06 邂逅

 腕時計を見る。時刻は11時過ぎ。そろそろ大学へと向かいたい頃なのだが――


「なんなんだ、これ……」


 僕はなぜか高級タワーマンションの一室にいた。


 部屋は一面ガラス張りで、ソファーに座っていても街の様子がよく見える。フローリング(と呼んでいいものかはわからないが)は見たことのない木材が使われており、履いているスリッパがするするとすべってしまいそうな滑らかさだ。基本的にブラウンとクリームホワイトで統一されている家具は、それだけで置いている本人のセンスの良さを伺わせる。明らかに僕が普段買うそれと値段が一桁二桁違いそうなのは見ただけでも理解できる。


 まるで上京したての学生のように、周りをキョロキョロ。如月さんに襲われても大して動じなかった僕でも、いきなりこんな場所につれてこられたらビビってしまうものだ。その如月さんはというと、


「これ、美味いな。40年から45年ものってとこか」


「凄いです! 御名答! さすが如月様ですね」


 …………。隣でウィスキーをストレートで、しかも結構な勢いで飲んでいた。


 僕もハイボールくらいは飲むがストレートで飲んだことはない。この勢いで飲んで顔色一つ変えないというのは、なかなか以上の酒豪ではなかろうか。


 僕が如月さんの様子に気圧されているのを察してか、「……威々野もいかが?」と誘いを受ける。


「いや、これから大学だからよしておく」


「そう」


 漂うウィスキーのいい香りを嗅ぎながら、なぜこうなったのかを思い返す。


     ○


「そんじゃ、暇も潰せたし私はそろそろ行くわ。じゃあな、楽しかったぜタっくん」


 書店を出た後、大学へ行くために下宿へ戻ろうとしていると、如月さんが駅前のロータリーでタクシーを捕まえて言った。


「ええ、じゃあ」


 僕は短く言う。


 如月さんとは昨日会ったばかりな上に、その出会いが劇的すぎるのもあって正直僕は如月さんに苦手意識を抱いていた。どうやらあちらは好意らしきものを持ってくれているようだが、そんなの僕にとってはどうでもいいので早く別れたいというのが本音だ。


 失礼なようだが、内心ほっとしている。これでやっと平凡な日常に戻れる。ビバ・平凡。さて、まずは下宿に――


「あっ!」


 僕が歩き始めた瞬間、後ろで如月さんが大きな声を出した。本能的に振り向いてはいけないと悟ったため、僕は一瞥もくれずに歩き続ける。どうかこのまま日常へ戻らせてほしい。


「おい待てよタっくん。おおん? 無視かおい。いい度胸だなぁ」


「ですよねー……」


 僕はわざと声に出してつぶやく。どうせ読心術まがいのことをされるのはわかっているのでこちらから声に出してやった。


 振り向くと、先程までタクシーに乗りかけていたのにもう僕のすぐ後ろに立っていて、獲物を見つけた獣のような目で僕を睨みつけていた。色々と驚くべきことはあるように思うがもう僕は驚かない。驚かないぞ。


 当たり前のように襟首を鷲掴みにされ、片腕でタクシーへ連行されようとしているが――それももはや突っ込むまい。


 ボーリングの球のようにタクシーへ放り込まれる。そこかしこに怪我があるので痛みで顔をしかめるが、もちろん如月さんはお構いなしだ。

 

 畜生……僕が何をしたっていうんだ……。


「おう、待たせて悪いなおっちゃん。ここに向かってくれ」


 如月さんはメモ帳をびりっと破り、そこに住所を書き込み渡した。今時スマホや携帯電話みたいな電子機器を使いそうなもんだが、アナログチックな人だなぁと思う。見た目は若く見えるので、なんとなく意外だ。


「あの、一応訊きますけどどこに向かうんですか? というか僕も行く必要あります?」


「あん? タっくんも行く必要だ? あるに決まってんだろ」


「それならせめてどこに行くのかくらい教えて下さいよ」


「ま、じきにつくから大人しく座ってろ」


 答えてくれねえのかよ。


 いや、わかってはいたが……この人本当に聞こえてるんだよな?


 今までの言動からして明らかに人の話を聞かないタイプではあるけれど、ちょいと今回は露骨な気がする……まあ気のせいだとは思うが。


 今の時点でこの言い方ということは今後もきっと教えてくれないだろうし、あまりしつこくするとまた鉄拳制裁を喰らいそうなので、僕はしばらく黙っておくことにする。


 タクシーが出てから少したち、如月さんは大きな欠伸をしたあと僕にもたれかかって静かに寝息を立てている。身長が僕と大差ないので、なんとも居心地が悪い。


「……はぁ」


 特大のため息。


「お兄さん、苦労人の顔してますね」

 と、タクシーの運転手さんがミラー越しに話しかけてくる。僕はなんとも言えない気持ちになり、軽く会釈だけをした。


 ――さらにそこから無言でタクシーに揺られること20分ほど、窓の外に見える景色は、とてつもなく高そうな一軒家やタワーマンションが立ち並ぶ高級住宅街になっていた。僕はこんな場所、生まれてこの方一度も来たことがない。


「お客さん、着きましたよ」

 とタクシーのドライバーさんが言うのと如月さんが目を覚ますのはほぼ同時だった。


「お、おっちゃんあんがとよ」


 20分も寝たのであれば少しは寝起きの雰囲気があってもいいはずだが、如月さんは今まで寝ていたことを感じさせない口調でドライバーさんにお礼をいい、一万円札を渡した。


「お釣りは――」


「いや、いい。もらってくれ」


「そ、そんな、お客さんそれは」


「いいからもらっとけって、な?」


 素直におお……と感嘆してしまう。タクシードライバーにチップだなんて映画の中でしか見たことがない。お金を渡している側がまるで脅迫をしているようなのは不思議だが……。


「ここ……マンションですよね。ご自宅ですか?」


 見上げるととんでもなく高級そうなタワーマンションだった。いったいひと月ここに住むお金で、僕の下宿で何ヶ月住むことができるのだろうか。


「いや、違う。客の家だ」


「はぁ……お客さん」


 なんでも屋。如月さんの職業。


 そのなんでも屋の客層がどのようなものかは見当がつかないが、人の家に上がるということはネズミ退治や害虫駆除でもするのだろうか。いや、そもそもこんなタワーマンションにネズミや害虫が出るのかはわからない。


 それに、如月さんは僕がついてくる意味はあると言った。まぁ、この人のことだから適当に言ったという可能性も決して捨てきれないが……。


 如月さんが僕を見て「いくぞ」というので、大人しく頷きついていく。


 エントランスにつくと、如月さんはインターホンで部屋番号を押してコールする。部屋番号が何番かは見れなかった。


 特に意識をしていなかったので何を言っていたかわからないが、その『お客さん』と一言二言会話したのちに、大きなガラスの自動ドアが静かに開いた。何かが擦れる音や機械音が一切しないので、こんなところでも庶民の住まいとの差を感じてしまう。


 さて、こんなタワーマンションに住んでいる人がどんな人なのか、そこまで興味はないが気にならないと言ったら嘘になる。


 僕と如月さんはエレベーターに乗り、目的の階を押す。


「エレベーター、静かすぎて妙に落ち着かないな……」


「お前んち、階段しかないもんな」


「………………」


 うるせえやい。


 チン、ではなく、フォン、という近未来的な音を発してエレベーターは目的階で止まった。


 僕はこの時、依頼主はどんな人なんだろうと能天気に考えていたが、心構えをしておくべきだっただろう。いや、そんなもの予想しろという方が無理難題だが、それでも如月さんのお客さんという言葉で少しは察するべきだった。それに、なんでも屋の客層は、僕は自身の身体をもって知っているはず。はずなのに、僕は考え至らなかった。


 僕と如月さんを出会わせたのは一体誰なのか、思い出しておくべきだった。


 如月さんがインターホンを押す。しばらくして受話器のノイズの音と、「はい」という女性の声が聞こえる。「来たぜ」と如月さん。


「如月様! ただいまお開けします」声の主の声音が明るくなったのをインターホン越しでも感じ、そこまで待ちわびていたのか、とぼんやり思う。


 ドアが静かに開き、家の主が「お待ちしておりました」と顔を覗かせる。


 僕は、絶句した。


 顔を覗かせた女性の顔を見て一瞬脳内がフリーズする。なぜ声で気づかなかった。ヒントなら至る所にあったはずだ……しばらくして我に返る。


 ――如月さん、あんた、最高だ。最高なエキセントリック具合だ。


 よりにもよって。僕をこの家に。


「あん? タっくんも行く必要だ? 


 タクシーの乗った直後の如月さんのセリフがリフレインする。


 家主が僕の存在に気づき、口元を手で押さえて上品に微笑む。が、段々とその口元は上品とは言えないほど、手で隠せないほどに歪んでいった。まるで三日月のように。


「あら、こんにちは。あなたも来たのね、威々野龍生」


「やあ、まあ僕は半分この人に連行されたみたいなもんだけどね」


 ふふ、と微笑む。


 僕の目の前にいたのは、僕と如月さんを出会わせた張本人にして、僕の半殺しを依頼した依頼主。そして、僕の敵――榎本モノエだった。

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