メロスは激怒したが、俺も大概キレてる。

春海水亭

走れメロス、俺はもう自分の人生のどこらへんを走っているのかわからん

メロスは激怒した。必ず、かの邪智暴虐の王を除かなければならぬと決意した。

俺もまた激怒した。只管ひたすら、むしゃくしゃしていた。ひとまずは誰でも良かった。


「二人も来ることがあるか」

メロスも俺も、単純な男であった。

買い物を、背負ったままで、のそのそ王城にはいって行った。

たちまち彼らは、巡邏じゅんら警吏けいりに捕縛された。

調べられて、俺の懐中かいちゅうからは短剣が出て来たので、

騒ぎが大きくなってしまった。俺は、王の前に引き出された。

妹の結婚式を間近にしてメロスは花嫁の衣裳やら祝宴の御馳走を持っている。

母の葬式を間近にして俺は肌面積の多い女性のフィギュアを持っている。

メロスも、俺も、目先のことはとても考えられない男たちであった。


メロスのいきさつはこうである。

メロスが妹の結婚式の支度を終え街を歩いていると、やけに静かである。

そこで老爺ろうやに尋ねてみると、

王は家族を殺し、忠臣を殺し、あまつさえ民をも処刑する。

などという話を聞いてしまったのだから堪らぬ。

むくむくと怒りがこみ上げて、

衝動のままに王を殺しに行ったというものだ。


俺はと言えば、母は死んだが父は無く、親戚もいなければ友も恋人もいない。

さりとて、自分で何かをするには最早全てが億劫であった。

母の葬式をしなければならぬなあという気持ちだけはありながらも、

どうしても準備をしようという気にはならず、

しかし家をでなければならぬという使命感は優って、

母の財布をそのまんま握り締めて、ひとまずはアニメショップに向かったのである。

さて、買い物を終え街を歩いていると、やけに静かである。

そこでSNSで尋ねてみると、誰も質問に答えてくれぬのだから堪らぬ。

むくむくと怒りがこみ上げて、

衝動のままにとりあえず偉そうな人間を殺しに行ったというものだ。


「この短刀で何をするつもりであったか。言え!」

暴君ディオニスは静かに、けれども威厳を以って問いつめた。

図らずもメロスの短剣と俺の短剣で二刀流の構えをとっている。

対し、メロスと俺は素手である。

戦闘において、必ずしも武器を持つことが素手に優るとは限らぬ。

しかし、数多の処刑を行ってきた王が両の手に短剣を握ることを選んだのである。

考えなしに短剣を持つことを選んだのではない、おそらくは達人であろう。


「市を暴君の手から救うのだ」

とメロスは悪びれずに答えた。

「おまえがか?」王は、憫笑びんしょうした。

「誰でも良いので殺したかった」

俺も悪びれずに答えた。

「おまえばか?」王は、憫諒びんりょうした。


「仕方の無いやつじゃ。おまえには、わしの孤独がわからぬ。」

王は溜息をつき、世の真実を語るように滔々とうとうと話し始めた。

「この世で何故人の心が信じられるものか、

 人間の品性の皮をぺろりと捲ってみれば、そこにいるのは黒い獣よ。

 獣が己を食らうというのだから身を守るために殺さずにはいられぬ」

「王は人を殺すことが正しいと言うのか」

凛とした口調で、メロスが尋ねた。

「正しいわけがない、わしだって平和を望んでおる」

暴君は落着いて呟き、廃墟を見るような目でメロスと俺を見た。

取り壊しを行う、相手が人間でなければそう云っていただろう。

だが、メロスも俺も命ある人間である。


「しかしどうして人が信じられるものか。

 愚かなる若人よ、存分に正義を語るが良い。

 磔の時か、牢の中か、あるいは今この瞬間に許しを請うても良いぞ。

 何れにせよ、口でどれほどのことを言っても、

 結局最後には己を大事するとわかっておるのだ」

暴君の言葉を聞き、メロスに反抗の心がむくむくと湧いてきた。

そのように王が言うのならば、まっすぐに処刑台に向かってやろうではないか。

王に人間の正義のあるところを見せつけてやらねばなるまい。

「愚かな王よ、そうまで言うならば私はこの脚で死刑台に向かってやろう。

 命乞いなど決してしない、だが――」

しかし、そこでふとメロスは妹の結婚式のことを思い出してしまったのである。

一瞬、地面に視線を落とし、乾いた地面に俺の汗溜まりが出来るのを見た。

そして王を見た。青ざめた王の顔を。人を信用出来ぬ哀れな暴君を。


「ただ、私に情をかけたいつもりなら、処刑までに三日間の日限を与えて下さい。

 たった一人の妹に、亭主を持たせてやりたいのです。

 三日のうちに、私は村で結婚式を挙げさせ、必ず、ここへ帰って来ます」

暴君が何かを言い返そうとしたが、

その瞬間には既にメロスは言葉の続きを言い始めていた。

「私は約束を守ります、だからどうか私を待つ妹との約束も守らせてください。信頼できぬというのならば、よろしい。この市にセリヌンティウスという石工がいます。私の無二の友人だ。あれを人質としてここに置いていこう。それでも駄目だというのならばセリヌンティウス2という私の無三の友人がいます。あれも人質としてここに置いていこう。もしもそれでも足りぬというのならばセリヌンティウス3もセットでおつけしよう。セリヌンティウスの父と母を殺してくれても構いません。私が逃げてしまって、三日目の日暮まで、ここに帰って来なかったら、あの友人を絞め殺して下さい。いや、それだけでは足りません。殴り、刺し、焼き、水に漬け、落とし、この世にあるありとあらゆる種の苦痛というものを与えてください。たのむ。そうしてください」


それを聞いて王は残酷な気持ちで北叟笑んだ。

見たことか、結局どれほどのことを言ったところで、

自分の命を守るためならば親友どころか、その親まで差し出す。それが人間だ。

それでいて、自分は悪人であると認めたくはないのだから、堪らぬ。

どうせ帰ってこないに決まっているのだ。

ならば、この嘘つきに騙されたふりをしてやろう。

この男を放ち、三日目の日暮れにこいつの身代わりを殺してやろうさ。

悲鳴を上げさせてやろう。男であろうと絹を裂くような甲高い声を。

約束の破られる音というものはこうであると、

世の中の、正直者とかいう奴輩にうんと見せつけてやろうではないか。


「よろしい、ならばその願いを叶えてやろう。

 しかし、二人も三人も身代わりはいらぬ。最初の一人で十分だ。

 その身代わりをここに呼ぶが良い、その身代わりがお前の命だ。

 三日目には日没までに帰ってくると良い、勿論帰ってこなくて良いぞ」

王は低い声で唸った。どうやらそれは笑い声のようだった。

随分に愉快なことが無かったので王自身も笑い方を忘れていたのだ。


「そうだ、二度と戻らぬが良い。そうすればお前の罪は永遠にゆるされる」

「何をおっしゃる」

「いのちを大切にしろ、かわいい妹がいるのだろう」

暴君は一転して猫を撫ぜるような優しい声でメロスに語りかけた。

それが全くメロスには悔しくて堪らぬ。

必ずや、戻ってきてやろうと誓った。


そのさまを見て俺は思った。

母は死んだ。まもなく収入は途絶え己は餓死してしまう。

今更仕事をしようという気にはならぬし、俺を雇おうという者もいないだろう。

だが、いざ殺されようとなるとむくむくと恐怖心が起き上がってくる。

ああ、全くどうしよもない人生だった。死ぬという段になって生きたくて堪らぬ。


「暴君よ」

俺は久方ぶりに声を上げた。

絞め殺される鳥が最後に呻くかのようにか細い声が出た。

「なんだ俺よ」

メロスは大変に面白い見世物であったが、俺はそういうわけではない。

ただの殺人者の部類である。

暴君が暴君で無かったとしても、処刑されて然るべき存在であっただろう。


「その身代わりオプションというのを俺も受けたいのだが」

「ふざけるな!」

メロスは激怒し、叫んだ。

もしも両脇に立つ兵が彼を押し留めていなければ、俺は殴られていたに違いない。

「ほう?自分の命を守るために誰かを捧げるか、見ろ若人よ」

笑い方を忘れていなければ、暴君は残酷に笑っていたに違いない。

だが、愉快な思いに反して暴君の表情は青ざめ、凍りついたかのようである。

「俺のほうがよっぽど正直者ではないか」

「照れるなぁ」

「兵よ!一旦離せ!俺を殴りつけてやる!

 鳩尾のあたりを思いっきり突いてやりたいのだ!!」

メロスが兵に取り押さえられ、じたばたともがくのを横目に、王は尋ねた。

「それで俺よ、お前は誰を差し出すと言うのだ。

 友の名を挙げるがよい、父でも母でも良いぞ、兄弟でも構わん。

 よい、自分の命が惜しいのは当然だ。それが人間というものだ」

暴君は優しい王のようにそう言った。

さも人間の心がわかる、度量の深い王であるかのように。

それこそがメロスが否定しなければならない王の姿である。


「俺は――」

俺は言いかけて、脳に白い霧が立ち込めるかのような心持ちになった。

父は幼少期の頃に死に、母は今朝死んだ。兄弟もいなければ、親戚づきあいもない。

メロスにはセリヌンティウスが3人いた。その両親とだって付き合いもあった。

しかし、俺には何もないのだ。


ぎろりと怒りの視線が俺を見た。メロスのものである。

見下しの視線が俺を見た。王のものである。

俺だけは誰をみれば良いのかわからず、視線を宙に彷徨わせた。


「ディオニスよ……」

「どうした、俺よ……さぁ、身代わりの名を告げるが良い。お前の命は助けよう」

「俺には友も家族もいない、仕事の同僚すらもいない……全く空っぽの人生だ。

 だから王よ……」

やけくそのように俺はディオニスを見た。恐るべき暴君の目を。

乾いた目を。凍りついた目を。


「俺はアナタと友になり、アナタを身代わりにしたい」


俺はセリヌンティウスの横に磔にされた。

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