と言った日置の目はもう違っていた。好きだと言ったあのときの熱情がもう見えなくなっていた。

 日置の中から、南人への気持ちだけが抜け落ちていた。

 優しい目だが、子犬を見るのと変わらない目だ。

『じゃあな』

 小雨になった雨の中を日置は南人を置いて、町へと歩き出した。

 なんでもすると言ったからだと、南人はその背を見つめて思った。

 ただ生きていてくれればいい、そう思ったから。

 生きてさえいてくれれば。

 それだけでいい。

 それだけで。

 もう日置に自分は必要ないのだ。

 南人は日置に背を向けて山道を引き返した。空っぽになった胸の中を風が吹いた。

 そしてそれきり、日置は姿を見せなくなった。


 それから一年が過ぎたころ、日置から近々結婚するという知らせが届いた。胸の奥が軋んだように痛んだが、気づかぬふりをした。おめでとうと葉書に書いて送った。日置の幸せを願った。春のことだった。

 だがその年の暮れに日置は病で死んだ。

 自宅で突然に倒れたのだと、日置の婚約者の三津みつが教えてくれた。ふたりは籍を入れる直前だった。

 骨壺を抱え、寺にやって来た三津は美しく、優しい人だった。

 老住職がどこか南人に似ていると言ったのは、気のせいに違いない。

 三津はその晩、寺に一番近い家に泊まった。大きな家に今は年老いた老婆がひとりいるきりの家だ。久しぶりの客に、老婆は快く迎え入れてくれた。

 本堂にぽつんと置かれた骨壺を、南人は抱き締めた。

 日置は頭の血管が切れて死んだと三津は言った。

『どうやら前に怪我をしていたようで、それが原因ではないかとお医者様が…』

 それはあのときの怪我だ。

 声もなく涙が出た。

 生きてほしいと願った、けれど、こんなはずじゃなかった。

 期限付きの命。死ぬのを少し遅らせただけ。

 日置を苦しませただけ。

 あのとき何もしなければ。

 あのまま。

 あのままで──

「……」

 幸せを願ったはずだったのに。

「こんなことなら、本当に橘を食べさせればよかったな…」

 不老不死の実を。

 ──好きだ、南人

「日置…」

 溢れ出る涙を南人は拭いもせずに、夜を明かした。


 三津は日置の子を身籠っていた。

 無理をしていたのか体調も良くなかったので、子を産むまで、三津はそのまま老婆の家にいることとなった。彼女には身寄りがなかった。

 三津の体調が少し戻ったころ、南人は三津を訪ねた。三津に、子供が生まれたら、その子の父親になりたいと申し出た。

 一年前──日置が姿を見せなくなってから、南人は老住職の養子になっていた。老住職はあれでいてあちこちに顔が広く、素性の知れない南人を、難なく自分の子として届け出てしまった。今は南人の名は、谷辻やつじ南人だ。

 女性がひとりで子供を産み育てることは困難な時代だった。書類上の名目だけでも、父親がいれば助かることもある。

「いいんでしょうか…、そんな」

 目を瞠る三津に、南人は言った。

「ただし一緒には住めません。俺は…俺のことは、全部、日置から聞いているのではないですか?」

「…はい、聞いています」

 そう言って南人を見る三津の目に恐れはなかった。

 まもなく南人は寺の横で治療院を開き、生計を立てることにした。幸い薬や薬草、漢方の知識はあった。遠い昔、一緒に住んでいた薬師の男に、今さらながらに感謝をした。病院のない山間で、治療院は重宝された。稼いだ金で三津を援助した。

 やがて女の子が生まれた。

 名前をようと付けた。

 老住職のつてで仕事を得た三津は町に戻り、時折南人のところに蓉を連れて遊びに来た。だがやがて、いつ会っても姿を変えない南人を、蓉は不思議がるようになった。その目の中には小さな恐れが生まれていた。

 南人は三津にもう来るなと言った。

 三津は哀し気に微笑んで分かったと頷いた。

 鏡に映る自分の姿は、日置を生き返らせた時から変わっていない。あのときから、南人の時間は止まったままだった。

 何年か経ち、老住職が病で死んだ。死ぬ間際に、南人に、この人のところに行くようにと言い、小さな紙片を握らせた。

 渡された紙切れには佐原さはら、と名前があり、山向こうの住所が記されていた。

「おまえにはまだ居場所がある。ここがおまえの終の棲家になればいいと、祈っているよ、南人」

 明け方、南人の手を握りしめたまま老住職は静かに息を引き取った。皺だらけの細い皮と骨ばかりの手に、南人は頬を寄せた。

 弔いを済ませると、三津に手紙を書き、南人は寺を後にした。

 出発は夜だった。誰にも行方を言わなかった。

 満月の明かりが足下を照らしていた。


 その佐原という人は広大な森の中に住むひとり暮らしの老人だった。金はあるが天涯孤独で、老住職とどこか雰囲気がよく似ていた。

 迎えに出て来た顔を見て、いつかどこかで見たことのある人だと、ふと思った。

「ようやく会えたね、南人くん」

「俺を、知っていますか?」

 佐原は訝し気に言う南人に微笑んだ。

「ずっときみを捜していました。私はきみに命を救われた。きみには取るに足らないことかもしれないが…覚えてないかな、山道のがけ崩れ、あれは暑い夏の日だった」

 暑い夏の日、山道のがけ崩れ…

「あ──」

「思い出したかい?」

 日置と出会った日に助けた、あの──

「あれからずっと私は助けてくれた人を捜していた。一緒にいた者からきみの特徴を聞き、捜させたんだ。そのうち噂にきみのことを知って、柊丸住職に手紙を書いた。きみのことは、その力のことも、何もかも柊丸住職から聞いているよ。自分に何かあったら、きみをよろしく頼むと言われていた」

 立ち尽くす南人の手を取って佐原は言った。

「これからはここがきみの家だよ」

 老住職と佐原は随分前から手紙のやり取りをしていたらしく、南人の事情の何もかもを佐原は承知していた。驚いたことに、その時点で、南人はすでに佐原の養子になっていた。自分の死期を悟った老住職が、南人には言わずにさっさと佐原と示し合わせ、手続きをしていたようだった。

 手際の良さに南人は感心する。

 自分はいつもなにかに守られている。

 何にだろう。

 それは一体なんだ?

 煉瓦積みの家は居心地がよく、南人はすぐにそこになじんでいった。外に出たがらない南人のために、佐原は庭に温室や日本家屋の離れを作り、南人の好きにさせた。佐原のつてだけで人を繋ぎ、治療も再開した。三津への援助もそれで続けた。

 時が過ぎ、蓉が結婚した。祝いの言葉を葉書に書いて送った。しばらくして女の子が生まれたと三津から知らせが届いた。

 外の世界は暗く暗澹としていた時代だ。

 多くの人が死に、いくつもの破壊が繰り返されていた。

 だがここはそんなものとは無縁だった。

 穏やかに時が過ぎていく。

 情勢が不安定になり、闇に呑まれたころ、三津と蓉とその子供を、佐原の家に呼んだ。佐原は賑やかになったと喜んだ。

 南人は離れに籠り、決して彼女たちの前に姿を現さなかった。

 時々、夜中に、障子の向こうに立つ蓉の気配を感じた。

 蓉はいつも何も言わずただそこにいた。そして静かな足音で母屋へと帰って行った。

 暗い泥の中でもがくような時代は終わり、三津たちは佐原の家を後にした。静かになった家の中で、佐原と南人だけが残される。

「ずっと、いて欲しかったですか?」

 そのころ寝たきりになっていた佐原のベッドの傍で、南人は聞いてみた。賑やかだった彼女たちの笑い声が今も家のあちこちから聞こえてくる気がする。いいや、と佐原は言った。

「きみがいてくれるだけで充分だよ」

 佐原は穏やかに笑い、その半年後に息を引き取った。

 後を追うように、一か月後、三津が死んだと知らせを受けた。

 病死だった。

 蓉から届いた手紙の中に、いつか送ったはずの紙幣が丁寧に紙に包まれて入っていた。少額だったが、南人が稼いで三津に送ったものだった。

 添えられた便箋には、もう送らないで欲しいと一言だけ書かれていた。あとには南人に宛てた三津の手紙、それだけだった。

 三津の手紙にはこう書かれていた。

  

  わたしは貴方が大事でした。

  なによりも貴方が大事だった。

  寂しがりやな貴方を置いていくことが

  心残りで仕方がありません。

  日置が願ったように、

  わたしも貴方の幸せを

  願ってもいいでしょうか。

  いつか貴方のもとに、

  橘の実を持った人が現れますように。

  貴方のそばにいてくれますように。

                 三津



 優しい人だった。

 蓉の子供の名前さえ聞きたがらなかった南人に、困ったように笑うばかりで──一度も、一度だって、南人を詰ったりはしなかった。

 誰もいない庭で、南人は火をおこし、焚き火を作った。ゆらゆらと揺れる火を見つめ、送り返された紙幣を火にくべた。蓉の手紙も燃やし、封筒も投げ入れた。

 もう誰もいない。

 誰も、皆、老いて死んでいく。自分だけが取り残される。

 三津の手紙を握りしめた。それに顔をうずめて、声を上げて南人は泣いた。


***


 満月の夜に橘花が南人の前に姿を見せたのは、それから数年後のことだった──

 記憶の蓋が閉じていく。

「南人、大丈夫か?」

「…え?」

 目を上げると、衿久が南人を心配そうに覗きこんでいた。

「びっくりした、急に様子が変になったから」

 ほっとしたように衿久が微笑んだ。

 込み上げる涙を必死で堪えた。

 南人は、今いる場所に戻っていた。

 今生きている場所へと。

 その日の夕方、衿久の祖母は亡くなった。

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