第一話  女組長、和泉霧羽

 さっぱりと晴れた気持ちの良い秋晴れのある日。

 東京某所のとある高級オフィスビルのラウンジにて、万雷の拍手が鳴り響いていた。


「お疲れ様でした、組長!」

「お世話になりました、組長!」

「こらこら、お前たち」


 厳つい男たちから『組長』と呼ばれた、和服姿の妙齢の女性が苦笑する。

 和服というのは着こなし方でどうしようもなく品格が浮き上がる。下手な裾の捌き方をしたり無様なシワが寄れば、どんな高級品を着ていても安っぽさが出てしまう。

だがその女性は、人間国宝が仕上げた最高級品を完璧に着こなしていた。誰の目にも品の良さが伝わりつつも、下品にならない程度に取った衿の抜きから覗くうなじより香ばしい色気が漂う。

匂い立つような佳い女だ。


「あたしはもう引退するんだ。組長なんて呼ぶもんじゃないよ」


 女性が自分を組長と呼んだ若衆の胸を小突くと、強面の彼らは嬉しそうに笑う。

 ヤのつく職業に従事する男たちが無防備に慕うこの妙齢の美女こそ、斜陽にあった日本極道界を立て直し、東西の統括を行う巨大組織『聖凰会』の初代組長として尊崇を集める女傑、『和泉霧羽』その人であった。


「じゃあね。落ち着いたら連絡するから、飯でも食いに来な」


 霧羽は子分たちに微笑みかけ、颯爽と長年の根城から去って行く。

 遠くなってゆく彼女の背中に、涙ぐんだ男たちが深く深く頭を下げ続けた。


「――お疲れ様です、霧羽様」

「お疲れさん、竜崎。家まで頼むよ」


 オフィスビルの前で待っていたリムジンに乗り込み、霧羽は運転手の竜崎へ告げる。

 この景色も今日で終わりかと、霧羽は流れてゆく景色を感慨深く眺めた。


「……あんたも、無役の女にこれ以上付き合う必要はないのにねぇ」

「いえ。私は最後まで霧羽様にお仕えします」

「律儀だねぇ。最初に会った時の糞ガキ振りからは考えられないよ」

「それは言わないでください……霧羽様こそ、十年前からは考えられないお立場じゃないですか」

「まぁ、ね。なんともお互い、無茶をやってきたよねえ」


 くくく、と霧羽は思い出し笑いをした。

 霧羽は、いまや国内の極道を束ねる日本の裏社会の第一人者。国外勢力からも『極東の女帝』と恐れられ一目置かれる大物である。

 いつ潰れてもおかしくないちっぽけな組を継いだ霧羽が、女だてらにヤクザ商売を始めて十数年。あの乳臭い小娘がこんな風になっているなど、当時からしたら笑い話にすらならなかったろう。

 

「霧羽様は、これからどうされるのです?」

「そうだねぇ……ひとまずは、温泉にでも浸かって肌を磨こうか。ちょっとは女磨きに精を出さないとね」

「霧羽様にはまだ必要ないでしょう」

「あたしの友達の言葉なんだけどね……女の価値なんてクリスマスケーキと同じ。二十五過ぎたら叩き売りだってさ。そんで気がつきゃあたしももうアラサーだ。あたしだって腐っても女なんだ。流石にこのまま処女でおっ死ぬのも悔しいじゃないか」

「……………………ハァッ!?」


 キキィーッ、とリムジンのタイヤがから滑りして車体が揺れる。

沈着冷静な竜崎には珍しいハンドルミスだ。


「あっ、ぶな!」

「き、霧羽様、しょ、しょ、しょ、しょ……!」

「処女だよ。悪いか」


 霧羽が不貞腐れたように吐き捨て、竜崎は唖然とした。

 霧羽は美人だ。それも、匂い立つような垢抜けた美女である。酸いも甘いも味わい尽くした、成熟した大人の色気に溢れている。

 そんな彼女が小娘みたいに処女であることを気にして不貞腐れるなど、付き合いの長い竜崎をして驚愕の一言である。


「……それで、女磨きですか?」

「せっかく引退したんだ。あたしだって、ちょっとは普通の女の子らしいことをしてみたいじゃないか? ま、いまさら淡い恋なんて出来る歳じゃないけどさ………………ん?」

「霧羽様……?」

「……キナ臭いね。鉄火場の臭いが漂ってきたよ、竜崎」


 霧羽がつぶやいた途端、前方の交差点に信号を無視して大型トラックが侵入してきた。

 鬼頭がブレーキを踏んでリムジンを急停止させると、トラックの荷台が開いて十名ほどの覆面の男たち――銃器を携えた暴漢たちが飛び降りてくる。

 男たちは手にした銃をリムジンに向けて一斉に発砲する。


「飛び降りろ竜崎!」


 防弾仕様のリムジンが銃弾を防いでいるが、霧羽は即座に車内からの脱出を選択した。

 座席の下の得物を引っ掴んでドアから飛び出した直後、リムジンの尻にまた別のトラックが突っ込んだ。数秒でも判断が遅かったら車内で肉団子になっていただろう。

 無事脱出した竜崎とともに手近な物陰に隠れる。

 何の変哲もない街の交差点は大混乱に陥っていた。男たちが霧羽の隠れた街路樹に発砲する度、通行人たちが悲鳴をあげる。

 混乱で追突した車がさながら闘技場の壁のように、突然発生した戦場を取り囲んでいた。


「中国語、ハングル、……それに英語とロシア語か。あたしが潰した連中の残党ってとこか。雑魚は大したことは出来ないだろうと思ってたけど……まさかこんな往来でこんな馬鹿な真似をするとは……竜崎、援護しな!」

「引退したその日にこうなるとは……普通の女の子は遠そうですね」


 霧羽は竜崎に支持を出すや。、武装した覆面どもへ向かって飛び出した。

 五月雨式に銃弾が追いかけてくるが、霧羽の思い切りの良い動きを捉えきれていない。

 霧羽はリムジンから持ち出した愛用の得物――白木造りの人斬り包丁を抜刀しざまに手近な一人を切りつけた。

 拳銃を握る手をぼとりと落として悪態を吐く男を『안녕(あばよ)』の挨拶とともに喉を貫くと、霧羽は手にした鞘を投げ放つ。

 股間に鞘が突き刺さった男のライフルが見当違いの方向へ銃弾を飛ばしてゆくのを横目に、霧羽はすばやく走り寄って蹲った男の首を叩き落とした。


「Ба́ба-Яга́!!」


 ロシア語で叫ぶ男がAKを向けようとするが、横合いからの銃撃にたたらを踏む。竜崎の援護射撃だ。

 霧羽はわずかな隙にするりと滑り込み、人斬り包丁をぬるりと走らせる。

 男は腹から臓物を零して蹲った。


「どうした阿呆共! 根性を見せろや!」


 またたく間に三人が斬り殺されて襲撃者たちが慄き震える。

 初っ端の派手な立ち回りで場の空気を支配すれば、あとは霧羽の独壇場だった。

喧嘩とは畢竟、勢いのある方が勝つ。

 二十人近くいた男たちは櫛の歯が欠けるようにバタバタと倒されていった。


「ほれ、あとはあんた一人だ」


 ひゅんと刀を一振り、血を払いながら霧羽がニヤリと笑う。美しい肉食獣が牙を剥くような笑い方だった。

 いくら美しいとはいえ、血塗れの獣に睨まれたら溜まったものではない。一人残った襲撃者は慌てて逃げ出した。


「きゃあああああっ!」


 男が逃げる先には、買い物袋を携えた一人の少女が腰を抜かしてへたり込んでいた。

 逃げる男は悲鳴をあげる少女へ銃口を向ける。


「何しやがる!」


 一般人を撃ち殺そうとする馬鹿へ刀を投げつける。刃の切っ先が男の足を貫いた。

 男はもんどり打って倒れるが、すでに正常な判断を失っているのだろう。なおも罪のない少女を撃ち殺そうと銃の引き金を引く。


 パンッ! パンッ!


 安っぽい爆竹の爆ぜるような音が響くと同時に、霧羽は少女の前に滑り込んだ。

 二発の銃弾が彼女の胸と腹にめり込む。


「……この下衆が」


 服が赤く染まるのも構わず、霧羽は男へと歩を進める。パニックを起こした男が矢鱈に発泡してさらに銃弾が身体に食い込むが、彼女の歩みは止まらない。

 空になった拳銃の引き金を狂ったようにカチカチ引く男から刀を引き抜き、霧羽は男の首に向かって刃を振り下ろした。


 キンッ――。


 男の首が胴体から離れると一緒に、霧羽が長年愛用していた人斬り包丁もへし折れる。

 折れた刃が地面に落ちるのと同時に、霧羽はどうっと崩れ落ちた。

 駆けつけた竜崎が慌てて傷口を抑えようとするが、霧羽は優しく微笑んで小さく首を振る。


「姐御っ!! しっかりしてくれ姐御っ!?」

「口調が昔に戻ってるぞ、竜崎……それよりあの女の子は無事か……?」

「……ええ、傷一つありません」

「……そうか……安心したよ……」


 竜崎に抱えられて視線を向ける。少女は血塗れの霧羽を凝視して顔を青褪めさせているが、確かに傷はないようだ。

 こちらを見る少女へ、安心させるように微笑む。少女は息を呑んで目を見張った。

 可愛らしい少女だ。高校に入りたてだろうか?

 彼女の買い物袋からは、何やらゲームのパッケージが覗いている。

 いかにも普通の女の子だ。自分ももしかしたら、あんな風に放課後にゲームでも買って、ワクワクしながら帰途につくような人生があったのだろうか?


「……引退後の第二の人生……計画が狂っちまったねぇ……ま、女の子らしい人生を取り戻す代わりに女の子の人生を守ったんだ……ヤクザ者の最期にしちゃ、なかなか真っ当な方だろうねぇ……」

「姐御……」

「……世話になったな、竜崎……」

「世話なんて……私は、オレぁ、最後の最後で、姐御を守れねぇで……っ!」

「あんたには十分助けてもらったよ……これでお役御免だ……もう好きにしな……」

「……じゃあ、もし生まれ変わったら、また姐御の子分にしてくれるか?」

「……生まれ変わるなんてことがあったら、ね……ふふ、生まれ変わりか……あんた、顔に似合わずロマンチックじゃないか……」


 ニヤリと笑って、霧羽は瞳を閉じた。

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