7


「おかえり」

 母親が帰って来たとき、衿久は青衣を風呂から上げたところだった。

「うわ、ごめんねー遅くなって」

 風呂場を覗き込んできた母親に、バスタオルにくるまれたままの青衣がぎゅっと抱きついた。

「おかーさんおかえりー」

「ただいま、お兄ちゃんに入れてもらったんだー。よかったねえ、青衣」

「うん!おにーちゃんはねー見てるだけなんだよー」

「はは、そっかあ」

 パーカーの袖を腕まくりしてドライヤーを手にした息子に、母親はごめん、と目で訴えていた。

「飯、スーパーで適当に買ってきてっけど?」

「ありがとー!さすがは私の息子」

 上着を脱いだだけの服の上からエプロンをつけ、母親は食事の準備を始めた。父親は今日も帰りが遅くなると連絡があったばかりだった。

「さあご飯食べよう、明日はお母さん、ちゃんと作るからねー」

 明日は土曜日だ。わーいとリビングを下着姿で駆け回る青衣を衿久は手を広げて掴まえた。

「ほーら、じっとしてろって」

 四苦八苦しながら子供特有の柔らかな髪にドライヤーをかけ終える。青衣はずっと大きな声で歌を歌っていた。

「よし、終わり」

「やったー、ごはんー!」

 ダイニングの椅子に青衣が飛び乗る。

 衿久も座り、ようやく三人で夕飯を食べ始めた。

 


 食事の最中に舟をこぎ始めた青衣を、衿久はソファに寝かせた。汚れた皿を下げ、洗い物をこなす母親の横で食器を拭いてしまっていく。衿久にとって、母親を手伝うのは日常の一部だ。

「衿久、おばあちゃんね、あんまりよくなかったわ」

 青衣が寝ているのを確かめながら母親は言った。

 入院している祖母は2週間ほど前から意識を失い、昏睡状態に陥っていた。今すぐにどうというわけでもないと医者は言い、容態は安定していたが、言い返せば、いつどうなってもおかしくはないということなのだった。

 今日、母親の帰りが遅くなったのは、祖母の入院する病院に行っていたからだ。

「そっか…」

「青衣には内緒ね」

「ん」

 衿久は頷いた。

 あ、と母親は言った。

「今日、佐倉さんのところは大丈夫だった?」

 えくぼは?と聞かれて、衿久はとっさに曖昧な返事をした。

「あー、うん、買い置きもしてるし」

「そうなの?」

「あー、多分、大丈夫…」

 要らない、と冷たく言い放たれた言葉がよみがえる。小さな棘のように、それは衿久の胸に刺さったままだ。

 この1ヶ月、何度か行けないことはあった。だが、あんなふうに言われたことは一度もなかった。

 南人の口調は乱暴だが冷たくはない。いつも…

 いつも──

「衿久、先にお風呂入んなさいよー」

 片付けを終えた母親がエプロンを外し、テーブルを拭いていた。

「お母さん、洗濯とかするから…」

 テーブルの上にはまだ帰らない父親の分のおかずがラップに包れて置かれていた。冷えた夕飯。ふと、南人の顔が浮かんだ。

「……」

 南人は、食事をしたんだろうか。

 何か食べただろうか。

 今日は予約があった。

 仕事だった。

 仕事の後はいつも──

「──」

 どくん、と衿久の鼓動が跳ねた。

 あいつまさか、倒れてたりしないよな?

 まさか──

「…母さん」

 考えるよりも先に言葉が出ていた。

「え?」

 振り返った母親に、衿久は言った。

「俺ちょっと、出てくるわ」

 はあ?と母親が声を上げた。

「出てくるって、なに──衿久?」

 驚いている母親の横をすり抜け、ダッと2階に駆け上がり、上着と財布と携帯を掴んで駆け戻った。階段の下では母親が目を丸くして衿久を見上げている。

「ちょっと、どこ行くの」

 スニーカーに足を突っ込みながら衿久は母親を見た。

「みな…佐原さんとこ」

「今から?もう遅いわよ、明日にしたら?」

「いや…、あのさ、あの人」

 速くなる呼吸を落ち着かせようと、衿久は深呼吸した。

「昨日具合悪かったんだ」

 え、そうなの?と母親が言った。

「本人は平気とか言うけど…」

「佐原さんて、ひとり暮らし?」心配そうな顔を衿久に向ける。

「うん、だからちょっと、心配だから様子見てくる」

 えくぼの様子も見たいし、と付け加える。

 出まかせを言ったことに心が痛んだが、それよりも衿久は南人のところに行きたかった。

 嘘をついても、今すぐに。

 母親はそうね、と頷いた。

「気をつけて行きなさいよ。あ、待って、それなら途中で何か買って行かなきゃ──」

 母親はそう言ってリビングに取って返した。

「母さん」

「いいから持ってって」

 掴んできた紙幣を衿久に渡し握らせた。玄関の外まで息子を見送ろうとするのを、衿久は大丈夫と言って手を振った。

「じゃあ行くわ」

 なにかあったら連絡すると母親に約束して、衿久は自転車で夜の道を走り出した。


***

 

 闇の中に衿久は呼び掛けた。

「えくぼ…?」

 光る眼が、衿久に応えるようににゃあと鳴いた。

 えくぼは玄関の扉の前に背筋をピンと伸ばして座っていた。

「なんでおまえ…」

 こんなところに。

 にゃあ、とひと鳴きしてえくぼは身を翻し、裏のほうへ続く茂みの中へと入っていった。衿久は散策路から押してきた自転車を玄関の脇に停め、ハンドルに引っ掛けていた買い物袋を手にえくぼの後を追った。

 えくぼが外に出ていたということは、勝手口が開いているのかもしれない。

 それとも南人が開けたんだろうか。

 月のない夜だった。家に明かりはなく──大体この家にはあまり窓がない──周囲は森だ。闇が衿久の体をすっぽりと覆っている。衿久は暗闇の中を通り慣れた勘だけを頼りに前に進んだ。

「えくぼ?」

 だんだんと目も慣れてきた。温室の前に出ると、前を行くえくぼの茶色い尻尾が見えた。ぴんと尾を立て、衿久を振り返ってから、また先へと歩いて行く。左手を煉瓦の壁についてそれを確かめながら、衿久は歩いた。家の角に手が触れた。左に折れれば、すぐに勝手口だ。大きく開いている扉が見えた。

 たっ、とそこからえくぼが中に消えた。

 衿久も中に入った。壁を探り、スイッチを押して明かりを点けると、ほっと息を吐いた。

「南人?」

 呼びかけに返事はなかった。

 キッチンの壁から突き出た古いウォールランプが、スポットライトのように足下だけを照らしている。この家の照明はどれも古めかしく、橙色の電球の明かりが精いっぱい伸びてもリビングに濃い影を落とすのがやっとだった。

 ぼんやりと陰影に浮かぶソファに南人はいない。

 食卓の上に衿久は荷物を置いた。

「…南人?」

 嫌な予感がうなじのあたりに貼りついていた。

 足を踏み出すとぎっと床が軋んだ。

 家のどこかでえくぼが鳴いている。

 奥だ。

 衿久は仕事部屋に向かった。

 リビングを足早に横切ると、冷えて溜まった空気が動くのが分かった。

 家の中は外よりも寒かった。

 部屋の扉は開いていた。

 その隙間から、床の上に投げ出された足先が見えた。

「──」

 南人は床の上にうつ伏せに倒れていた。まっすぐに伸びた右手がベッドカバーを掴んでいる。カバーは南人が引いたのか、半分ずり落ちて横を向いた南人の頭を半分覆っていた。

 ライティングデスクの上でえくぼが鳴いた。

 衿久は勢いよく中に入ると南人の肩を揺さぶった。

「南人、おいっ、みなと!」

 呼びかけながら、その体を反転させて衿久は南人を抱き起した。その動きに南人の指先に引っかかっていたベッドカバーが引きずられ、ついにすべてが床の上に落ちてきた。衿久は指からそれを外した。患者が帰った後、ベッドで眠ろうとでもしたのか。でも、その前に倒れた?

 抱え込んだ衿久の腕の中で、南人はぐったりと意識を失っていた。

「南人──南人?」

 暗がりでもはっきりと分かる青白い頬を、衿久は軽く手の甲で叩いた。

 固く閉じられた瞼。

 薄く開いた唇。

 静かな呼吸。

 南人は、ただ眠っているように見えた。

 いつものように。衿久が知っている、患者に力を使った後と同じだ。

 でも…

 衿久の中で、いつもと同じだという思いが次第に色を変えていった。

「…南人?しっかりしろよ、なあ、起きろって。…南人?」

 衿久は動揺していた。

 いつもなら──ここまで呼びかけなくとも、すぐに目を開けるはずだ。

「みなとっ」

 呼ぶ声に焦りが滲み始める。

 冷え切った部屋の中で、じわりと衿久の額に汗が浮かんだ。ぐいと腕で拭って、ふと、気がついた。

「……」

 南人は左手に何かを握りしめていた。指の隙間から見えたのは、前に何度か見た透明な欠片だった。けれど今日のは今までのものよりもずっと大きかった。

 どの欠片よりも──

 この欠片は一体なんだろう?

 なぜいつも南人は仕事の後、これを手の中に持っているのだろう。

 眠りながら握りしめて離さない。

 嫌な考えが衿久の中にぼんやりと浮かんだ。

 南人の力は人の痛みを失くすことだ。でも、だったら、──失くした痛みは一体どこに行くのだ?

 まさか。

 ぴくり、と南人の指が動いた。

「南人──」

 呼びかけると南人の唇が震えた。ひゅっと小さく喉が鳴り、息を吸い込むと、掠れた声がした。

「……て」

「え?」

 指が衿久の上着の袖に縋る。

「…て…、…た」

 震える瞼がわずかに開き、その下の南人の瞳が衿久を見ていた。

「たべ…」

 衿久は耳を寄せた。

 ──食べさせて

 南人はそう言った。

 目の淵から溢れた涙がこめかみを伝う。

 南人の左手が欠片を掴んだまま衿久の手を探り、欠片を衿久に握らせようとする。

「これ──」

 衿久が受け取ると、南人の手が力を失くしてぱたりと胸の上に落ちた。

 衿久は困惑した。

 欠片は南人がずっと握りしめていたにもかかわらず、ひどく冷たかったのだ。

「南人、これ、…」

 これを食べさせるのか?

 これを?

 これは何だ?

 瞼は再び閉じていた。衿久は息を呑んだ。血の気の引いた唇に、言われたようにそっと欠片を押し当てた。

「南人…ほら、これでいいか?南人、合ってる?」

 だが問いかけても唇はなぜか開かなかった。意識が朦朧としているのか、南人はむずかるように首を振り、嫌がった。

「南人、これなんだろ?」

 いやだ、と掠れた声で南人が言った。衿久は床に落ちたベッドカバーの上に南人を寝かせた。ゆるく振り続けるその頬を両手で包んだ。

「南人、みなと、食べるって言っただろ?」

 これじゃないのか、と衿久は言った。

「…だ、っ、いや…」

 閉じたままの目から涙が溢れてくる。目尻を落ちて首筋が濡れる。衿久は親指の腹でとめどないそれを拭った。

 南人、と呼ぶと、ふっと開いた瞼の下から、溶けだしそうな南人の目が現れた。零れ落ちそうな涙の膜に自分が映っていた。

「食べ、…たべたら、もう…」

「…もう?…なに?」

 うわ言のように言うその先を衿久は促した。

 南人の顔を手で包んだまま覗き込むと、嗚咽がこぼれ、南人の顔がくしゃりと歪んだ。

「…も、っ、おれ、戻れない…っ、もう…」

 戻れない?

「いやだ…、いや…い、食べるのはいや…っ」

「南人…」

 涙がぼろぼろと溢れ出した。

 何に戻れない?

 一体何のことだ。

 南人の言葉は衿久には理解できないことばかりだ、だがそれはきっと南人の力に関係していることだ。

 この欠片が何なのか知らない。でも。

 今はどうでもいいことだ。

 衿久は南人の飢えを満たしてやりたかった。

 食べられないものを欲するほどのその欲を。

 南人、と衿久は言った。南人は自分の頬にある衿久の指を首を捩って噛もうとしていた。

 何かを食べようとしているのか。涙で赤く腫れた目を衿久は拭った。

 南人、ともう一度呼びかける。

「だったら食べなくていい、…いいから、腹が空いてるなら俺が…」

 衿久は欠片を投げ捨てた。カン、と床に跳ね返った欠片が部屋の隅に飛んだ。勢いよく転がっていったそれを、えくぼが素早く追った。

「そんなもん──」

 こんな部屋にいてはだめだ。

 ここはだめだ。

 理由の分からない憤りが衿久の中から湧き上がっていた。

 南人が衿久の指を噛んだ。鋭い犬歯が皮膚に突き刺さる。痛みを堪えて衿久は言った。

「…死ぬほど食わせてやるよ」

 南人を横抱きに抱え上げると、その闇の中から連れ出した。



 

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