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 昔から、町のはずれにある森の中には人が住んでいるという噂があった。

 噂は様々で、誰もその人を知らないとか、夜な夜な森を彷徨う白い影だとか、子供じみた怪談話やゴシック調のものまでその時々によって内容は色々あったが、一度その森を目にした者はそれが単なる噂でしかないと思い知るのだった。

 その森は鬱蒼としたところなどどこにもない、美しい森林だった。

 森の中には町と町を繋ぐ散策路があり、自転車でサイクリングを楽しむ人も多い。近くの幼稚園や保育園の子供たちのお散歩コースにもなっている。クヌギやブナが多く生い茂っているので、秋の今は特に、どんぐりを拾いに子供たちが集まっていた。

「せんせー、おうち!」

 並んで歩いていた幼稚園児がひとり、指をさして声を上げた。

 まだ色づき始めたばかりの黄色と緑の木立の向こうに、煉瓦積みの家が見えていた。

 女の子の横にいた先生が、ああ、あれはね、と腰をかがめて女の子に笑いかける。

「お医者さんのおうちよ、なんでも痛いものを取ってくれるんだって」

 ええーと周りの子供たちが騒ぎ出した。

「そんなのうそだよー、へんな人がいるっていってたもん!」

「おばけだよ!おばけがいるの!」

「ねこやしきだってうちのおかーさんが」

 我先にと一斉に喋り出す。

 それを、はいはい、と軽くかわしながら先生が子供たちを列に押し戻した。ゆっくりと歩きながら、幼稚園児たちはすぐに足下のどんぐりに気を取られていった。

 あ、と最初に「おうちがある」と言った女の子が小さく声を上げた。

 人がいる。

 細い線の人影が森の奥から現れ、煉瓦の家の門を入っていった。

 女の子が見つめていると、ふと、その人がこちらを見た。

 目が合った。

 すっと逸らされる。

 その人が玄関を開け、ばたんと扉を閉めるのを、女の子は吸い寄せられるように、ずっと見つめていた。


***


 携帯電話が震えている。

 衿久えりひさは学生服の内ポケットから携帯を取り出し、通知を見て、メッセージを確認した。

 読んで、ふーん、と鼻を鳴らした。

「はいはい、了解…」

 呟いたのとそっくり同じことを返して、携帯を机に放りだした。

 何?と向かい合って座っていた同級生の芦屋あしやが、パンを齧っていた顔を上げる。

 今は昼休み、教室の中だった。

「何の連絡?」

「んー家」

 衿久は答えながら手の中のパンに齧りついた。

「妹迎えに行ってくれってさ」

 あー、と芦屋は笑った。

青衣あおいちゃん?」

「そう」と衿久は気だるく答えた。青衣とは、13歳年の離れた妹のことだ。今5歳で、幼稚園に通っている。迎えは今は母親が行くのだが、今日は急な会議が入ったとかで行けなくなったと、メッセージに入っていた。父親はもちろん遅い。なのでこういう時は共働きの両親に代わって、兄である衿久が行くことになっている。

「えーいいなあ、俺も行こうかなあ」

 ひとりっ子の芦屋が羨ましそうに言った。何度か衿久の家に遊びに来たときに、顔を覚えた青衣が懐いてくれたのが心底嬉しいようだった。

 可愛くはあるが、時折鬱陶しさも覚える衿久には分からない感情だ。

「いや、保護者カード無いと入れねえから」

「なんだよ、ついてくだけじゃん」

「いいよ、大体おまえ塾だろ」

 衿久が指摘すると、そうだった、と芦屋は面倒くさそうに言った。

「あーやだなあ…おまえはいいよなあ」

「何がだよ」

「だってさ…」

 衿久と芦屋は18歳、ともに高校三年生だ。

 受験はもうすぐそこまで来ている。

「…俺だって嫌だよ」

 日に日に寒くなる外を、窓越しに衿久は眺めた。



 ありがとうございました、と青衣の手を握り、衿久は幼稚園の先生に頭を下げた。

「また明日ね、青衣ちゃん」

「うんまたねー」

 手を振る先生に青衣も手を振った。その反対側の手を引いて、小さく会釈をすると、衿久は歩き出した。

「今日ねえ、どんぐりいっぱいひろったんだよ」

「へー、どんくらい?」

 見下ろして聞くと、精いっぱい見上げた青衣が、繋いだ手を離して大きく両手で円を描く。

「このくらい!」

「まじかよ、すげえな」

 ビーチボールぐらいか。

 ありえない量だが、衿久は笑って青衣の話に乗っかっていく。

 青衣の目が嬉しそうにきらきらし始めて、今日一日の出来事を喋り出した。

 それを聞きながら、時々ふうんとかへえとか相槌を入れて、家までの道をゆっくりと歩いて行く。向こうから来た年配の女性が微笑ましそうに目を細めていた。すれ違うとき小さく衿久が会釈をすると、女性も会釈を返してくれた。ばいばい、と青衣が言い、その人は笑って手を振り返してくれた。

「それでねえ、今日はね、おさんぽだったから、もりにいったの」

「へーそっか」

 森と言えばこの町にはひとつしかない場所を衿久は思い出した。

 町と町の間にある森だ。

 衿久も小学生くらいのときにはよく行っていた。昆虫採集や、鬼ごっこ、友達と隠れ家を作ったり…

「それでね、おうちがあってねーおいしゃさんなんだってー」

「…ふうん?」

 ぼんやりと衿久は聞いていた。

 おうち?

 あんなところに家なんてあっただろうか。

「いたいのなおしてくれるんだって」

「へえ」

「おばーちゃんのもなおるかなあ」

「そうだなあ…」

 新しい病院でも出来たのだろうかと衿久は思った。しかし、あんな場所に?

 病院ねえ…

「せんせいが言ってたよ、それでね…」

「そっか。ほら着いたぞ」

 住宅街の一軒家。建売の区画だった家はどれも同じに見える。その中でも少し古く、庭が広く取られた家が衿久と青衣の住む家だった。

 玄関の鍵を開けると、飛び込んだ青衣は靴を脱ぎ散らかして家に上がり、奥へと走っていった。

「おやつー!」

「あっこら、青衣!靴!手え洗うんだろ!」

 その後を追いかけながら、ため息をついて衿久は声を上げた。



 母親が遅くなるときにはご飯だけ衿久は準備しておく。

 おかずは母親がスーパーか商店街の総菜屋でメインのものを買ってきて、あとは作り置きの食材で賄えるからだ。

「ただいまー!あー、ごめんねー衿久」

 どたどたと玄関のほうが騒がしくなり、母親が両手に荷物を抱えてリビングに飛び込んできた。テーブルの上で教科書を広げている衿久に、ごめんと手を合わせた。

「おかえり」と衿久は言った。

「ママ!」

「あー青衣、ちゃんとお兄ちゃんの言うこと聞いた?」

 テーブルの下、衿久の足下でままごと遊びをしていた青衣が飛び出して、母親に抱きついた。荷物を抱えたまま青衣を受け止める母親を苦笑して、衿久はその手からレジ袋や鞄を取り上げる。

「うわ、ごめん衿久」

「いいよ俺が入れるわ」

 母親に向かってしゃべり始めた青衣の脇を通って、衿久は冷蔵庫にレジ袋から取り出したものを詰めていった。

「でねでねーそれでねえ」

「あおいーほら、今日ハンバーグだぞー」

 なかなかお喋りの止まない青衣に袋の中から取り出した惣菜パックを掲げてみせると、振り向いた青衣の目がパッと輝いた。

「あーほんとだ!えじまやのハンバーグ!」

 えじまやとは、この近所で有名な惣菜店の名前だ。衿久の家は大体週3の割合でここにお世話になっている。

「青衣の好きな醤油ソースじゃん、やったな」

「うん!」

 青衣がハンバーグに気を取られて母親から離れた隙に、衿久は母親に目配せをした。早く着替えてこいよ、という合図で、これはいつものことだった。こうでもしないと青衣はいつまでたっても母親から離れない。

 母親はごめんと声を出さずに言って、青衣に気づかれないようにそっと寝室に向かった。



「おやすみ」

 夕飯を食べ、風呂から上がると、早々に衿久は自室に引き上げようとした。

「あ、衿久ちょっと待って、あのね」

 キッチンで明日の支度をしていた母親が振り返る。少し小声になっているのは、ソファで寝てしまった青衣を起こさないためだ。父親の帰りを待っていたらしいが、睡魔には勝てなかったらしい。

 見下ろして、衿久は母親に言った。

「しょうがねえな、俺連れてくわ」

「あーごめんね」

 小さな体を抱え上げる衿久の前を行き、母親は寝室のドアを開けた。間接照明が付いた、セミダブルがふたつ並んだ寝室の壁際のベッドに、青衣を寝かせる。すぐにころんと丸まって背を向けた体に布団を掛けてやり、衿久は部屋を出た。

 ありがとね、と母親が笑う。

「それでね」と話の続きを言った。「お母さん、明日おばあちゃんのところ寄って帰るから、悪いけどお迎え明日も頼んでいいかな」

 衿久の家は5人家族だ。父母妹と祖母がひとり。その祖母は数か月前から体調を崩し、市内の病院に入院している。

 実のところ青衣のお迎えは毎日、祖母がしてくれていたのだった。

「いいよ」

 と衿久は頷いた。特に予定があるわけでもない。

「衿久」

 階段を上がっていると、母親が衿久を呼び止めた。

「ね、塾、ほんとに辞めちゃってよかったの?」

 見上げる母親を見下ろして、少しだけ笑って、衿久は言った。

「いいに決まってるだろ」

「でも…」

「成績落ちたら考えるよ」

 おやすみ、と返して、階段を上がった。


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