04 こんな結末

 腰ほどまである髪がすべて浮き上がり、扇のようなシルエットを形作っているのをかき分けて飛鳥の身体へ手を伸ばす。


 下を向いていた飛鳥を仰向けにして、ゆっくりと抱き上げる。お姫様抱っこのような体勢になるが、水の浮力があるのでさほど力は必要ない。


 当たり前ではあるが、息をしていない。


 妹は。飛鳥は。


 威々野飛鳥は死んだ。


 僕の様子を見に来てくれただけなのに。長年会っていない兄を心配してくれただけなのに。


 僕と榎本モノエの、抗争とは呼べない、異常な執着に巻き込んでしまった。


 心のどこかでは飛鳥は無事だと信じ込んでいた。正直、榎本モノエがどれほどの異常者であろうが、僕と榎本の関係がどれほど醜く歪んでいようが、最悪の事態だけはないと勝手に決め込んでいた。


 ――決め込んでいたというより、端から考えていなかった。


 端からこのような結末は一切考えてすらいなかった。


 多少の怪我はあれど、例えば榎本の所有している何らかの建物やホテルの一室に軟禁されているというような、そういう可能性しか考えていなかった。


 まさか、まさかあいつが、自分の手で直接ではないとしても、こんな、こんなことをするなんて、思ってもみなかった。


 僕は馬鹿だ。大馬鹿野郎だ。


 僕が最初から真面目になっていれば、僕があいつの腹の中に内包している歪みにもっと注意を払っていれば、こんなことにはならなかったに違いない。


 僕たちはただの大学生だ。社会の裏側にいる人間ではない。


 確かに、僕は社会の裏側と呼ばれる場所にいる人物と関わったことがないわけではないがこんなこと誰が予想できる。


 ただの大学生が、ただの裕福なお嬢様が、ここまでの異常性を外界に放つことができてしまうなんて誰が予想できる。


 だが、今となってはそういった甘えも僕が大馬鹿という証明にほかならない。


 いつもテレビやスマートフォンが電波に乗せて運んでくる情報は常に非日常だ。ただその非日常を観察することが日常になってしまっただけ。誰もその非日常に足を踏み入れることになるなんて思いもしない。


『まさかあの人が』『挨拶も普通にしてたのに』


 つまりはこういうことなのだ。日常をぶち壊す異常は、


 そうか、わかった。


 僕が大馬鹿で、大馬鹿野郎で、人間として出来損ないの欠陥品で、そうであったとして。


 現時点から僕は賢くなろう。今回の教訓を生かして、上手く立ち回ってみせよう。


 他人に厳しく自分に厳しく、僕のやるべきことを完璧に遂行してみせよう。


 痛むこの左腕は生贄にする覚悟で、痛むこの頭蓋は粉砕する覚悟で、立派に仕事を果たしてみせよう。


 あいつを……榎本モノエを。叩き壊して――


「タっくん」


 振り返ると、如月さんがすぐ側にいた。


「なんて顔してやがる」


「……そんな変な顔、してましたか」


「ああ、とびきりの変顔だ」


 僕は如月さんの軽口に付き合う気になれず、再び飛鳥の顔へ視線を落とす。


 とても綺麗だった。


 まさか息をしていないとは思えない、今にも勢いよく起き上がりそうな、そんな顔。


 映画やドラマ、小説なんかでよく見る表現だが、現実にそう描写するしかないものを目の当たりにすると自然に出てきてしまうものだと思った。


 こんな時にも涙を流すことができない自分の壊れようにも嫌気が差すが、今はそれより憎しみのほうが勝っている。この気持ちがただ榎本モノエを敵として憎みたいだけなのかどうかはわからないが、少なくとも飛鳥を大切に思っていたのは本当だ。


 真の意味で愛してはいなくとも、守りたいとは思っていた。


 たとえそれが『たった1人の肉親』という肩書に縛られたものであったとしても、偽物であったとしても、本物になりたいと願っていたのだ。


 それを奪われた。それを、あいつは恐らく僕への嫌がらせのためだけに、自分の変態的な欲求を満たすためだけに奪い去った。


 赦すことなどできるはずもない。


 あいつは、あいつだけは僕の手で。


「タっくんよ、私ァ言ったよな」


「……なんでしたっけ」こんな状況でも普段と全く変わらない口調で話しかけてくる如月さんに若干の苛つきを覚えるが、僕はそれを表に出さずに返事をする。でも、この人にはそういった心の機微は筒抜けなのだ。


 筒抜けでも、如月さんは変わらず言った。


「タっくんの妹さんは、完膚なきまでに助ける」


「助けられて、ないじゃないですか」


「いいや、まだだ」


 如月さんは僕から半ば強引に飛鳥を奪い取り、そのまま一飛びに河原まで戻る。水の抵抗なんてお構いなしで10mほどは飛んだ。やはり人間とは思えない。


 僕が如月さんと飛鳥の元へ着く頃には、飛鳥の上着ははだけられていた。


「如月さん、もしかして……」


 暴力の嵐――破壊の象徴であるこんな呼称を用いたのは僕だが、まさか如月さんは、それと真逆のことをしようとしているのか。


「ああ、なんでも屋を嘗めんなよ。お兄ちゃん」


 如月さんは大きく息を吸い、そして何かに気づいたのか息をもう一度吐き出した。


「あ、なぁお兄ちゃん」


「は、はい?」


「緊急事態だからこれはノーカンだぜ。妹さんにはしっかり伝えといてくれよ」


 早口で、一息に言ってから再度大きく息を吸い、そして――如月さんは飛鳥にキスをした。

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