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 翌朝、衿久が起きると、リビングでは父と母が慌ただしく出掛ける準備をしていた。

「はよ…なに、どっか行くの?」

 時計を見れば9時半を回ったところだった。

「ちょっと青衣連れて動物園に行ってこようと思って。あんたも行く?」

「いーや行かねえ」

 苦笑して衿久は冷蔵庫から水を取り出してグラスに注いだ。母親もそう答えると分かっていたようで、だよねえ、と笑った。

 もうそんな──家族と一緒にどこかに出掛ける年頃でもない。

 最近は衿久が留守番をすることが常になっている。

「じゃあお昼ごはん昨日の残りが冷蔵庫にあるから、適当に食べといて?」

「んー」

 足に青衣がじゃれついてきて、ぎゅう、とスウェットのズボンを引っ張った。

「どーぶつえん行くの!」

「おう、行って来いな」

「そんでね、かえりはおばあちゃんのとこ行くよ」

「うん。元気だといいな」

 その髪をくしゃっと撫ぜてやると、青衣は笑って、うん、と頷いた。

「じゃあな衿久」

「いってきまーす!」

「衿久、後お願いねー」

 車に乗り込んで出かけていく三人に手を振って見送ると、衿久はリビングに戻ってテーブルの上に用意されていた自分の分の朝食を食べ始めた。

 日曜日の朝のテレビ番組を聞き流しながら、窓の外を見る。

 一晩降った雨は上がっていた。日差しが差し込む庭を眺めながら、さて、と衿久は思った。

 今日は何をするか──それはもう決まっている。

 カフェオレでトーストを飲み込んだ。

 実は衿久はまだ、両親に猫のことを話していなかった。

 昨夜は休日出勤だった父親の帰りを待つうちに、眠りこけてしまったからだ。

 まあでも、これでよかったのかもしれない。

 青衣をあまり期待させたくない。家族は皆動物好きだったが、万一反対されないとも限らないのだ。

 とくに今は、時期が悪いかもしれない。

 話はとりあえず、猫の様子を見に行ってからだと衿久は昼を過ぎまでおとなしく勉強をし、しっかり時間を潰してから家を出た。



 パン屋の名前は「ALTOアルト」というのを、衿久は今日になって知った。ガラスの扉に書かれてあるそれを、昨日は余裕もなくて見逃していたようだ。

「いらっしゃいませ」

 店の中に入ると、客は衿久ひとりだった。

 レジにいた昨日の青年が、「あ」と声を上げた。

「こんにちはー」

 見る限り、店員もどうやら彼しかいないようだ。

「こんにちは」

 コンビニで買った新しいビニール傘を差し出すと、青年は驚きの目で衿久を見た。

「えっ、新しいの買ってきてくれたの?わざわざ?」

 昨日の出来事の、傘を壊してしまったことだけを要約して話すと、青年は申し訳なさそうな顔をした。

「えー、あんなぼろっちいの気にしなくてよかったのに…」

「いや俺がダメにしたし…」

「もう壊れかけてたじゃん」

「でもすごく助かったから」

 どうぞ、と手の中に渡すと、青年は苦笑して受け取った。

「お役に立てたなら、まあ何よりだけどさ」

 衿久は笑って、レジカウンターの上のサンドイッチのテイクアウトメニューを指差した。

「あの、今日も作ってもらっていいですか?」

「え、いいよ。あーなんなら食べてく?イートイン出来るけど?」

「ああえっと、持って行こうかと思って」

 衿久が言うと、青年は頷いた。

「あーお土産?」

 きっと手土産と言いたかったのだろう。

 まあ──そうだった。

 昨日、卵サンドを美味しそうに食べていたあの男に、お礼として持って行こうと衿久は家を出るときに思いついたのだ。もちろん、治療代は別にして。

 あれが治療と呼ぶのかは分からないが…

「そうです」と衿久は頷いた。

「そうなんだ。じゃあどれにする?」

 衿久がメニューの中からふたつ選ぶと、青年は衿久の見ている前で手際よく作ってくれた。

「お土産だからさ、箱に入れとくねー」

 紙製のランチボックスに詰めて、紙袋で衿久に手渡してくれた。なんだか手が込んでいて少し気恥ずかしくなりながらも衿久は礼を言った。

「ありがとうございます」

「こっちこそ傘ありがとうね」

 またおいでよ、と青年が言うのに笑って頷いて、衿久は店を出て森のほうへと歩いた。



 雨上がりの森は緑と土の匂いに満ちていた。新しい匂いだ。草や木が息づく匂い。

 梢の間から落ちる日差しが水たまりに跳ねて光っている。散策路には誰の姿も見えなかった。道路から離れるにつれ、かすかに聞こえていた車の音もやがて聞こえなくなってしまった。

 雨の名残りで冷たく湿った空気が、息を吸うたびに肺の奥までいっぱいになった。

 昨日と同じ道を辿って、衿久は木々の間をくぐり抜け男の家の玄関に立った。相変わらず静まり返っている。

 玄関の呼び出しボタンを押した。

「すみません」

 声を掛けようとして、まだ名前も知らないのだったと衿久は思い出した。

 見回したが玄関には表札も何もない。

「すみません、昨日──」

 助けてもらった者ですが、と言おうとして、衿久はびくっと体を震わせた。何かが衿久の足の間をすり抜けている。

「うわっ!」

 飛び退いて慌てて足元を見れば、そこには茶色い毛の猫が衿久を見上げていた。

 昨日の猫だ。

「なんだ、おまえか…」

 衿久はほっと息をついた。

 しゃがんで手を伸ばすと、振り返った体勢のままにゃあとひと鳴きし、ゆっくりと歩み寄って手の先に体を摺り寄せた。柔らかな毛の感触が気持ちいい。温かな体を撫でてやると、猫は満足そうに尻尾を衿久の腕に絡ませた。

「元気になってよかったな」

 衿久が立ち上がると、猫はするりと衿久の足下を抜け、裏に続く茂みの中へと入っていった。

 にゃあ、と衿久を呼ぶように鳴いた。

 ついて来いとでも言われているみたいだった。

 猫が急かすようにまた鳴いた。

「はいはい」

 あの温室にいるのかもしれない。

 衿久は観念して茂みの中に入り、裏へと回った。

 温室の前に立つと、猫は薄く開いた入り口からするりと尾を揺らして中へ消えていった。

「あの、すみません」

 扉に向かって声を掛けるが、何の音もしない。

 来いと言ったのは自分のくせに、忘れてしまったのだろうか。

「すみませーん」

 衿久は少しだけ声を大きくした。

 誰かがいる気配はない。

 なんなんだ。

 衿久は扉に手を掛けて、ゆっくりと押した。天窓から日の差し込む中を戸口から覗き込んだ。

 温室の中は昨日と同じだ。ただ、男がいないだけだった。

 猫が木机の上で丸くなり寝そべった。

「なんだよ…」

 呟いたとたん背後で大きな音がして、衿久は振り返った。

 キイ──

 甲高い鳥の鳴き声が続いた。梢がざわめいて、羽ばたきの音がした。どこか近くで鳥が飛び立ったのだと分かった。

「んだよ、びっくりさせんなよ…」

 そのとき横の茂みが揺れた。

 温室の周りは椛の木の枝がしなるほどに近く、その煉瓦の壁を覆い尽くしている。その椛の葉の下から白い腕が突き出ていた。

「──え」

 衿久の頭からすっと血の気が引いた。

 誰かがいる。

「ちょっと、おい──あんたっ」

 あわてて鬱蒼と重なり合う枝を払いのけて衿久が見たものは、青白い顔をして木に寄りかかるように倒れ込んでいる昨日の男だった。


***


 いつからああしていたのか──男の服にはいたるところに落ち葉がくっついていた。抱えた衿久の体にもそれが付いて、歩くたびに一枚、また一枚、ひらひらと床に落ちていった。

 点々と足跡のように続く。

 とりあえず運び込んだ家のリビングのソファの上を、衿久はため息をついて見下ろした。

 男は固く目を瞑っている。呼吸は安定しているので、多分眠っているだけなのだろう。

 衿久は上着を脱いで男の上にかけた。なんにせよ、家の扉が開いていて助かった。さすがに温室の床の上はまずいだろうと──コンクリートだし──どこからか入れないかとあちこちの戸や窓を探っていたら、ひとつだけ開いているところを見つけられた。リビングの奥に独立してあるキッチンの勝手口だった。

「あ、こら」

 衿久の足の間をすっと猫がすり抜ける。ちらりと振り返って小さく鳴いた。

 男を抱えて運び込んでる間、開け放していた勝手口から入り込んでしまったらしい。捕まえようとしたが上手く躱されて、衿久は肩を竦めた。

「しゃーないな…」

 奥に行ってしまった猫を目で追って、衿久はぐるりと部屋の中を見回した。

 家の中は薄暗く、寒かった。入ったときに電気を点けようとしたが、見つけた壁のスイッチを押しても窓際の間接照明しか灯らず、まだ昼間だと言うのに部屋のあちこちに影が落ちている。大きな布張りのソファセット、家具も床もすべて濃い茶色で年季が入っている。一目で高いと分かるものばかりだ。しんと静まり返った家の中は時間が止まっているかのようにあまり現実味がない。男以外の誰かが住んでいる気配はしなかった。まあいれば、あんなところに倒れたままでいるわけはないが──

 衿久はキッチンへと歩いた。

 買ってきたサンドイッチの箱を紙袋から取り出して、戸棚から適当な皿を見つけてそれに載せた。悪いかとは思ったが同じように底の深い皿も取り出し、水を入れてソファの傍の床に置いた。

 おいで、と声を掛けると、奥のスタンドライトと棚の間から猫が顔だけを出して衿久をじっと見つめた。

「ここ置いとくぞ?」

 そう言うと、猫が分かったというように鳴いた。案外こちらの言葉を理解しているようで、衿久は苦笑した。

「エサはなくてごめんな、なんか貰ったか?」

 こんなことなら何か持って来ればよかったと思った。

 冷蔵庫はあるが、他人の家の物だ。勝手に開けるわけにもいかない。

 さてどうするか。

 衿久は男の向かいのソファに座り背を預けた。

 とたんに大きく欠伸をした。


***


 意識が浮き上がる。

「……」

 ぼんやりとした視界の向こうに、見慣れた天井があった。淡い橙色の光が斜めに部屋を横切っていた。夕暮れの光だ。ああ、と男は思った。

 また倒れ込んでいたらしい。

 どれくらい経ったのだろう。目を閉じて記憶をたどる。確か最後に見たものは、庭の椛の木だった。

 はっと、男は起き上がった。

 庭にいたはずだ。なのにどうして家の中にいるのだろう。ここは、ソファの上だ。

 何かいい匂いがする。

 くん、と男は鼻を鳴らした。

 目の前のローテーブルの上に、知らない箱が皿に載って置かれていた。男は顔を近づけた。食べ物だ。

「──」

 降りようと床に足をつけた途端、何かが体の上から下に滑り落ちた。服だった。ウールと革のジャケット、自分のものではない。誰かが自分の上にこれを掛けていた…?

 男は顔を上げた。向かいのソファに、大きな体が横たわっていた。

 昨日あの猫を連れてきた学生だ。

 目を閉じて眠っている。半袖のTシャツにジーンズ、寒いのか、少し体を丸めるようにしている。規則正しく胸が上下していた。

 男はそっと近づいて、眠っている体を揺さぶった。

「──」

 名前を呼びかけようとして、知らないことに気づく。

 そういえば自分も、彼に何も言っていなかった。

「起きろよ、おい」

 屈みこんだ自分の体から、枯れ葉がひらりと彼の胸の上に落ちた。見れば彼の体にも、同じようにあちこちに砕けた枯れ葉の欠片が付いていた。

 彼が自分を運んでくれたのだ。今日来いと言ったから。

 庭できっと──見つけてくれたのだろう。

「…悪かったな」

 左の頬にまだ薄く残る傷を、男は指先で撫ぜた。

 一度直した傷は二度は治せない。

 昨日は猫に力を使い果たし、彼の傷を完全に治してやることは出来なかった。

 もう少し──

 もう少しだったのに。

 いつのまにか足下に猫がいて、男を見上げていた。男は猫にかすかに笑いかけた。

「おまえを迎えに来たんだよ。おまえのご主人様だ」

 猫は短く鳴くと、眠る彼の腹にぴょんと飛び乗った。

 彼が身じろいだ。

「…ん、あ…?」

 目を開けた彼──おそらく高校生だろう──が、ぼんやりとこちらを寝惚けた目で見るので、男は思わず苦笑した。

「起きたか?」

 一瞬ぽかんとした彼が、あっと声を上げて身を起こした。

「あんた、えっと、大丈夫か?」

「ああ、平気だ。…ありがとう」

 素直に礼を言うと、高校生は目を丸くして驚き、それから安心したように目を綻ばせた。

「そっか、よかった」

「…それで」と男は言った。「あれは俺が食べてもいいんだよな?」

「は?」

 猫を腹に乗せたままの高校生に、男は真顔でローテーブルの箱を指差した。

 同時に男の腹がぐうと鳴り、目が合った彼が盛大に吹き出した。

「早く食えよ。それ、あんたに買って来たんだよ。昨日のお礼」 

 治療代は別として、と彼は笑いながら言った。

「ええと、あんた、──名前は?」

 さっそく箱を開けにかかった男に、彼は尋ねてきた。

 先におまえが名乗れとはそのときばかりは言わなかった。

 何しろ腹が減っていて、それどころではない。

 この空腹を満たさなければ。

 男は箱を開けて、厚切りのベーコンが挟まっているサンドイッチに齧りついた。

 口いっぱいに頬張ってから、待っている彼に言った。

「ミナト」

「みなと、何?」

 問われるままに佐原南人さはらみなとだと、男は答えた。

 彼は町田衿久だと名乗った。やはり高校生だった。

「…えりひさ」

 変な、奇妙な名前だ。

 でも悪くない。彼にはよく似合っていた。

「ゆっくり食えって、むせるぞ」

 ひたすら貪るように食べ続ける南人に衿久は笑って立ち上がり、キッチンに行って水を持ってきた。


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