6
スタンドライトの明かりの下でページを捲る音が、部屋に響いている。
深夜、衿久は学校から借りてきた資料を、自分の部屋の机の上に広げていた。
塾をやめたときからぼんやりと考えていたことを、文字を追ってまとめていこうとする。頭の中で形にしようと捏ね回してみる。
「……」
長い時間同じ場所を見ていたせいで、視界が揺れていた。
小さくため息をつくと衿久は資料を閉じて明かりを消した。
ベッドにうつ伏せに寝転がる。目を閉じると、じんと痺れた目の奥から幕が下りるように、眠りはすぐにやってきた。
いつものように、放課後になると南人のところへと衿久は向かった。途中で寄るパン屋の青年にはすっかり顔を覚えられてしまい、今では互いに名前を呼び合うまでになっていた。
南人と知り合った日からやがて1ヶ月になる。
季節は冬になっていた。
「いらっしゃーい」
店のガラス戸を開けた衿久に気づいたALTOの青年がレジの中から言った。会計を済ませた女性客に袋を渡し、またどうぞと笑いかけている。衿久は店を出るその人に道を開け、すれ違うように店に入った。
「早かったね、今日は何にする?」
青年──
「なんか、町田くん背伸びた?」
「え?ああ」
ここ最近、またぶり返してきた成長痛に悩まされていた衿久は頷いた。
「そうかも。膝痛いし」
「へえーいいなあ、まだ伸びるんだ。僕もう伸びないよ?」
羨ましがる北浦は衿久の肩を少し越えるくらいの身長だった。衿久が今185に届くかというところなので、160後半ぐらいだろうか。
衿久は苦笑して言った。
「んー、でもあんまりでかいのも面倒すよ?」
実際家の中ではかなりの圧迫感があるようで、母親からはなんでそんなに大きくなったのかしらねと首を傾げられている。両親ともに高身長ではないので、今では父親を見下ろすようになっていた。青衣には大いに喜ばれてはいるが。それもまあ、肩車をしてやるときに限定される。あとは…高いところにあるものを取るときに家族から重宝されるくらいだ。
「えーそんなもん?」
「そんなもんだって」
頼んだサンドイッチを作ってもらう間、北浦と他愛もない話をした。店は繁盛しているのかいないのか、いつもこの時間は人の出入りが少なかった。今日も出来上がるまで、店の中には衿久しかいなかった。
「はーいお待ちどうさま」
どうも、と受け取って衿久は財布を出した。
「890円ね」
毎日やって来る衿久を最初は不思議がっていた北浦も、今ではこれは衿久のバイトのようなものだと知っていた。もののはずみというか──何かの話の折に、衿久がかいつまんだ事情を話したからだった。
そうだ、と衿久は言った。
「こないだの、美味しかったみたいだよ」
よかったら試食してくれと貰ったパンの試作品を、南人が美味しそうに食べていたのを衿久は思い出した。
「え、ほんと?」
「うん、半分ずつにしたのに俺の分も食べてたからさ」
「ははっ」
じゃあまた作ってあげるよという北浦に礼を言って、衿久は店を後にした。
勝手口を開けると、珍しく南人はリビングのソファにいた。
いつもよりも早い時間に訪れた衿久に、ふと胡乱な目を向けてきた。
「早くないか?」
手慣れた仕草で重厚ないささか広すぎる食卓の上に荷物を置きながら、衿久は肩を竦めた。
「今日は授業が少ねえの。昨日言っただろ?」
「昨日?」
南人が聞いてないという顔をしたのに衿久は苦笑した。
「まあいいけど。な、まだ食わねえよな?」
時刻はまだ16時を過ぎたばかりだ。夕食にするには早すぎる時間だった。ああ、と南人が頷くのを聞いて、衿久は買ってきたものを冷蔵庫に入れ、鞄の中から教科書とノートやら必要なものを食卓の上に取り出した。
南人は何か言いたそうに見ていたが、衿久は気づかないふりをした。
足下に擦り寄る感触に見ると、いつのまにかえくぼが傍に来ていた。その体をひとしきり撫で回してからふたり分のお茶を淹れた。この家にコーヒーは置いていないので、いつでも紅茶だった。未開封の紅茶の缶が戸棚にはぎっしりと詰め込まれていたからだ。おかげで紅茶を淹れる腕も上がった。
はい、とソファにいる南人に手渡した。
「じゃ、俺は勉強するから」
衿久は、これまた重厚な年代物の食卓の椅子を引いて座った。重すぎて床をギッと音を立てて擦る。
その音に、呆れたように南人がため息をついた。
「好きにしろ」
と投げやりに言った。
毎日通ううちに衿久は南人の家で勉強をするようになった。芦屋と週に3度は通っていた図書館も、今では週1回がやっとというところだった。期末試験も近づいた最近は芦屋も塾の回数や授業を増やしたようで、以前のように一緒に帰ることも少なくなっていた。
皆それぞれに忙しさを増し、受験へと加速して進んでいく。期末が終われば大きな試験がいくつも控えていた。当たり前のように大学へと進学する道を、周りの誰もが疑いもせずに歩いて行く。前だけを向いて。
ノートの上でペンが滑る。
書きだした数学の方程式は、暗号のようだ。
衿久は先週、受験する大学の願書を取り寄せる手配をした。けれどそれは当初予定していた大学とは違うところだった。衿久の成績からすれば何の問題もなく、受験先を変える必要などはなかったのだが──
両親にはまだ話せていない。
いつ話をすべきかと迷っている。自分の決断に両親はなんと言うだろう。それもいいねと、笑って言ってくれるだろうか。
それとも…
「……」
絡まりだした思考に、衿久はペンを置いた。
一息つこうと立ち上がった。冷蔵庫から水を取り出してグラスに注ぎ飲んだ。
気がつけばもう18時近い。南人はソファにはおらず、奥の部屋からかすかに動く気配がしていた。
仕事中か。
衿久は食卓に広げた参考書の上で丸くなったえくぼを撫でた。
「そろそろ夕飯にするか?」
えくぼがにゃあと鳴き。尻尾をぱたりと揺らした。買っておいた猫缶を開け、皿の上に出して水と一緒に床の上に置いてやると、えくぼはするりと降りて来て、食べ始めた。
「…──、…」
南人の話す声がした。
きっと予約の電話だろうと衿久は思った。
ここに通い始めてから1ヶ月の間、何度か南人が仕事の電話を受けるのを衿久は見たことがあった。そんなときは、南人はいつものぞんざいな口調をやめ、丁寧に電話の相手に向かって話しをするのだった。
今もそうだ。
「…はい、では明日、午後ですね?はい、16時」
薄く開いた扉から、南人がこちらに背を向けて話しているのが見える。立ったままメモを取りながら、肩に受話器を挟み小さなライティングデスクの上でメモを取っていた。ものを書くとき南人は左利きだった。
白い紙片に走る青いインク。
戸口に立つ衿久に南人が気づいた。
「ええ、大丈夫です…」
言いながら衿久をじっと見つめる目は、どこか衿久を透かして遠くを見ているようだ。
じわりと、衿久の胸に何かが滲んだ気がした。
「それでは」
南人は受話器を置いた。「──何だ?」
夕闇に染まる部屋の中で、一瞬南人の目が揺れた。
「衿久?」
はっと、それに見惚れていた衿久は我に返った。
「あ──、えと、──メシ?」
ああ、と南人が言った。
「もうそんな時間か」
ため息を落として首を揉み、南人は衿久の横をすり抜けた。細い首元、決して低くはない身長なのに、その体の薄さのせいで衿久の体にすっぽりと隠してしまえそうだった。
けれど、それよりも。
「なあ、今──俺の名前呼んだ?」
出会った頃よりは幾分顔色が良くなっている横顔に衿久は言った。いつもおまえとしか呼ばれたことがなかったのに。
今、衿久と、南人は言った。
怪訝な目で南人は振り返った。
「呼んだけど、…それが何だ?」
自覚がなかったのか、言われて気づいたのか、その顰めた目元が照れているようにも見えて、衿久はにやつきそうになる口元を必死で我慢した。
「いや、別に」
そう言いながら、衿久は内心ひどく嬉しかった。
手負いの獣が一歩近づいてきたみたいだ。
なんだこれ。
なんだろう、これ。
「なんだおまえ…」
変な奴、と言い捨ててさっさと食卓に向かう南人の背中を、衿久は浮足立つような気持ちで追いかけた。
***
翌日、衿久は担任から呼び止められていた。
「まちだー、須藤先生がお呼びだぞー」
通りかかった職員室前で、これ幸いとばかりに担任が中から声を掛けてきた。
「なんすか先生」
一緒にいたクラスメイトに先に行くように促して、衿久は職員室の戸口から中を覗き込んだ。上の戸枠に腕を引っかけている衿久を、小柄な担任が感心したように見上げてくる。
「おー、成長期だなあ町田」
「まだ伸びてるみたいっすよ」
「俺にも分けてくれよ」
「あげられるもんならね」
担任は定年を目前にしたベテラン教師だった。小柄で少し突き出た腹が、温和な顔と相まってまるでぬいぐるみのようだと一部の女子に人気だ。
この学校は進学校のくせに、この時期になってもあまり緊張感を持たない教師が多かった。校風と言われればそれまでだが、おかげで生徒のほうも皆、比較的平和な学校生活を送っている。
そんなことでいいのかと思うが、成績を競い合い、互いを貶めるように殺伐とするよりはよほど居心地がいい。
「町田、こっち」
奥の窓際のデスクから顔を出して須藤が呼んでいた。衿久は担任に軽く頭を下げて須藤のところに行った。
「なんすか先生」
「なんすかじゃないだろうが、ほれ」
苦笑した須藤がデスクの上に積まれた書類の中から、大判の封筒を引き抜いて衿久に差し出した。
「おまえが希望してた大学の願書」
「え?」
希望してた?
「今の希望のはもうすぐ届くけどな、まだ時間はあるから、もう一度考えてみたらどうだ?」
「あー…うん」
一度決めたことだ。余計なお世話だと須藤には分かっているのだろう。それでも、土壇場で志望先を変えた衿久を気にかけてくれているのだと分かった。
「おまえの成績なら十分受かる所だよ」
問題はそこではないのだが、しかし、そのことは須藤に言っていないのでそう思われているのは仕方のないことだった。
「ちょっと、考えます」
「うん」
慎重に答えた衿久に、須藤はそう言って頷いていた。
7時限目の授業が終わる間際、衿久の携帯が震えた。
そっと取り出して通知を確認すると母親からだった。
じゃあ今日はここまで、と言う教師の声にチャイムが重なり授業は終わった。教室内が話声で沸き立つ中、携帯を取り出して母親のメッセージを読んだ。予想通り、青衣の迎えを頼むものだった。
素早く返事を返す。
「あれ、どこ行くの」
声を掛けてきたクラスメイトの山ノ
渡り廊下の端で携帯に入れていた番号にかける。何かあったときのためにと聞きだしておいた番号だった。
時計は16時前を差していた。今ならまだ大丈夫だろう。
『はい』
数回の呼び出し音の後に聞こえてきた南人の声に、ほっとした気持ちで衿久は言った。
「南人?俺だけど」
『何の用だ』
予約客を相手にする時とはまるで違う言い草に、衿久は笑った。
「なにその言い方…まあいいけど。あのさ俺、今日遅くなりそうなんだ」
『遅くなりそう?』
「妹迎えに行かないとまずくて、…あ、まだ幼稚園だからさ。それで親が帰ってくるまで家出れねえから、行けるの遅くなると思う」
『……』
黙り込んだ南人が、ふっと息を吐いた。
『今日はいい』
「え?」
『今日は来なくていいと言ったんだ』
抑揚のない声の奥の方から、かすかに人の気配がした。南人ではない誰か。
時刻は16時になっていた。
予約の相手だと衿久は思った。
「でも今日──」
『要らない』
衿久の声を南人が撥ねつけた。
『家で幼児のお
それだけ言って電話は切れた。
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