07 保険

 エントランスから最上階まで上がるには流石に時間が掛かるらしく、現在地の表示ランプはまだ半ば辺りを示していた。


 僕は静かに駆動するエレベーターの中でこれまでの大学生活に思いを馳せてみる。


 それは退屈ではあったがそこそこに平凡な生活ではあったはずだ。至るところに榎本モノエの陰はチラついていたものの、ここまで大きな事件になってしまうとはつい先月までの僕は露も思っていなかった。


 そして、この事件の最大の被害者となってしまった飛鳥と、地元にいる叔父叔母のことを思い浮かべる。


 そういえば、飛鳥がこちらに来てからまだ一度も連絡をしていない。あいつが駅に着いた時、到着報告くらいはしておくべきだったかもしれないな。


 そうだ、飛鳥のスマホは壊されてしまったんだ……これは言い訳を考えないと。明日の――いや、今日の朝、僕のスマホから連絡を入れておこう。もし飛鳥の意識が回復していたら一緒に電話をしてもいいかもしれない。


 入院のこと、どう話そうか……。


 しばらくして、もう聞くのも何度目かになる『フォン』という到着を知らせる音が鳴り、ドアが開く。


 最上階の廊下に出て、僕はそのまま屋上を目指すべく階段を向かう。


 しっかりと手すりを掴み、一段一段を踏みしめるように昇っていく。思ったより足取りは重くなく、言ってしまえば普段より軽いと言っても過言ではないことに自分でも少々驚いてしまう。


 でもこれは別にうきうきしているわけじゃない。多分、この一連への決着に神経が高ぶっているのだろう。


 ……そう思うと、やっぱりうきうきしているのかもしれない。


 長い階段ではないのですぐに屋上へ到達する。如月さんと来たときには扉に鍵が掛けられていたが、それも彼女が壊してしまったので開放状態だ。これの弁償のことも考えなくては……。でもまあ、お金は沢山持っていそうだし、如月さんならなんとかしてくれるだろう。


 重要な局面を目前にして茶化すような思考ばかりしてしまうというのはやはり、僕は浮かれているのかもしれなかった。


 扉を開けるとそこには榎本の姿が――ない。


「――?」


 榎本の姿がないことと忍さんの言葉を照らし合わせて不思議に思っていると、右後ろから足音が聞こえる。僕は嫌な予感と共に咄嗟に振り返る。


「ぐっ――!?」


 腹部に衝撃。


 ドンッ、というハンマーで殴られたかのような衝撃に襲われる。未だハンガーの棒で固定されているだけの左腕にそのままダイレクトに衝撃が伝わり、正直腹部よりそちらのほうが痛む。


「本当にあなたは……なかなか私の思い通りになってくれないのね」


 榎本モノエが、大ぶりのナイフを持って立っていた。


「他の人なら忍たちに任せるけれど、あなただけは私の手で――と、思ったんだれど」


 そして、そのままそのナイフをカランと地面に落とす。


「た、躊躇いなく刺してきやがった……」


 飛鳥をあんな目にあわせた時点で僕の命も掛けなければならないことは覚悟していたが、まさか姿も見せずに奇襲してこようとは。改めて、常識から大きく外れた異常者だと実感する。だが、まあ、それは僕も同じ。


「でもどういうことかしらね。私、それなりに体重をかけてナイフを刺したはずなんだけれど」


 そう、本来ならあの速度と力で刃物を突き立てられれば、人間の柔肌など簡単に穴が空いてしまうだろう。


 けれど、僕も伊達に覚悟はしてきていない。まあ、命の覚悟まですることになるとは飛鳥がああなるまでは思っていなかったわけだけれど……。


 備えあれば憂いなし、ということわざが間違いではないことが証明された。


 僕は着ているシャツの下から手を入れる。


「……それは」


 手を出した僕が持っていたのは一冊の文庫本。


「正直に言えば、僕もこれが役に立つなんて思ってなかった。途中でどこかに落ちてもおかしくないと思っていたし」


「ふっ、ふふっ、……チョイスも最高ね」


 芥川龍之介。蜘蛛の糸。


 お釈迦様の気まぐれに振り回された罪人と蜘蛛の物語。


 これは、あの書店で如月さんから貰ったものだ。そういえば、貰った時によく読んどけと言われた気がするが結局一度も読んでいない。もう読もうにも……穴が空いてしまっているので読めないだろう。


 穴と言っても、僕の咄嗟の回避行動の甲斐もあり表紙と数ページに穴が空いてしまっている程度だ。ナイフが突き刺さるほどではない。もしかしたら最初の数ページ以外の本文は無事かもしれない。が、川に入った時にずぶ濡れになり生乾きでふやけてしまっているので、やはり読む気にはれない。


 いやしかし、まさか、まさかだ。


 本当に命を救われることになるとは。


「さすがの如月さんも、これは予想できないだろうな……」


 榎本が「なぜそこで如月様?」という顔をしているので、これが如月さんからの贈り物だということを説明する。


「…………あは、あはは、ははははははは! なるほど、なるほど」


 僕は榎本がここまでしっかり笑ったのを始めてみたのでかなり度肝を抜かれてしまう。榎本は、その僕の様子も手伝ってかおかしてたまらないといったふうに笑い続けている。


「くふ、ふふふふふ――…………。はぁ……、本来の私の敵は、威々野ではなくまずはあの方だったのかしらね」


「それは違いない。榎本の計画はほぼ全てあの人に潰されてるし」


「ええ、まさかあなた達ふたりがそこまで仲良くなるなんて思わないもの。……もう先程の依頼の対価は支払ったのかしら?」


「いや、まだだよ。高くつくとは言ってたけど」


「きっととんでもないことを言われるわよ。指とか、内臓とか」


「お金じゃないのかよ」


 こんな状況でも榎本はいやに楽しそうだ。


「ちなみに、榎本が僕の半殺しを依頼したときはいくらくらいかかったんだ?」


「えっと、確か……200万円くらいだったかしらね」


「にひゃっ……!?」


 僕はドリフのようにずっこけそうになるのを辛うじて堪える。


「……?」


「何かしら? みたいな顔をするな! 何考えてんだよ。馬鹿じゃないのか!」


「ふふ、馬鹿はお互い様でしょ」


 む。


 それは確かに。


「……茶番は、もういいか?」


 しびれを切らしたのは僕だった。ついつい榎本の雰囲気に流されてしまいそうになるが、こいつのことだ、雑談中に鉄球が飛んでくるなんてことも可能性としてはないわけではない。


 ここらでひとつ、気を引き締め直そう。


「せっかく楽しかったのに」


「悪いが、僕はさっさと終わらせて病院へ行きたいんだ」


「つれないわね、威々野……、まあいいわ。さて、何から話しましょうか」


 榎本は過去のことを思い出すように少し視線を上に向けてから、改めて僕を見る。


 茶番は、終わり。


 ここからは真面目に真相究明といこう。

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