05 蜘蛛の糸、僕

 時刻は9時前、散歩コースを歩き終わった僕と如月さんはもう一つの目的地である書店へと向かった。


 駅前は、通勤ラッシュの時間帯を過ぎたとはいえかなりの人がいる。駅のロータリーを抜け、少し行った場所を北に曲がり、しばらくして真新しいきれいな外観の建物が見えてきた。『未来図書店』、それがこの書店の名前だ。


 中に入ると暖色系のやわらかい照明と共に、コーヒーの香りとケーキ類の甘い香りが僕たちを迎えてくれる。「はーん、いい雰囲気だな」、と如月さん。


 書店スペースの他にはカフェスペースもあり、ここで本を買った客はすぐにカフェスペースに入りおいしいコーヒーを飲みながら読書を楽しむことが可能となっている。僕はこの書店がわりと好きだ。時間帯にもよるが意外と人でごった返しているということもないし、隅の方の席に座ればかなり落ち着いて読書ができる。


 まあ、今日に限っては――落ち着いて読書をすることなんてできないだろうが……。


「今日は何を買いに来たんだ? スケベ本か?」


「違いますよ……。好きな作家先生の新刊が出たのでそれと、ついでにレポートの資料を」


「はー、そっちがついでなんだな」


「当たり前ですよ」


「はっ、違いねえ」


 正直僕は、如月さんがまたなにかやらかすのではないかと内心ヒヤヒヤしていたのだが、それを気取られたのか「あたしはストリートファイターじゃねんだよ、あくまでなんでも屋だ。この拳は仕事でしか振るわねえ」と僕の背中を叩き(ぶっ叩き)、店の奥の方へ紛れていった。確かに「拳は」とは言われたが……この強さは完全に暴力だ。


 その後特にトラブルもなく無事に目当ての本を探し出せた僕は、それらを持ってレジへ向かった。


 途中、新刊コーナーがあり、その隣に太宰治や宮沢賢治、芥川龍之介などの文豪コーナーなるものがあるのを見つける。今時このラインナップをピックアップして並べるなんて珍しいな……。


 見ると、そのコーナーの前には如月さんが立っており、小脇にはクラビアアイドルの写真集が数冊挟まれている――まぁ趣味は人それぞれなのでスルー。もう片方の手には芥川龍之介の『蜘蛛の糸』。


「なぁ、イイザ」


「誰ですか、その珍しい名前の人」


「蜘蛛の糸、お前どう思う?」

 ……スルーかよ。


「どう思うって……イメージ的には児童書というか、道徳を教える教材的なものという認識ですが」


 小学生だったか中学生だったか、授業で習ったような記憶がうっすらとある。もしかしたら自分で読んだのかもしれないが。


 如月さんは、「そうそれだよ。その道徳ってよ、お前にはどう映る?」と言って、手に持った文庫本をユラユラと揺らす。


「どうって……」僕はその様子を見ながら、頭の中にある本をあれかこれかとひっくり返し、『蜘蛛の糸』を探してみる。


 ……なんとなく、本当になんとなくぼんやりと浮かんできた。確か大雑把なあらすじはこうだったはずだ。


 『ある日、お釈迦様は極楽にある蓮の池のほとりをぶらぶらと歩いていた。その蓮の池のはるか下は地獄へと繋がっており、お釈迦様はなんとなくそこを見る。するとそこには犍陀多かんだたという男が血の池でもがき苦しんでいた。


 犍陀多は生前、放火や殺人など多くの罪を犯した大罪人でお釈迦様は見捨てようとするが、ここで一つ思い出す。犍陀多は以前道端を歩いている時、足元を這っている小さな蜘蛛を踏み潰そうとするが、「この小さき者にも命がある」とその生命を思いやり助けたことがあるのだ。


 お釈迦様はそのことを想い、救いの手として一本の蜘蛛の糸を垂らす。


 犍陀多は銀色に輝くその糸にしがみつくと、救いを求めて一生懸命上へ登った。しばらくして下を見ると何百、何千といる他の罪人たちもその糸にしがみつき必死に登ってこようとしているのが見えた。


 犍陀多はこのままでは糸が切れると思い「この蜘蛛の糸はおれのものだぞ。降りろ。罪人ども」と大声で叫んだ。


 すると、その蜘蛛の糸は犍陀多のいる部分でぷつりと切れてしまい、犍陀多と他の罪人たちは再び血の池へ落下し、深く深く沈んでいった。


 その一部始終を見ていたお釈迦様は、犍陀多の浅ましい態度に悲しい顔をしながらまた、蓮池のほとりをぶらぶらと歩き始めた――』


 と、こんなところだっただろうか。冒頭が出てきてしまえば後は意外とスラスラと思い出せたので結構な驚きだ。それほどこの物語は僕たち日本人の心に深く刻み込まれているのか、それとも僕の記憶力が案外馬鹿にならないのか、どちらにせよ大きな間違いはないはずである。


「で、タっくんさぁ。これどうよ」

 僕の呼び名、安定しないな……ってタっくん!?


「………………どうと言われても、結局過度な我欲――浅ましさは身を滅ぼすって話なんじゃ」


「おいおいおい、おいおいおいおいおい、マジかよ。お前、本当にそう思ってんのか?」


「違うんですか?」


「いーや、違うな。ってか、お前本当は私の言いたいことわかってるだろ。いやーなやつだなぁタっくんは」


 …………………………。


 全く、まったく……なかなかに、この人は。


「私が思うに、この理不尽だらけな物語の中で一番理不尽なのはお釈迦野郎だと思うね」


「…………」

 お釈迦野郎って……それではなんだか壊れているみたいだ。


「壊れてんだよ、実際。お釈迦野郎が垂らした蜘蛛の糸ってよ、結局はきまぐれなんだよな。ぶらぶら池らへんを散歩しててよ……このぶらぶらってのがまた暇そうでいい表現だよな。……んで、たまたま見つけた罪人Kに目をつけて、たまたま気が乗ったからいっちょ救ってみるかと暇つぶしに動いた。私も子供の頃は純粋にお釈迦様優しいなとか、犍陀多はひでえやつだなとか思ったりもしたんだけどよ」


 如月さんは文庫本をぼんやりと見つめた。常時発散されているギラギラしたオーラはなりを潜め、普通のかっこいい女性という感じになった気がするが、その真意は僕の知るところではない。


「大体、犍陀多がしたことって蜘蛛を踏み潰そうとしたのをなんとなくやめたってだけだろ? 救うべきやつなら他に腐るほどいるだろうにな」


 ……まあ、如月さんの言うことは一理ある。この物語は僕も子供ながらに理不尽さを感じたし、眉をひそめた。大人になったら尚更だ。


「中でも私が一番イカしてると思ったのは、お釈迦野郎が犍陀多を救うのに使ったのが蜘蛛の糸ってとこだな」


 そこは頑丈な縄はしごでも垂らしてやれよ、と嫌な笑顔で如月さんが言う。


 確かに、犍陀多が気まぐれに救った蜘蛛を、お釈迦様が気まぐれに犍陀多を救うのに使ったと言うのは、なんとも嫌な皮肉が効いている。


「結局お釈迦野郎がしたことって犍陀多とたいして変わんねぇんだよな。全く、芥川龍之介もいい性格してるぜ」


 僕は芥川龍之介が何を思ってこの物語を綴ったのか、少し思いを馳せてみる。きっとお釈迦様も案外暇なんだろうなとか、そんな事を考えて書いたのだろうか。それ以外は僕にはわからない。


 でも、僕がこの物語で一番理不尽な目にあっていると思うのは、蜘蛛だ。垂らされたのは蜘蛛の糸、でも、そこには蜘蛛の意図は微塵もない。


 勝手に見逃され、勝手に救いにされ、勝手に血の池に落とされた――。


 レジを済ませ書店の外に出る。


「それにしても、如月さん読書とかされるんですね。あ、いや、いきなり殴ってきたのでこんなに真面目に思想の話をされるとは思いませんでした」


 嫌な人間という自覚はある。これは昨日、いきなり殴られてボロボロにされた弱者なりの、せめてもの仕返しのつもりだった――


「はっ、やっぱお前良いな、タっくん。……タっくんか、悪くねえ。しっくりきたな」

 ――のだが、え、嘘だろ。まさかその呼び名で固定するつもりか? 気に入られた理由も一切わからねえ。これが如月さんの中で僕の呼び名が決定された瞬間だった。


 呆気にとられている僕に、如月さんは何かを投げてきた。空中で鳥のようにバサバサとはためいている。


 慌てて受け取ると、それは芥川龍之介の『蜘蛛の糸』だった。


「これ……」


「それ、やるよ。じっくり読み込んどけ」


 そう言って如月さんはつかつかと歩き始めてしまう。まあ、たまにはこういった純文学も悪くないかもしれない。


 蜘蛛か……僕は心のなかでポツリと呟いた。



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