08 降り続く雨のように

「真相究明とは言っても……特に謎という謎はないわよ。というか、寧ろ私のほうが訊きたことがあるのだけれど」


 榎本は上品に顎に手を当て、考えるような素振りをしている。上目遣いでこちらを見てきているが、その様子に若干の艶めかしさを感じてしまうのが悔しい。


「とりあえず、僕の妹が電話を掛けてくるって分かった理由を教えてほしい」


 榎本モノエのマンションへの最初の訪問時、如月さんが帰った後に二人で話していたときの一幕だ。今思えば、あれが今回の事件の発端だった。


 あれは、榎本が妹のことを口にした瞬間に電話が掛かってきたので、正直驚きを通り越して恐怖を感じた。半ば本気で超能力を疑ったが、心が読めるキャラは如月さんで十分だ。キャラ被りは頂けない。


「ああ、それなら簡単よ」


 榎本は自分のスマートフォンを取り出し、画面を僕に向けた。


 そこには、巷で流行しているとあるSNSの画面が映し出されている。


「それがなんだっていうんだ?」


「よく画面をご覧なさい」


 榎本と僕の間には多少距離があるのでよく見えないが、近づくのも恐ろしいので僕は目を細める。なかなか読めないが、これは……。


「えー、えすゆー、けー……。あ、飛鳥……」


 待て。まさかとは思うがもしかしてそういうことか?


 いや、いくらなんでも信じ難い。いや、信じたくない。いくら年頃の女の子とはいえ、もうあいつも受験生だ。最近はネット関連で怖い事件が起きるのも珍しくはない。その辺りのネットリテラシーはしっかりと理解している年頃のはずだ。まさか僕の妹がこんなお間抜けであるはずが――。


「飛鳥さんに言っておいたほうがいいわよ。ネット上に本名や所在地は載せるべきではないと」


「…………」


 お間抜けだった。


「もうここまで言えば察しはついてると思うけれど、あなたの妹さんと私は個人的な交流があるのよ」


「聞きたくない事実だな……。まあ、それは理解した、でもあのタイミングの良さはどういうことなんだ? 口裏を合わせてたってことでもないんだろ」


「いえ、あの時私、飛鳥さんと事前に打ち合わせしてたのよ。合図を送るから、そしたらお兄さんに電話をかけてごらんなさいってね。彼女、あなたのこととても心配していたから」


「その気持ちを、利用したってことか」


「ええ」


 ……やはり僕を陥れようという意志があまりにも強固過ぎる。完全に外堀から埋めに来ているし、後の展開を考えるとあまりにも下種げすで、言葉にするのもはばかられる。


 榎本モノエが、精神の強靭な狂人であるという事実は今までに散々述べてきているけれど、やはり人間として本能に備わっている防御機能――気持ち悪いものを目の前にした時の拒否反応は隠せない。額がじっとりと汗ばむのを感じる。


「今度は私から質問させて。如月様は、なぜあなたにそこまで肩入れするのかしら? 彼女は徹底的な実金主義よ。そこにお金がなければ決して動かない。それなのにも関わらず、あなたに対してはそうではないように見えるけれど」


「あー……、正直なところそれは、僕にも全くわからない。どうやら前に何かのタイミングで気に入られたようだけれど、心当たりがなさすぎる」


「ふーん、そう」


 榎本の反応は案外あっさりとしていた。自分の求めている答えが提示されなかったのにそれを全く意に介していない。


 だが、まあ、納得はできる。


 如月さんを自分たちの常識の中で捉えようなど、真面目に不可能なのだ。真面目になっていては不可能。そのことは榎本もよく分かっている。実際、最初からちゃんとした答えが返ってくるとも思っていなかったろう。


「もう一つだけ訊きたいことがある」


「あら、何かしら」


「忍さんと、あの長身の男について。これは、ただの興味なんだけど」


「ああ……あのふたり……」


 大学の入学式で榎本モノエと出遭い、その1年後に忍さんはOLとしてあの下宿に越してきた。忍さん本人も言っていたが、全ては僕という人間の生態を把握するためにわざわざだ。


「あの下宿に住んでいるのは忍さんを除く全員が、僕も含めて大学生だ。ついでに言えばみんな男。これってもしかしてなんだが……」


「ええ、お察しの通り、それも私が操作したわ」


「…………お前を突き動かす原動力は、一体何なんだよ」


「あなたへの好意、かしらね」


「こんなに粘り気が強くてどろどろしてて、しかもヘドロみたいな汚い色をした好意はいらない」


 やっぱりつれない、と、それでも嬉しそうに言う。ダメだ。僕が何を言ってもこいつに餌をやってしまっている気分になる。


「あの長身の男……忍さんもだが、どういう関係なんだ?」


「そうね、関係というのは少し違うかもしれないけれど、あのふたりは、言ってしまえば形見ね。父の」


 父の形見。まるでモノのように、そう言った。


「親父さん、亡くなってるのか」


「ええ、あなた達兄妹と同じ不慮の事故よ。その時に母も亡くなったわ」


 そこには何の因果関係もない。ただの偶然の事故。


 起こった場所も日にちも時刻も、何もかもが違う事故。


「父は莫大な資産と会社、そしてあのふたりを残してくれた。きっと、まだ幼かった私の異常性に気づいていたんでしょうね。そのブレーキ役として、あのふたりを永久的に雇ったのよ。私は嬉しかったわ……人の気持ちがわからないサイコパスでも、父の優しさには感動した」


 でも、でも――、


「ダメね。生まれつき絶望的に壊れてしまっているんだもの。結局あのふたりは私の駒になってしまった。駒として使い潰すことを選んでしまった。今更変えられないし、変えるつもりもないわ」


 でもあなたは、


「でもあなたは、違うのね。妹さんや養ってくれている叔父さん叔母さんにしっかりと寄り添っている。私のようにモノ扱いはせず、まるで他人の気持ちを思いやれる人間のように寄り添っている」


 僕は黙って榎本の話を聞く。遮る気にはならない。


「でもそれは、どうなのかしらね。私には、心のないロボットがそれを隠して、人間の皮を被って人間のように暮らしているようにしか見えないのよ。あなたも私と同じはずなのに。私と同じ、人の気持ちがわからない、壊れて壊れて、最初から壊れきった欠陥品のはずなのに」


 言葉には力がこもっているが、榎本からは特に感情は感じない。


 まるで静かに降り続く雨のように言葉を紡いでいる。でもそれは風のない静かな雨だ。


「本当は、あなたの妹さんは利用だけしてあとは返してあげるつもりだったの。でも、なんででしょうね。妹さんからあなたを心配する旨の言葉を聞いた時不思議と思ったの。壊さなきゃって。私達のような欠陥品は欠陥品としての振る舞いをしなければいけない。でもあなたを心配する妹さんの想いは本物だった。だから壊さなきゃって」


 しとしとと、降り続く雨。僕はその雨に黙って打たれ続ける。


 そうか、そうか――僕は不思議だった。たとえ同じ欠陥品が巡り合ったところで、ここまで執着する理由にはならないんじゃないかと。


 榎本と同じ欠陥を抱えながらも、周囲との調和を実現した僕。


 僕と同じ欠陥を抱えながらも、周囲との不和を顧みなかった榎本。


 彼女はそこに希望を見出した。自分が歩めなかった調和の道を歩んでいる僕に接近することで、自分もそれに近づこうとした。


 でも、それは決定的に失敗している。


「あなたのことが好きなのは本当よ。でも、この気持ち……焼き焦がれるような嫉妬心も、きっと本物。だからあなたや、その周囲を壊したいと思った」


「だからこそ、お互いが敵」


「ええ」


 結局のところは敵。どれだけ悲惨な過去を抱えていたって、どんなに切実な動機があったって、僕が――欠陥品なりに必死に作り上げてきた平和を脅かした罪は重い。


 僕の妹を傷つけた罪は重い。


「僕からの質問は終わりだ。榎本はまだなにかあるか?」


「……いえ、私にももうないわ」


「そうか。なら決着をつけよう。何もかも終わりにするんだ」


「そうね……何もかも終わりに……」


 榎本は髪を風になびかせながら、ゆっくりとフェンスの方へ歩く。


「でも、終わりって何かしらね。私があなたにちょっかいをかけるのをやめれば、それで終わりということになるのかしら」


「……? 僕としてはそのまま警察に出頭してもらいたいけどな。証拠品ならあとから突きつけられる」


「それは、困るわね。この年齢で前科持ちは避けたいところよ」


 榎本はフェンスに寄りかかって、僕をじっと見つめる。


 その榎本の姿を見ていると、理由はわからない――わからないがすごく嫌な予感がする。全身の毛穴が開いて、全身で空気の異常を脳に訴えかけている。けれどその原因がわからない。


 なぜこんなにも焦った気持ちにさせられている――?


「こんな事件を起こしてしまったんだもの、あなた……一生私のことを忘れられないわよね」


「……榎本のことは、どれだけ忘れたくてもきっと忘れられないだろうな」


「じゃあ、その思い出がもっと赤黒い血で染まったものになれば、素敵だと思わない?」


 嫌な予感がする。頭の中で原因不明の警鐘が鳴り続けている。


「なんだ……? 一体なにを……」


「ここで私が死んだら、きっと私は質量を持つ幻となって、じっとりとあなたの中に残り続けるでしょうね」


 ここで棒立ちになっていては、なにか取り返しのつかないことが起こるという予感。生臭い死の臭いは予知と言ってもいいほどに強烈に臭ってくる。


 僕はほぼ無意識で、榎本の方へ駆けていた。


「愛しているわ、威々野――」


 その瞬間、榎本モノエがもたれかかっていた部分のフェンスが外れ、街の夜景の中に榎本モノエの姿が溶けて、消えた。

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