04 事態、開始

「おにぃ……なんか、あの人」


「ああ、わかってる」


 目の前にいるレインコートの人物。フードを深々と被っていて顔は見えない。身長はそれほど高くないようだがガタイがいいので恐らく男。スポーツシューズを履いており、右手には金属バット。


 僕の本能が逃げろ、逃げろ、逃げろと何度も告げる


 アパートの前に立っているだけでは必ずしも僕や飛鳥が目的とは限らないが、まずこんな格好をした人物に近づいていいわけがない。それに――


 ――それに、僕は半ばフラッシュバックのように先週の日曜日を思い出していた。


 いきなり現れた痩躯の女性、理不尽な暴力の嵐。あの時の痛みや恐怖が脳裏に蘇る。うまくは言えないが、ここにいてはやばいと本能が訴えかけている。


 考えている間も、男は微動だにせず僕たちを正面から見つめ続けている。顔が見えないのでどこを見ているかわからないが、僕たちを見ていると確信できる。これは如月さんから痛いほどに感じたものと同じ……いや、それよりも数段どす黒い、ぬめり気さえ感じるほどの害意。


 とにかくこの場を離れなければ――そう思い飛鳥に声を掛けようとした瞬間、それまで僕たちをじっと見ていた男が全速力でこちらへ駆けてきた。


「おにぃ!」


 後ろで飛鳥が焦燥に塗れた、心の底から恐ろしいという声を上げる。


 周りには人が一切いない。元々僕の下宿はそんなに人通りの多くない場所にあるが、それにしても運が悪い……!


 僕は後ろを振り返り飛鳥とともに駆け出そうとするが、遠くからも一人の男が歩いて来るのが見えた。その男もレインコート。手ぶらではあるが、明らかに堅気ではなさそうな雰囲気をまとっている。


「た、助けてください! 助けて!」と、飛鳥が大声で叫ぶが一切反応する様子はない。確定的に黒だ。


 どこか脇道に逸れたいところだが、それは叶わない。今僕達がいる道は一本道だ。逸れられる場所は、後ろの男がいる位置より後ろにあたる。


 挟み撃ち――僕の脳内にその言葉が浮かぶ。


「うそだろ……冗談じゃないぞ畜生」


 飛鳥が「お兄ちゃん!」という悲鳴にも似た大きな声を上げる。


 呼び名が変わったことに反応する余裕もなく振り返ると、もう眼前まで迫っていた男が金属バットを振り上げていた。


「――っ!」


 すんでのところで上体を仰け反らせながら飛び退いてかわす。空を切った金属バットは地面にぶつかり爆発的な音量の金属音を鳴らした。


 大地が揺れたかのような衝撃を感じ取り、僕は確信する。


「完全に、殺す気じゃないか……」


 飛鳥に逃げろと言いたいところだが、後ろからも人が迫っている以上、迂闊うかつに離れろとは言えない。


 飛鳥を横目でちらりと見ると、顔から血の気が引ききってまさに顔面蒼白といった様子になっていた。歯をガチガチと鳴らし身体を際限なく震わせ、目を見開いて男を見つめている。


 その様子はまるで、あの事故の時の――


 余計なことは考えるな、今は目の前の……いや、後ろもか、とにかく集中。


 地面に金属バットを強打したにも関わらず、一切怯むことなくまたもや襲いかかってきた。


 子供の玩具のバットとはわけが違う、本物の凶器。当たれば確実に重症、当たりどころが悪ければ間違いなく即死するだろう。実際はこんなことに使うものではないのだが、それを咎めるような隙は、当たり前だが与えてくれそうにない。


 飛び込んできた男は遠心力に任せて金属バットを横振りする。


 恐怖で震えそうになる足を無理矢理抑え込み、上体を斜めに捻りつつほぼ直角に逸らし、紙一重で躱す。ブォンッという音と、微弱な風圧が僕のこめかみをかすめる。


 幸いというべきか、如月さんの圧倒的拳を目の当たりにしている僕からすると、もう少しづつ目が慣れてきてはいるのだが、身体がそれに反応するかは全くの別問題だ。このままではいつか決定的な一撃をもらい昏倒するだろう。もし、これが無差別的な犯行なら飛鳥も危ない。それだけは避けなければ……。


「飛鳥! 警察!」


「う、うん! 今かけてる!」


 さすが僕の妹。パニックになりかけていたようだが、こんな状況でもやはり度胸がある。


 後ろから迫っている男が気がかりだが、もし警察を呼べたのならあとは時間を稼ぐだけ――


「はい、それ、ストップね」


 かなり渋いが、軽薄そうな男の声。


 後ろを振り向くと、飛鳥の後ろに身長が2メートルがあるのではないかという大男が立っていた。驚くほどに、早い。僕が男の存在を確認したときは余裕で300メートルは離れていたように思うが、徒歩でこの早さはありえない……が、息を切らしている様子はまったくない。


 男は「ごめんね」と言い、飛鳥のスマホをひょいと取り上げる。飛鳥も男がこんなに早く来るわけがないと思っていたのか全く無抵抗だった。


「いやー、警察呼ばれたらまずいんだよね」


 と言い、スマホを、スマートフォンを片手で


 僕はそれを見て、絶句。諦めを悟る。これは――ここまでか。


 だが、この犯罪行為は無差別ではないという確信も持てた。だからと言って、ここで殺されてしまったら死人に口なし。結局変わらない。


「あと、その男の子殺しちゃだめだからね。わかってる?」


 長身の男が金属バットの男へ話しかけるが一切喋らない。


「あっ、そうか。悪い悪い」と、長身の男はフード越しに頭をポリポリと掻く仕草をする。相変わらず金属バットの男の顔はわからないが、身長の関係で長身の男の顔はわかる。


 イケメンと言うよりは美形。タバコを咥えている姿が似合いそうな、堀の深い顔立ちをしている。軽薄そうな口調とは裏腹に目元は強い光が宿っているのを感じさせる。年齢までは推察できないが、少なくとも30代ではあろうという感じだ。


 相手の出方を見ていると、バンッ!という破裂音がしてから、飛鳥がぐらりと揺れた。


「あ、あすか――」


 僕は一瞬意識がホワイトアウトするのを感じ、思わず身を乗り出ていた。飛びかかりそうになるのを堪えに堪え相手を見ると、飛鳥は長身の男の腕にすっぽりと収まっていた。一瞬拳銃かと思ったが、男の手にはまるでシェーバーのようにも見える、スタンガンが握られていた。


「大丈夫、気絶しただけ。誰も殺す気はないからそこだけは安心していいよ――あ、喋りすぎ?」


 どうやら金属バットの男とアイコンタクトをしているようだったが、この高さから目が見えているわけではないだろう。喋ろうとしない理由も僕にはわからないし、今気にするようなことではないだろう。


「そんじゃお前さんも、ちょいと眠っててね」


 一歩……恐らく一歩でかなりの距離をずんと進んできた男が僕の左脇腹にスタンガンを当てそうになるのを、僕は左腕ではたき落とし距離を取る。あまり離れ過ぎると今度は金属バットの間合いに入ってしまうのでそこは注意。


 僕が今相対しているこの2人はだ。実際にはその道のプロと言われる人とは会ったことないが、この体捌きを見れば嫌でも理解してしまう。僕ではどんな抵抗を重ねたところで敵わない。それは未来予知のように、僕に警告をしてくる。


 うるさい、うるせぇよ。


 でもここで飛鳥を手放すことは、兄として、死んでもしちゃいけないことだ。


「まさか防がれるとは……。お前さん、いやに冷静だな。妹さん俺の手の中にいるんだぜ? はー、そうか、慣れてんだなお前さん。こういうのに」


「……妹って、僕の妹って知ってるんですね」


 あ、やべっ。と男は舌を出した。やはり軽薄、そう思った。


 しかしこれで合点がいく。この2人をここに寄越した人間が、いる。先週の如月さんと同じように、その道のプロを雇ってまで僕に害を与えたい人間が。


 僕は正直驚いていた。確かに、僕はあいつを敵として認識しているし、それは向こうも同じだ。


 けれど、まさか、まさか犯罪行為にまで、法の守りを捨ててまで僕を陥れたいのだとは思っていなかった。いや――正直に言えば、うっすらとではあるが予感はしていた。


 世の中には色恋沙汰で人を殺す人間もいる……今回のケースはそうではないが、誰かが誰かを痛めつけたい気持ちは、法という絶対的なラインを飛び越えさせるのには十分なのだろう。僕は数年前から、そういう者たちを何度も見てきた。


 今回もその一例。だが、


「僕とお前の抗争に、僕以外を巻き込んじゃ、駄目だよな」


 僕は呟く。軽薄な男はそれに気づいていないようだ。


 気合を入れなきゃな……。僕は一気に大きく息を吸って止め、男に向かっていく。打倒しようなんてことは考えない。このような相手にそれは不可能だ……せめて、飛鳥を奪還する。


 しかし、その瞬間左腕に強烈な痛み。


「ぐぅ……!」


 振り返ると金属バットの男が僕の左腕をとんでもない握力で鷲掴みにしていた。


 まずい、そう思い振りほどこうとするが、うまく抵抗できずに背中側に潜り込まれ左腕の関節をキメられてしまう。どんどん腕が捻られる感覚。


 焦りや恐怖で脳の回路がいかれているのか、現実か幻かわからない不思議ないい香りが、唐突に鼻をつく。なんだか親しみのある、まさか、これは――


 僕が、こんな時にも関わらず場違いな思考している間にも、僕の腕と肩はギリギリと悲鳴をあげている。やばいと思考するのと、バキリという不気味な音がするのは同時だった。


「うっっぐううっっ、あぁぁぁぁぁぁぅぅぅあああああ」


 これは僕の声。激痛が走っている腕や肩とは裏腹に僕の頭は妙に冴えていた。


 男は手を放し、僕はよろよろと前へ進む。


 あまりに無様だった。必死の攻勢も攻勢の体を成す前に阻止され、痛みに苦しみながら窮地を逃れようとする様は、前にどこかで見たことがあるが思い出せない。


 僕は半ば諦めながらも、次の一手を探す――が、


 ガンッ


 強い衝撃とともに意識がブラックアウト、いつの間にか地面に倒れ込んでいた。視界の端に映った金属バットと後頭部の鈍痛で殴られたことを理解する。


「あーあ、まじか。殴っちゃったよ。もう抵抗できなさそうだったじゃん」


 地面が冷たい。腕と頭が泣きたいほどに痛い。


 でも、それと同じくらいに眠い。


 駄目だ、ダメだ、だめだ、意識が、いしきが、


「うぉぉぉぉおおおおおおおおおおおおい! お前らなにやってやがるぅぅぅぅうううう!」


 咆哮、まさに獣の咆哮だった。


 手放しかけていた意識が鮮明になり、声のする方を見る。


 すると、そこには――


「弱い者いじめをしてんじゃあねぇ! ぶち殺すぞ!」


 如月さんが……嵐、なんでも屋、如月綺羅莉が、全速力でこちらへ走っていた。


 あぁ、この人が来てくれたなら――僕は、今度こそ意識を手放した。

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