5

 

 2時限目の授業が終わり、短い休憩時間の合間に衿久は資料室に行った。

「──あれ、先生」

 扉を開けた資料室の中には、見知った教師が棚の前に立っていた。

 去年担任だった数学教師の須藤だ。今年は進路指導員だった。

「おー町田、何?資料ならもっと時間のある時に見ろよ」

 須藤は40代後半、鷹揚な性格で頭ごなしに生徒を叱ることをしない人だ。きわどい冗談も通じるので生徒には人気がある。衿久も担任だった1年間、この教師が声を荒げているところを見たことがない。

 ただし、授業はひたすらに厳しかった。

「ん、ちょっと、時間潰しー」

 背中合わせに棚を見上げると、後ろで須藤が笑った。

「もうチャイム鳴るぞ」

「先生はなんで?何してんの?」

 言いながら、衿久は棚に並べられた資料のラベルに指を這わせ横になぞっていった。

「俺は進路指導の準備」

 これじゃない、これでもない、これでも…

 ──あった。

 一番端に目当てのものを見つけて、衿久はそれを抜き取った。

「ふーん」

「興味ないんだろうが」

 笑い声まじりに須藤が言った。

「そうそう」

 衿久も笑って適当に相槌を打つと、ちょうどチャイムが鳴り始めた。休憩時間は終わりだ。

「ほら、早く行け」

「あーもー、わーかったって!」

 須藤に追い立てられながら貸出名簿に名前を殴り書きして、衿久は教室に戻った。

 終礼後、衿久が携帯を確認していると、帰り支度を済ませた芦屋がその手元を覗き込んできた。

「何?またお迎え?」

 帰ろうとするクラスメイト達でごった返す教室の中、衿久は、いや、と芦屋に首を振った。

「今日は大丈夫そうだわ」

「そっか」よかったな、と芦屋が続けた。「じゃどっか寄って帰らねえ?俺18時までは暇なんだわ」

 芦屋はいつも家には帰らずに、学校終わりに適当に時間を潰してから塾に行っている。

 携帯の時計を確認すると15時半を過ぎていた。いつもより少しだけ早い。今日は水曜日なので、6時限授業だった。

「あー…じゃあ17時までな」

 頭の中で逆算して衿久は答えた。

 青衣の迎えには行かなくてよかったが、衿久には別に寄るべきところがあった。

「了解」

「んじゃ行くか」

「なんか腹減ったなあ」

 どこに寄るかと話しながら、ふたりして教室を出た。


***

 

 日曜日の帰宅後、衿久は結局母親にだけ猫の話をした。

 なんとなく予想はしていたが、母親はひどく残念そうな顔をした。

「そうねえ、こういう状況じゃなかったらすぐ連れて来てもいいって言うんだけど…」

 もう少し落ち着くまで待って、と母親は言った。

 キッチンで洗い物をする母親の横で手伝いながら、衿久は肩を竦めた。

「いいよ、分かってるって」

「ごめん衿久あ…」

 と泣きそうな顔をしている母親がおかしい。

「お母さんも早くその子に会いたいよお」

「なんだよ、子供か」

 衿久が笑うと、わざと泣き笑いの表情を作って母親が泣き真似をした。母親は小さな頃から犬や猫を飼っていたと聞いていたので、言っていることは本音に近いのだろう。

「…でさ、その人が預かってくれてるから、引き取りたいときにいつでも連れて帰ればいいって言うし」

 ふうん、と母親は言った。

「…あの森の中にねえ。話は聞いたことあったけど、ホントにあったんだ」

 南人のことを話すと、しきりに母親は首を傾げつつも頷いていた。もちろん、あの治療法については誤魔化している。

 小さな診療所ということにしておいた。南人はそこの医者だ。あながち間違いではない。

「じゃあその方によろしく言っておいてね?あ、餌代とか、お渡ししといたほうがいいよね?」

 いずれはうちで引き取るんだからと言った母親に、いいよと衿久は笑った。

「なんかそういうの、受け取らねえと思うんだよ。あの人」

 母親が不思議そうな顔をした。


***


 重い扉の玄関は滅多に使わないのか、衿久はそこが開いたのを見たことがない。たった数日の間のことだが、長い期間開かれていないのだということは、よく見れば何となく分かった。

 扉の下側の隙間を埋めるようにびっしりと貼りついたぶ厚い苔が、何よりの証拠だった。

「ちはー」

 いつものようにはじめから裏に回った衿久は、温室を覗き込んで声を掛けた。誰もいない。

 温室の先まで歩き、煉瓦の壁に沿って左に折れる。森の木々に取り囲まれた家だ。かろうじて歩けるほどの狭い通路にまで伸びた枝を払いながら進むと、キッチンの勝手口が見えてきた。鍵はいつもかけていない。

 呼び鈴などないのでそのまま開ける。

「こんちは―」

 家の中は相変わらずしんとしていた。お邪魔しますと一応断ってから、衿久は家に上がった。南人が衿久用に下してくれたスリッパを履く。家主はいつも裸足だったが、衿久にそれは許されないらしかった。

 リビングの奥の扉が開いていた。

「南人?」

 少し大きめの声を出して奥に呼びかけると、ちりんと鈴の音がして、奥の扉の隙間から猫が衿久の足下に走ってきた。

「よお

 名前を呼ぶと、茶色の毛をふくらはぎに何度も擦りつけてえくぼが鳴いた。

「よしよし」

 甘えた声に応えて、衿久が顎の下をくすぐると気持ちよさそうに目を細める。早く家に迎えたいと言う母親の顔が浮かんで笑えた。その気持ちはよく分かる。

「おまえの家主はどうした?」

 飼い主はあくまでも衿久だと南人が言うので、それで彼のことはえくぼの住んでいる家の家主ということになっている。

 聞くと、えくぼはにゃあと首を傾げるようにした。

 衿久はその頭をひと撫でして、奥へと進んだ。

「南人?寝てるのか?」

 えくぼが出て来た扉をそっと押すと、そこは簡易ベッドの置かれた小さな部屋だ。どこか古い学校の図書室に保健室を混ぜたような雰囲気の、いわゆるここが南人の仕事場だった。

「南人…?」

 ぎいっと軋んで開いた部屋は薄暗い。

 壁の上部に細く横長についた窓から、夕暮れの明かりが差し込んで、簡易ベッドの上のクリーム色のカバーに波打つように光を落としている。

 その傍の椅子に寄りかかったまま、南人は眠っていた。

 衿久は小さく息を吐いて部屋に入った。

「あーまた…、おい、南人、みなとっ」

 傾いだ首が肩につきそうだ。衿久は南人の肩を揺すった。膝の上に投げ出された手のひらから、こつんと床に何かが落ちた。

「…っと」

 ガラスの欠片のような、…水晶?

 なんだろう?

 すごく綺麗だ。

 床から摘みあげて藍色に変わりだした光にかざすと、すっと横から持っていかれた。

「来てたのか」

 横を向くと、目を覚ました南人が衿久をぼんやりとした顔で見ていた。

 うん、と衿久は頷いた。

「今来たとこ…。なあ、それなに?」

 前にも一度見たような気がする。

 南人の手に握られた透明な欠片を指差すと、南人は起き抜けの不機嫌さで衿久を睨んできた。

「…なんでもいい」

「え、なんで?」

「なんでって…おまえに関係ない」

「教えてくれてもいいじゃん」

 言うと、一瞬口をつぐんだ南人が、うんざりしたように目を細めた。

「それより──」薄い体を椅子の上で捩る。「おまえ、ちゃんと買って来たんだろうな?」

 その瞬間南人の腹の虫が鳴った。いいタイミングに、衿久は声を上げて笑った。

「あー、買って来たって。ほら、立てるか?」

 手を差し出すと、その手を取った南人の軽い重みが衿久の腕に伝わってきた。

 

 

『あれってさ、…ヒーリングとかっていうやつ?』

 日曜日のあの後、衿久は南人に思い切って聞いた。

『あん…えっと佐原さん、ってさ、ヒーラーなの?』

『……』

 無言でサンドイッチを頬張り続ける南人に胡乱な目を向けられて、衿久は首を竦めた。昨日帰ってからネットであれやこれやと調べて辿り着いた衿久なりの結論だったが、南人は気に入らないようだった。衿久を睨みつけてから、ふいと視線を逸らした。

 猫か。

 仕草がまるっきり手負いの野良猫のようだ。

『えーと疑ってるとか、そんなんじゃないし。こいつもちゃんとあんなだったのに、こうやって生きてるんだし、…』

 なあ、と足下で丸まった猫に声を掛けた。

 相槌を打つように、にゃあと鳴く。

 からかったりしているわけじゃないと伝えたいと、衿久は向かいのソファに座る男に言った。

『凄い、よな。凄い力なんだな…あん、佐原さんの力』

『俺はそうは思わない』

 衿久は目を瞠った。

『え、なんで?凄いだろ、だってあんなの誰にでも出来ないし!あ──佐原さんの、俺は本当にあん、…あなたがそう思わなくても凄いと思ってるよ』

『……』

 ぼそっと呟く声がした。

『…でいい』

 え、と聞き返すと、心底鬱陶しそうに南人は言った。

『南人でいい。無理にさん付けして呼ぶな気持ち悪い。さっきから何度も言い直してるくせに、あんたって呼びたければそう言えばいいだろう』

『え、いや…えーと』

 なんだろう。なんでこいつこんななんだろう?

 言いたいだけ言ってまたふいと背けた顔に、じわりと衿久はおかしくなった。

 変な奴。

『なあ…あー、えーと、南人?』

 さん付けしようと思ったが衿久は結局呼び捨てにした。

 なに、とそっぽを向いたまま、ふたつめのサンドイッチに手を伸ばしている南人の姿が、拗ねたときの妹とだぶって見え、衿久はぷっと吹き出した。

『な──何笑ってるんだ!』

 振り向いた南人に、衿久は慌てて顔の前で手を振った。

『いや、ごめんっごめん、違う違う違うっ』

『何が──何がだ』

『いや、だからさ、俺のことは衿久でいいから』

 誤魔化すように呼び捨てでいいから、と言うと南人は当たり前だという顔をした。

『おまえなんかおまえで充分だ』

 当然だと言う南人は、衿久よりも実際はかなり年上なのだろうが、まったくそうは見えない外見をしている。はじめからずっと気になっていたことを衿久は聞いた。

『あのさ、南人って何歳なの?』

 南人がリスのように膨らませた頬で、もごもごと言った。

『え?』

 聞き取れず聞き返すと、じっと衿久の目を見つめてきた。

『…にじゅうはち』

『はあ?』

 がたん、と衿久は身を乗り出した。

『うそっ!じゅうも上⁉見えねえ!』

 分かってはいたが、そこまで離れているとは思わなかった。

 せいぜい、3つ程だと…

『えー…マジか』

 呟いた衿久に南人はうんざりした目を向けた。

『おまえ、ほんと──うるさいな』

 


 今日買ってきたのは白身のレモンフライのサンドイッチとコンビニのおにぎりだった。サンドイッチはALTOのだが、おにぎりは昨日帰るときにたまには違ったものが食べたいと南人が言ったからだ。

「ほら、言ってた昆布のおにぎり、これだろ?」

 袋から出してやると、南人の目が少し見開いた。手の中に押し込んでやり、衿久は苦笑した。

「そんなに好き?それ」

 いいだろ、と南人は顔を背けた。

 衿久が今は猫を家に連れ帰れないかもしれないと、その事情を打ち明けると、南人は意外にも好きにすればと言った。いつでもいいときに連れて行けばいい。ただし、居場所は提供してやるが、面倒は衿久が見ること。出来るだけ毎日様子を見に来ること。飼い主はあくまでも衿久なのだと南人は言った。

『いいからさっさと名前を付けろ、呼び名がなければ困るんだ』

『俺?』

『おまえが飼い主だろうが』

 衿久は茶色の毛玉を抱き上げた。まだ成猫になる前の若い体は軽く、ふわふわしている。甘えて鳴く顔を覗き込むと、右の目と口の間に古い傷があるのを見つけた。猫が鳴くたびにそこが引き攣れるようにぽこっと凹むのだ。

『それは俺には治せない』

 傷を見つけた衿久に南人は言った。

 きっとずっと前に誰かに傷つけられたか、自分で怪我を負ったのだろうと続けた。

『古傷や、もう治ってしまったものは二度治すことは出来ない。俺がしてやれるのは、そのとき血を流している傷や体の痛みを、なくすことだけだから』

『…そっか』

 衿久は頷いた。

『じゃあ、「えくぼ」だな』

 南人に衿久は言った。

『ほらこれ、傷だけど鳴くとえくぼに見えるし』

 ほら、とえくぼと名付けたばかりの猫を南人に向けると、ああそう、と呆れたように南人は言った。

『好きにすれば。おまえの猫なんだし』

 そのようにして名前も決まり、ようやく衿久は治療代のことを切り出した。だが南人は要らないと言った。どうして、と聞くと必要ないとだけ返され、納得できずに何度も衿久が言うので、しまいには南人が黙り込んでそっぽを向いた。

『要らないってなんだよ、あんた、それで生活してんじゃねえのかよ⁉あれだってちゃんとした治療なんだろ!』

 まがりなりにも町の地図には、ここはちゃんとした診療所として存在していた。昨日あれからいろいろ調べて、それも分かったことだった。名前も電話番号もどこにもなかったが、通称はあった。『森の診療所』、ここは人の紹介でしか来ることが出来ない、痛みを取り除くことを専門としたペインクリニックだ。

 南人の力をきっと使うのならば、それは一般的なものとは少し以上に違うだろうが、そんな専門の医療があることを衿久は知らなかった。

 南人が盛大なため息をついた。

『おまえは勘違いしてる、もういい、──分かった』

『は?』

 もういい、分かった?

 なにそれ。

 切れ長の目を細めて南人は面倒くさそうに言った。

『じゃあおまえ、俺の世話もしろ』

 は?

『猫と一緒に俺のも持ってこいよ』

 と南人は言った。



 そんなわけで衿久はここのところ毎日、南人の元に通っていた。えくぼの世話をしに、南人の世話をしに。主に、彼の食事を持ってくる。それが治療代など要らないと言った南人への恩返しだと思えば容易いことだった。結局は南人の食事代は彼自身が払っているのだ。衿久はえくぼの分だけ負担すればよかった。

「慌てて食うと詰まるって、なあ」

 とたんに南人がむせて、衿久は慌てて水を差し出した。

「ほらもう、子供かよ」

 誰かにも言った台詞を言って衿久は笑った。

 南人はいつも腹を空かせている。

 差し出した食事を貪るように食べる様は、飢えた小さな動物のようだ。

 いつもそうだが──昼間、患者が訪れたと思われる日にはとくにそれがひどい。

 夕方に訪れると、南人は大抵今日と同じように椅子の上で眠っていた。

 眠っていると言うよりも、むしろあれは…

「大丈夫か?」

「そっちも」

 南人が手を差し出した。

 その手にサンドイッチをのせてやる。

 青白かった頬にうっすらと赤みがさしていた。

「ゆっくり食えよ」

「分かってる」

 聞いているのか聞いていないのか、南人はぱくりと齧りついた。

 衿久もそれを見ながら自分で淹れた紅茶を飲んだ。

 気絶するように眠る南人がこんなにも飢えているのは、その力に何か関係があるのかと、衿久は思った。

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