10 蜘蛛の糸、僕達

 ふわりと身体が浮く感覚と共に、強烈な風が身体にぶつかる。まるで壁のようだ。


「あ、あなた……何を考えてるの!?」


 そんなこと、正直自分でも分からない。結局ただ、僕はお前の思い通りになりたくないだけなのかもしれない。お前の『僕の脳内に自分を刻みつける』という思惑に乗りたくなくて、僕はこうしているだけなのかもしれない。


 僕はひらひらとはためいている榎本の服の一部を掴み、ぐっと手繰り寄せる。それによって榎本が僕に引き寄せられたのか、僕が榎本に寄ったのかは定かではないが、腕を掴むことができた。


「捕まえたぞ」


「何から何まで思い通りにならないのね……あなたのことは大好きだけれど、純粋にムカつくわ」


 榎本から『ムカつく』なんて表現が聞けただけでもよしとしよう。基本的に上品だから、普段の榎本からは絶対に聞けない言葉だ。


 と考えている間にも、どんどんと落下していく。感覚が超加速しているのか、脇を通過していくマンションの室内がひとつひとつよく見える。この感覚は久しぶりだ。


 ちなみに、走馬灯は見えない。


 なぜなら、僕はこのまま死ぬ気などさらさらないからだ。


「如月さん!」僕は、首を横に向け、視線だけで屋上を見上げる。


 そこには、如月さんが立っていた。


「ははっ! すげえよタっくん。いいぜ……あとで恨み言いうなよな!」


 如月さんはその手に持っていた、銀色に輝くギラギラした糸状の物を僕に投げつける。


 その銀色の糸は、僕の左脚にぐるりと絡みつき、ついている棘が僕の脚の肉に食い込む。落下の勢いもありどんどんと脚を引き裂いていく。しかし、巻かれた糸と棘により、がっちりと固定された。


「ぐっ、がぁっ――!」


 あまりの痛みに顔をしかめてしまう。


 なにも脚だけの痛みではない。


 片腕ではこの衝撃に耐えられず手を離してしまうと判断したので、折れた左腕でも榎本の身体を掴んでいる。


 状態でいえば、僕は左脚で吊られ、両腕を伸ばして榎本を捕まえているという形になる。


「ぐっ、うっ――」


 左脚と左腕が強烈に痛む。今にも泣き出してしまいそうなほどだ。なんなら気絶してしまいたい。今気絶したら確実に榎本を離してしまうのでそれは避けなければならないが。


 これ、多分僕の左腕くっつかないなぁ……。


 いやしかし如月さんならこうしてくれると信じていた。如月さんのアドリブ力を信頼してこそのジャンプだった。


 僕は榎本へと飛ぶ瞬間、横目でだが如月さんが屋上の扉を開けるのが見えていた。恐らく、あのふたりとのバトルを終えたのだろう。手には戦利品の金属バット。


 その金属バットに巻かれていたのは……。


「あなた……その脚…………」


 僕の脚から流れ出た血液が榎本の顔にポタリと落ちる。


「まあ、っ……こうなる、よな」


 有刺鉄線なんだから。


 普通のジーンズなど、防具にはならない。


「腕も、あなた……それ折れてるんじゃ……痛くないの!?」


「なに、言ってるんだ。めちゃくちゃ痛いよ。痛いに決まってる」


「なら――」


「離したらいい、なんて言うなよ……、ここで離すくらいなら、まず榎本を追って飛ぶなんて選択肢を、選んでいない」


 榎本の顔が歪む。


 どこかが痛いわけではないだろう。多分僕の馬鹿さ加減に呆れているのか、痛々しさに対してだ。


「多分めちゃくちゃ痛いと思うけど、我慢しろよー!」


 如月さんは僕に向かって叫んだ。僕はそれに頷くことで返事をしたが、それが伝わったかは微妙なところだ。でも、如月さんなら夜目も効くだろうからきっと伝わっているだろう。


 それからゆっくりと身体が引き上げられていく。風による揺れやちょっとした振動で僕の脚と腕が悲鳴というか、絶叫を上げるが、もうこの際痛みは無視だ。無視する気概でいないとやってられない。


「お前の、陰湿な嫌がらせには、屈しないぞ」


「……呆れたわ。でも、これは私の負け……、あなたが飛ぶとは想像していなかった。手を掴んでくれたところまでは有り得なくもないと考えてはいたけれも、まさかここまでするなんて」


「予想を裏切られたなら、やっぱり僕の勝ちだな」


「……ええ」


 それから引き上げられるまでの間、僕達は無言だった。


 時に榎本の顔に僕の血がぽたぽたと垂れたが、榎本は顔色ひとつ変えず、ずっと僕の顔を見つめ続けていた。


 僕はその榎本の何かで苦しそうな顔を見ながら、蜘蛛の糸を思い出していた。


 罪人の犍陀多と、犍陀多に掴まれた蜘蛛の糸と、それを引き上げるお釈迦様。


 赦されざる罪を冒した榎本と、状況に流されてしまう弱虫な僕と、気まぐれで人を振り回す如月さん。


 細部はまるで違うが、これは、この構図は……。


 諸々が終わったら、またあの文庫本を買って読み直してみようと、そう思った。

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