メロスは走り切ったが、俺だって走りキレてる

俺とセリヌンティウスは刑場に移され、磔にされてメロスが来るのを待っている。

メロスが遅れれば足元の薪に火が付けられ、二人は生きたままに焼き殺されるのだ。

燃え死ぬ二人の姿は刑場に集まった群衆に、暴君の火を分け与えることだろう。

暴君の心に燃える不信の炎はきっと、群衆に飛び火することだろう。


太陽の出ている内が二人の命の刻限である。

二人の命のように、じりじりと太陽の色は空に溶け込んで、

燃える鮮やかな赤だった。


「メロスは来ない」

さも残念であるかのように、暴君は言った。

しかし、心の中ではセリヌンティウスをせせら笑っている。

そして、メロスも世にある正義や真実の全ても嘲笑っているのだ。

「哀れんでやろうセリヌンティウス、我が愛しい民よ」

「メロスは来る」

「来ぬ、日は沈む。あの空のようにお前は燃え尽きる。

 闇夜のようにお前の全ては消え、そして何事もなかったかのように日は昇る。

 お前がいなくてもな」

「俺もメロスは来ると思うぜ」

セリヌンティウスではない、俺がそう言った。


「メロスが来てもお前は処刑されるが」



俺は誰も愛さぬ、俺は弱い人間である。

もしも誰かを愛することで自分に愛が返ってきたのならば、

薄っぺらな内面を見られてしまうのが怖くて堪らぬ。

俺は愛する価値があるような人間ではないのだ。

世にある尊きことの全ては己の外側でやっていれば良い、と俺は思っている。


セリヌンティウスはメロスを信頼している。

だが、俺にとってメロスはどうのこうのいえる人間ではない。

それでも、俺は初めて祈った。

手を合わせることは出来ない、だから言葉で「メロスは来る」と言った。

俺はこの日、祈りというものがあることを知った。


「……時間だ」

純然たる現実の前に、祈りは無意味である。

暴君は燃える剣を抜いた。王家に代々伝わる炎獄魔剣である。

刀身が海のように青く美しいのは、朱よりも熱く燃える蒼き炎の力があるため。

暴君ディオニスは竜と人間のハーフであろうと、否。

例え、竜そのものを相手にしようとも炎獄魔剣とその剣技で殺すことが出来るのだ。

二つ名の暴君は伊達ではない。


「燃え死ぬが良い」

松明のように暴君は炎獄魔剣を掲げた。剣先から蒼き炎が生じた。

チャッカマンを用いるように、二人の足元に火を付けるか。王よ。

メロスは来ぬのか、二人は焼き殺されるのか。


「私だ、王よ! 殺されるのは、私だ。メロスだ。

 彼を人質にした私は、ここにいる!」

その時である。

掠れた声で叫びながら、メロスが磔台へと駆け寄っていく。

よたよたと力を失っている、処刑見物に来た人の群れに蹂躙されそうになる、

しかし、濁流の中を必死で泳ぐかのように走っている。

「私だ!」とメロスはもう一度叫んだ。

群衆にどよめきが走った。

どれほどの苦難の末に、この刑場に辿り着いたというのだろう。

それもメロスはわざわざ死にに来たのだ、逃げてしまえばよかったのだ。

セリヌンティウスが死んだところで、メロスの何かが失われるわけではない。

それでも、メロスは殉教者のように友に殉じたのだ。


メロスは最後の力を振り絞り、セリヌンティウスの縄をほどいた。

よたよたと子どもがするような手際の悪さだった。

だが、警吏にも王にも任せられぬメロスのなすべきことだった。


「セリヌンティウス」メロスは眼に涙を浮べて言った。

「私を殴れ。ちから一ぱいに頬を殴れ。私は、途中で一度、悪い夢を見た。

 君が若し私を殴ってくれなかったら、私は君と抱擁する資格さえ無いのだ。

 殴れ」

セリヌンティウスは、すべてを察した様子で首肯き、

その右腕を竜のそれへと変えた。

竜鱗はごろごろと厚く、宝石のようにきらきらと輝いている。

そして名剣とみまごうほどの爪。

「――来い」

「――行くぞ」


時が止まったかのような静寂だった。

誰もが皆息を呑んでいた。竜の本性を明らかにしたセリヌンティウスよ。

とうとうメロスを殺すか。

だが、セリヌンティウスがゆっくりと微笑むのを見て、

ようやく民衆も理解した。

己の目には捉えられぬ――だが、もうセリヌンティウスはメロスを殴っていたのだ。

暴君のみがそのあまりにも疾い拳を捉えていた。

しばらく遅れて、音が自分の仕事をようやく思い出したかのように、

刑場一ぱいに鳴り響くほど音高く、セリヌンティウスの拳の音が民衆にも届いた。


「メロス、私を殴れ。同じくらい音高く私の頬を殴れ。

 私はこの三日の間、たった一度だけ、ちらと君を疑った。

 生れて、はじめて君を疑った。

 君が私を殴ってくれなければ、私は君と抱擁できない」

メロスは腕に唸りをつけてセリヌンティウスの頬を殴った。

「ありがとう、友よ」

二人は同時に言い、抱擁を交わした。

そして嬉し泣きにおいおいと泣いた。

磔にされながら、俺もその様を見て泣いた。

群衆どころか、警吏の中にもそれを見て泣くものがあった。

約束は果たされたのである。


暴君ディオニスはその様を見て、静かに頭を振り、

そしてゆっくりと二人に近づいた。

呪いが解けたかのように穏やかな表情を浮かべていた。

凍りついたような表情に暖かな熱が戻ったのは、

その手に構えた炎獄魔剣のためではない。


「メロスよ、セリヌンティウスよ……見せてもらった。

 おまえたちは私の心に勝ったのだ。

 信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。

 だが……」

王は薄く笑った。

メロスもセリヌンティウスも構えた。王が何をしてもすぐに対応できる。

王よ、何を考えている。


「私は愚かだ、知らぬがために殺し続けてきた。

 家族を殺し、臣下を殺し、罪のない民を殺した。

 もう、生きてはおれぬ。愚劣なる王は死ぬ!」

群衆がどよめいた。王を殺そうとしたメロスでさえ、動揺を隠せなかった。

失われたものは戻らない。だが、それでいいのか王よ。

王が炎獄魔剣で己の腹を掻っ捌こうとしたその時である。


「待ってくれ!」

「……俺か」

磔にされた俺は叫んだ。思わず男の声に、王の手が止まった。

「死ぬというのならば、お前は俺の身代わりになるが良い!

 メロスは許されたが、俺の罪はそのままだ。

 俺の身代わりになるというのならば、王の死で俺は救われ1:1交換でお得だ」


「お前マジでふざけんなよ!!!」

メロスは叫び、群衆が俺に石を投げつけた。

だが、俺はそれに動じること無く王の目を見た。


「静まれ!我が民よ!」

王は叫んだ。群衆の投石が止まった。

王技キング・スキルの一つ、絶対王声キングス・ゲームである。


「いいだろう俺よ!民よ聞くが良い!

 私の死で、どうか俺を許してやってほしい!

 王として私は愚かであった、ならば最後に一人ぐらいは救いたいのだ」

王は己の民を見て、深々と頭を下げた。

絶対王声で無くとも、民衆は静まり返ったであろう。

暴君がくだらぬ男の命一つのために、頭を下げているのだ。


「俺よ、私の言えた義理ではないが……職を探し、真っ当に生きろよ」

磔にされた王が、静かな声で言った。

王を磔にされる警吏も、群衆も皆泣いていた。


「……王よ!そして民衆よ!

 俺には母がいた!愚かな俺を一人育ててくれた母だ!

 俺はその母の葬儀を行っていない……だから、だから三日待ってほしい」

今にも殴り掛からんばかりだったメロスが拳を下ろした。

俺の声は震え、か細いものだった。

これほどの群衆の前で話すことなどは初めてなのだろう。

震える足、早鐘をうつ心臓。それでも俺は話し続ける。


「きっと三日後に俺は戻ってくるから……

 だから、俺はアナタと友になり、アナタを身代わりにしたい」


王は俺を見た。

愚かな男だった、富も名誉も無ければ力もない。

だが、同じであったのだ。二人は同じ空虚を持っていたのだ。


「いいだろう!」

メロスは叫んだ。

「俺よ!三日の時間をお前にくれてやる!

 戻ってこなければ王を殺す!精々、走るが良い!

 走って、走って……証明してみせろ!俺よ!」

メロスは単純な男である、難しいことなどは何もわからない。

だが、俺が何をしたいかぐらいはわかる。

セリヌンティウスも黙って頷いた。

群衆も俺を囃し立てた。

「行け俺よ!」「帰ってこい!」「処刑されに戻ってこい!」

皆が皆、笑いながらそう言った。

俺もどこか、気恥ずかしい様子で笑った。


俺は何もわからぬ。

何が切っ掛けとは言えないようなことで、部屋から出られぬようになってしまった。

だが、いざ部屋を出てしまうと――不思議なほどに物事は順調に進んだ。

母の死体は手早く棺桶に収められ、神父が祈りの言葉を言った。

メロスが付添い、野原で花を摘み、束にして母に捧げた。

死んで初めて、俺は母に贈り物をしたのであった。

そして初めて、俺は泣いた。

愚かな息子であった、どうしようもないほどに。


三日と経たず、俺は処刑場に戻ってきた。

「王よ」

「俺か」

「戻ってきたのだな、俺ならばどこかへ逃げてしまうと思っていたよ」

「実際、セリヌンティウスと話さない俺ならばそうしただろう」

もどかしいような手付きで俺は王の縄をほどいた。

やったことがなかったし、俺はどうしようもないほどに不器用だったが、

時間をかけて一人でやり遂げた。


「セリヌンティウスは言った、格好つけたかったのだ、と」

「……そうか」

「母親に、セリヌンティウスに、そして自分に格好つけたかったんだよ、俺は」

「人にいいところを見せようだなんて、そもそも思いもしなかった」と俺は続けた。


「何人殺したか、知らねぇけど……俺は生きるんだから、

 アンタもそうすりゃいいだろ」

俺を一言で言い表すのならば、生き恥だっただろう。

メロスともセリヌンティウスとも違う、愚物であった。

だが、愚かなる王と同じである。


「メロスの罪も俺の罪も許されたんだから、自分の罪も許してくれ。王よ」

「……俺がやり直せたのだから、このディオニスにもやり直せると。

 そう言いたいのだな」

「いや……俺は働くから、アンタも働けよってこと」

王は笑った。少し遅れて、俺も笑った。

メロスとセリヌンティウスが酒を持ってきて、処刑場で宴会をした。

そして、ぐでんぐでんになるまで酔って、眠り、目を覚まし、

それぞれがそれぞれの生きる場所へと戻っていった。


メロスは、村の牧人である。笛を吹き、羊と遊んで暮して来た。

今は俺も、村の牧人である。笛を吹き、羊と遊んで暮している。


俺とメロスが住まう村から離れた市で

今は誰も磔になっていない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る