コウノトリの靴
『非常に申しあげにくいのですが…』
そう前置きした後、ふくよかな男性医師は、僕と妻に向かって、厳しい表情をしながら続きを告げた。
『あなた方の娘さんは、
一瞬、医者が何をいっているのか理解できなかった。というよりは、理解するのをためらった、というのが正しいのかもしれない。
まだまだしてあげたいことだって沢山あったのに…。どうして…。
夢なら早く覚めてほしい。ドッキリなら、今すぐにネタバラシをしてくれ。
そう思った。
しかし、
厳しい表情を崩さない医者の顔と、横で泣き叫ぶ妻の声が、僕の脳裏に焼き付いて離れなかった——。
***
次の日、会社を休んだ僕は、妻と共に病室にいた。もちろん、沙耶と一緒にいるためだった。
『朝はね、ドロドロのシャケとごはんとやさいを食べたの。
ナースさんが、食べさせてくれたんだよ。
きらいな物もあったけどがんばって食べてね。そしたらね、ナースさんがえらいってほめてくれたの』そういって、病室のベッドの上で無邪気に笑う沙耶。
その横には、パイプ椅子に腰掛けた妻がいて、
『うんうん。そうなの? それは良かったわね。』
と明るい笑顔を浮かべ娘と話していた。
僕はというと、ベッドの手前、娘が足を向けている方に立って、
その様子を眺めていた。
時折、会話に加わって沙耶と話そうとするが、その
***
『すごいな、美穂は。君も辛いだろうに、沙耶の前であんなに明るく振る舞って…。僕は…、全然ダメだったよ』帰り道、ハンドルを握っている僕は、
バックミラーで妻の姿を一瞥してから、自嘲を込めて小さく笑った。
『そんな事ないわ。私はただ必死だっただけ。だからそんなに落ち込まないで
それに、一番辛いのはあの子よ。私たちがしっかりしなくちゃ』
美穂は明るい声でそういった。それが、僕を激励するためだという事はすぐに
分かった。
『…そうだね。君の言う通りだ。沙耶のため、僕たちがしっかりしないと』
僕は語気を強くして、自分に言い聞かせるように開口した。
『その息よ』バックミラーに、歯を見せて笑う美穂が映った。
ほんと、敵わないな。そう思った。
『ありがとう』と、呟いた僕の声はあまり大きくは無かったが、窓を締め切っている静かな車内ならこれでも十分だった。ミラーに映った美穂は、優しく微笑みながら、こくりと頷いた——。
***
『それは、コウノトリの靴。名前の通り、幸せを運んでくれる
ただ、けっこう
紫色のパーカーを着て、それについている猫耳フードを被った少女は、
テンション高めに、無邪気な笑顔を浮かべて、そういった。
場所は駅前の商店街。
彼女の後ろにはシャッターの降りた店、そして前には長机。
黒いテーブルクロスが敷かれたその机上には、値札の付いた商品がいくつか置かれていた。いわゆる露天商というやつだった。
許可は取っているらしい。
珍しいことをしてるなと思って、興味本位で僕が店に近づいた時、聞いてもいないのに、彼女の方から教えてくれた。
それから、自らが成人している大人の女性だという事も。こっちの方はちょっと語気が強めだった。
僕は彼女の話を聞いた後、靴を触って良いか聞いた。
二つ返事で了承を得られたので、手で持ってみると、ツルツルとした光沢のある見た目とは裏腹に、しっかりとした革の感触を感じた。
中を見ると靴のサイズが表記されており、27センチと書かれていた。僕の足のサイズよりは少しだけ大きかった。
真っ白なこの靴は、汚れやすそうで、とてもじゃないが普段使いは
できなさそうだ。
けど、謎の魅力をこの靴から感じた。
説明はできないけど、妙にこの靴を気に入ってしまった僕は、
ニコニコした表情でいる彼女に声をかけた。
『毎度ありぃー』
それからすぐ、元気で快活な声が商店街に響き渡った。
***
家についた僕は、美穂が風呂に入っている間、物置と化している二階の一室で、手を動かしていた。
『あった。これだ』
そう呟いた僕は、所々がはげている縦30センチくらいで長方形の、黒い箱を持ちあげた。
ダンボール紙でできているその箱は、
四角い蓋がついており、上に被せて蓋をする作りだった。
僕が早速、蓋をとって中を見ると、箱とは対象的に、
新品同然の真っ白な靴が現れた。
まだ、美穂とも出会っていなかった頃に買った物で、妙に気に入ったのを
覚えている。
結局この十年間、一度も履きはしなかったが、
アパートからこの一戸建てに引っ越して来た時も、捨てずに持ってきていたのは記憶していた。
おもむろに靴を手に取る。
この靴を探していたのは、病院からの帰り道、商店街の近くを通った際に、
ふと、あの露天商の言葉を思い出したからだった。
”幸せを運んでくれる能力がある” 彼女はそういっていた。
もちろんそれを頭から信じているわけじゃ無いが、沙耶のためなら、この際、神だろうがオカルトだろうが、なんだって利用してやる。
そんな勢いが僕の中にはあった。
僕は靴を床に置くと、黒い箱から、折り紙ほどの小さな白い紙を取り出した。
この靴を買った時に箱と一緒についてきた物だ。
一度読んだことはあったが内容を一応確認する。
すると、上の方の書き出し部分に
『コウノトリの靴の使い方』
と文字が書かれてあった。覚えていた通りだ。
紙に書かれた字は丸っこくて、女性らしさがあった。
きっとあの露天商がかいたのだろう、と
当時の僕が推測していたのを思い出した。
書き出しから下に向かって、靴の使用方法や、
注意事項などが記されていた。
特に長くも無い文章だったので、
30秒もかからずに読み終えた僕は、生唾を一つ飲み込むと、ペンを取りに一階へと戻った。
***
『ママ。行ってきます!』
『うん。気をつけてね、
赤いランドセルを背負って、元気よく駆け出して行く娘を見送った美穂は、
台所に戻って洗い物の続きを終わらせたあと、二階に上がり、階段に一番近い部屋の扉を開けて中に入った。
奥まで進んだ美穂は、向かって左にある仏壇の前で座った。
すでに二つ立てられている線香は、先ほどよりも少し、短くなっていた。
『あなた…。沙耶は今日も元気いっぱいよ。あれから、嘘みたいに症状が良くなって、沙耶の癌は完治して、お医者さんは奇跡だって、いって。
あなたとも、沙耶が退院したら、今度三人で何処かに出かけよう、だなんて話
てたわよね…。』
どこか遠い過去のように語っていた美穂の瞳が潤んでいく。
『なのに…。あなたがいなくなったら、意味ないじゃない…』
視線の先には爽やかな笑顔を浮かべる夫の写真があった。
美穂の夫は、先月の半ばに死んでいた。交差点での交通事故で、即死だった。
事故を起こしたのは老人で、夫が信号待ちをしていたところに車が突っ込んできたのだという事実を、美穂は警察の人から知らされた——。
『祐介さん…。』
美穂の頰に一筋の線が引かれた。
それが合図だったかのように、涙は止まる事なく次々と線の上を流れていった。
夫が死んでから、1ヶ月。
未だ、美穂の心は悲しみの中にあった…。
***
数日前、僕の愛車が壊れてしまった。
直そうとして、すぐに業者に頼んだけど、昨日の夜、
直すことは出来そうに無い、という連絡がきた。
業者の人がいうには、こんな壊れ方は意味がわからない、との事だった。
僕としては普通に安全運転で使っていたつもりで、思い当たる節もなかった。
と、いう訳で、今は自転車で会社に通勤している。
本来ならかなり落ち込む出来事ではあるけど、僕の心は今、嬉しさで満ち溢れていて、愛車が壊れたくらいじゃ、全くへこまなかった。
なぜなら、娘である沙耶の退院が来週に決まったからだ。
前から、奇跡的な回復を繰り返していてこちらも驚いている、と医者からいわれていたが、ついにここまで来た。
とにかく嬉しかった。
退院が決まった話を聞いたときは、娘よりも喜んだ。
そこでふと、僕は自分の履いている白い靴を見た。
コウノトリの靴。
そう名付けられているこの靴には、とある能力があるらしい。
それは、”幸せを運んでくれる” というものだ。
最初はただ、神頼みでも、オカルトでもなんでもいいから、沙耶のために出来る事を、と思ってこの靴を使った。
そして、いつの間にか、その事をすっかり忘れて当たり前のように
履いていたけれど…、娘の命が助かったのだ。
これは、この靴の能力を信じてもいいんじゃ無いか?
ありがとう、君のおかげだ。
僕は心の中で、あの無邪気に笑う露天商にお礼をいった。
信号はまだ赤だが、僕の心は青い空のように晴れやかだった——。
***
『コウノトリの靴の使い方』
超簡単! 3ステップであなたも幸せを運ぶコウノトリに
なっちゃおう!
1 マジックペンを用意します。
(別にマジックじゃなくてもいいけど、書きやすいのはこれ)
2 幸せになって欲しい人の事を想いながら、靴にその人の名前を書きます。
(場所はどこでもOK)
3 後は、その靴を履いて生活して下さい。
(毎日履く必要は無いけど、履いた時間が長ければ、その分だけ、
名前の書かれた人は幸せを得られます)
使い方の説明は以上です。
最後に、この靴を使用した人がどのような事態になろうと、
当方は責任を持ちません。
要領、用法を守って、安全にお使いくださる事を願っています。
***
悲鳴の上がった交差点の空を、何も知らない鳥達が、楽しそうに駆け抜ける。
それを見上げる、少女が一人。
彼女は紫色のパーカー姿で、猫耳フードを被っていた。
『コウノトリは ”幸せを運んで来てくれる” だけで、
それを ”どこから運んでいるか” なんて、コウノトリには関係ないんだよ。
だから、ごめんね。お兄さん』
静かな声で、そう呟いた少女は、ニコニコしながら、
無邪気な笑顔を浮かべていた——。
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