第786話 イェルム-パウンダ
「さっさと逃げて下さい。ここに居ては邪魔にしかなりません。」
「……え、えっと…」
俺がミネリュナと戦っている事を知り、どういう状況なのか、俺の言葉が本当だったのかどうか…まあ、色々と察した事だろう。
「よ、良かった…」
メイド長は本気で安堵したのか、敵が残っているにも関わらず胸を撫で下ろす。
根本的にメイド長も良い人なのだ。ミネリュナのような悪人ではない。
「メイド長。彼女を連れて屋敷から離れて下さい。ここの連中は私達で引き受けますので。」
ニルも怒ってはいても、冷静な判断が出来る子だ。ここでどうするのが一番良いのかを判断してメイド長に進言している。
メイド長達も疲労困憊の様子だし、俺達を信用出来るのならば、それが最も良い選択肢だという事は明らかだ。
「……分かりました……どちらにしても、私ではお二人には敵いませんのでそうさせて頂きます。」
どうやら、俺が誰なのか気が付いていたらしい。
剣を一度交えたし、気付くのも無理はないが…俺の正体を明かさずに黙っているという事は、少なくともここを任せて逃げられるくらいには信用してくれているらしい。もしくは、ミネリュナの一員だと疑った事に罪悪感でも抱いているのか…
「…ありがとう!!」
メイド長達はエーメルを連れて俺達の後ろへと退いて行く。去り際にエーメルが色々な意味を込めた感謝を伝えてきたが、俺は何も反応せずに前を見ていた。
呑気な一幕に感じたかもしれないが、こんな事をしていてもミネリュナの連中が逃げられないのは、誰一人逃がさないというニルの殺気と視線によってこの場に釘付けにされているからである。
ピクリとも動かず、ただ剣を構えて立っているミネリュナの連中を、ニルはジッと見詰めている。
「ニル…」
「…はい。分かっています。」
俺のやりたい事は既に終わっている。このままここに残り続ける意味は無い。ニルの気持ちは嬉しいし、逆の立場ならばと考えると似た者同士なのだろうが、ここは殺戮する事を優先する場面ではない。
流石に、ニルもこれ以上暴れるつもりは無いらしく、随分怒りも落ち着いた様子だ。
「メイド長達も逃げられただろうし、ここに留まっても状況は悪くなるだけだ。」
「はい。私が先頭を行きます。後ろを……っ?!」
既にやれる事は全てやったと帰りを急ぐ俺達の近くに、突然気配が現れる。
ニルも気が付き、即座に戦闘態勢を取るが、今の今まで気付かなかったのが不思議な程近くに気配が現れた事に驚きを隠せないでいる。
「なるほどなるほど。ミネリュナが突然大人しくなったと思ったが、君達が奴等を処理していたようだね。」
鼻に掛かったような声だが、何故か耳に通る女性の声。この屋敷で生活していた時にも聞かなかった声だ。
「……ミネリュナの者ではなさそうですね。」
ニルは構えを解かずに相手の見た目から判断した答えを述べる。
「あんな者達と一緒にしないでもらいたいね。」
顔を隠していたりはしないし、派手ではないが良さそうな生地の服を着ている。フリルという程の物ではないが、多少の飾り付けがされたワンピースのような服だが、その者が着ているとどこか喪服ようにも見える。頭には黒のレースが付いたミニハットを乗せており、目元が光の加減で見えたり見えなかったりしている。
濃い紫色の口紅が光に照らされる度に艶やかに光り、黒い瞳に緩いパーマの掛かった黒の長い髪。
妖艶…という言葉とは違う印象の女だ。
キツい目付きに強い自信を感じる態度から、この女がパウンダ家当主、イェルム-パウンダだと思い至る。
「まさか……逃げていないとは思いませんでした。」
「ハハッ!何故私が逃げる?このような者達に後れを取るような雑魚に見えるのか?」
床に転がる死体の一つ。その頭を黒いハイヒールで踏み付け、口角を上げるイェルム。
「…………」
「私はな。この屋敷の中で最も強い。そして、この連中よりもな。これは自慢でも自信でもなく、ただただ単純な事実。」
イェルムが言う事に間違いは無い。
それが分かる程に強者であるという気配がビリビリと殺気に乗って漂ってきている。
これは俺の推測でしかないが、恐らく、このイェルムという女は、戦争かそれに近いような戦闘を幾度も経験している。
隙がなく、相手へ向ける殺気は剥き出しで鋭い。こういう空気感を持っている者はそういう経験を積んでいる事が多い。
それと比べてしまえば、ミネリュナの構成員達は街のチンピラと変わらない。多少腕が立つとはいえ、このイェルムの前では何の意味も持たないだろう。それ程に他の者達とは隔絶された強さを感じる。
何より、俺とニルに気付かれず、ここまで近付いて来たのが良い証拠だろう。恐らくは魔法か魔具の力によるものだろうが…俺もニルも、今までの経験でそういう気配には敏感になった。それなのに、その警戒を抜けて来たのだ。そこらの魔法使いとは別次元である。
「……………」
ニルもそれを感じ取っているのか、イェルムから目を離そうとはしない。
「……しかし、よくも派手にやってくれたな。屋敷がボロボロではないか。」
「屋敷を壊したのはそこに転がっている連中の仕業ですよ。私達は殆ど壊していませんからね。文句ならその者達に言ってください。」
「死んだ者に文句を言ってもどうにもならないではないか。」
一見すると穏やかに会話をしているように見えるが、ニルとイェルムの間には張り詰めた緊張が横たわっている。
互いが互いに攻撃を当てられる距離。見た限り、イェルムは近接戦闘に長けているようには見えない。つまり、魔法を使った戦闘を得意としているはず。まあ、魔女族の名家の当主なのだから当然と言えば当然の事だが…
イェルムが戦闘に慣れているという推測が的中しているとすると、素直に魔法や魔具を使っての攻撃はしてこないだろう。巧妙に隠しているはず。俺達の近くまで接近していた事を考えると、俺達の周囲にトラップ型の魔法が仕掛けられていてもおかしくない。一歩を踏み出す事が難しいという状況。
ニルもそれが分かっているからか、周囲に気を配り、何かしらの違和感が無いかを確認している様子だが、その程度で見付かる魔法など使わないはず。
そうなると、こちらの出来る事はかなり限られる。いっその事魔法陣を描いて攻撃してくれた方がずっとやり易いのだが…嫌な魔法の使い方をしてくる。
これに対し、イェルムはイェルムで俺達への攻撃を躊躇している。
理由は簡単だ。もし、イェルムが何かを仕掛けるとして、ニルはその瞬間にイェルムの首を刈り取る事の出来る腕を持っている。
故に、イェルムはイェルムで簡単に攻撃を仕掛けるわけにはいかないのだ。
そういうやり取りが、会話の中でニルとイェルムの間で行われている。
イェルムの方としては、身を隠して攻撃したり、トラップだけ設置して離れた場所から攻撃…なんて手段も取れるだろうが、そんな戦い方では俺達を捕らえることも殺す事も出来ないと分かっているのだろう。
攻撃に対応する俺達に対し、即座にその場で対応する。そういう戦い方でなければ俺達を抑えられないと考えているはず。
魔法使いは後方から…というのが定石ではあるが、いついかなる時も定石というわけではない。今回のように、俺達の足を止めさせる方法としては、姿を現して接近する事で、それが寧ろ効果的なものとなっているように。
それにしても…俺達の戦闘を見ていたのだろうか…?強気で自信満々な態度にしては、酷く慎重な性格らしい。いや、慎重な性格だからこそ、それだけの自信が有るのかもしれない。
「こちらには既に戦闘する意味が有りません。帰して頂けると楽なのですが。」
「そうはいかない事くらい分かっているだろう。私から見れば、この連中もお前達も、我が屋敷に侵入した賊である事に変わりは無いのだからな。」
まあ…そこはイェルムの言う通りではある。目の前に賊が居て、自分が戦える状態であるならば、逃がしてなるものかと戦うのが普通だろう。
「そうですか。であるならば、こちらも抵抗させて頂かなければなりませんね。」
改めて鋭い目付きでイェルムを睨むニル。
「どうぞご自由に。」
不敵な笑みを浮かべたイェルムは、見下すように視線を送ってくる。
ニルがキレないか心配ではあったが、流石に相手の実力を見て自重しているようだ。
「敢えて私達に構わなければ、楽に今回の件は片付くと言うのに…」
「いいや。私が見るに、お前達の方が逃がしてしまうと後々厄介な事になる。ミネリュナの連中などどうとでもなるしな。」
「……………」
イェルムの言い分はまたしても正解だ。
正直、ミネリュナの連中は街のチンピラを少し強くした程度。実際、ニルがあれだけ冷静さを失った状態でも鎮圧出来たのだから間違いない。自慢するわけじゃないが、俺とニルは、そんな連中より強くなっている。
それに加え、スー君が盗み出した情報は、恐らくパウンダ家を大きく揺るがす事になる。今はまだ気付かれていないみたいだが、俺達が何か目的を持ってこの屋敷に潜り込んだ事は分かっているはず。その目的の詳細までは分かっておらずとも、帰してしまえば自分達にとって不利益となるのは間違いないと理解しているはず。
故に、イェルムは俺とニルを帰す事が最も危険だと結論付けたのだ。
「そうですか。では、強引にでも帰らせてもらうとしましょう!」
カチャッ!
ニルが小太刀を構え、イェルムの方へと刃を向ける。
「やれるものならばやってみるが良い!」
先程までの静かな状況から一変し、唐突に戦闘が開始する。
トラップが仕掛けて有るであろう事は分かっているが、だからといって動かずにいれば、時間が進むにつれて俺達が不利になる。それを考えると、リスクを取ってでもここは動くしかない。
タタタッ!
ニルがイェルムの右手側へと足を踏み出し、円を描くように走る。
普通に考えるならば、魔法使いは自分の身を守る為、俺達と自分の間にトラップを仕掛けるはず。恐らく、その予想は間違いではなく、ほぼ確実にイェルムの周囲にはトラップが仕掛けられている。
素直に突っ込めば、トラップの餌食となるのは明白。故に、ニルはイェルムとの距離を保ちつつ、側面へと回ったのだ。
そして、それに合わせて俺は反対側。イェルムの左手側へと走る。
イェルムを挟み込むような形になれるのが理想ではあるが、人数差を知っていて不利な立ち位置を取られないようにトラップを仕掛けているはず。俺とニルはイェルムから見て斜め四十五度の位置で足を止める。
完全に挟み込む形にはならないが、多角的に攻められるのならばそれで良い。
そう考えての事だったのだが…
「っ?!」
俺が足を止めた瞬間、床面が淡く光り出す。
タンッ!!
ズガガガガッ!!
床から生えだした石の槍。一瞬でも跳ぶのが遅れていれば、俺は全身穴だらけになっていただろう。
「それを避けるとはな!」
「ご主人様!!」
俺は後方へと跳び、トラップを避けたが、空中に居るタイミングでイェルムを見ると、その手元が赤色に淡く光っている。
「なっ?!」
ゴウッ!!ジュッ!!
イェルムの手元から放たれた火の玉は、俺の目の前で側面から飛んできた水の玉と溶け合って消える。
「おいおい…」
俺は、着地した後、少しイェルムとの距離を取って直ぐに構え直す。
火の玉を消してくれたのは、ニルの小盾から放たれた水の玉だ。それがなければ、死ぬ事はなくとも、それなりの火傷くらいは覚悟しなければならなかっただろう。
先手を取られてしまうとは思わなかった為、正直、俺はかなり驚いていた。
イェルムを侮っていたから…ではない。
少なくとも、トラップが有る事は予想していたし、それを回避する事も出来た。しかし、予想外だったのはイェルムの魔法陣を描く速度だ。
俺達が動き始めてから魔法を放つまでに掛かった時間はほんの数秒。その間に魔法陣を描き切り、魔法を放つなんて、全く想像していなかった。あまりにも速過ぎる。
一瞬、魔具を使ったのかと思ったが、間違いなくイェルムは魔法陣を描き、魔法を放っている。
「これが魔女族…か。」
この街に入ってから、ここまでに出会った魔女族には、ここまで戦える者が居なかった。だから勘違いしていた…という事でもないのだが、予想を上回られたのは間違いない。
「どうした?この程度なのか?」
不敵な笑みを浮かべるイェルム。
なるほど。確かに自信満々な態度を取るだけの事はある。
少なくとも、俺達が戦闘で使う魔法とは全くの別物だ。効果自体は同じだが、魔法の戦闘を極める者となると、ここまで差が有るものなのか。
「パウンダ家の当主というのは伊達ではないということか。」
俺は気を引き締め直し、もう一度刀を構え直す。
「魔族は強さこそ正義の種族だ。多少は他の種族と違う部分が有ったとしても、私達魔女族とてそれは変わらない。」
魔女族は魔族の中でも色々と特異な部分の多い種族だという認識だったが、根本的には魔族であり、考え方の大元は変わらない。
他の種族に比べて種族内の強さの幅が大きいとしても、トップクラスの連中はこのレベルという事なのだろう。
魔法使い一人がここまで厄介だと感じるのは初めてである。
「簡単には逃がしてくれないという事だな…」
「先ほどからそう言っている。」
近付くにしても、逃げるにしても、一筋縄ではいかない相手だ。どう切り抜けたものか…
俺はニルの方に視線を向けると、ニルも同じように俺へ視線を向ける。
目的はイェルムと戦う事ではなく、この屋敷から無事に逃げ出す事。であれば、素直に戦闘する必要はない。しかし、逃げるにしても、イェルムをどうにかしなければならない。無力化するのは簡単ではなさそうだし、隙を見て逃げ出したいところだが…
俺の思考はニルも感じ取ってくれているはず。
何とかイェルムの隙を作り出し、そのまま一気に逃げ出すしかない。
ビュッ!ギィン!
ニルがタイミングを見て投げナイフを投げるが、イェルムは当然のように魔法でそれを弾く。
魔法の展開速度もそうだが、ニルの行動を読んでいるかのようなタイミングで魔法陣を完成させている。
ガガガガッ!!
「っ!!」
そして、ニルや俺を近付かせない為の魔法が即座に飛んでくる。
トラップの事と言い、とにかく先を読む能力が高いのだろう。こう動けば俺達がこう動くというのを正確に想像し、俺とニルの動きを封じてくる。
「っ!!」
ガガガガガガッ!
動き出しの出鼻をくじかれてしまう。
その上、イェルムの方からは攻めてこない。イェルムの魔法が一合の始まりならば、魔法を発動してから次の魔法を使うまでの時間を作り出せるのだが…後出しを徹底している為、なかなか好きを作り出す事も出来ない。
ギィン!!
投擲系の武器やアイテムを使えど、全て叩き落とされてしまうし…
「どうした?私にはまるで攻撃が当たっていないようだが。」
半笑いのまま次から次へと魔法を紡ぐイェルム。俺とニルはその対処にひたすら追われている。
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