2
祖母が倒れるまでは、衿久も毎日のように塾に通っていた。それが当たり前だと思っていたからだ。みんなと同じように塾に行き、進学を目指す。やりたい事もないままに流れのように大学に行くのは、許されることなのだと思っていた。
「町田、今日図書館行かね?」
土曜日、午前中授業が終わり帰り支度をしているところに、芦屋が声を掛けてきた。衿久は頷いた。
「塾は?」
「ん、夕方から。それまですることもねえしさ」
あ、と声を上げた芦屋が、昼飯どうする?と衿久に聞いてくる。少し考えて、衿久は言った。
「マックでも寄ってく?」
「いいねえ、行こ行こ」
今日は母親は休みだ。携帯を取り出して連絡を入れる。それを見ていた芦屋が面白そうに笑った。
「昼飯食うって言ったの?」
「そ、連絡入れとかないとマジで後で面倒だから」
はは、と芦屋が屈託なく笑うのを見て衿久も笑った。
そうでもしないと衿久の帰りを待って、いつまでも青衣が昼ご飯を食べないのだとは、言わないでいいことだ。
「あーなんか雨降りそう」
芦屋が鞄を手に言った。衿久もその視線を追って窓の外を見る。
確かに、今にも雨は降りだしそうだった。
図書館を出る頃には雨は降りだしていた。
これから塾に向かう芦屋と別れ、衿久は自宅への道を急いだ。傘を差すほどでもないと思っていた雨脚は次第に強くなり、だんだん前に進むのも難しくなってきた。学生服が雨を吸って湿り、重くなる。濡れた前髪をかき上げて、衿久は目に付いた店の軒先に逃げ込んだ。
「うーわマジかよ…」
申し訳程度についたビニール製の屋根の先から雨が連なって落ちていくのを見上げた。空は雨雲で暗く覆われている。しばらく止みそうにもない。
衿久は周りを見回した。
駅前から少し外れた通り沿いだ。ぽつぽつと店はあるが、傘を売ってそうな雑貨屋も100円均一の店も見当たらない。駅まで行けばそういう店はあるが、それでは家と逆方向だし、何より無駄に濡れたくない。
家までは走って──あと15分くらいか…
こんなんじゃバスにも乗れないし。
「しゃーない、歩くか」
覚悟を決めて軒先から出ようとしたとき、がらりと、背中を向けていた店の窓が開いた。
「ね、ちょっと」
それほど長くいたつもりはなかったが、邪魔になっていたのかと、文句を言われるのだろうと衿久は振り向き、窓の中にいた大学生くらいの青年と目が合った。
「すみません、すぐ」
行きます、と言いかけた衿久に、予想を反して青年は心配そうな顔を向けた。
「あー違うよ、雨凄いから。濡れちゃったね、歩いてくの?」
「はい」
歩きますと頷くと、青年は少しくたびれた透明なビニール傘を窓から差し出した。
「これ持って行きなよ」
「え、いや…でも」
「いいって、うちの置き傘だし、古いし、捨てちゃってもいいやつだしさ」
「ええと…」
そこではじめて衿久は自分が雨宿りしている店を振り返った。
飴色の木で覆われた壁、透明な分厚いガラスの入口の上に、鉄製の棒が突き出ている。Bakeryと黒字で書かれた白い板が、棒に吊るされて小さく揺れていた。
なるほど、ここはパン屋だったわけだ。
青年が顔を出しているのは入り口横のテイクアウトサンドイッチの受付だった。衿久は気づかずに、そこを塞いでいたのだった。
「あ、俺邪魔で…すいません」
あわてて退くと、青年は笑った。
「大丈夫だよ。雨だし、誰も来やしないから」
はい、と差し出された傘を反射的に受け取ってしまい、衿久は、じゃあと代わりのように壁に貼られたメニューを見た。
すごく美味しそうだ。ホットドッグ──卵サンドは青衣の好物だ。お土産に家に買って帰ろうか。
「あの、これ、出来ますか?」
「えっ、気にしなくていいのに」
慌てたように青年が言った。
「いや腹減ったんで」
そう言うと、青年は声を上げて笑って、ちょっと待ってて、と言ってすぐに衿久が注文したものを作り始めた。
ぱしゃん、と足下で水たまりが跳ねる。
パン屋の青年が貸してくれた傘はぼろぼろだったが、ちゃんと雨は避けてくれた。
卵サンドが入った袋を下げ、学校指定のショルダーバッグを肩に引っ掛けてホットドッグに齧り付きながら、衿久は家への道をまた歩いていた。
森の散策路への入口が見えてくる。
入り口から中を見ると、木々に覆われた森は雨に煙り、靄が立ち込めていた。
おいしゃさんがいるんだって──
この間青衣が言っていたことを思い出す。
なんでもなおしてくれるんだって。
「なんでもね…」
ホットドッグの最後のひと口を放り込もうとしたとき、どこかでにゃあ、と鳴く声がした。衿久は立ち止まった。
傘に当たる雨音。
にゃあ、と鳴いている。
猫?
ホットドッグを手にしたまま、衿久はぐるりと見回した。その拍子に、ことん、とソーセージの残りがアスファルトに落ちた。
「あっ」
がさ、と森の入口の生垣が揺れた。脱兎のごとく飛び出してきた茶色い塊が、衿久の足下を掠めて走り抜けた。
猫だ。
落ちたソーセージを咥え、猫はそのまま道路に走り出た。
「危な──」
衿久の視界の端から何かが近づいてくる。
一瞬のことだ。
すべては一瞬で変わる。
「おい!止まれ!」
甲高い鳴き声が雨の中に響き渡った。
衿久は持っていたものすべてを投げ出して車道に飛び込んだ。
一瞬早くその目の前を、猛烈なスピードで自転車が横切っていく。
振り返りもせずに。
「──」
衿久は目に入る雨を拭った。
雨に濡れそぼった茶色い毛が、足下のアスファルトに貼りついていた。
赤い血が灰色の景色にやけに映えていた。
ばしゃん、と水しぶきが跳ねる。
猫を胸に抱いて、衿久は森の中を走っていた。
抱えた体はあまりにも小さくて、ぐんにゃりとして、頼りがなかった。手を濡らす温かな血と、冷たい雨が混じり、生きているのか死んでいるのか分からなくなってくる。
「くそ、どこなんだよ…」
散策路の中で衿久は何度も立ち止まっては辺りを見回した。
おいしゃさんがいるんだって──
なんでもいたいのとってくれるの。
青衣の言葉を鵜呑みにした自分が愚かだったのか。
でも、滅多なことで青衣は嘘をつかないのだ。
びょういんがあるんだって、せんせいが言ってたんだよ。
くそ、と衿久は悪態をついた。
病院だって?
だったらもっと──
「分かりやすい場所に建っとけよ…!」
腹立ちまぎれに、目の前に垂れ下がっていた楓の葉を腕で払った。
雨粒がばらばらと弾けて、すでにびしょ濡れの衿久に降りそそぐ。貸してもらったビニール傘は、放り出したときに壊れてしまった。何よりも、猫を抱えて荷物を持つだけで精いっぱいだったのだ。
自分が濡れるのはもういい。
痛いのは自分じゃないのだ。
払った楓の枝が衿久の頬を打った。
白く上がる息に、途方に暮れたような気分になる。
空は暗く、じきに日も暮れる。
手の中の猫はまだ生きているだろうか。
衿久はもう一度その場所で振り返った。
ふと思い立って、しゃがんでみる。そう、ちょうどこのくらい──青衣と同じ目線で、木立の中を見つめた。
青衣が見つけたのなら──きっと。
この高さだ。
「──」
あった。
ようやく衿久は見つけ出した。
重なる木の枝や葉がそこだけぽっかりと穴のようになく、奥まで見通せるようになっている。
その先に、煉瓦積みの家が身を隠すようにして建っていた。
扉の横に付けられた小さなボタンを衿久は押した。
壊れているのか、何の音もしない。
どん、と衿久はやけに分厚い木の扉を叩いた。
「すいません」
応答がない。
「すいません!」
どん、ともう一度叩く。返事はない。苛立ちもあらわに衿久は怒鳴った。
「おい誰かいねえのかよ、返事しろよ!」
「──うるさい」
はっと衿久は息を詰めた。
思いもよらぬところから声がした。
玄関の脇の茂みから傘を差して出て来た男が、ひどく鬱陶しそうに衿久を見ていた。
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