09 ちっぽけでなけなしのプライド

 僕はどうやら、相当に死の臭いに敏感になってしまったらしい。確かに人が目の前で死ぬ、という経験は初めてではないが、そんなへんてこなレーダーは欲しくない。


 僕は普通でいいのだ。普通で。


 普通に大学に通い、普通に卒業し、普通に恋人を作り、普通に結婚し、普通に子供を授かり、普通に老いて、普通に死ぬ。まあ、恋人の辺りから僕のような人格破綻者に可能なのかは置いておいて、僕の人生の理想形はこれなのだ。


 それなのに――成人した男をお姫様抱っこしながらビルとビルの間を飛んで回り、高所から落下してもケロッとしているモンスターがいるなんてことを知ってしまったし、

 

私服のセンスが絶望的過ぎるくせに、スーツ姿と金属バットというミスマッチな組み合わせが異様にしっくりきてしまう美人使用人がいるということを知ってしまった。


 そして、こんな僕に対して半ばストーキングまがいのことをしてくる物好きな変態がいるだなんて馬鹿げたことを――知ってしまった。


「――ふざけるな。お前、お前……何勝手に死のうとしてるんだよ。僕の人生に特殊過ぎる経歴を刻みつけやがったくせに……、さらに上塗りしようだなんて……許さないぞ」 


「本当にあなたは……思い通りにならないのね」


 少し目線を上に向ければ、街の夜景がよく見える。よく見えるというか、身体をほぼ半分くらい夜の街の中に投げ出してしまっている。榎本モノエに至っては全身だ。


「お前……僕に嫌がらせするの好きすぎだろ」


「当然よ。私はそのために大学生活の全てを費やしてきているんだもの」


 なんて気持ち悪いやつ……。でも、それでも、目の前で死ぬことは許さない。ここまで僕の人生――というか常識をめちゃくちゃにしておいて、さらっと退場なんて赦すわけがない。


「とにかく引き上げるから、暴れるなよ」


 とは言っても、困った。


 足をフェンスに引っ掛けているとはいえ半身を宙に投げ出しているし、折れていない右腕だけで榎本を掴んでおくにも限界がある。今体勢を変えてしまえばずるりと引きずられ、僕も夜の街の中に投げ出されてしまうことになるだろう。


 榎本の腕を折らんばかりの勢いで思い切り握りしめぐっと引き上げようとするが、さすがに腕一本では人間ひとりの体重を支えて、その上引き上げるのは不可能なのか微塵も動かない。というか、もうすでに腕と肩が悲鳴を上げ始めている。


 こうなったら折れている左腕も使って無理矢理引き上げるしかないか……恐らく骨はくっつかなくなるのだろうが、この際致し方ない。ここで手を離して落下死させるよりはましだ。


「なぜ離さないの……? 私はあなたの敵でしょう? それに、妹さんの命を脅かした犯罪者でもあるわ。ここで手を離したって誰もあなたを責めたりはしない、」


「うるさい」


 僕は遮るように言った。というか遮った。


「たとえ、僕が手を離しても……誰も責めはしない。わかってるんだよ、そんなことは――!」


「……なら、」


「勘違いするな、僕が今こうしてるのは……っ、全部自分のためだ。僕がここで手を離してしまったら、それは、僕が認識するところの……ヒトではなくなってしまうって、それだけだ」


 だから僕は手を離さない。たとえ周囲の人間とは違う異端であっても、自分で自分を人間だと、普通だと慰めることくらい許されるはずなんだ。


「馬鹿みたいね」


榎本は吐き捨てるように言った。


「でも…………わかるわ」


「じゃあ、とにかく大人しくしててくれ。今なんとか――」


「断る」


 耳と、それから目を疑った。榎本は、僕が掴んでいる腕を無理矢理に振りほどいた。まるでひねるように、ねじるようにして振り払った。今や自分の命綱となっている僕の手をいとも簡単に。


 こんな精神性――そうか、やっぱり僕が榎本に勝てる道理なんてあるわけがない。


 自分の命さえも目的のためにならなげうててしまえるような人間に、僕は勝てるわけがない。逃げ続けてきた僕には到底敵うはずもないのだ。


 僕にとってお前は敵だったけれど、お前にとって僕は、本当は一体何だったんだ……?


「そんなのは……僕のちっぽけでなけなしのプライドが、許さないんだよ」


 だから――!


 僕は息をのみ、フェンスに支えていた足を外した。


 そして、今も悪魔的な微笑みを浮かべている榎本に向かって、夜の街の中へ、身を放り出した。

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