03 水深100cm

「あら、どこに行くつもりかしら?」


 榎本モノエは契約完了する僕と如月さんを前に、余裕綽々という様子で言った。


「決まってる、飛鳥を助けに行く」


「場所は分かるの?」


「そりゃあ問題ねえさ。私を誰だと思ってる」


 如月さんは腰に手を当て、榎本モノエを見下ろして言った。


 如月綺羅莉。なんでも屋。


 彼女にできないことは――恐らくない。


 少々仕事の詰めが甘いところはあるが、基本的にこの人ひとりを投入すれば物事は丸く収まるというのが、如月さん自身と、僕と、榎本モノエの総評だ。


 丸く収まるというか、丸く収めるというか、丸く折り畳むというか、丸く握り潰すというか。


 如月さんなら公衆電話というヒントからでも一発で飛鳥を探し当ててくれることだろう。


 それならば、今飛鳥が直面している危機も止めてくれる。


 何もできない自分を情けないとは思わない……

 と言ったら嘘になるが、確実な方法をとるというのは間違いではないだろう。


「ここで私から目を離していいのかしら? また何を企むかわからないわよ」


「お前を然るべきところへ突き出すのは後だ。頼むから大人しく待っててくれ」


「ふふ、そう言われて待つバカがどこにいるのよ」


 確かに。そりゃあそうだ。


 これが時間稼ぎだと気づかないほど僕も耄碌もうろくしていない。こうしている間にも飛鳥の、イエローのその向こう、レッドラインは徐々に近づいている。取り返しのつかないことになる前に助けなければ。


「じゃあ、行きましょう如月さん」


「おう」


 僕と如月さんがドアへ向かうのと同時に、榎本モノエが、「待ちなさい」と言った。


 この殺気は、もちろん榎本でも如月さんでもなく、忍さんのものだった。


 振り向くと彼女はプリンを食べるのに使っていたスプーンを握り締めて片足を半歩前に出している。


 そのスプーンで一体どこをどうするつもりなのだろう……目玉でもくり貫くつもりだろうか。


 恐らく主従関係なのだろう。榎本モノエに言われて忍さんは元のように居住まいを正し、ぺこりと頭を下げた。


 それを見て僕と如月さんは今度こそ部屋を出た。


 エレベーターの前まで来て、僕は僕で脳内の町内マップを広げて公衆電話の場所を検索していると、如月さんが上階へ行くボタンを押した。


「……上に行くんですか?」


「見りゃあわかんだろ」


「あの、えっと、まさか」


 如月さんはニカッと笑う。「ああ、そのまさかだ」


 最上階に着くや否や今度は階段で屋上を目指す。どうやら鍵が掛けられていたらしいが、如月さんの前では施錠など無意味だ。


 どうやら僕の部屋はピッキングされていたらしいが、このドアは開く時にバギャッと、明らかに何かが割れた音がした。


 弁償請求が来たとしても僕は知らないぞ。


 屋上はもちろんフェンスが四方に設置されていたが、それもお構い無し。


 如月さんは全く迷いなく飛び上がり、その上に立った。


 一切のブレはなく、驚くことに危なげは感じない。


 そしてしばらく街を見回したかと思えば、「よし」と言い、僕の襟を掴んだ。


「よっしゃ、いっちょスカイダイビングと行こうじゃねえか。まあそんな高さじゃねえけどな」


「やっぱこうなるんですね……はぁ……」


 これで早く飛鳥の元へ着けるならいい。それでよいのだ。


「じゃあ舌噛まねぇように歯ぁ食いしばれよ! タっくん!」


 如月さんは、僕が梅干しを食べた直後のように顔を強ばらせ歯を食いしばったのを確認してから、お姫様抱っこの体勢に入る。


 瞬間、強烈な浮遊感。


 僕は悲鳴を上げることすらできず、如月さんの腕の中にすっぽり収まり、猫のように縮こまる。


 やべぇ、恥ずかしい。本格的に死にたい。


 その後、何度か着陸(という表現で本当にいいのだろうか)と離陸を繰り返し、程なくして電話ボックスの前へ到着した。


「おい、タっくん。大丈夫か?」


「は、はい……あの……。いえ、大丈夫です」


 身体の方は案外大丈夫なのだが、この歳になって女性にお姫様抱っこをされ、しかも高層マンションの数々をまるで忍者のように飛び抜けたという現実に心が着いてこない。


 正直だいぶ混乱している、が、まずは飛鳥だ。


「如月さん……」


 飛鳥はいない。どこに連れ去られたか。


「如月さん、ここで間違いないんですか?」


 あの榎本モノエの高級マンションの屋上から見下ろして、飛鳥と男が取っ組み合いしているのを目撃してここに来たのではないのだろうか。


 しかし、如月さんが間違っていないことはわかる。


 明らかに電話ボックス内が荒れている。


 タウンページは地面に落ちページが開かれ、受話器はぶらりと垂れ下がっている。


「ここに居たのは確実だ。だがマンションをいくつか飛び越している間に数度見失った」


 これに関して如月さんを責めることはできない。


 大体、こんな人間離れしたショートカットは如月さん以外には不可能だろう。


 僕はどこへ行ったかと当たりを見渡す。


 僕の住む町は大きな川を境に東西で分断されており、東に住宅が多く、西に会社や学校が多い作りになっている。


 その間を繋ぐ大きな橋は観光名所にもなっており、祭りの季節になると大量の出店とともに観光客でごった返すが……さすがにこの時間では真っ暗なのもあって人はいない。


 電話ボックスはその川沿いの住宅街側にある。状況を見れば、住宅街へ引きずり込まれてしまったと考えるのが妥当だろう。


 ただ、大量に密集しているこの住宅の中から探すとなると、一筋縄ではいかなそうだ。


 ましてやのんびりと談笑しているわけではない。今現在も襲われている真っ最中なのだ。ひとつのミスも飛鳥にとっては命取りになる。


 あまり慎重に動いて時間を浪費しすぎるのも望ましくないが、闇雲に探してはダメだ。


「とにかく、どこにいったのか探しましょう。僕は住宅街側の……そうだな……、あの空き地へ行ってみます。如月さんは川側を探してみてください」


「おい、タっくん」


 振り返ると、如月さんは一点を見つめていた。


「どうしたんですか? もしかして飛鳥が」


「あれ、人じゃねえだろうな」


 如月さんが見つめている方向を見ると、川の中央辺りに何かが浮かんでいるのが見えた。


 僕は全身が総毛立つのを感じ、ほぼ無意識に駆け出していた。


 如月さんに呼ばれたような気もするが、どうだったか定かではない。


 迷わず川へ飛び込み、鳩尾みぞおちほどの深さのある川を進んでいく。


 幸い水流はほぼないと言ってもいいほどだったので、足をとられることはない。


 そして、川の中央へ、その浮かんでいるものの傍へ到着する。


 威々野飛鳥。


 僕の妹。


 たった1人の家族。


 たった1人の肉親。


 悲惨な事故に遭い、両親を失い、それを共に生き残り、それを共に乗り越えた――


 「待たせて、ごめん」


飛鳥が、全く身動きをせずに、うつ伏せでそこに浮かんでいた。

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