3

 濡れた前髪から、ぽたっと睫毛の上に雫が落ちた。

 衿久は瞬いた。

「大声でぎゃあぎゃあ喚くな。うるさいんだよ」

 やけに線の細い男だ。

 差している透明なビニール傘は森の木々と同化しているように、その後ろが透けている。青白い顔はじっと衿久に向けられていた。

 歳は、衿久よりも少し上に見えた。

「何の用だ」

 言われて、我に返り、衿久は腕の中の猫をその男に見せた。

「さっき轢かれて…」

「ふうん」

 男は動かず、視線だけを衿久の顔から、腕の中へとゆっくり移動させた。左手が伸ばされ、その指先が猫の背をすっと撫でていく。

「死にかけてる」

 そう言って男はくるりと衿久に背を向けた。

「まだ死んでない──」

 茂みの中に戻ろうとする男に、あわてて衿久は声を掛けた。

「あんたここの人だろ、俺医者だって聞いてっ、だから」

 男は立ち止まり、感情の読めない目を衿久に向けた。

 その目をまっすぐに見返した。

「お願いします、助けてください」

 衿久がそう言うと、男は小さくため息をついた。

「ついて来い」



 煉瓦の壁に沿って茂みをかき分け、家の裏手に回ると、小さな温室のような建物があった。屋根の南側がガラスの嵌まった天窓になっている。男はそこの扉を開け、傘をたたむと、衿久を待たずにさっさと中に入っていった。

「早く入れ」

 入口で入るのを躊躇っていると、中から男が言った。

 冷たい声だったが、突き放されているわけでもなさそうだと、衿久は足を踏み入れた。

 何かの作業場なのか、土足でも入れるように床はコンクリートで出来ていた。6畳ほどの細長い部屋、壁は奥の短い一辺が全面ガラスで、残りは家と同じ煉瓦積みだった。作り付けの棚、簡易流し台ひとつ、小さな窓がひとつ、天井に窓がひとつ──

「そこに」

 思わず部屋の中を見回してしまった衿久に、男は部屋の真ん中に置かれた机を顎で指した。

 古い木机の上に真新しい白いタオルを敷いている。

 猫をそこに置けと言っているのだ。

「早くしろよ」

 衿久は頷いて、腕の中からそっと猫をタオルの上に横たえた。手を離す寸前にぴくりと前足が動いた。

 よかった。まだ、生きている。

 衿久はほっと息を吐いた。

 男が壁際に寄せていた椅子を机の傍に置き、そこに座った。

 左手の手のひらで猫の背をさする。

「おまえの猫か?」

 いや、と衿久は言った。

「さっき目の前で道路に飛び出して…野良猫だと思う」

 男は左手の上に右手を重ねた。

 何かを探るように、その目はかざした手に注がれている。

 探る?

 ──何を。

「なあ…」

 浮かんだ自分の考えに一瞬怯んで、衿久は男に聞いた。

「ここ、病院だよな?」

 言いながらそんなわけないと考える。

 大体、何の病院だ?

「あんた、医者なんだよな?」

 どう見たって自分と大して変わらない歳に見える男に、衿久は今更ながらに強烈な違和感を覚えた。

 この若さで医者だなんてありえない。

 ありえない。

 焦っていたあまりに、大事なことを何も聞いていなかったのだ。

 何ひとつ。

「あんた…誰なんだよ」

 男の手のひらの下で、細い手足がぴくっと跳ねた。

 得体の知れない不安が足下から這い上がって来る。

 雨の音。

 沈黙。

 ぞくっと背筋が震えて、衿久は堪らずに声を上げた。

「なあ、あんた──」

「うるさい」

 男の声が鋭く衿久の言葉を撥ねつけた。

 切れ長の大きな目が衿久を睨みあげている。

「静かにしていられないなら今すぐここから出て行け、邪魔だ」

 衿久を見上げる瞳の縁は青白く、暗がりの中で青い炎のように光った。

 息を呑み、衿久は口をつぐんだ。

「俺が誰だろうが、どうでもいい」

 男は視線を自分の手に戻した。

 ガラスの天窓に雨が当たる。

 伏せた瞼は動かない。時間が止まったかのような長く、短い一瞬。

 やがて、男は小さく呟いた。

「背骨」

 え、と衿久が聞き返したとき、男の手からゆらりと白い靄のようなものが立ち上った。

 ──あ。

 赤く血を吸い込んだタオルが、その毛足を放射状に揺らし、倒した。

 濡れた猫の毛の一本一本から雨粒が浮き上がり、丸い球がいくつも宙に漂っている。

 普段は見えない一瞬の動きが衿久には見えた。

「脚」

 丸い球がぱちんと弾ける。

「内臓…」

 腸をやられたな、と男が小さく続ける。

 ぱちん、とすべての雨粒が空中に消えた。

 衿久の頬を暖かい風が掠めた。日差しの中にいるように触れたそこだけが暖かくなる。濡れた皮膚が音を立てて乾いていく感覚。

 これは──なんだ?

 ことん、とかすかな音を立てて、小さく透明な欠片が男の手から机に落ちた。

 目を見開いた衿久に男が言った。

「終わりだ」

「え?」

 目が合って、衿久が呆けたように瞬くと、男はうっすらと笑った。

「終わりだよ」

 男の手の下で茶色い体がもぞもぞと動き、起き上がった。

 さっきまで滴るほどに濡れた毛は乾いていた。

 ふわふわの毛をした猫が甘えるように男の白い指に擦り寄って、にゃあと鳴いた。

「おまえ、運がよかったな」と猫の顎をくすぐりながら男は猫に言った。

「……嘘」

 呟いた衿久をちらりと見て、男は立ち上がった。流しの蛇口をひねり、作り付けの棚から取り出した小さな皿に水を入れた。

 木机の上で鳴く猫を床に下す。その前に水の入った皿を置いた。

 ぼんやりとそれを目で追いながら、衿久は言った。

「今の、…なに」

 猫が水を飲む音が部屋の中に響く。

 森に降り注ぐ雨音が、薄く開いた戸口から滑り込んでくる。

 外はまだ雨だ。

 葉が風にざわめく音。

 どこかで鳥が鳴いている。

 ここは別世界のようだ。

 実際、隔絶されていた。

 指先で机の上の透明な欠片を転がして、静かに男は言った。

「何か知りたいか?」

 ぎこちなく衿久は頷いた。

 男は衿久をじっと見た。

「俺は医者だよ」

「医者?」

 掠れた声で衿久は聞き返した。

で言うのならな」

 男はそう言って、衿久を眺めた。

 青白い顔はさっきよりも血の気が失せているように見える。

 今にも倒れそうだ。

 ふと、男の視線が何かに気づき止まる。

「おまえも怪我してるな」

「え?」

 男の指が衿久に伸びてきて、頬に触れた。

「ほらここ」

 ああ、と衿久は思い当たった。

 そういえば払った枝が跳ねて──

「切れてる」

「──」

 触れた指先がいきなり熱くなり、衿久は驚いて身を引いた。

 男はそんな衿久を見ても表情を変えず、宙に浮いてしまった指先を下ろした。

 その顔を見て、衿久はなぜか酷く悪いことをした気分になった。ごめん、と小さく口の中で言った。

「信じようと信じまいと、俺はそういう類の人間だ」

 男は棚から真新しいタオルを衿久に投げて寄越した。

 柔らかく清潔なそれが顔に当たる。

「明日また来い」

「え?」

「一晩猫の様子を見るのに預かるから、明日引き取りに来い。それと──」

 くん、と鼻を鳴らして、男は衿久の肩に引っ掛けられたショルダーバッグを見た。ビニール製のそれから、ぽたぽたとコンクリートの床に雫が落ちている。

「おまえ、今食い物持ってるだろ。それを置いてさっさと帰れ」

 男は無表情にスッと衿久に手のひらを差し出した。


***


 家に帰り着いたときには日はすっかり暮れていた。

「やだ、なにちょっと衿久、びしょ濡れじゃない」

 ただいま、と言って入った玄関で、ちょうどそこに居合わせた母親が衿久を見るなり声を上げた。

 あー、と曖昧に衿久は返事をする。

「降られた」

「え、傘買ったんでしょ?」

 まだ開いていた玄関の扉から外壁に濡れた傘が立てかけられているのを見て、母親は首を傾げた。

「あー、あれは…」

 衿久はちらっと振り向いて言葉を濁した。

 外に置いているビニール傘は男が帰りしなに衿久に投げて寄越したものだ。

 卵サンドを頬張りながら、それを持って帰れ、と。

 くそ、あいつ。

 思い出して衿久は胸の中で悪態をついた。

 青衣に買ったものを、あんなに美味そうに食いやがって。大体なんでバッグの中に入れてたのに分かったんだ。

 衿久はがしがしと首にかけていたタオルで髪を拭いた。このタオルも男に寄越されたものだ。くそ、ともう一度小さく呟く。

 なんなんだあいつは。

 助けてもらったというのに、なんだか無性に腹立たしかった。

「俺ちょっと風呂入るわ」

 玄関で重く雨で湿った学生服の上着を脱ぎ落し、衿久は家に上がった。下のシャツまで湿って肌に貼りつき気持ち悪い。

「あっ靴下脱いでよ!」

 点々と濡れた足跡が続く廊下に、母親が衿久に言った。

「はいはい」

「クリーニング出すからまとめときなさいよ」

「んー」

 生返事をして脱衣所に入り、扉を閉めた。シャツのボタンを外していく。ベルトを外し、ズボンを下ろして──

 衿久は手を止めた。

 洗面台の鏡に映る自分の顔の、左頬。

 うっすらと線を引いたような傷跡がある。

 あの男が触れた指先。

 男の顔がちらついた。

「あ」と衿久は呟いた。

「マズった…」

 そのときになってようやく、男の名前を聞かなかったことに──自分も名乗らなかったことに──衿久は気がついた。


 雨は一晩中降り続いた。

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